甘くてピンクのかわいいやつある日曜のこと、若狭が佐野の家にへ行くと、珍しく祖父や弟妹は出払っていた。
万作は親戚の家、万次郎とエマは友達の家族とプールへ遊びに行ったという。そういえばもう七月に入っていた。
そんなわけで広い家に真一郎は暇を持て余し、若狭を呼んだらしい。
若狭が中庭へ回ると、真一郎は縁側からひらひらと団扇で呼ぶ。
今日はリーゼントにしていないせいか、まるで中学生みたいに見える。
「よぉ、ワカ。麦茶でも飲む?」
「うん」
若狭はサンダルを脱いで縁側から家の中へ上がる。
床板がひんやりしていて心地いい。
真一郎は戸棚からグラスと、冷蔵庫から麦茶の入ったボトルをテーブルに乗せた。
若狭が所在なく側で立っていたが、テーブルにある木箱が目に入った。
若狭が何かと思ってみていると、真一郎がああ、と声をかける。
「さくらんぼ。じいちゃんが親戚からもらったんだって」
真一郎はグラスに麦茶を注ぐ。若狭は礼を言ってそれを受け取った。
「食うか?万次郎のやつはあんまり好きじゃないんだと」
真一郎は木箱の上に乗っていた蓋をひょいと持ち上げた。
そこには、丁寧に敷き詰められた小さな果実が並んでいる。淡いピンクのグラデーションに若狭はぱちぱちと目を瞬いた。
若狭が家で見かけて知っているものは、果汁で肌が染まりそうなほど濃い赤色をしていた。
けれど目の前のさくらんぼは、つるりとしていて綺麗なガラス細工のようだ。
「……オレもそんなに好きじゃないんだよなぁ」
真一郎は無造作に箱から一つ摘まむと、軸を取って口の中へ入れた。
もぐもぐと咀嚼し、ぷっ、と台所の三角コーナーへ種を吐き出す。
「ワカも食えよ」
真一郎は指で木箱を若狭の方へ押した。箱の中でさくらんぼがころりと転がった。
若狭は麦茶の入ったグラスを握り締めたままだった。
「真ちゃん、それちょうだい」
若狭はグラスを置くと、真一郎の方へ近づいた。
「ん?」
若狭の方へ真一郎が振り返る。
その指から、さくらんぼの軸を若狭は奪った。
それを若狭はパクリと自分の口の中へ放り込む。
「おい、そんなモン食うなよ」
真一郎は暗い台所で苦笑している。
若狭はしばらく軸を舌で転がすと、指でつまんで口から出す。
それは綺麗に結ばれていた。
「すげぇ、どうやったんだ?」
真一郎は興味津々で若狭の手の中にある軸を覗いた。
「秘密。こうやって結べるのは……」
若狭は真一郎の耳元で囁いた。
「キスがエロいんだって」
これは夜の世界で生きている母親の受け売りだ。客あしらいにはちょうどいいらしい。
すると真一郎はじろりと若狭を睨む。
「……自分がモテるって言いたいのかよ」
面白くなって若狭はさらに言う。
「はは、真ちゃんはこんな器用なことできないだろ?」
真一郎はぐっと口ごもった。
ほらやっぱり。
でも、不器用のがいいんじゃないか、と若狭は思う。
からかいついでに一つ食べてやろうと、箱へにゅっと手を伸ばす。
その手を真一郎に捕まえられた。
「何だよ」
若狭が振り返ると、真一郎の顔がすぐそばにあった。
「オレにだってできる」
真一郎はそう告げた。どうやら長男のプライドを刺激してしまったようだ。
「……何ができるって?」
売り言葉に買い言葉で若狭も言い返す。
すると真一郎の頬が少し赤くなる。
「……エロいキス……」
えっ、と思った時には若狭はテーブルに追い詰められた。
真一郎の瞳が間近に来て、思わず目を伏せた。
唇が触れ、舌が潜り込んでくる。吐息もさくらんぼみたいに甘酸っぱい。
慣れない真一郎のキスは、的を得ているようで得ていない。
懸命に何かしようとしているのはわかるから、返ってもどかしい。
半袖の若狭の腕をつかむ真一郎の手のひらが汗ばんでいる。
緊張か、興奮かさえわからない。
しかし、真一郎の感情が自分に向けられている。それは若狭の胸をときめかせる。
淡いピンクのグラデーション。例えるならそんな感じだ。
「ん……」
真一郎はようやく唇を離した。
若狭はその甘酸っぱい唇を舐める。
間近にある真一郎の瞳は潤んでいる。
「……なぁ、良かった?」
真一郎が若狭の顔をのぞき込む。
感想を聞いてくるなんて、本当に中学生だ。若狭は笑いだしそうになる。
それに、キス自体は全然エロくはなかった。でも。
「……今まで生きてて一番だったワ」
若狭がそういうと、真一郎は若狭から離れて背を向ける。
「ちぇ、適当なこと言うなよ」
若狭は真一郎の手を捕まえる。
「オレは真ちゃんに適当なこと言ったこと、一度もないよ」
少し髪が乱れて真一郎の赤くなった耳が見えた。
そのころには、若狭はさくらんぼにはすっかり興味を失っていた。
掴んだ真一郎の手を引き寄せて、指を柔らかく噛む。
真一郎は振り返って、ばか、と少し笑った。
甘くて酸っぱくて、本当に食べたいくらいにかわいいヤツ。
若狭は心の中でそう呟いた。
【完】