2週目 ①愛していた。
今でも愛している。
だから、二度と会わない。
画面の向こうで今季もトップ3にランク入りしているヒーローが、真っ赤な羽根を広げて映っていた。レポーターの女性は半ば興奮気味に男へとマイクを向けて、話しかける。
『イベントお疲れ様でした。相変わらずすごい声援でしたね』
『有難うございます。最終日もお客さんも沢山来てくれたようで良かった。オレだけじゃなくて日頃から他のヒーローも努力しているからこその人気だと思ってます』
『そうですよね!今季も犯罪率は世界でも低く、日本のヒーローの士気の高さが伺えます。これからも頑張ってください!』
『はい、有難うございます』
『それでは会場から、ウィングヒーロー ホークスとお伝えいたしました!』
今の時代から考えると古めかしいコスチュームと、昔のヒーローと同じ名前。ランキングに上がってきた時は『いくらファンでも似せすぎじゃないか?』と言われていたけれど、ランクが高くなるにつれて昔のヒーローよりも記憶に新しく輝くようになった。もう『ウィングヒーロー ホークス』といえば、映像データでしか残ってないヒーローよりも、テレビの前の男を連想するだろう。
「ホークス」はデビューしてから一度もヒーロースーツを変更しておらず、頑なに昔のヒーロー名鑑で見る姿のままだ。そして黒いグローブの手を振って画面にファンに愛想を振り撒く様も、昔と変わらない。なんだか懐かしくなってつい、笑みが溢れてしまった。
愛していたし、今でも愛している。だからこそ、お前の前には現れない。一度目はその個性を奪われて、ヒーロー活動を断念せざるを得なかった。二度目は自分のせいで、真っ当なヒーローにはなれなかった。だが3回目があるのだから、今度はヒーローを全うし人に愛されて生きてほしい。
そのために、自分はお前の元へは行かない。もっと他へ目を向け、愛する人を見つけて自分のことなど忘れてくれ。お前のもう一つの名前やそれを呼んだ自分の事も、幸せな記憶に埋もれて思い出すこともなくなればいい。
画面いっぱいに映る昔の恋人の姿をぼんやり眺めていると、カチャリと玄関から鍵の開く音がして慌ててリモコンを手に取った。チャンネルを変えようとしたのだが、すでに画面には次のニュースが流れていて何処かの農園が映っている。次のレポーターが果物農園の説明をしている映像を見ながら、安堵してまった。
燈矢は、炎司が啓悟のニュースや記事を見るのを嫌がった。テレビで啓悟のニュースが流れようものならすぐにチャンネルを変えられるし、少しでも載っていると雑誌はゴミ箱へ入れられた。おかげで炎司が啓悟の姿を目にすることができるのは外の広告ポスターやネットニュースくらいで、それも時々携帯を取られてチェックされるのだから殆困り果てていた。
だが、逆に啓悟の情報が何も入ってこないのは良かったと思う。もし何度も目にしていたなら、直に会いたいと思う気持ちが募っていただろうから。
「ただいま、おとーさん」
「お帰り、燈矢」
玄関から短い廊下を歩く音が聞こえて、ドアが開く。癖のある白い髪色と、透けるような肌の高身長の男が立っていた。長い睫毛の奥に青の瞳を瞬かせ、炎司を認めるとにっこりと笑う。
一緒に歩いていると、よく芸能事務所から声をかけられた。だが燈矢はその誘いを一蹴して「うぜぇ、声かけんな」と悪態をつき、相手を驚かせて炎司に嗜められた。
それくらいに見目がいい男は、持っていた袋を乱暴にテーブルの上に置くと埃が立つのも構わずに炎司の隣へと座る。
「もう少し静かに座らんか」
「へーい。・・・・ねぇお父さん、お菓子食べていい?」
燈矢はこうやって、時々子供の頃の真似事をしては炎司の顔を見上げてきた。幼さの抜け切った可愛らしい顔は雑誌などに載ればたちまち注目されるかもしれないが、炎司にとって顔の良さなど二の次だった。この顔でお願い事をされると断れないと女性がよくいうけれど、炎司にはその気持ちはわからない。ただ子供の頃から見ているため絆されてしまうというのはある。
それよりも、聞き入れた事がないのにわざと問うてくるのが腹立たしい。記憶を思い出してからずっと、燈矢が炎司の忠告を聞いたことなどなかった。
「食べるなら一人で食べろ。オレはもう寝る」
「えぇ、寝るのぉ?一緒に食べようよ」
「こんな時間から食べたら体に悪いだろう」
時間は10時を回っている。明日は一限から授業があるから、トレーニングの時間を入れるなら少し早目に起きたい。
だが断られた事が不満だったようで、燈矢は子供のように頬を膨らませてぎゅっと炎司の腕を掴んでくる。とても二十歳を過ぎた男がやる事ではないが、見目の良さも相待ってそこまで見苦しくはなかった。
大して手入れもしていないのにサラサラと流れる髪が、首を傾げると横へ流れていくのを眺めていた。炎司より少し低い頭が首元へと近づき、肌よりも白い歯を見せる。あ、と思った時にはかぷりと肌に突き立てられた。
「燈矢・・」
人の吐息としては些か低い感触と、肉厚の熱い舌がべろりと肌を掠める。思わず肌が泡立ち拒絶の手を出しそうになったが、髪を撫でるだけに止めた。
「おとーさん、セックスしよう」
髪を撫でた手を嬉しそうに取って、するりと頬に寄せる。白い肌は見た目と違わず、少し冷たい。これは燈矢の個性によるものなのか、それとも炎司の個性のせいなのか。
「明日は一限から授業があるから・・。燈矢、やめなさい」
「いやだね。オレは今したい。せっかくスキン買ってきたし・・・。まあ無くてもいいんだけど」
手を伸ばしてテーブルの上に投げ出されている袋を漁る。中から箱を取り出して、それを見せつけるように炎司の前で振った。炎司は抵抗を示すように顔を顰め、腕を振り解いてソファーを立ちあがろうとして。
しかし再度掴まれた腕に、またソファーへと引き戻される。嗜めようと開きかけた口は、強引にソファーへ寝かされたことに言葉を失った。Tシャツの裾から伸びてきた冷たい手が腹や胸を這い回り、胸の先端を掠め触れる事に炎司の腰がビクリと震える。
「燈矢!いい加減にっ」
「ニュース見てたんだな。テレビにホークスが出てただろう」
制止の言葉はかき消えた。代わりに目を見開いて、自分と同じスカイブルーの瞳を凝視する。この色は炎司とよく似ていると、友達や親にすら言われたことがある。だが違う。この色は炎司の青よりももっと寒々しくて、炎司をより責め立ててくる色だ。
炎司は一度小さく息を吐いた。そしてまるで懺悔するような、震えを押し殺した声で答える。
「・・・出てない」
「嘘が下手だなぁ。お父さんはオレよりもアイツの方が好きなんだろうけど」
「違う・・お前の方が大事だ」
「でもアイツとのセックスの回数のが多いよな?」
今は啓悟と会ってもいない、などという言い訳は口にしない。きっとどんな言葉を口にしようとも燈矢は詰ってくるだろうし、炎司は反論できないのだから。
それにすでに、さっきのニュースに啓悟が出ていないというのも嘘だったのだから。
テレビをつければニュースにCM、外を歩けば広告ポスターや雑誌など今をときめくトップ
3のヒーローを見ない日などない。どんなに燈矢に止められようと、視界の端々に映る姿は隠せないのだ。
そしてその一瞬で、炎司は啓悟の姿も声も思い出せた。たとえばソファーに腰掛けて嬉しそうに炎司の名前を呼ぶ顔や、たとえばベッドで低く熱い吐息と共に「愛してます」と囁く姿を思い出せた。これらの記憶は今のものではないけれど、確かに炎司の中に残っていた。他人に話せばただの妄想だと眉を顰められるだろうが、それでも炎司は自分が辿ってきた人生だと信じられた。
なぜなら目の前に、炎司の罪を体現した息子がいるのだから。
もしこれが自分の妄想だったらどんなに良かっただろうかと思うけれど、目の前の「息子」が己の罪を苛んでくる。
「今は、お前だけだ。これからもずっと」
「じゃあ、ホークスとのセックスの回数超えるよう頑張ろうぜ」
「・・・数なんか分かるわけがないだろう」
変なところでホークスと張り合おうとうする燈矢にため息をつくが、どうやら機嫌は直ったようで胸の上に顔を乗せてくる。
子供の頃から胸の上で寝るのが好きだったなと思い出して髪を撫でてやれば、満足そうにふふふと笑った。
一回目は火事で亡くしたと思っていたのに、ヴィランとなって現れてすぐに死亡した。2回目は現れてまもなく、殺してしまった。どちらも死んでほしくなくて抗ったつもりだったのに、何も出来ないままこの腕の中で燃え尽きて死んだ。この子の事は、後悔しかない。どれもこれも己の傲慢と未熟さが事を複雑にしていた。
でも今度は間違えない。
きっと正しい方を選び取れば、三人とも幸せになれると信じている。
「なぁ、おとうさん。ちょっとでいいからさぁ。えっちしよう」
「・・・12時までだぞ。本当にやめるんだろうな?」
「ほんと。ちょっとでいいから。お父さんと仲良くしたいだけだからさぁ」
体を起き上がらせて、目の前で手を合わせてくる。これで炎司が折れてくれるとわかっているのだろう。確かに炎司は燈矢のお願いに弱くて、人様に迷惑をかけるものでなければ大抵は受け入れてしまう。
今だって12時とは言っているが、興が乗れば過ぎるのは目に見えていて・・・。しかし炎司が拒否できるはずもなかった。
起き上がった炎司に、冷たい指先が触れてくる。誰に憚ることもなく頬や額、髪に口付けてくる燈矢に肩の力が抜けていく。いつもは生意気だけれど、こういう時の燈矢は可愛いのだから。
「そんじゃあ、ベッド行こうか」
燈矢は立ち上がり、筋張った腕が炎司を引っ張り上げようと伸びてくる。その腕を拒否することもなく受け入れて、炎司は口元に笑みを浮かべた。
両親が見ていたニュースに、赤い羽根を広げて空から降りてきたヒーローが写っていた。
それまで炎司は無個性で、強個性であるヒーローが羨ましくてテレビで見るのも嫌だった。両親もそれを感じていたのか、ヒーローニュースになるとそれとなくチャンネルを変えくれた。おかげでヒーローの名前はあまり覚えてなかったし、ヒーロー単体というよりは「××くんが好きなヒーロー」として知っているだけだった。
しかしなぜか、そのヒーローが画面に映ったとたん、その姿に目が釘付けになった。
事故現場だったと思う。現場にいた一般市民が映像を撮っていて、それが流れていた。ひっくり返った車の中から手早く要救助者を助け出し、周り者に後を頼みまた車へと引き返す一部始終が映っていて。
『けいご』
浮かんだ名前を言葉にすると、ボロボロと涙が溢れた。このヒーローを知っていると、確信した。なぜなら笑っている顔も怒っている声も思い出せたし、「えんじさん」と愛おしそうに囁く姿すら思い出せたからだ。
『だいすきです。えんじさん』
これがただの妄想だとは思えなかった。少なくともその瞬間は、あの時の温もりすら思い出せたからだ。
『どうしたの?なんで泣いてるの?どこか痛いの?』
テレビ画面をみて泣いている息子に、母は驚いて聞いてきた。しかし泣いている理由など説明できなくて、なんでもないと繰り返すしかなかった。そして少し落ち着くと、早く啓悟に自分がここにいると伝えなくちゃと思った。
きっと啓悟も自分を探しているだろうから、連絡したら喜んでくれるかもしれないと。
でも少しは自分の妄想かもしれないとは、頭の隅にはあった。誰かのヒーロー話を聞いているうちに、勝手にカッコいいヒーローを自分に関係があるのだと思い込んでいるのかもしれないと心配はした。または覚えているのは自分だけで、啓悟のほうは一切覚えていない可能性もある。急に「昔、知り合いだった」と小学生から手紙が届けばヒーローの気を引きたいだけの子供の悪戯にも見られるだろう。
言葉は選ばなくては。
でもちゃんと啓悟のわかる事を、短い文で。
一年生に上がった時に買ってもらった机で、あーでもない、こんな言葉ならいいだろうかと、何度か書き直しては下書きをゴミ箱に入れた。
そして一時間ほど経ってようやく、これから良いかと思える文章ができた。
『鷹見 啓悟さま
こんにちは。僕は轟炎司といいます。
もし僕の名前を覚えていたら、連絡してください』
十分、変な文章だなと思った。
もしホークスが『鷹見啓悟』でないなら、イタズラかと見過ごされるだろう。でも覚えていないなら、それでも良いかと思えた。会って話をしたいけれど、ヒーローとなった啓悟にとって炎司との記憶が人生の妨げになるならば、思い出さなくてもいいかと。
母親に早く寝なさいと言われたので、明日もう一度確認してから手紙は出そうと思った。今時ファンレターなんて珍しい事するのねと母親に言われたけれど、手紙以外の連絡手段が思いつかなかったのだ。
翌日学校に行く準備をしながら、昨日書いた文章でいいか考えていた。自分の事を思い出さなくてもいいと思ったけど、やっぱ寂しいから記憶があればいいなと気持ちが揺れ動いてしまう。でも「ヒーローをしていたり、色んな国を一緒に移り住んでいた記憶はありませんか?」なんて、とても書けそうにないのでやっぱり名前だけで良いかと頭を悩ませていて。カバンを取りながら机の上の手紙を見つめて、帰ってきてから自分で出しに行こうと思った。
学校への道を歩いている時も感じたが、学校に着いてもちょっと落ち着かなくなった。まだ朧げだけれど、大人になって子供までいた記憶があるのだ。それなのに小学校に通っているという現実が、なんだかむず痒くなってくてくる。
啓悟もこんな気持ちになったのだろうか。
もし啓悟にも記憶があるならば、この違和感を吐き出してしまいたい。やっぱり啓悟にも記憶があってほしいし、できるなら隣にいてほしい。きっと啓悟なら、お願いしたらいつでも会いに来てくれるだろう。
・・いや。ヒーローをしているだから、そんな暇はないはずだ。どうして甘えようとするのか。やっぱりまだ、心が体に引きずられているからだろうか?
『おはよう、○○』
席に座ってぼんやりしていると、隣に寄ってきた男の子が声をかけてきた。
△△は幼稚園から一緒で、少し気が弱いからかいつも炎司の後ろに隠れている子だった。そういえば△△もあまりヒーローが好きではなかったなと思い出して、啓悟の事は黙っておこうと思った。
だいたい生まれる前にヒーローと知り合いだったなんて、親や友達に話したって笑われるだけだ。なら啓悟とのことは、本人とだけ話ができればいいかと。
『おはよう。今日はお前、日直だったろう?ちゃんと起きれたのか?』
△△は白い髪を風に揺らせて、青い大きな目をこちらに向ける。そしてにっこりと笑って炎司の手を握った。
『大丈夫、ちゃんと起きれたよ。でも○○が一緒に登校してくれたらよかったのに』
『甘えるな。お前はいつも・・・』
掴まれた手は冷たかった。そういえば△△の手はいつも冷たい。まるでそういう個性のように。
でも△△は無個性だと言っていて、幼稚園ではそれでいじめられていた。炎司も・・・○○も無個性で、だから△△は懐いてきて。
△△の母親の髪は白く目が青くて綺麗で、△△もその顔立ちによく似ていた。まるで女の子みたいだと揶揄されるくらいには線が細くて、気が弱かった。だから○○がずっと側にいてあげたのに。
本当は、違う。
△△は、そうじゃなかった。気が弱いのではなく、どうでも良かったのだろう。友達も、学校もどうでも良かったのだ。ただ○○の気が引ければ、満足だった。
昔みたいに「僕を見て」とでも言いたげに。
『とうや・・』
△△は・・・燈矢は炎司を凝視した。息を止めて、まるで燈矢の世界がとまっているかのようだった。しばらく炎司を見つめていて、ようやく動き出したかと思えば背中へ腕を回して強く抱きしめてきた。
『おとうさん!やっと思い出してくれたんだね!』
急に叫んだ燈矢に、クラスメイトは驚き視線を向けた。しかし炎司にもそのざわめきは耳に入っておらず、燈矢の低い体温を抱き返すしかなかった。
『とうや』
声は掠れていた。もう聞けるはずのなかった返事があったことに、炎司は足の力が抜けて座り込みそうになった。しかし力強く立っていた燈矢が炎司を支え、そして耳元で囁いた。
『やっと一緒にいられるね、おとうさん』
誰のことを言っているのか、わかった。
もしかしたら燈矢にとって、炎司以外の全てのものが邪魔者だったかもしれないが。
それでも二度も息子を火の海に投げ入れるような真似をして許されるなど思っていなかったから、今度こそこの子のために生きようと誓った。
『今度こそ、オレはお前のそばにいる。ずっとお前を見ている』
炎司は燈矢の顔を冷たい体を強く抱きしめてた。燈矢は満足そうに、その可愛らしい顔に笑みをすいた。
そして炎司は手紙を破り捨て、出さなくてよかったと思った。
ピピピピッと目覚ましの音で目が覚める。時々記憶が混ざって、ここは誰と住んでいる部屋なのかわからなくなる。一番最初に啓悟と住んでいた大阪の部屋か、雄英の学生寮なのか、それとも国外に住んでいた時の狭い階段のあったアパートなのか。
でも隣に感じる体温はひんやりとしていて、個性でいくらか温度の高い炎司には有難い。顔を向ければ綺麗な真っ白い髪の息子が、幸せそうに寝こけながら炎司の腕に絡みついている。
「目覚ましがうるせぇ」
「すまん」
「なぁ、今日休めよ。一緒に寝ようぜ」
「オレは授業を意味なく休んだりしない」
「ちぇっ、生まれ変わっても生真面目なとこは変わんねぇよな」
恨めしそうに見上げてくるからいつものように頭を撫でてやれば、少しは機嫌がよくなったようで撫でた手に軽く噛みついてきた。少し跡が残った指に嗜めようとすれば、怒られる前にとでもいうように毛布に包まって顔を隠してしまう。
いくつになっても子供のようで困るが、これでも可愛げがあるのだと思ってしまうコチラが悪いのだろうか。
「今日、高田たちと飲みに行くの、何時だっけ?」
「6時に梅田駅だったか。オレは先に行く、授業が終わったら連絡しろ」
「えー、お父さん一緒に行こう。待っててよ〜」
毛布から顔を出して、甘えるように手を伸ばしてくる。ずりずりと毛布に丸まったまま、炎司の太ももに顔を擦り寄せた。
「オレは一限だけで、調べたいことがあるから図書館に行く」
「・・・調べるって、何を」
それまで甘えたような声だったのに、予想外の回答をすると途端に探るような視線を向けてくる。こんな顔をさせているのも自分が燈矢の信用を得ていないからだと思うと、罪悪感で苦しくなる。
昨日みたいに啓悟の事を考えてしまったり、嘘をついたりするから悪いのだろう。
「授業のレポートで、資料が必要なだけだ」
「・・・そう。なら、仕方ねぇな。オレより先に駅で待ってろよ」
返事をすれば燈矢は気が済んだのか太ももの上から退いて、また眠りにつくようだった。
12時までだとの約束は思っていた通り反故にされ、結局は2時過ぎまで好き勝手に体を弄られいていてまだ腰が痛い。それでも眠れただけまだマシかと、痛む体を我慢してバスルームへと向かった。
一枚だけ身につけていた下着を脱ぎ、温いシャワーを浴びる。鏡を見れば至る所に噛み跡や引っ掻き傷、鬱血した痕が残っている。17歳になるまで待てとそれだけは我慢させて、ようやく許しが出ると燈矢は今までの鬱憤を晴らすように炎司を抱いた。その時の気分で優しくもなるが、昨日のように啓悟を思い出させるような事があると大抵は酷くなった。
『ねぇ、アイツとオレ、どっちが上手い?どっちとのセックスが気持ちいい?』
比べられたら激怒するのに、ベッドでの会話はこういう問いかけのほうが多かった。そしてお前の方が良いと告げても、不満そうな顔をした。不安にさせているのだろうと思うが、燈矢の気持ちを晴らしてやる術は他に考えつかなかった。炎司にできることは、燈矢が満足するまで付き合うことくらいだ。
小学校で記憶を取り戻した時に個性も使えるようになったが、燈矢がヒーローにはなるなと言うから雄英を目指すのはやめた。もともと記憶が戻るまで無個性だったので雄英に入るのは無理だっただろうし、何より雄英にいるとヒーローである啓悟に会う確率が高くなる。
燈矢は啓悟の、ホークスの事を調べるのも嫌がった。高校までは家族と住んでいたから少しはニュースや新聞でホークスの事を見れたけれど、大学進学で同居するようになるとテレビも雑誌も携帯のニュースも、見るのを制限された。
それは少し息苦しいではあるけれど、全部己の行いの報いだと思えば受け入れられた。それにホークスの、啓悟の姿を目にしても胸が苦しくなるばかりだから。
頭からお湯をかぶり、生傷に染みたことで眉を寄せた。顔をあげれば鏡には赤毛の男が写っていて、それはプロヒーローになり二人目の子供をもうけた頃の自分によく似ている。
この顔でよかったと、鏡を見るたびにいつも思う。これなら全部燈矢にあげられる。これならきっと、満足してくれる。あの時燈矢が欲しがっていた「オレ」をすべて、燈矢に差し出せる。
そしたら、あんな酷いことにはもうならないはずだと。
梅田駅は相変わらず人が多い。あれからかなりの時間が流れて駅も統合と廃線をくりかえし、今は駅が大阪と梅田の二つだけになっている。
待ち合わせの梅田駅は人で溢れてて、駅前の妙なオブジェクトの周りには目印になるためか数人が立ち止まっていた。さっき燈矢から連絡があり、ようやく大学から出たと言っていたのでここへ着くのは30分ほどかかるだろう。約束の時間まではまだあるが、高田達が早く着きそうだと連絡が来たので待っておくことにした。
手持ち無沙汰なためダウンロードしている書籍を読んでおくかと、カバンの中のタブレットを探す。どうせ読まないとならない本なので、時間があるうちにと思ったのだ。
「あぁ!あれ、ホークスじゃない!?」
「本当だ〜。事件かな?」
急に名前が聞こえたことに、そちらを見た。どうやらロータリーの向こう側の店で事件でもあったようで、進入禁止の黄色いテープの中で警官と話をしている赤い羽の男が目に入る。
テレビ画面よりは近いけれど、これでは声など聞こえない。野次馬の間から、特徴的な姿がチラチラと見えた。
九州の福岡を拠点としているのに相変わらず色んな県を忙しく飛び回っていて、頑張っているのだと笑みが浮かぶ。規制線の向こうの「ホークス」を一目見ようと人だかりが出来ているのだから、人気のほどが伺えて嬉しくなってくる。今季のビルボードJPでもランクインし数年連続トップ3に入っているのだから、本当に立派なヒーローになれたのだと思う。
最初はAFOとの戦いで個性を失いヒーローを引退するしかなかった。その次は炎司の浅はかな行動からヒーローになる道を諦めて、日本からも出ることになってしまった。でも今度こそ、ヒーローとして相応しい生き方を見せてほしい。
この前コンビニで偶然見つけた雑誌に『ホークスへの一問一答』が載っていて、そこで恋愛の項目もあった。
『気になる人はいますか?』との質問に『好きな人がいます。でも今、会えないんです』と書いていた。あまりに要領を得ない答えだったのでもしかして自分の事かと思った。啓悟がもしかしたら、自分を探しているのかもしれないと。
でも冷静になってみると「会えない」と言うから自分ではないだろうと考えなおして、羞恥心がわいた。
本当にこの世界で誰か好きな人ができて、それが芸能人だったり同じヒーローだったりしたらおいそれと名前を口にできないはずだ。その相手のためを考えて、話をぼやかしているのかもしれない。啓悟はいつでも頭の回転も早くて気遣いもできたら、きっと今でも同じはずだ。
ホークスがヒーローになってもう12年になる。そのうち誰かと結婚の話でも持ちあがってくれたら、少し心が痛むだろうけれど祝福できると思う。
啓悟には今度こそ、普通の幸せを手にしてほしい。
事件現場であるにも関わらず、ファンサは行っているようでときどき黄色い悲鳴が上がる。やはり大阪まで来るのは珍しいことなのだろう、人の輪は途切れることなく一人が離れればまた一人入っていくようで騒ぎは収まる様子がなかった。
それを遠くから見ている。
ときどきチラチラ見えはするけれど、たぶん自分はホークスの視界にも入っていないだろう。だが、それでいい。もう見つけて欲しいとは思っていない。欲を言えばもう少し近くで見たかったけれど、それがバレると燈矢が不機嫌になってしまうので。
「お!○○!悪い、先にきてたんだ!」
高田達三人がこちらを見つけて声をかけてきた。呼ばれた名前は自分のもので、ちゃんと反応して顔を向ける。
「△△は?」
「あいつは今向かってる。あと15分もすれば着くだろう」
「そっか。6時半に予約してんだよな。大丈夫かな」
時計はすでに6時を回っていた。燈矢がもう少し早く大学を出てくれたらと思うが、どうも時間にルーズな所が直らなくて困る。
「すまん。先に行っててもいいぞ。あいつが着いたら連れていく」
「いや、まぁもう少しなら大丈夫かな。・・・それりさぁ、あの人集りなに?」
「・・・事件があったみたいでヒーローが、来ているようだ」
「え?マジで?えーマジもん?ちょっと見てこうかな」
見えはしないけれど、一人が背伸びをして目を凝らしている。もう一人も体を揺らして、中心にいるヒーローの姿を見ようとしているようだった。しかし人集りでその姿は見えず、「オレ、ヒーロー近くで見た事ないからさぁ、見に行ってみようかな」と他の友人に話しかける。
「そういえば、○○と△△はあんまヒーロー好きじゃないよな?」
「あぁ、△△なんかとくにホークスが嫌いみたいで、名前出すだけで怒ってたからなぁ。ここで姿見つけたら機嫌悪くなるかもな」
大学に入って付き合いのあるもの達は、燈矢が『ホークス』の話をすると不機嫌になるのを知っている。ホークスファンの同期に何度か食ってかかったことがあるのでさすがに止めたが、おかげで周りの者たちからは不思議な目で見らているのだ。
機嫌の悪くなった燈矢は面倒だと思っているのか待ち合わせ場所を移動するかと話していると、視界の隅で真っ赤な羽を広げた男が飛び立とうとするのが見えた。
そうか。もう行ってしまうのか。
少しだけでも近くで見られてよかったと、思わず視線を向けてしまって。
「お、△△。やっと来た。遅せぇぞお前」
燈矢のもう一つの名前が聞こえて、勢いよく後を振り返る。人混みの中、真っ白な髪と肌の長身の男がその青い目で空を見上げていた。
「燈矢、行こう」
「あれを見ていたのかよ。おとうさん」
「偶々近くにいただけだ。見ていたわけじゃない」
燈矢の機嫌はすこぶる悪くなっている。早く移動するべきだったか。苛立ちをぶつけてくるのはいいけれど、せめて帰ってからにしてほしい。
促すように手を握ると、すで尋常でないくらい冷たくなっている。燈矢の周りだけかなり気温が下がっているが、どうにか気付かれないように炎司の方も体温を少しだけ上げていった。
燈矢はようやく炎司に視線を向けた。啓悟に向けていた憎悪そのままが、こちらを向いているようだった。燈矢が啓悟を見つければ、こうなる事はわかっていたのだ。だから自分に向けられたそれを、炎司は諌めることすらできない。ただ冷たくなっていく手を握りしめて、自分の体温で温めてやることくらいしか。
「燈矢、行くぞ」
手を引き動くように促せば、どうにか燈矢は歩き出した。釣られて高田達も移動するかと動き出したことに安堵する。
燈矢の機嫌は良くなったとはいえなけれど、こんな場所で個性を発動されたら事件現場にいる他のヒーローに気付かれるかもしれない。とくに、啓悟に騒ぎを気付かれるのはまずい。今の燈矢の様子だと、啓悟の姿を近くで見ればすぐにも攻撃をしかけてしまいそうだったから。
「えんじさん」
聞き覚えのある声は、幻聴かと思った。
グッと腕を掴まれ、咄嗟に振り向いてしまう。視界いっぱいに広がった赤いなにかとはちみつ色をした瞳に、一瞬思考が真っ白になる。
黄色のサンバイザーにくすんだ金色の髪。分厚いヒーロースーツは上空を飛ぶために特化したものだ。空は気温がマイナスになることもあるから、体温を保つためには暑くてもこのヒーロースーツ手放せないのだと言ってた。
あの頃の姿のままで、同じ声同じ瞳で炎司を見上げていて。ぶわりと湧き上がる感情に、しかし強く握った右手の体温に感情を殺そうと息を止める。
こいつはさっき、空に飛び立ったはずなのに、なんでこんな目の前に。
「うぉぉ、ホークスだ!本物!?」
誰かの叫びに掴まれた腕を振り払った。
腕は熱かっただろうか。個性はバレたか。体温が高いと誤魔化せないだろうか。その前に燈矢は。右手で掴んでるあの子の手はまだ氷みたいに冷たくて、そして今にも啓悟を氷漬けにしたいと体温を下げている最中だった。
「△△!」
名前を呼んで啓悟から引き離すために引っ張れば、燈矢は我に返ったのか下げ過ぎて凍りかけた手を収めた。そして攻撃しない代わりに様子を見ることにしたようで、炎司の手を握り返してくれた。
「誰かと記憶違いをしているのでは?」
目の前に啓悟がいると思うと、声が詰まりそうだった。まるでようやく見つけたとでも言うように炎司が振り返った時は喜色を浮かべていたが、否定すれば眉を寄せておよそヒーローらしからぬ悲しげな顔になる。
そんな気持ちを啓悟に味わわせているかと思うと胸が苦しくて、言葉を口にするも震えそうになった。しかしここでバレてしまっては、今まで守ってきたものが全て壊れてしまうと怖くて。
啓悟には何も応えてやれないと、その顔を見据えながら落ち着けるように息を吸う。そして泣かないように、感情が昂らないように気をつけながら言葉を紡いだ。
「すいません。急いでるので」
「あの、待って・・」
啓悟の声を聞きながらも、足を止めることはできない。燈矢の掌はすでに体温を取り戻していて、どうやらこれが正解だったと安堵した。後ろでは高田達がホークスが近くにいた事を興奮気味に話していて、「お前ら本当にヒーロー嫌いなんだな」「せっかくあのホークスに話しかけられたのに!」と文句を言っていた。
炎司はその愚痴を聞きながら、近くで見れた、と思った。
顔色は少し悪くて疲れているようだったけれど、それでも元気そうだった。ちゃんとヒーローをしている姿をこの目で見られてよかった。
きっともう会えなけれど、最後にこんな近くで見ることができて、嬉しかった。
「○○!こっち!店こっちだって!」
燈矢が軽く引っ張ってきたので、思わず立ち止まれば後ろから声がかかる。どうやら何も考えずに歩いていたため、彼らの案内を無視していたようだ。振り返れば駅前の喧騒からはずいぶん離れて、周りを見回してもホークスの姿もどこにもない。たぶん否定したために、追いかけるのはやめたのだろう。思い違いだったと忘れてくれたらいいのだけれど。
「あのやろ」
燈矢が口を開きかけたので、思わず指で押さえた。眉を寄せる燈矢に口元に指を当てて黙るように合図をして、高田たちの元へ歩きながら携帯を取り出した。
『はねが ついてるかも』
昔よりは打ち込みしやすい指で画面に文字を表示させれば、燈矢は察してくれたのか黙った。
付き合いは長かったから、啓悟の行動はなんとなく分かる。自分の直感を信じるタイプだし、否定されただけで諦めるはずがない。どちらかといえば、気がすむまで調べて回るほうだ。
燈矢は炎司の不貞を探るような視線を向けていたが、ようやく納得したのか「あぁ」と小さな声で頷いた。
「やっぱ、オレ達行かねぇ。帰る」
「はぁ!?合コンだぞ、ここまで来て抜ける気か!?」
「行く気失せたわ。・・・じゃぁな」
人の間を縫いながら、燈矢は炎司の手を取って進んでいく。後では高田達が「もうお前らは誘わないからな!」と叫んでいるのが聞こえたが、意味がわからなくて返事もできなかった。
「燈矢、彼らは」
「あんたがどんな顔して座ってるか興味があっただけだ」
それ以上答える気はないようだった。燈矢に強引に予定に入れられた飲み会だったが、目的は少々違っていたのだろう。誘ってくれた高田達には悪いが炎司もそれ以上は聞く気にもならず、ただこの先燈矢が何を言い出すかだけが気掛かりだった。
駅の方へと戻ってくるが、それとなく辺りを見回しても啓悟の姿はなかった。ロータリーの向こうではまだ現場検証をしているようで、規制線の向こうに名も知らぬヒーローの姿だけが見える。
とうぶん、この駅に来るのはやめよう。いや、大阪に来るのをやめたほうがいいだろうか。大学は隣の県で、待ち合わせ場所がここになっただけだ。生活圏内でもないので、来れなくて困る事はない。啓悟が大阪のヒーローと仲が良いかなど分からないが、チームアップを行うほどであるならまた出会ってしまう可能性もある。
啓悟の姿を見るだけでも、燈矢は嫌がるから。
駅に入れば人混みはさらに増して、燈矢が苛立ちで舌打ちしていることにヒヤヒヤしてくる。だが辺りを見回してから、多目的トイレに連れ込まれた。鍵を閉めポケットの中を漁り始めたので、ようやくその意図を察っする。どこかに羽がくっ付いていないか確認しろということだろう。
ジーンズの尻ポケットには、やはり赤い小雨覆が一枚入っていた。燈矢のカバンにもあったし、炎司のカバンにも少し大き目の羽が紛れ込んでいた。
見つけるたびに燈矢が羽を奪い取り凍らせて、トイレへと落としていった。これが啓悟の羽なのかと、感傷に浸る余裕もなかった。ただこの赤はえんじ色なのだと、嬉しそうに言った羽の色と変わらないことだけは分かった。
服や鞄を全て調べるのは時間がかかったけれど、一枚たりとも持って帰るわけにはいかない。それに羽がある場所で、自分たちに結びつく言葉も口にはできなかった。燈矢もそう思っていたようで、数枚を凍らせてトイレに流してあと、ようやく声を出した。
「抜け目ねぇのは変わらねぇか。本当に面倒だな」
「・・もう、ここへ来るのはやめよう」
燈矢は何か考え込んでるようだったが、答えは炎司と同じはずだ。羽を全て見つけて捨ててしまったのだ。もしかしたら訝しく思うかもしれないが、見失ってしまえば一般人を追跡する方法など手段は多くない。探したいと思っても再度見つけるには、時間と手間がかかるだろう。帰る時も交通手段をいくつか使えば、防犯カメラから逃れられるはず。
いささか面倒なことになっているというのに、なぜか燈矢は楽しそうだった。自分よりも身長の高い炎司の顔を見上げて、にっこりと笑う。燈矢はまるで楽しい事を見つけたかのような、これから起こることに期待する子供のような顔をしていた。防犯カメラを掻い潜り、啓悟に見つからないように抜け出すことがそんな面白いのだろうか。
炎司には燈矢の気持ちが分からなくて、思わず眉を寄せた。
「住んでいる場所がバレないように帰らないと。気をつけて帰ればどうにか」
「別にバレてもいいだろう」
「・・なにを」
「次は確実にオレがアイツを殺すよ。お父さん」
「燈矢っ」
「そしたらオレと同じように、アイツの死体を焼いてやれよ。きっとお父さんに燃やされるならアイツも本望だろう」
燈矢の言葉に呼吸が苦しくなる。
手が震えて、見かねた燈矢が優しげに指先を絡めてきた。癖のある白い髪と、透けるような白い肌。そして炎司を責め立てる大きな青い瞳がこちらを見ている。まるで深淵に覗き込まれているような青よりも黒に近く見えるそれが、炎司を見つめているようで。
いまでもゆめをみる。
黒く焼け焦げ落ち窪んだ眼球の奥で、こちらを見つめる瞳。己にそっくりな色は、まるで死にゆく自分を見つめているような気さえしてくる。
『オレを見ててね、おとうさん。ずっと、死んでも!』
声は掠れているのにその意思は伝わってきた。憎悪とも愛情ともつかない強い感情でその身を焼いて、笑い声を上げながら嬉しそうに叫んでいる。
一度目の炎上は家族で止められた。でも二度目は止めるなどできなかった。お前は何もできないのだと無力さを突きつけて、燈矢は満足そうに笑っていた。
腕の中で燈矢が崩れ落ちるのを感じながら、声にならない悲鳴を上げ続けていた。あんな事はしたくなかったけれど、二人の望みだった。死んだ燈矢と啓悟の望みだったから、炎司には拒否する事ができなかった。
「いやだっ。もうあんな事は」
炎司が小さく呻けば、燈矢が顔を覗き込んでくる。黒く炭となりカサついた輪郭の向こうに見えた瞳の色を湛えて、炎司を断罪するかのように声を上げた。
「オレを愛してるならアイツを焼き殺せ」
「出来ない!もうあんな事はしたくない!」
個室トイレの中で反響する悲鳴のような炎司の声に、燈矢は可笑しそうに口角を上げる。
「お父さんが嫌でも、オレがアイツを殺すけどな。殺しちゃったら手伝ってくれるだろう?」
「もう、・・・そんな事はしない」
伸ばされた日に焼けていない腕が、炎司の胸ぐらを掴んだ。後ろの冷たいタイルへと背中を押しつけられて、長く銀髪のまつ毛に縁取られた瞳が近付いてきたかと思うと口を塞がれた。
舌で唇を舐められて、強請られるままに開く。扉一枚隔てた向こうは人通りが多い。ざわざわと聞こえる喧騒に、こんな場所で口付けるなど炎司には考えられない事だった。しかし拒絶などできるはずもなく、ぬるりと入ってきた冷たい息に震え、絡んだ舌だけは熱さを感じた。
体を好きに弄られるよりも、どうして口付ける事に背徳を感じるのだろう。息子に尻穴を解されて痛みと苦しさで呻きながら穿たれるよりも、唇を舐められ唾液の飲み込むことのほうがどうして罪悪感を覚えるのか。
「お前の願いが一度だって叶ったことがあったかよ。おとうさん」
耳元で囁かれて、笑われた。
己の願いが何一つ叶わなかったのを覚えている。その願いへの執着が強すぎて家族を、そして目の前の燈矢を悲しませていた事も覚えている。だからこそ今度は、この子のために己の全てを差し出しているのだ。大事なものが一つだけなら、決して間違えることはないはずだと。
でもそれが燈矢に伝わっているか、自信はない。また自己満足なのではないかという疑念がいつまでも脳裏にあって。
炎司が何も言葉を返せないでいると、燈矢は鼻で笑って個室のドアの鍵をあけた。通りすがる人々は、二人がトイレを出てきても一瞬視線を向けるだけで気にも留めない。
燈矢がまるで離さないというように強く手を握りしめてきたので、それに応えるように握り返した。
「卒業したら、遠くに行こう。北海道か沖縄か、とにかく遠くへ」
すでに大学も4年の、夏休みも近い。仕事の内定だってもらっていたのだがと思うけど、啓悟に見つかったらと考えながらこの関西に居続けるのは良いとは思えない。
「だったら、北海道がいいな。オレは暑いの嫌いだし」
「そうだな。・・・北海道にするか」
あと半年くらいなら、極力アパートから出なければやり過ごせるだろう。それに啓悟だってヒーロー活動で忙しくて、ずっと関西には居られないはずだ。
「楽しみだね。おとうさん」
癖のある白い髪を揺らして、燈矢は笑う。その笑顔は昔の炎司には与えることが出来なかったものだから嬉しくて、同じように微笑んで頷いた。
大学からの帰りにスーパーへと寄った。昨日は肉だったから今日は魚にしようと、パックの魚をカゴに入れる。
燈矢は炎司が作る食事には文句を言ったことがなく、出された食事は綺麗に平らげた。反抗期だった時も冷が作った食事も残すなと教えていたので、まだ守っている事が少し微笑ましい。
炎司に作れる料理は限られていたけれど、時々探してきたレシピを後ろで指示して作らせ満足げにしていたのが可愛いと思った。おかげで炎司の料理スキルは上がっていったし、気がつけば燈矢も作るようになっていた。燈矢は意外と器用で、炎司よりも上手く作ったが気分が乗る時にしかキッチンには立たなかった。
掃除も洗濯も燈矢はしない。オレがいなくなったら、この子は真っ当な生活ができるだろうかと思ってしまうくらいだ。あまりに心配だからせめて一通りのことはさせようと思ったけれど、「どうせお父さんが一緒だから、いいだろ」と覚えようともしなかった。今になって甘やかしすぎたのかと不安になるけれど、確かに・・・ずっと側にいるのだから心配しなくていいのか。
精肉コーナーを歩いていると、鶏肉が目に入る。モモ肉が目に入っていくつかレシピが浮かんでしまったけれど、手に取ることはない。
炎司はたぶん、肉や魚料理よりも鶏肉を使うレシピを覚えている。作ることはないけれど唐揚げの味付けだったり焼き鳥の焼き方だったりが、たぶん料理の中で一番上手くできる。でもそれを燈矢に食べさせたいと思わないし・・・鶏料理が嫌いなのか一度出した時に手さえつけなかったので、作らなくなった。
でもそれでいいのだろう。
鶏肉の料理は啓悟が好きで、よく作っていた。おかげで料理している最中は思い出していたから、作らないで済むならその方がいい。
他にも必要な日用品をカゴに入れて精算する。それからスーパーを出て、アパートに向かう。
今日は燈矢がバイトのため、一人部屋で過ごす事になる。たぶん燈矢は授業が終われば、アパートには戻らずにバイトに行くはずだ。
燈矢は三人兄弟がいて、うち二人が大学に通っているために生活費が心許ないと言った。そのため大学に入ってすぐバイトを始めたのだが、あの容姿なのですぐ採用になるがあの性格なので辞めるのも早かった。おかげで一度も燈矢がバイトをしている店に行った事がなくて心配なのだけど、「今は短期のバイトをしてる」と言われるだけだ。あまり口を出すと怒ってしまうので、それ以上は聞けなかった。
どういう仕事をしているのか、時々傷をつくってくることもある。「酔っ払いに殴られた」と言っていたけれど、それが本当なのか炎司には確かめられなかった。
だがこの生活も、あと半年もすれば終る。せっかく内定をもらったのにと先生には言われたが、ここで暮らす気はもうない。それより早く、ここから出なければと焦るばかりだ。啓悟が関西を飛び回っていると思うと燈矢にバイトに行くのをやめてほしかったし、自分も極力アパートから出たくなかった。
駅前の人混みの中『えんじさん』と甘く響いたあの声を、今でも思い出せる。癖のあるくすんだ金髪と、特徴のある眉と、その下の月を思わせるような瞳が脳裏に焼きついている。掴まれた力強い手の感触も、覚えている。
アレは昔は自分のものだったけれど、でも今は違う。もう触れたいとは、思わない。
あの場所に行かなければよかった。
せめて啓悟の姿を遠目で見たときに、すぐに離れるべきだった。待ち合わせの同期に連絡を取れば済む事だったのに、この目で見ていたいと思ってしまったから。
本当に、悪い事をした。
燈矢にも・・・・啓悟にも。
自分の事を忘れていなかったという喜びと、どう足掻いてもお前の側には居られないと諦めが交互に浮かぶ。そして燈矢のそばにいる事を、今度こそこの子のために生きようと誓ったから、啓悟には二度と会わないと決めたのだ。探してくれていたのか期待させたのは悪かったけれど、あの日は帰路にも気を付けたので追えるとも思えない。それに半年後は北海道に行く。さすがにそこまで啓悟が探しに来る事はないだろう。
啓悟の姿を見たのと引き換えに二度と会えなくなるのは悲しくなるけれど、諦めはつく。そしていつかは結婚の報告を燈矢とテレビで見られたらいいなと思う。たぶんトップヒーローの結婚式だからテレビでも報道されるだろうし、啓悟は相変わらずファンを大事にしているみたいだから結婚相手の話も少しはしてくれるだろう。幸せそうな啓悟の姿を思い描くと今はまだ「おめでとう」とは言い辛いけれど、きっといつかは気持ちの整理もついて笑って見られるはずだ。
そして祝福できれば、自分の選択は間違っていなかったと今度こそ胸を張れる。
アパートへの帰路途中、時々立ち止まっては振り返り空を見上げている。だが青い空が広がるばかりでそのどこにも、赤い羽を見つける事はなかった。ここ二週間ほど気を付けていたけれど、見られている気配はない。
そのうち空を見上げることも忘れるだろう。
啓悟が変わっていくように、いつか燈矢だって炎司から他へと目を向けてくれるかもしれない。子供の頃に満たされなかった感情は、与え続けていればいつかは満足するはずだ。燈矢だって、いつまでも「お父さん」と一緒なのはおかしいと気付くだろう。親離れがいつなのかはまだ分からないけれど、やはり一人でも暮らせるように色々教えた方がいいだろうか。
まだ夕方の四時を回ってところで、下校途中の学生や散歩をしている年配の人たちとすれ違いながらアパートへの道を歩いていく。
相変わらずヒーローが治安を守っていてくれるおかげで、この国の平和は保たれていると嬉しくなる。一時はヒーロー排斥論も出ていたけれど、やはり平和に貢献できるのは彼らにとっても素晴らしい事なのだろう。その筆頭のトップ3に入っている啓悟も入ってると思うと、なんだか炎司も誇らしく思えてくる。そんな彼が幸せになってくれるなら、下手に騒がせるよう真似はせずに燈矢と静かに暮らしていきたい。
白塗り8階建のアパートに辿り着き、エレベーターで最上階に向かう。
一人で暮らすには家賃が高いけれど、二人で出し合えば問題ない。幼稚園からずっと一緒でどちらの親も二人で暮らす事に反対しなかったし、燈矢の面倒を炎司が見ていたのだから頼まれもした。どちらの両親も炎司の事をよく褒めてくれてそれはとても嬉しいのだけど、彼らの言葉を聞くたびに後ろめたさがジワリと湧いてくるのだ。
時々炎司は、彼らに内心では「すまない」と謝っていた。もし炎司が燈矢が記憶を取り戻さなければ、彼らの子供は何事もなく暮らしていただろうに。○○と△△の両親に、彼らの子供を奪ったことに罪悪感を覚えてしまう。
そして今度も、謝るのだろう。
とにかく遠くへ行こうとする二人は、あなたたちの想像もつかない理由で離れていくのだと。
でも今度は、ちゃんと日本にいるから。
家族にも黙って行方知れずになったりしない。最後まで日本に帰れなかった、あの時のようにはならないようにするから。
八階でエレベーターを降りると、803のプレートの掲げられた黒いドアをカードキーで開いて部屋に入る。
燈矢はいないとわかっているけれど、「ただいま」の言葉がするりと出てきた。だが玄関にはいってすぐ、靴がそろえて置いてあることに気が付いて。
「・・・燈矢の・・か」
真新しいシューズが、揃えてある。赤いラインの入ったシューズのサイズは燈矢と同じくらいで、いつ買ったのだろうかと不思議に思った。燈矢の服の趣味は炎司と合わなくて、だから服も靴もどんなものを買っていたのかよく覚えていない。
部屋の奥からテレビの音がする。今日はバイトだと言っていたけれど、一度帰ってきたのだろうか。
廊下の向こうのリビングには、ソファーとテレビが置いてある。カーテンの開かれた奥の部屋は午後の日差しで明るい。たぶん窓も開いてるのだろう涼しい風が入ってくる。
靴を脱いで揃え、廊下を歩く。スーパーの袋をガサガサと鳴らしながら、燈矢は夕飯を食べるだろうかと思った。
「と・・・」
「お帰りなさい、炎司さん」
臙脂色の羽が、視界に広がる。
くすんだ金髪を風に靡かせ大柄の派手な色のシャツを着ている男は、まるで己の家にいるかのように寛いでいて炎司が顔を見せても慌てる事はなかった。それどころか、まるでソファーに座っているのが当たり前のように和かに炎司に声をかけてくる。
「お土産、葛餅ですけど今食べます?オレの地元で有名で、炎司さんに食べてほしいなぁって思ってたんですよ」
夢を見ているのではないかと思った。
現実なのかも分からなくなる。
当たり前のように啓悟が声をかけてきて、昔と同じように炎司の好物をお土産に持って来たと微笑んでいる。
最近ずっと啓悟の事を考えていたから、自分の都合のいい妄想をしているのだろうか。こうやって帰ってきた時に、炎司の好きなあの声で呼んでくれたらと考えてしまったのだろうか。
啓悟の姿を見つけたときから、自分を見てほしかった。会っていつものように名前で呼んでほしかった。何万回と紡がれる、その愛おしい者を呼ぶ声が聞きたかった。いつだって「あなたが好きだ」と全身全霊で訴えてくる啓悟の愛情を、もう一度欲っしていた。
『オレはあなたの側にいられるだけで幸せです』と褥で囁き、その羽でいつも炎司を包み込む男が目の前にいる。
「・・・・ぁ」
名前を呼びそうになる。胸が苦しくて、喉の奥でその名前がつっかえている。
一度でいいから、その名前を声にしたい。これまで会う事はないと、口にしても聞く者など誰もいないと思っていた名前が今なら返事が聞けると思った。
最後でいい。この一度だけでいいと願うけれど。いちど溢れたモノは還らないように、口に出してしまえば取り返しがつかなくなることもわかっていた。
それでも、喉の奥で詰まった名前を吐き出してしまいそうで。
『次のニュースです。昨日、福岡での窃盗事件でホークスに捕まった男が、身柄を博多警察署へと送られました。男は銀行で刃物を』
急に名前を呼ばれて我にかえる。視線をそちらに向ければ、テレビ画面に捕まえた犯人と共に手を振る啓悟の姿が映っていた。
その姿に周りの観衆は喜んでいて、・・・そんなファンから啓悟を奪うことになるかもしれないと思うと、頭が冷えて名前など呼ぶ気が失せた。
ゆっくり呼吸すると、ようやく詰まっていた声も出せる気がして。小さく、震えそうになるのを抑えてもう一度啓悟に向き直った。
「どうやって入ったんですか。出て行ってください」
「お茶、あります?オレ淹れますよ。炎司さんは座ってて下さい」
啓悟はまるで「いつもと同じように」振る舞おうとする。確かに轟家では啓悟がお茶を淹れたりしたし、二人で暮らしていた時も炎司のためにお茶を淹れてくれた。
だがここでは違う。啓悟はこの部屋に入ったことはない。なのにソファーを立ち上がって、当たり前のようにキッチンへ向かおうとする。
「出ていけと言ってるんだ!警察を呼ぶぞ!」
近づかない方がいいとは思っていた。触るなど、とても拙いのではないかと。でも部屋の中を歩きだすことに流石に止めねばと腕を掴んでしまい、素肌に触れた手のひらが昔と同じように少し冷たくて思わず驚いて手を離す。
「やっぱりあなたの手は温かい」
「・・・やめろ」
覗き込んできそうな顔の近さ。こんな無防備に側へ寄るのではなかったと後悔する。手にしていた荷物を床へと落として逃げるように後へ下がろうとしたけれど、素早く腕を掴まれて動けなくなった。
「炎司さん、やっぱり目の色も青いんですね。いつ見ても綺麗で、オレは大好きです。髪の色も、あなたの匂いも、何もかもを愛しています。嬉しい・・・ようやく会えた」
腕を引き寄せ首筋に鼻先を寄せる。まるで炎司の存在を確かめるように腰に手を回して、その胸の内へと抱き込んでくる。ピッタリと重なった体からふわりと香るのは、啓悟がよく付けていた香水の匂いだ。炎司が「お前の匂いだ」と戯れに口にした、好きな香り。声と体温と匂いと、全てが啓悟の存在を示していて震えそうになる。ずっと望んでいたもので、一度触れるだけでいいからと願っていた炎司の恋人だ。
忘れているかと思っていた。
忘れていてほしいと思っていた。
でも目の前に現れると、こんなにも心が震えそうになる。もっとほしくて、ずっと側にいてと祈りそうになるけれど。
「可愛い、炎司さん。今度は少し小さいんですね。オレと同じくらいですか?ヒーローを目指してないからかな?」
「やめてくれ。・・オレはそんな名前じゃない」
いつものように髪や頬に口付けてくるまえに、強引に腕を引き離して後ろへと下がった。離れてしまった腕はもう、二度と手には入らないだろうけれど、今の瞬間だけで十分満足だ。
燈矢が帰ってくる前に、出て行かせないと。
「前も言いましたよね。誰かと勘違いしていると思います。オレはそんな名前じゃないし、あなたの事も知りません。出て行ってください。ヒーローが不法侵入なんて、いいと思ってるんですか」
「怒った顔もかわいかぁ」
「・・・っ、オレの話を聞いているのか!」
話が噛み合わなくて声を荒げる。どんなに否定しても聞いてもくれず、まるで自分が「炎司」だと確信しているように話しかけてくる。いったいいつ、バレたのだろうか。この前見つかった時も注意しながら帰ったし、ここ二週間気を付けていたけれどおかしな事は何もなかったのに。
「機嫌直して下さいよ、ね?ここの葛餅美味しいって有名なんですから、食べたらきっと機嫌も直りますよね。炎司さん、甘いの好きでしょ?燈矢くんが帰ってくると困るので、食べたらすぐ出ないといけないけど」
啓悟は相変わらず、矢継ぎ早に楽しそうに話す。いつもなら微笑ましく思えるけれど、今の炎司にはその姿は恐ろしく感じた。
「ホークス」の前では、燈矢の名前を出さなかった。なのになぜ、その名前や一緒に住んでいる事を知っているのか。
たぶん、ずっと見ていたのだろう。ホークスにとって一般人の素性を調べることは、敵地に侵入するより容易い。前に一緒に仕事をしていた時に教えてくれたように、相手の動向を知る手段などいくつもあるはずだ。
どこでミスを犯したのだろうか。いや、今更後悔しても遅い。すでに目の前に啓悟がいるのだから。なら、一緒にはいられないことを分かってもらわなければ。
「オレは葛餅なんか好きじゃない。頼むから、帰ってくれ」
「炎司さん、顔色もあまり良くないですよ。疲れてるんですか?・・あいつのせいかな。オレは炎司さんが燈矢くんといるの、良いとは思えないんですけど」
感情が昂り、思わずギュッ手を握り込む。
燈矢の名前を啓悟の口から聞くことも、否定されることも我慢できない。燈矢は自分の子供で、親である自分が守ってやらねばならない。あの時できなかった事を、あの子へ愛情を向ける事ができるのだから間違いなどないはずだ。
それまで『炎司さん』と呼びかけられて否定していた事を忘れて、口を開いた。燈矢の事を、自分たちの事を否定されたくなかったのだ。
「そんなの、貴様に関係が」
「燈矢くんにレイプされて、自分だけが我慢していればいいと思ってるでしょ」
聞こえた言葉に視線を向けて、ただ目を見開いた。言うべきことが探せなくて、口の中で無意味な否定だけが蟠る。
「・・・ちが」
「あなたが燈矢くんにされてることはDVですよ。我慢しちゃだめです。相変わらず内罰的なんだから。でもこれからはオレがいますから、安心してください。絶対に酷い目には合わせません」
「違う・・」
「燈矢くんの愛は、子が親に向けるものです。ただの我儘ともいうのかな。本当に愛しているなら、こんな酷い傷なんて残しません」
首筋に貼られたガーゼをさして、啓悟は眉を寄せる。この下には昨晩噛まれて変色した痕が残っている。他にも服の下には鬱血や引っ掻き傷が残っていた。
本当に啓悟は何でも知っているのだろうか。息子相手に浅ましく腰を振っているのも、どこかで見ていたのだろうか。
そんな事は誰よりも、啓悟には知られたくなかった。羞恥で目の前が暗くなり、目眩すら覚える。
燈矢が望むなら何でも差し出せた。欲しいと言うならこの体でもなんでも、気が済むまで好きにしていいと思っている。でも啓悟には知られたくなかった。
涙で目の前が滲みそうになるけれど、懸命に堪えて昔の恋人を見据えた。泣くな、己のした事が返ってきてるだけだ。オレが全部悪いのだからと、心の中で叫ぶ。
「出て行ってくれ。もうオレの前に姿を見せるな。お前にはヒーローとしての責務があるだろう。オレのことは忘れて、ヒーローと」
「なぜオレが、あなたを忘れられると思うんですか?」
両腕をつかまれた。ギリギリと締め付けてくる指の強さに、思わず声が出そうになる。啓悟は顔を近づけてきて、その瞳は大きく開きまるで猛禽のようだと。
「あなたの事を思い出してから20年探しました。きっとどこかにいるはずだと信じて、ヒーローになれば探せるかと必死でトップランカーになりました。でもあなたはオレをずっと避けていたんですね。燈矢くんのために」
「・・すまない」
「でも、もういいです。ようやくあなたを見つけられたし。・・やっぱり葛餅、持って帰りますか。部屋でゆっくり食べましょう」
険しげな顔も、炎司を見続ければすぐに穏やかになる。それは昔と変わらない。啓悟はいつも炎司には甘かったし、どんな憤りも「そんな可愛い顔されると許しとーなる」と戯けたように笑ってくれた。
でも今は、その言動が理解できない。
帰るとは、どこへ?
部屋とは、どこを指すのか。
まるで当たり前のように話を続ける啓悟に、何を答えればいのかわからず凝視するだけだ。啓悟はテーブルの紙袋を取ると、「行きましょう」と炎司を促してくる。
その笑顔を見れば誰もが安堵するはずなのに、今の炎司には戸惑いしかない。
思わず後ずされば、足元のスーパーの袋がガサリと音を立てた。足を引いたのがわかったのか、啓悟の笑みが薄くなる。炎司の動向に注意しているようで、刺激しないようにと動くのをやめた。
「悪いとは思ってる。でもお前と一緒には行けない」
「何も持って行く必要はないですよ。あなたの物は揃ってます」
ちゃんとした言葉が返ってきてるのに、会話をしているように思えなかった。いつも炎司の気持ちを最優先にして自分の都合など二の次にしてくれた男が、今は何一つ聞き入れてくれない。
その顔に笑みを浮かべてはいるけれど、たぶん啓悟は怒っているのだ。炎司が気付いていても手紙を出さなかった事や、声をかけても否定し続けていたことに。
でも燈矢を一人で置いていくなど、今の炎司にはできなかった。もし炎司がいなくなればまた荒れるだろうし、それを宥める責任がある。そしてあの子を愛しているから、こんな所に一人で残すなど考えられなかった。
たとえどんな目に会おうとも今度こそちゃんと燈矢の手を取ろうと、見ていようと決心したのだから。
「すまない」
啓悟には悪いとは思う。だが今の自分たちがどのように歪に見えていようとも、燈矢のそばを離れるわけにはいかない。
一言だけ謝ると、携帯の入っているリュックを取って玄関へと走った。後ろで啓悟の呼ぶ声と、羽が腕に触れたのを感じたが焼き消した。靴を履くのは諦める。時間稼ぎになればと熱した手でドアノブを掴み、押し開いて外へ出た。エレベーターなど使ってる余裕はない。八階だが、足に炎を纏わせ噴射すれば着地くらいはできる。
個性を使うことはなかったが、訓練はしていた。元の扱いが上手かったため、カンを取り戻せばある程度は扱えた。あの頃のように飛ぶことはできなかったが、高所から降りてもさほど衝撃もなく地面へと着ける、はず。
躊躇いなく空中に躍り出た。両足に意識を集中すれば、自在に操れる炎が吹き上がる。少し力を込めれば体が一瞬浮遊した。大丈夫、問題ない。
だが落下の最中に、腕にまとわりついた何かがあった。それが啓悟の羽だと認識するのと、足から噴射してた炎が出せなくなるのは同時だった。
「・・っ!」
この高さから地面に叩きつけられたらと体が強張ったが、その衝撃は来なかった。かわりに服が引っ張られるように浮き上がり、地面にすら降りられなくなる。
「これでもプロヒーローなんで、さすがに今の炎司さんよりも動けるんですよ」
赤い羽を広げ、紙袋を手にゆっくりと啓悟が降りてくる。このままではと個性を発動させようとするけれど、なぜか炎が出てこなかった。
腕に嵌っている輪っかのせいだと、さすがに気がつく。落下の最中に触れてきた羽根が持っていたもので、それがハマるととたんに個性が使えなくなったのだ。
間近で見たことはないが、犯人の捕獲用に使っている代物だろう。それを躊躇なく嵌めてきたことに、啓悟の本気を知って青ざめてしまう。啓悟が本気になると逃げられる気がしない。個性が使えれば方法はあったかもしれないが、ヒーロースーツもない炎司には全力で炎を使う術がなかった。
「降ろせ、啓悟」
啓悟を睨みつけて低く唸るような声で告げる。しかし眉を寄せるどころか啓悟の目は輝き、背中の翼はバサバサと羽ばたくように動いた。炎司の周りをシュンシュンと羽根が飛び回って、喜びを隠しきれないというように顔や体に擦り寄ってくる。
「炎司さん、オレの名前を・・・」
啓悟とほぼ同じ身長であるはずの炎司を、軽々と横抱きにしてしまう。そして炎司の顔に唇を寄せて、口付けようとしてくる。愛しい者を腕にして、我慢ができないようだった。
「嬉しかぁ。やっとオレの名前を呼んでくれとぉ」
「待て!やめろ!」
こんな事で絆されてはダメだと慌てて腕を突っぱねて拒絶すると、今度は悲しげに眉を寄せてその蜂蜜色の瞳を潤ませてきた。その顔に胸は痛むけれど、分かって貰わねば帰ってきた燈矢と衝突しかねない。炎司にはそれが怖かった。また、二人で言い争いになることが。
「キスもつまらんんと?」
「・・・ダメだ。頼む。降ろしてくれ。オレはお前とは行けない」
「心配しないでよか。部屋に帰れば、きっと落ち着くけんね」
「オレはお前に、ヒーローとして生きてほしい!幸せになってほしいんだ!オレの事は忘れてくれ!」
「なしてそんなこと言うと?炎司さんの幸せがオレの幸せたい。あ、燈矢くんが気がかりか。燈矢くんの事は・・・・そげん心配せんでよか。親離れしたほうが彼のためたい」
感情が昂っているのか、ずっと地元の訛りを喋っている。こういうときは高揚しすぎて、炎司が何を言っても聞いてくれない。このままでは本当に連れて行かれてしまうと体を捩るが、赤い羽根が四肢に張り付いていて動くこともできなくなった。
抱き抱えられたまま、啓悟は背中の羽を使って飛び上がりアパートの外へと出てしまう。どこへ連れて行かれるのかわからなくて向かう方向へ顔をむければ、アパート横にメタリックグレーの車が停まっている。器用に羽でポケットからキーを取り出すと、車のロックが外れる音が聞こえてきた。
かなり用意周到で最初から車に乗せる事を考えていたのだろうかと、手際のいい事に背筋が寒くなる。
車に乗せられると、きっとこのアパートには戻って来られない。それだけは分かっていて、服が燃えることは諦めて全力で個性を使おうとしたが一欠片の炎も出てはこなかった。手首に嵌められている十センチ幅の黒いリングは、昔に比べて小さく性能が良くなっているようだ。
「待て!啓悟!降ろせ!オレは行かないと言ってるだろう!」
せめて通りすがりの人にでも見られて考えを変えてくれたらと思ったけれど、最初は奇異の目で見てくる人も抱えているのがホークスだと分かると「仕事?頑張ってね!」としか言わない。ヒーローが誘拐しようとしているなんて、誰も考えないのだろう。
助手席に詰め込まれて、鍵を閉められる前にとドアハンドルを引っ張ったが手応えがなかった。ドアが開かないように細工してあると気付いた時には、啓悟が運転席に乗り込んでいた。
「オレが抱えて部屋まで連れて行きたいとこですけど、さすがに大阪までは遠いですから。一時間くらいですけど、我慢してくださいね」
「啓悟!頼むから聞いてくれ!オレはお前とは行けない!燈矢を一人にしたくないんだ!今度こそあの子のそばにいると決めたんだ!」
啓悟の腕を掴んで訴える。しかし掴んだ手を優しく撫でられて、体を近づけたかと思うと頬に口付けられて微笑まれた。
「落ち着いてください。部屋に帰ってから話をしましょう。大丈夫、オレを信じてください」
啓悟は今まで炎司の嫌がることも、不利になることも何一つしなかった。常に踏み止まりそうになる背中を押してくれたし、動けなくなったなら立ち直るまで隣で根気強く待っていてくれた。啓悟が炎司のためにならない事をするとは思えないけれど。
でもこれだけは、いつも相容れない。
燈矢の事だけはどうしても、啓悟は受け入れなかった。いつも探るような目をしていて、燈矢を見るたび不満を顔に出していた。その用心は確かに間違いではなかったけれど、きっとそれは燈矢を受け止めきれなかった炎司が悪いのだ。啓悟が優しいのはわかってる。だが燈矢は啓悟が関わると何をするかわからないから、知られたくなかったのに。
「愛してますよ炎司さん。だからオレはあなたが酷い目にあっている事が我慢できないんです。・・・あなたの悪いようにはしないから、オレに任せてください」
「違う・・オレが自分からしていることだ。燈矢のせいじゃない」
啓悟は返事をしない。代わりに掴んでいた手を取って口付けて、優しく笑った。
車はパーキングエリアに入ることも無く、大阪の中心地へ入った。ぐるぐると高速を走られると土地勘のない炎司にはどこを走っているのかわからなかったが、ときどき見える道路標識にどうにか大阪市内から少し離れた場所だとわかった。
住宅街の一角に車が入り、静かに地下の駐車場に入り停まる。何台もの車が駐車されているが人気はなくて、二人だけが取り残されているみたいだと思った。
炎司は高速を走らせる車の中で、何度も啓悟に止まるようにお願いしたが聞きれられなかった。ただ「今は混乱しているだけです。部屋に戻れば落ち着きますよ」と一度も見たこともない場所の話をされ、指の間に何枚も張り付いた赤い羽根が愛おしそうにするりと動いた。
腕の拘束具を外そうとしても太すぎて、腕力だけでは壊すことさえ出来そうにない。ヴィラン拘束用の品物だと思えば心強いが、それが自分の腕に嵌められれば絶望にも似た気持ちになった。
「ドアを開けるので、待っていてください。あと靴を持ってくるのを忘れましたけど、オレが抱えて上がりますね」
「いらない。べつに裸足でも」
「ダメですよ。あなたを裸足で歩かせるなんて。・・・・それにオレがあなたを抱えて部屋に戻りたいし。いいでしょう?」
啓悟は炎司の手を取って恭しく口付けてくる。まるで花嫁に、あるいは恋人にするかのような仕草に炎司の胸は痛んだ。
前は啓悟と物心ついたときから死ぬまで、ずっと一緒だった。恋人であり伴侶同然で過ごしていたし、その気持ちは消えず今でも炎司は啓悟を愛している。
だがあの時とは状況が違う。
今は一緒にいたのは燈矢で、炎司が気にかけているのも息子の方だ。そして今度こそこの子のために生きると誓ったのだから、今更変えることなどできない。どうにか啓悟を説得して、燈矢の元へ戻らねばと焦ってしまう。
啓悟が運転席を出て、助手席の扉を開ける。手を差し出してくる様はファンが見れば黄色い悲鳴が上がるだろうが、炎司は緩く首を振って拒絶した。
「手を借りる必要はない。自分で歩ける」
「オレがあなたを離したくないだけですよ。炎司さん、オレに運ばせてください」
両手両足に絡みついた羽のせいか、意識しなくてもふわりと体が浮き上がる。抵抗する間も無く啓悟の腕の中に収まってしまい、逃げる術が全て断たれた気がした。
歩けるなら逃げすチャンスがあるかと、一縷の望みをかけていた。たとえ腕輪がはまっていても、壁にでもぶつければ壊れて多少でも炎が使えるようになるかもしれないと。しかし抱えられてしまえば碌に動くこともできず、部屋まで運ばれてしまうだけだ。
「啓悟!降ろせ!」
「そんなに暴れないでください。壁にぶつかっちゃいますよ」
大声で叫ぶが、人気のない地下駐車場では不審に思う者もいない。そのうえ羽根が四肢を捉えていて、動かすこともできなくなった。駐車場を横切ってエレベーターに乗り込む。中に貼られたガラスに視線をやれば抱きかかえられて不満そうな自分と、幸せそうな啓悟の姿が映っていた。
啓悟の顔を見ると、今まで連絡しなかった罪悪感で抵抗する気力がなくなりそうになる。燈矢と啓悟が会うとまた諍いが起きるのは想像できたので、啓悟には連絡しなかった。それに遠く離れていても、ヒーローとして活躍している姿を見るだけで満たされていたのだ。啓悟もきっと今の人生に満足しているはずだ、自分が現れて波風立てるような真似などしないほうがいいとすら思っていた。
しかし出会ってみれば、考えていた以上に啓悟は炎司を求めていた。その気持ちがどれほど嬉しくて、どれほど苦しいものか。
だが啓悟は会ったばかりで感情に整理がついてないだけで、もう少し話をすれば気持ちにも区切りがつくかもしれない。生まれる前の記憶に、今の啓悟が振り回されなくてもいいはずだ。
それにヒーロー活動を続けている今の啓悟なら仲間もいるだろうし、何度かは熱愛報道なども流れたことがあった。そうやって誰かと特別な関係を築けるならば、炎司に拘らなくても生きていけるのではないだろうか。
二人でちゃんと話をしたなら、そのうち別の人にも目を向けられる日が来るかもしれない。
炎司が悩んでいる間にもエレベーターは上階に登っていく。途中で誰か乗ってくることもなく、14階のランプがついた階でドアが開いた。
「本当は10階がよかったんですけど、良い部屋が見つけられなくて」
赤いはねがヒュンヒュンと飛んで、鍵を持ってドアを開く。この部屋に入ってしまえばもう逃られないのではと思うが、どうやって抗えば良いかすら思いつかなかった。広めの玄関へと入り炎司を下ろすと、バタンとドアが閉まる。黒いスチールのドアの音がやけに響いた気がして、炎司は思わず振り返った。
「お帰りなさい、炎司さん」
閉ざされた扉に不安を覚えるが、腰を掴まれ腕を取られて歩くように促してくる。赤い羽根がまるで先導するかのように先に立ち、パチパチと明かりをつけて廊下の先のドアを開けた。
扉の向こうにはライトグリーンのソファーとガラス板のテーブル、大型のテレビが置いてある。すでに時刻も7時を回っており、外は暗く町の明かりが広がっていた。羽根が意思を持って飛び回り、ブラインドを閉めたりと忙しなく動き回っている。
左手にキッチンと二人がけのテーブルセットが置かれていて、グレーのカウンターの上には籠の中に果物が入っている。それらを眺めながら、初めて入った部屋なのになぜか既視感を覚えて足が止まりそうになった。
「何か飲みますか?車に乗ってて疲れたでしょう?座ってください」
啓悟が紙袋を手にキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。炎司は羽に促されるまま数歩歩いて、右手にスライドドアがある事に気がついた。
自分は、もしかしたらこの向こうの部屋を知っているかもしれない。来たこともない部屋なのに、そう確信めいた事を思ってしまった。
たぶんこの白いスライドドアの向こうには、ベッドが置いてある。大き目のクイーンサイズで、ベッドボードは黒色だった。左側にサイドランブが置いてあり、炎司が本を読む時に使っていた暖かな色が脳裏に蘇って。
「オレが夕食作るんで、もし風呂に入れそうなら先に入ってください。スウェットはクローゼットにありますよ」
ガラステーブルにミネラルウォーターの入ったコップを置き、羽でスライドドアを開ける。暗かった部屋の中はパチリと明かりがつくと部屋の中が見えて。脳裏に浮かんでいたベッドとサイドランプが同じように置かれていたことに、動くこともできなくなった。
「ぼーとして、大丈夫ですか?やっぱり疲れてます?」
啓悟が心配そうに隣へと寄ってきて、いつものように炎司の髪や頬に口付けてくる。この部屋の中で啓悟を見上げると、まるで昔使っていた大阪のセーフハウスにいるように思えて。驚きで、思考が追いついてこない。
なぜこの部屋は、こんなにも昔住んでいた部屋に似ているのか。
ここではないこの部屋で、忙しい合間を縫って逢瀬を繰り返した。妻と離婚して独り身となった炎司に、啓悟はずっと寄り添ってくれた。何度も「オレに関わって時間を無駄にするな」と忠告したのに、笑って「オレが炎司さんのそばにいたんです」と静岡と福岡の間の大阪に部屋を借りて、鍵を押し付けてきた。最初はこれはお前のセーフハウスだろうとごねていた炎司も、私物が増えるにつれて時間が取れればこの部屋で過ごすようになった。
炎司がヒーローを引退する頃には、啓悟が後進に事務所を譲って静岡に引っ越ししてきたけれど、最初に二人で住み始めた部屋だからか思い出は多かった。
啓悟はいったいいつから、この部屋で炎司を待っていたのだろうか。
そう考えると目の前が滲んでくる。
一人で家具を整えてあの広いベッドで一人寝ていたのかと思うと、胸が痛くて涙が溢れそうになる。いつ帰ってくるとも分からない炎司を待ち続けていたのかと思うと、一人にしていた事への悔悟の念で苦しくなってくる。
啓悟に会いたかったし、声を聞きたかった。その温かな手や柔らかな羽に触れたかったけれど、炎司にはどうしても、燈矢を一人にする事はできなかったから。
「・・・すまない、啓悟。本当に」
「え?・・なっ、泣かないで下さい!オレはあなたが、こうやって居てくれるだけでいいんです」
啓悟は炎司の腰を抱き、涙をこぼす顔を肩へと押し付けた。そして「愛してます、炎司さん」と口にし慣れた言葉をもう一度囁いた。
食事は相変わらず鳥肉料理だった。燈矢との暮らしでは食べることのなかった鶏肉の味は、満足いくものだった。もしかしたら啓悟の腕がよかったのかもしれないし、または啓悟が目の前にいるから浮かれているのかもと、思わなくはない。
炎司が啓悟に話せる事は少ない。せいぜいどこに住んでいて、どんな学生時代を過ごしていたかを口にしただけだ。そして炎司の家族と旅行に行った土地の話や、祖父母の話を少ししただけだった。
学生時代はどこにでも燈矢の姿がチラついているためか、啓悟は深くは聞いてこなかった。そして部活や放課後は、どうしても燈矢との事しか思い出せなかったので炎司としても話題を選びづらかった。
啓悟の今の両親は、母親が羽を持った個性らしい。子供の頃は母親から飛び方を習ったと言っていたが、すぐに母親よりもうまく羽を扱えるようになったと言った。そして両親とも良い人だとも、どこか後ろめたそうに告げた。
啓悟の話を聞けば聞くほど、まずいなとは思った。このままでは啓悟から離れがたくなってしまうと、考えるまでもなく焦りが生まれてくる。
相変わらず啓悟は一から十まで炎司の事を考えて行動しているようだった。服も食べ物も、炎司が好きなものは全てこの部屋に揃えられていた。よく通る優し気なその声で炎司を呼び、大事に包むようにマンションの室内でも羽で炎司の後をつい回った。
風呂に入る時も「やっぱり一緒に入りますか?」と聞かれたが、それだけは断固として断った。そして一人でシャワーを浴びながら、体に残る噛み跡や鬱血をみつけては燈矢のことを思い出した。
時刻はすでに12時を回っていて、燈矢がバイトから帰ってくるのにあと二、三時間しか猶予がない。帰ってきた時炎司がいなければ、どう思うだろうか。ランニングにでも出たと思ってくれないだろうか。
いやその前にドアを熱で溶かしてしまったし、スーパーの袋はそのままだ。それに、カバンをアパートの外へ落としてしまった。携帯もカバンに入っていたから、燈矢からの連絡を取ることさえできない。
もし燈矢が、啓悟が来た事に感づいたらどうなるだろうか。さすがにこのマンションの場所までは分からないだろうから、悪ければ啓悟を知っていそうなヒーローを襲うかもしれない。
一般市民がヒーロー襲うなど、操られてもいないかぎり犯罪となってしまう。しかも個性登録もしていないのだ。いくつもの罪状が重なれば、さすがに実刑は免れない。
やはりはやく燈矢の元へ戻るか、無事だと連絡を取らないと。
「炎司さん、疲れましたか?もう寝ます?」
風呂も食事も済むと、啓悟はいつものように炎司に触れたがった。ソファーに並んで座り、ニュースやバラエティの流れるテレビからよく視線を外しては炎司を眺めていた。髪を撫でて頬に口付け、幸せそうに手を握った。炎司には抗うことができなかったし、なにより啓悟に触れていることに喜びを感じていた。よくないとは分かっていたけれど、どうしても顔を覗き込まれて微笑まれたら安堵するし、愛おしそうに手を握られると嬉しかった。
そして啓悟の様子に胸が温かくなったぶんだけ、燈矢の事を考えると頭が冷えていった。
「啓悟、頼むからオレを帰してくれ。オレがいないと燈矢が何をするかわからない」
啓悟は目を瞬かせ、そしてようやく思い出したかのように「あぁ」と言った。まるで今の今まで、燈矢の事を忘れていたかのような口振だった。
「炎司さん、燈矢くんと一緒にいるのはあなたにも良くないですよ」
「しかし燈矢はオレがいないと何をするか分からない!オレにはあの子を見ている責任があるんだ!」
「もう彼も二十歳こえてます。大人ですよ。炎司さんが責任をとる必要はないと思いますし・・・」
啓悟は炎司の首筋へと手を伸ばして、するりと触った。そこには、燈矢の噛んだ痕が残っていたはずで。
「子供はこんなことしません」
思わず体を後へと引いた。啓悟の温かな手は滑り落ちて、・・しかし啓悟は気にしてないのか笑みを浮かべているだけだ。
「他の場所はもっとひどいんじゃないですか?オレはあなたにそんな真似しません。あなたを守りたいだけです」
「・・まて・・啓悟。・・・それ以上は」
炎司は後へと下がるが、啓悟がその距離をつめてくる。炎司の好きな優し気な目元と、安心させてくれるその手を伸ばしてこようとする。けれどこれを受け入れてしまえばもう、炎司には抗う気力がなくなってしまいそうで。
テレビからはタレントの笑い声が聞こえてきた。少し前までは燈矢と一緒に同じような番組を見ていたというのに、どうして今はこんな遠くにいるのだろうか。たとえどんな目にあったとしても、燈矢から離れるつもりなどなかったのに。
プルルルルっと 携帯の着信音が鳴る。
その音はさすがに気になったのか、啓悟は羽で自分の携帯を引き寄せる。そして目の前で名前を確認するとしばらく考え込むように眉を寄せてから、チラリと炎司を見やった。
「すいません。SKからみたいで」
「いや。出ろ。職務だろう」
どんな事よりもヒーローの仕事が最優先だと分かっているようで、啓悟は素直に頷いた。その様子を見ながら、もし緊急の仕事が入れば一人になれるかもしれないと思った。
風呂に入る時も腕輪を外してもらえなかった。しかし啓悟がいなければ、これを壁にでもぶつけて壊すことができるかもしれないと。
外にさえ出られれば、きっと燈矢の所へ戻れるはずだ。
「ホークスですけど、どうしたの?緊急?」
『お父さんはテメェのとこか?』
逃げる算段をしていた中で聞こえてきた声に、頭の中が真っ白になる。この着信はホークスのSKのものだと言っていたのに、聞こえてきた声は確かに息子のもので。
燈矢、と名前を呼びそうになったけれど我慢した。もしここで啓悟の所にいる事がバレると、状況が悪化するのは明らかだったからだ。
炎司は啓悟の腕を掴んで、黙ってくれるように頼んだ。啓悟もそれは察したようで、炎司の背中に手を回して「心配しないで」と小さく答える。
「ところでこの携帯、オレのSKだと思うけど、オレの事務所にいるのかな?SKに何かした?」
『お父さんはそこにいるのかって聞いてるんだ。テメェが連れてったんだろう』
「・・・君のお父さんって、誰か知らないんだけど。間違いってことはない?」
『今からテメェの事務所に戻って、SK供を殺してもいいんだぜ』
「やめろ!燈矢!」
思わず叫んでしまい、啓悟も驚いたようだった。宥めるように背中を撫でてくるが、とても落ち着いてはいられない。
SKに手を出したのだろうか。もし怪我を負わせたなら、傷害で捕まる可能性もある。いや、燈矢のことだから捕まるくらいなら抵抗するだろうし、被害が拡大するだけだ。もう何もしないでくれと祈るしかできない。
『やっぱりそこにいたな、お父さん。ヒーローに誘拐されるなんて訴えてやりゃいい』
「今から帰るから、大人しくアパートで待ってろ!分かったな!」
「ダメですよ炎司さん。あなたの家はここなんだから」
啓悟が背中に回している腕が強くなる。
確かにこの部屋は前に住んでいた二人の部屋と同じだけど、自分がいまいるべきはここじゃない。これ以上問題を起こす前に燈矢のところへ戻らなければ。
「啓悟っ、オレはここにはいられない!」
『場所を教えろ。今すぐそいつを殺しに行ってやる』
「燈矢!ダメだ!大人しく家にいろ!」
『お父さんがかえ』
ブツリと通話が切れる。なぜと思っている間に、啓悟に腕を掴まれてソファーに押し倒された。両手を掴まれ頭上でまとめ上げられて、炎が使えれば燃やせただろう羽が腕にまとわりついて動けなくなる。何度か起きあがろうとするけどダメで、戸惑いながらも見上げればいつもは愛嬌のある顔が張り付いたよいに強張り見下ろしていた。
「・・・啓悟」
その表情は炎司が数えるほどしか見た事がなく、憤りを抑え切れないときに浮かべていたものだ。
「どうしてこんな目に遭ってても、燈矢くんの元へ行こうとするんですか」
スウェットの裾から温かな手が入り込む。まるで愛しむようにゆっくりと肌の上を滑り、いくつかの傷の上を通ってそのヒリツきに炎司は顔を顰めた。
やめろと言いかけ口を開いたが、自分には向けた事がなかった表情に言葉は出なくて。
「こんなに酷い痣になってるのに、我慢しないでください。オレがあなたを守るから」
啓悟が言っていることが本心なのはわかる。しかし今の炎司には、啓悟に守ってもらう資格さえないはずだ。この広い部屋で長い間一人にしてきたし、炎司は燈矢を選んだのだから。
なのにまだ啓悟は炎司の事を思ってくれているのが辛くて、受け入れそうになるのを堪えるために視線を伏せた。
携帯がまた音を立てる。
どこにいるかも聞けないままだったので思わずそちらを見やれば、羽で浮かぶ携帯の画面には燈矢が映っていた。今度は音声だけでなく映像も映っているようで、その事に気づいて慌てて起きあがろうとしたが動けなかった。
これでは啓悟に押し倒されているみたいではないかと。しかし違うのだから説明しないとと焦ってしまう。
「啓悟!羽をどけろ!」
「炎司さん、愛してます」
とろりとした蜂蜜色の瞳が、炎司を見下ろしている。鼻先に顔を擦り寄せて、その唇が愛おしそうに頬や額へと落とされた。ボディソープの香りと緩やかに撫でてくる手付きは、共に暮らしていた穏やかな日々を思い出させた。
啓悟は炎司の様子を伺いながら、甘えるように擦り寄ってきてはベッドへのお伺いをしてきた。普段は炎司を言いくるめようとよく動く口も、こういう時だけは静かに熱の篭った瞳だけで訴えてきた。
炎司はその顔をよく覚えていて、愛しいと手を伸ばした日々が脳裏に蘇ってくる。でも今は、この腕を拒絶しないとならないのが辛い。
『そいつを燃やせ!お父さん!』
部屋に響いた憤った声に我に返った。
そして意味を理解して、動けずに啓悟を見上げたまま唇を振わせる。
「できない・・オレには」
『オレのためにそいつを殺せ!』
「できない!」
個性を制御する腕輪がなくても、啓悟を燃やす事など炎司にはできなかっただろう。もしかしたら威嚇ですらも、火を出せないかもしれない。いつも炎司を包み込んでくれたこの羽が燃えるなど見たくなかったし、なにより啓悟を愛していたから。
唇に口付けようとするのを顔を背けて拒否した。息子に見ている前でしたくなかったからだ。だが啓悟は悪戯を仕掛け時みたいに笑うと、顔を包み込むように手で触れてきて強引に唇を合わせてくる。
カサついた薄い唇は、何度もくり返し口付けていた感触そのままで。愛しいと視線で声で伝えてきた昔と同じものだ。
その事がひどく悲しい。
『ホークス。絶対に殺す。粉々にしてやる』
燈矢が携帯の向こうで叫んでいる。
こんなはずじゃなかった。
二人を会わせないように気をつければ、今度こそ三人とも上手く生きていけると信じていたのにどうして思い通りにいかないのだろうか。
燈矢が囁いた言葉が思い出される。「お前の願いが叶った事があったか?」と嘲った声が、頭の中で繰り返される。
これでもいい父親になろうと、努力していたつもりなのに。
「お前が、オレと同じ気持ちを味わってくれて嬉しいよ」
啓悟は顔を上げて燈矢見た。
画面の向こうの燈矢は一瞬動きを止めたけれど、すぐその顔は嘲笑へと変わる。そして心底可笑しそうに笑い出した。
今まで一度だって見たことのない、楽しそうな笑顔で。
『はははっ!そうだったな!ならオレがテメェを殺すのも仕方ねぇよな。だがテメェはオレが粉々にして海にばら撒いてやる。絶対にお父さんにはやらせねぇ』
「オレも負ける気はないよ」
通信はどちらともなくブツリと切れた。ここから逃げ出せるならまだ燈矢を止められるかもと腕を動かそうとしたが、何枚もの羽が張り付いていて指先が動くだけだった。
啓悟はめくれていたスウェットの裾を直して、羽で炎司を起こした。まとめ上げられていた腕を撫でて、「痛かったですか?すみません」と先ほどまでの冷たい口調ではなく、炎司に向ける柔らかなものへと変わっていた。
「これを外してくれ。燈矢の所へ帰らないと」
炎司は何度目かもわからない懇願をしたが、啓悟は擦れて赤くなっている腕を見て悲しげに目を細めるだけだ。そして「後で包帯を巻くか、擦れないようにしましょうね」とだけ言った。
「燈矢くんのことが心配なんですね。大丈夫ですよ、すぐ見つかると思います。・・会いに行く時は、一緒に行きますよ」
どういう意味だとはさすがに聞かない。きっと啓悟は、燈矢が傷害かヒーローへ対する職務妨害で捕まると思っているのだろう。啓悟のいう「大丈夫」は、燈矢が目の届くところで大人しくしていてくれる事だ。それは炎司の望む未来にはほど遠いけれど、ここからどう動けば良いのかすらわからなくて。
たぶん啓悟はまだ怒っている。
炎司が記憶の彼方に押しやってなかった事にしていたのに、燈矢と何事もなく生きていこうと思っていたのに、ただ一人だけ忘れられずにいたのだろう。
「まだ怒ってたのか」
「当たり前です。炎司さんが許しても、オレは許さない」
明かりのないコンクリートの建物。瓦礫の積み上げられた埃っぽい地面。肌の上のを這い回る冷たい指先と、己の罪を問い続ける怨嗟の声。傷付いて流れた血の匂いと、無理やり押し広げられた内臓の痛みの吐き気を我慢するのでいっぱいだった。
それでも自在に操れた炎で抵抗するでもなく受け入れていたのは、ぜんぶ自分のせいだと分かっていたからだ。業火の中で消えた息子には、自分を裁く権利があると思っていたから。
だからあれは啓悟が怒ることではないのに、優しい恋人は今でも償いをさせたいらしい。
「あんなこと、忘れてくれ」
「そうですね。これで終わりますよ」
炎司は顔を俯けて両手で顔を覆った。泣きそうだと思った。泣いているのかもしれない。
息子には幸せになって欲しかった。啓悟にはヒーローとして生きて欲しかった。いったいどこで間違えてしまったのだろう。もう取り返しがつかない。
啓悟は温かな手を背中に回し、いつものように柔らかな羽で炎司を包み込む。肩に顔を押し付けられて、髪を撫でられていると安心できた。炎司が塞ぎ込んでいる時にする、啓悟の癖だ。
でも今は悲しいばかりで、啓悟を抱きしめることもできないまま目を伏せた。
以下雑記。
このあとしばらくホが軟禁して、燈矢のターンと啓悟のターンで終わりかな。
続きあんまり考えてないし、次戦闘だなぁと思うとね。
燈矢くんは炎司さんに家族でなく恋人枠へ入れてもらえたら上手くいったかもなぁと。うん年たっても家族枠で燈矢、恋人枠で啓悟がそのまま居座ってたから急に出てきた男に持っていかれそうになる。でも燈矢くんも家族枠から出る気ないしなー。あと炎司さんが時間経っても恋人枠から啓悟を外さなかったから。一度はお父さんに恋しようかと思ったけど、ダメだったんだよ。
まぁ私メインホ炎だし。
つか少女漫画かな。
炎司さんは火属性で一番強いから、ほんとは鍛えて火力で二人ねじ伏せたほうが早いけど、大事な人が絡むと思考停止するからね。そこが受けなんだけど。
息子がお父さんをお父さんの昔の恋人にNTRたって、何度考えても楽しい。まぁ息子もお父さんをNTRとしたからやり返されたんだけどね!