安らかなれ、マイ・レディ②ダックワース家の後見人 重厚な扉を開けると、古びた木の香りと紙の匂い。ずらりと並ぶ書棚、書棚、引き出し、書棚。本日、伊黒小芭内と不死川実弥は、ロンドンの登記所に来ている。
伊黒は端正な姿勢で書棚を眺め、指先で埃を撫でるように帳簿を手に取る。
「おい…この中から、ダックワース家の資料探すとか、本気か?」
不死川が腕を組んで、呻いた。
「もちろんだ。依頼を受ける前に、ケイティの言うようなダックワース家が実在するかどうかくらいは、確かめるべきだろう」
伊黒が、スラリと引き出しを開けた。
「…ケイティは嘘ついてるようには思えなかったぜェ、狼の鼻にかけて」
不死川が、ケフ、と小さなクシャミをした。敏感な鼻には埃がキツい。――勘弁してくれ!
「…どうだかね。レディと手を握り合って、鼻の下を伸ばしていた狼氏の判断など」
ちろりと、金と碧の瞳が意地悪な光を宿す。
「はぁ!?あれは、そんな意味じゃねェ!じゃぁ、お前得意の占いでチャチャッと確かめりゃいいだろ!?」
なんのためのホグワーツ卒だ!と不死川が吠える。
「無粋だな、不死川…人間界には、人間が積み上げた緻密なシステムがある。魔法理論と同じくらい美しいそのシステム…使ってみたいと思わないかね?」
今度は何を言い出すのやら。不死川が、鋭い三白眼をパチパチとまたたかせた。
「素晴らしい…ここに、英国の家屋の全てが詰まっているんだよ…ゾクゾクしないか?」
伊黒が低く呟く。
「しねェよ!!」
不死川は、天井を仰いで声を張り上げた。
だが、まぁ、不死川がグスグス鼻を鳴らしてクシャミばかりするのを見かねたか、伊黒が、スッとジャケットの懐からタロットカードを取り出した。4枚のカードを選び出し、手の中から空中へ巻き上げる。くるくると回転していたカードは、やがて、所定のポジションに収まった。北には探索に長けた「隠者」。東に辛抱を表す「吊られた男」、西に目標に突き進む「戦車」を置いて、バランスを取る。南には妥協を許さず高い目標を保つ「星」。この配置は、いわば、目指す資料に伊黒を導く馬車のようなものだ。
「隠者」が薄紫に発光する。開けるべき書棚が次々に開いてゆく。「吊られた男」が発光すると、光は書棚の周りをぐるぐると巡り始めた。数周の後、「戦車」と「星」が発動する。幻炎が奔り、書類を取り出す。その勢いを「星」が統制し、選び抜いた文書たちを伊黒の前にふんわりと積み上げていく。
ヒュゥ、と不死川が口笛を吹いた。実務家の不死川だが、伊黒の魔法が優美なことはわかる。趣味の良い絵柄のカード、その光の軌跡。それは寒気がするほど美しく、――美しすぎて、いっそ不吉な毒を帯びている。
「星」の本領はこれからだ。「隠者」と協力して、伊黒の視界に、目的のダックワース家に関するデータを示していくのである。古い羊皮紙からごく近い年代の書類まで。滲むインクの筆跡、華麗な印章、緻密な絵図たちが、発光し、沈み込み、伊黒の脳内に流れ込んでくる。やがて、ふ、と伊黒が笑みを浮かべて、こめかみをつついた。
「――完了。ダックワース家の始祖、家系図、履歴、屋敷の地図から見取り図。全て、頭に入った」
ひくりと不死川の頬が引き攣った。スリザリン生の魔法はここがエグい。ただエレガントなわけがないのだ。
「おえ…脳みそ大丈夫かァ?…知恵熱、出るわァ」
「出ないね。グリフィンドールと一緒にするな」
毒を吐きながら、伊黒がカシミアのロングコートをふわりと羽織る。
「次は?」
不死川もツイードのショートコートをざっくり着込んだ。
「トム・ダックワース。ダックワース家の後見人だ」
霧の残る、ソーホー地区の裏通り。赤煉瓦の小ぶりなホテルが建っていた。アイアンの手すり、古風なノッカー。
「ふむ…趣味は悪くないようだ」
伊黒が階段に足をかける。
「本気かよ。表通り見ただろォ、劇場に酒場。このホテルも、おおかた、庶民御用達。遊び人どもの寝ぐらだぜェ」
不死川のブツクサを背に、伊黒がノッカーに手をかける。せっかくのライオンのノッカーは、取り付けが緩んでいて、上手く鳴らなかった。しばし待っても、誰も返事する様子はない。
「コンシェルジュはいないのかね?」
伊黒が小首を傾げて、不死川を振り返る。
「知らねェよォ。俺らのタウンハウスみたいに“完全自立”か、ノッカーがバカになってるか、どっちかだろォ」
不死川の返事に、伊黒が肩をすくめて、重々しい雰囲気のドアを押し開けた。
エントランスの赤い絨毯は、端が少し剥げている。不死川が目を走らせて、ため息をついた。口調や態度は荒々しいが、意外と細かいところを見ているのだ。家事向きかもしれない。
カウンターの下から、フロックコートに身を包んだ大柄な禿男が顔を上げた。
「驚きだ。人がいた」
伊黒が小さく呟いてから、落ち着いた声を押し出す。
「失礼、我々は最上階スイートのダックワース氏に…」
このホテルの“コンシェルジュ”は慇懃に振る舞う気などないようだった。両手の荷物も置かず、軽く顎で階段を示す。
「この階段で“スイート”はねェだろ。“屋根裏部屋”の間違いだったりしてなァ」
はは、と不死川が皮肉っぽく笑って、鞄を肩に掛け直す。建物の外見からは意外なほど安普請な階段が軋む。伊黒の、軽やかに翻るカシミアの裾は、壁紙の端から漆喰が覗くような安っぽい廊下にいかにも不似合いだ。少し埃を含んだ赤絨毯を進むと、奥からピアノの音と笑い声が漏れ、夜の遊び心が溢れ出してくる。廊下を通り抜けながら、伊黒は静かに鼻を鳴らし、観察する。
「なるほど、遊び人の夜遊びを謳歌する“サロン”といった風情か」
「“サ〜ロ〜ン”、かよォ」
揶揄うように声を上げた不死川の視点が、一点に止まった。視線の先には、長い髪を背中で束ね、ダークスーツを肩に引っ掛けて着崩した男が、胡乱げな目を返していた。
「…誰だよ、君ら。誰かの友達?」
スッと不死川が警戒の色を浮かべて、伊黒を背に庇う。
「我々は、“蛇と狼の魔法探偵事務所”の伊黒小芭内と、こちらは不死川実弥だ。君は?トム・ダックワース氏かね?」
伊黒がゆったりと名乗る。トムは、甘苦い笑みを浮かべた。いかにも、夜の妖精に大切なものを抜き取られたような様子だ。
「確かに、ダックワースは僕だけど。“探偵”?何の用だい?面倒なら聞かないよ、帰ってくれ」
伊黒が鼻白んだように目を細める。
「君が後見している、ブラックフェン村の屋敷についてだ。我々は、ケイティ・リトル嬢から依頼を受けて、ダックワース屋敷の怪異について調べている」
「…ケイティ?怪異?知らないよ!何だい、君たちは!!」
どさりとトムはソファに腰を下ろした。客人の2人に椅子を進めるでもない、茶も酒も出す様子はない。
「20代くらいの…ダックワースを“元の主家”だと言っていた」
すなわち、礼を守っても無駄なようだと察して、伊黒と不死川が、その辺の椅子に腰を下ろす。自由な“ソーホー式”だ。
「は!じゃぁ、元使用人の嫌がらせだ!!あの屋敷を継いだ時に、全部“整理”したから」
トムが、物憂げに両手を広げた。
「“継いだ”?後継は、ケイト・ダックワース嬢…今年で12歳になると登記所で見たが」
伊黒が小さく首を傾げる。さらりと黒髪が揺れた。
「うー、ああ、言い間違いだ」
トムが顔の前で手を振った。
「ケイトは、ブラックフェン村に住んでいるのかァ?後見人と言やぁ、親代わりだろォ。自分だけロンドンに来て、そんな子供が使用人もつけずにどうやって暮らしてるんだァ?」
不死川の瞳がじっとトムを射抜く。
トムが目を逸らした。呼吸は浅く、冷や汗が首筋を垂れる。
「ケイトは…そう、寄宿学校に行ってるんだよ!」
「どこの?学校名は?」
もはや、伊黒の声はひやりと冷気をまとっている。
「スイスだ!スイスの…音楽院だ。あのあたりは、山岳の空気が教育にいいと聞いたから」
トムは、腕を組み、防衛姿勢で2人の顔を交互に窺っている様子だった。
伊黒と不死川が、パチリと視線を合わせる。頷きあって、トムに形ばかりの礼を述べて、ホテルを後にした。
ベイカー街外れ。赤煉瓦3階建てのタウンハウスは、ソーホーの派手なホテルに比べれば質素なくらいだが、しっくりと肌に馴染むような温かみがある。
伊黒はシャワーを浴びた後、ゆったりと大きめのガウンに身を包み、暖炉端で思索に耽っていた。そこに、シャワーを済ませた不死川がわしゃわしゃと頭を拭きながら現れた。
「――不自然だ。いくら、トム・ダックワースが見かけばかり貴族気取りの、バカだとしても」
酒でも飲むかァ?と尋ね返されて、伊黒が思索に眼差しを揺蕩わせたまま、頷く。
不死川が、サイドボードからグラスを2つ出した。
「“バカ”たぁ、スリザリンのお貴族様にしちゃ、大した言いっぷりじゃねぇか」
ふん、と不死川が鼻を鳴らす。では、不死川から見たら?トム・ダックワースはバカもバカ、大バカ認定だ。庶民の目から見たって、ありゃ無責任すぎる。
「俺だって、罵りたい気になる時くらいある」
――毎日、エレガントに罵ってないか?
不死川が、自分のジンをグラスに注いでから、動く様子もない伊黒を見やり、サイドボードを振り返って、チッと舌打ちした。こいつの飲む寝酒はわかっている。分量もわかっている。給仕してやるのは執事みたいでいまいましいが、不死川は、面倒臭い迷いごとはさっさと手放したいクチだ。ジンの瓶を仕舞う手で、伊黒好みのポートワインを取り出した。
デキャンタに半分。グラスにはあらかじめ1杯。不死川が、サイドテーブルにポートワインを置き、どさりと伊黒の隣に座り込む。
「どうしたァ?なんか、引っかかってんだろが」
ジンを煽ると、カッと腹が熱くなった。
「第一に…家を“継ぐ”と“後見する”。間違えるものか?」
「どう発音ミスしたって無理だわなァ」
不死川の言葉に頷き返して、伊黒が甘いポートワインを舐めるように飲む。
「第二に…後見している姪の学校名を、一文字たりとも思い出せない?」
不死川が、普通はねぇな、と肩をすくめる。
「第三に…あの通り、辞めたお屋敷を案じるほど、忠誠心にあふれたケイティのことを全く覚えていない…」
伊黒が、ことりとグラスを置いて、不死川を振り返った。不死川がニヤリと笑って見せる。
「行くんだろォ、ブラックフェン村…」
「ああ、トムがあの様子なら、村から情報を集めるしかないだろう。それに…」
――ここには、事件の匂いがする。
伊黒の襟元の白蛇が大きくうねる。“蛇”の瞳に光が入り、“狼”がグッと伸びをした。
〈つづく〉