Lost Forest 1 呂蒙は決して、獣の手だとか、獣の足だとか、獣の耳だとか、獣の尻尾だとかに驚いたわけではない。
そも、彼が住むこの国には、数多の人ならざるもの───獣人と呼ばれる存在が、人間社会に溶け込み暮らしている。森で少女と静かに過ごす美形の人狼、分刻みのスケジュールをこなすワーカーホリック気味な兎、美しいものを愛でる心優しき怪人。もはや獣ですらない者もいるが、そこはまあご愛嬌だ。
そういった面々と付き合いがあるので、雨降る森の中で猫が行き倒れていることなど、呂蒙にしてみればそう大層なことではなかった。
ただ、その猫が、切れかけの電灯のように、その身を点けたり消したりしていることに、驚いただけなのである。
Lost Forest 1
牙を剥き出しにして威嚇する猟犬二匹を宥め、呂蒙は猫のそばに腰を据えた。
猫はこの辺りでは一等大きな樹の前で、体を横たえていた。大きな耳、大きな手足、大きな尻尾、凶器のような長い爪と長いひげ。胸元や手足はふかふかしていそうな赤い体毛で覆われている。目元と口元には、朱でも引いているのだろうか。閉じられた目元は細まり、口元はにんまりと笑っているようにも見える。
珍妙なその姿は、構造的には人間の男性とそう大差ない。鍛え抜かれた肢体と、体に残る大小様々な傷跡からして『一般的な』とは言い難いが。
呂蒙が長々と観察を続けている間も、猫の体は一定の感覚で点滅を繰り返した。刃物か何かで傷つけられたのだろう。傷口はよく見えないが、腹からは止めどなく鮮血が流れ出している。
それにしてもこの猫、どうにもおかしい。
おかしな点しかない、と言われればそれまで。だが、これだけの傷を負っているというのに、猫の呼吸は異常なまでに正常だ。ただ眠っているだけのようにも見える程に。
人間の感覚と、獣人の感覚とでは確かに差はあるのだろうが、ここまで平然とできるものか。
呂蒙が思案していると、近くに待機させていた猟犬達が、恐る恐る寄り添ってきた。
「…ああ、すまないな。考えていても仕方ないか」
頭を撫でると、二匹は嬉しそうに鼻を鳴らす。
(このおかしな猫も、可愛げがあれば良いが)
間違っても人喰い猫ではないことを願いつつ、呂蒙はすやすや眠る猫を抱き起こした。
傷の手当をするため、近くにある小屋へ向かうことにした呂蒙は、早々に困難に行き当たっていた。
呂蒙とそう変わらない図体から言って、運搬向きでないことは明らかだったが、驚くことにこの猫、重さが全くないのである。
言うなれば、空気を持ちあげているようなものか。触れた感触はあるのに、質量が伴わない。その不可思議な感覚は、この際好都合だと捉える方が建設的だ。
そういうわけで、重量の問題は一切ない。
「くそ……一体どうなっているんだ、こいつは」
にも関わらず、呂蒙が舌打ちしそうになる理由が、この猫のもう一つの特異体質とも言うべき点だった。
ゆったり点滅を繰り返す猫の体は、現われている時は触れられても、体が消えればまるで砂か水かのように零れ落ちてしまうのだ。
再度抱き起こしてみるものの、支えた体が消えてしまうと、呂蒙の手をすり抜けて、猫の体は地に伏す。先程からずっとこの繰り返しだ。
何度も呂蒙の手から零れ落ちた猫は、跳ね返った泥で見るも無残に汚れていた。樹の幹や地面に頭を打ち付けているというのに、うんともすんとも言わない。憎たらしいまでにすやすやと眠り続けている。
いっそ捨てて帰りたい。丈夫そうだ。捨て置いたところで、特に問題ないのでは。
悪魔の囁きが何度も何度も頭を駆け巡る。その度、呂蒙は頭を振って邪念を消し飛ばしていた。
ひょっとしなくとも自分より頑丈であることは確かだが、この長雨に晒され続けるのはよくないだろう。腹の傷もあることだし。猫だし。
とにかく、この雨を凌ぐために一刻も早く小屋に向かわなければ。
「……よし」
猫の腕を掴み、背中を支える。落ちる。
「まだまだ…」
もう一度。猫の腕を掴み、背中を支える。落ちる。
「……………」
猫の腕を掴み、背中を支えて、
「………………ダメだ」
落ちる。
続けて呂蒙が、膝からがくりと崩れ落ちた。
(どうする、人手を連れてくるか? いや、何人いても同じか。人の手がだめなら手押し車か何か……ダメだ。乗せるまでに消えてしまう。第一、)
消えかけの猫の運搬など、誰が信じるのか。
堂々巡りが止まらない。一向に解決策まで辿り着けない。
頭を抱えて唸る主人を心配したのか、事の成り行きを見守っていた二匹の猟犬は、猫が纏う腰布を噛んだ。主人の真似のつもりなのか、ぐいぐいと猫を引っ張る。
(やはり、犬だな)
根っからの犬派である呂蒙は、愛犬達の行動に荒んでいた心が洗われる心地だった。目元がだらしなく垂れ下がる様は、すり抜ける猫を忌々しげに睨んでいた人物と同一だとは、とても思えない。
「……ん?」
和やかな表情で二匹を見守っていた呂蒙は、違和感に気づく。
猫を抱える時、呂蒙は猫の腕を掴み、むき出しの背を支えたそばからすり抜けていた。
それが、今はどうだ。
相変わらず体の点滅は続いているが、猟犬達が咥えている猫の衣服や装飾品は消えていない。
つまり、衣服や装飾品に覆われている部分を掴んで引きずっていけば、目的は達成されるのではないか。
試しに、呂蒙は猫の足首にかちりとはまっている足輪を掴んだ。
素肌を剥き出しにした上半身と、体毛で覆われた膝下は点滅しているが。
「おお……掴める、掴めるぞっ」
読み通り、掴んだ足輪は消えていない。すり抜ける心配はなさそうだ。丁度、持ちやすい箇所であるところも良い。
どうして今まで気づかなかったのか。これが未だに、阿蒙と呼ばれる所以か。
猟犬達のおかげで解決策を見出した呂蒙は、二匹を思う存分撫でまわし、今日の餌はちょっと奮発してやるからなと心に決めたのだった。
この時点で、『手負いの猫の治療』という当初の目的は、呂蒙の頭からすっぱり抜けきっていた。
『消える猫の運搬』という過程が目的となってしまった今、呂蒙の猫に対する扱いはなんともぞんざいだった。
猫の足を引っ掴んで乱暴に引きずりまわす主人の姿は、猟犬二匹の目に焼き付いて離れなかったことだろう。
当の猫は、呂蒙の苦労を知ってか知らずか、痛ましい傷跡の残る体に不釣り合いな程、口をにんまりと歪ませていたのだが。
面倒事が片付いて、足取りの軽い呂蒙が気づくはずはなかった。