団欒あれは、いつのことだったろう。
エルヴィンは脳裏に浮かんだ光景について思いを巡らせる。確か、トロスト区が襲撃を受ける少し前のことだ。巨人の正体が人間であるとの推測もまだなく、巨人になれる少年の存在も、まだ誰も知らなかった。このところあまりに多くのことが起きすぎて、そう遠い昔のことでもないのに隔世の感がある。
けっこうな人数で、焚き火を囲んでいた。薪のはぜる音が快い。エルヴィンは疲れのせいか、眠気を覚えていた。
「寝て起きたら巨人がいなくなっていたらいいんだがなあ」
ぼそりと零してからエルヴィンは周囲の様子に気がついた。眠気が吹っ飛ぶ。皆、一様に黙り、多くは目をぱちぱちとさせている。普段から心の中では考えていることだが、立場に相応しくない発言だった。
やがてペトラが口を開いた。
「エルヴィン団長でもそんなことをおっしゃるんですね」
そんなこと、とは。尋ねる前にペトラが話を続けた。
「非現実的な考え方は、なさらないかと思っていました」
「いや、長いつきあいの俺から言わせてもらえば、みかけによらず妄想家だ」
ミケは微笑を浮かべていた。
「そうなんですか?」
「そこそこ長いつきあいのつもりだけど意外だよ」
「寝て起きたら、巨人がいなくなっていた。そんな朝が来たとしたら、まず壁上配置の駐屯兵から報告があるのでしょうね」
モブリットがいたって真面目な顔つきで話の流れを変える。
「腰を抜かすだろうなあ」
「普通、トロスト区外壁周辺には、奴らがうようよしてるからなあ」
「たまたまいない、ということも考えられますから、壁上を増員し、大人数で索敵に当たることになるでしょうね」
「最終的にはピクシス司令の判断ですかね」
「我々調査兵団としては、駐屯兵団からの報告を受けた後、巨人がいなくなったかどうか確かめるための壁外調査を行わねばならないでしょう」
巨人が見当たらなくなった状況で自分たちが何をすべきか。皆、口々に話す。エルヴィンは、寝ている間に巨人がいなくなっていたらいいのに、と幾度となく考えてきたにもかかわらず、こうした現実的な方向の検討をしたことがなかったから興味深かった。
「巨人がいなくなったら、か」
ハンジだけ様子が違った。肩を落とし、暗い影をしょっている。元気がない。
「ちょっと、さみしい、よね。まあ確かに奴らは我々の仲間を大勢食った敵ではあるけれど、和解どころか意思疎通もできないまま、いなくなってしまわれるとね」
一同、反応に困っている。共感するものはいないようだ。
「でも、もし巨人がいなくなったとしたら、我々は、遠くまでいける。そうだ、どこまででも行ける。野営をし、何日もかけて、うんと遠くまで。そうしたら、これまで会ったことのない巨人に巡り逢えるかもしれない」
「いや、ハンジさん、巨人はいなくなったという仮定の話なんですが」
「意思の疎通のできる巨人と会えるかもしれない。会話ができたりとか。友好的な巨人と私は巡り逢い、その肩に乗せて貰ったりとかってこともあるわけだ。どうしよう、ハミガキ手伝ってとか言われたら」
ハンジは、従来の巨人がいなくなった世界で未知の巨人と巡り逢い交流する話を繰り広げた。
「妄想家として、ハンジには完敗だな」
エルヴィンは苦笑いをして、困っている様子の一同に話を振る。
「さて、壁外調査によりもう巨人はいないと確認できたら何をする?」
「酒盛りをやろうぜ!」
「ゲルガーらしい。しかし、酒盛りなら今でもやっているじゃないか」
エルヴィンが指摘すれば、ゲルガーがやや大げさにかぶりを振る。
「だが決定的な違いがあることを忘れちゃいけねぇ。巨人のいない世界では俺達は明日の朝には巨人の襲撃があるかもしれねぇとかいうことを心配しなくていいんだ。今の世界じゃ、どれだけ飲もうと、酔いきれねぇ。壁の外のことが心配だからな。だが巨人のいない世界でなら俺達は心ゆくまで酒を楽しむことができるんだ。何の心配もなく酔える!」
「ウォール・マリアを取り戻すのみならず、マリア外の土地も耕作可能になれば、ぶどう畑を増やして、ワインなんかも増産できそうだね」
「畜産も盛んになる。肉が食えるぞ」
「うまいチーズをつまみにワインとかもいいねぇ」
酒の話でひとしきり盛り上がった。
「皆、まずは酒盛りか?」
エルヴィンはまだ発言していない面々に目を巡らせる。
「親を旅行に連れていきたいですねえ」
「しばらく実家に帰りますね。ゆっくりします」
「洋服とか買いにいきたいな」
「芝居を見にいったりとか」
「ケーキとか食べたいなあ」
「俺はゆっくり紅茶を飲むぞ」
「兵長、ご一緒します!」
「私も!」「俺も!」という声が続く。
「今でもできないわけではないが、最前線での兵士という立場では難しいことは多いな。巨人のいない世界ならではのやってみたいことがある者は?」
「だから未知の巨人を探しにいくことだよ」
「聞いてました? 巨人のいない世界だって」
「自分は、遺跡を探したいですね。人類が壁の中に籠もる前の暮らしを知れたら」
ずっと黙っていたグンタが口を開く。
「人類の歴史が紐解かれるな」
エルドが乗り、ミケがさらに話を広げる。
「歴史書は喪われてしまったというが、着の身着のまま逃げるしかなかったから、書物などは壁の中までは持って来られなかったということだろう。巨人は書物を食うわけではないから、どこかには、残っているんじゃないか。かつての街や都市、図書館なんかが見つかれば、歴史書もあるはずだ。すっかり朽ちてしまっていないといいが」
「無事な建物もあるはずですよ。巨人は人間がいなければ、建物を壊すこともないんですから」
「雨風に晒されて崩れてしまってないだろうか」
「環境次第で、保存状態のよい建物もあるはずだ」
「地図とか見つかるといいね。それを手がかりに外の世界を探検できる」
「書庫が残っているなら、酒蔵が残っている可能性もあるな」
「百年物の古酒か!」
「ちょっと、また酒の話に戻ってるよ!」
笑いが起こる。いつになく盛り上がったひとときだった。
あれからそう日が経たないうちにトロスト区に襲撃があり、事態が深刻化した。差し迫った状況下にあると当時は思っていたが、上には上があるものだ。比較的穏やかに過ごせた最後の時だったかもしれない。
残っているのは、確実なのはリヴァイ。ハンジも可能性がある。モブリットはこの最終奪還作戦に参加していたが、彼がもはや生きていないことを、エルヴィンは恐らくは虫の知らせというやつで直感していた。皆、いなくなった。皆、犠牲になった。いや、俺が皆を犠牲にした。俺も自らを犠牲にしよう。俺もまもなく君らのところにいく。
あの帰り道、リヴァイが馬を寄せてきて尋ねた。
「お前はどうなんだ?」
にわかには何の話だか分からず、エルヴィンは怪訝な顔をするしかなかった。
「巨人のいねぇ世界でやりてぇことだよ」
「どう思う?」
エルヴィンは思わせぶりに答えたものの、実のところ何も思いつかなかった。
あの頃は、思い出さないようにしていたからな。なぜ調査兵団に入ったかを。
今になって振り返るからこそ分かる。
巨人のいない世界でエルヴィンのやりたいことといえば、決まっている。人類は滅びていないと、確かめることだ。巨人がいなくなれば、巨人の跋扈する地の向こうにいる人類との邂逅が叶うはずだ。
その先のことはどうでもよかった。人類が滅びていないと確かめられたならそれで十分だった。肩の荷が下りる。
山積する問題があるかもしれない。紛争が起こる可能性もある。だがあまり興味がない。邂逅できた人類と交流したい気持ちもない。歴史書は誰かが持って来てくれたら読むかもしれないが、読まないかもしれない。そう、俺はザックレーに言われた通り、人類の命運がどうとか、さして興味がないのだ。知られまいと、ひた隠しにしてきたが。隠していることを俺自身が忘れてしまうほどに。
なあ、リヴァイ。今なら、こう答えるよ。
俺とお前で暮らすのはどうだ?
お前はどんな顔をしただろうな? 変な顔をしただろうな。おかしな奴め、と冷たい目を向けてきたかもしれない。言葉通りに捉えず、真意が他にあると疑ってきたかもしれないな。だが、まったく、言葉通りなんだ。
そこそこの街がいいな。あまり辺鄙な場所でも困るし、かといって都会も落ち着かない。
食事は俺が作ろう。掃除はお前に任せる。俺がやってもいいが、かえってお前の機嫌を損ねそうだ。俺は少々雑然としていようが気にならないが、お前は耐えられないだろうからな。本などはどこに何があるか分かってさえいれば床に積んであっても問題ないのに、お前はそれを許すまい。
なに、片腕でも料理くらいできる。工夫したり、片腕でもできる料理を作ればいいことだ。父の帰りが遅いことも多かったので、子どもの頃から食事を作ることがあった。訓練兵団の調理当番でも鍛えられた。お前の頬が綻ぶようなものを作れるはずだ。
パンケーキを焼くというのはどうだ。そう難しくなかったように思う。バターを乗せ、はちみつをかけよう。紅茶はお前がいれるといい。きっと合うはずだ。
通りを行き交う人の声や、馬車の音を聞き、世間のせわしなさを窺い知りつつ、まったく俺達ときたら巨人がいなくなったらやることがないんだからな、などと笑いあおう。
紅茶を口に含み、穏やかな顔をするお前を眺めていたい。
巨人のいない世界。いつか、そんな世界が訪れることもあるのだろうか。正直、そう興味はないが、もし人類がそんな世界に至れるなら、そこにお前が生きているといい。お前が穏やかな顔をして過ごせる世界であるといい。