月花前日譚 一月が明るい夜だ。はらり、はらり、仄紅い花弁がファウストの足元に落ちた。
桜雲街の大桜は月の光を好むが、大抵の妖怪も同様だ。ファウストだって例に漏れない。
ファウストはぼんやりと夜空を見上げていたが、不意に月に影が差した。雲ではなく、人影だ─それも、多数の。
連なる影の形から見て有翼種。同族かとファウストは顔を顰める。空を飛べる種族はいくつかいるが、こんな夜に月の光を遮るなんてどんな妖怪でも行儀が悪いと非難される行為だ。かといって、わざわざ注意しに行くほどファウストもお節介ではない。呆れた溜息をひとつ吐くだけで、自分も住処へ戻ろうとした、その時。
ガササッ!!
すぐ近くの叢から音がした。野生動物にしては何の気配もしない。不思議に思って音のした辺りを掻き分けてみると、ぽつんと黒っぽい物が転がっている。
ファウストは思わず手に取った。それは自然に落ちているような物ではなかった。──小さな陶器の杯。内側が見事な瑠璃色をしている、日常使いではない美術品だ。
「何故こんな物が…?」
ピリ、と生き物が近づいてくる気配にファウストが身構える。バサバサと騒がしい羽の音がファウストを取り囲んだ。
「てめぇ!そいつをこっちに寄越しな」
「は?なんの説明もなく寄越せと言われても」
「渡さねぇと痛い目みるぜ」
二人組の烏天狗がいきなり襲いかかってきた。向かってくる拳をファウストが咄嗟に妖術で弾く。はずみで片方がよろけて、もうひとりを巻き込んで揃って地面へ転んでいた。
「…言っておくが、正当防衛だからな」
「おいどうした?」
また新たな声が現れる。大きな翼で降り立った男は、二人組から「首領!」と呼ばれた。上背のある男だ。訝しげにこちらを睨む視線が刺すように痛い。気迫だけで二人組より遥かに強い妖怪だと解った。
「なにやってんだ…見られてるじゃねえか」
「首領!あいつが獲物を横取りしやがって」
「ふーん?」
「おい、僕はそんなこと…」
ファウストが弁明する前に、パン!と空気が耳元で破裂した。ファウストの頬に赤い筋が走る。男の妖術だ。
「どこの誰だか知らねぇが、盗賊団に喧嘩売って無事に済むと思うなよ!」
「ああもう…。人の話を聞け…!」
構えた男の指先から、矢継ぎ早に空気の弾が発射される。数発は身を捩って避けたものの、全弾は躱しきれないと判断してファウストも扇を振るった。巻き起こった突風が空気弾とぶつかり、幾つも破裂音が重なる。風が止むと、どちらのものか分からない黒い羽根が対峙する二人の間を舞い落ちた。男が愉しげに口角を上げる。
「強えじゃねえか天狗の兄ちゃん。盗賊団に欲しいくらいだぜ」
「生憎と盗みに興味はない。これ、盗品なのか?迷惑だな…。きみたちでさっさと持っていってくれ」
「あぁ?横取りしたって話じゃなかったか?」
「僕は落ちてたのを見つけただけだ」
「…すみません首領、オレが空からうっかり落としたのを拾ってたから、てっきり」
「おまえらの早とちりじゃねえか!」
言うや否や手下二人に肘鉄を喰らわした男はファウストに向き合った。
「悪ぃな。どうやらこっちの勘違いらしい」
「最初から言ってる。誤解が解けたならもう僕は帰るぞ」
「そうさせてやりたいのはやまやまなんだがなぁ。俺様の顔を見ちまったからにはそうもいかねぇ」
「は…?」
距離を詰めた男の指がファウストの眼前に突きつけられる。この近さで空気弾を撃たれれば、眼球は無事では済まないだろう。その後で命まで残してくれるかどうかは、この男次第だ。
「恨むなよ。あんたは運が悪かっただけだ」
「心配しなくても、僕に顔がばれたところできみに影響は無いと思うが」
「あ?」
「僕はこの山に引きこもっているから、桜雲街には滅多に行かない。告げ口するような趣味もない」
ふいと視線を外す。東の空の端が僅かに白めいてきた。もうすぐ夜が空ける。
「だから、できればこのまま何もせず帰ってくれないか。朝に人が訪ねてくる予定なんだ。厄介なことに、僕がいなかったら延々追いかけて探し続けるような奴が」
「…ははっ!そりゃ脅しか?大したもんだ!」
豪快に笑った男はひらりと手を振るって構えを解いた。後ろにいた部下たちも息を吐いたのがわかる。
「わかったわかった。あんたには手出しする方が面倒だ」
「わかってもらえてなによりだ。あまり部下を恐がらせてやるなよ」
「部下ねぇ。もう俺は頭目じゃねえってのに、何回言っても直りゃしねえ。高く飛ぶなっつってもすぐ忘れやがるしな」
じとりと睨まれた手下たちが苦笑いを返す。なかなか表情豊かな男のようだ。ファウストが拾った杯を渡すと「あー…」と気まずそうに唸って頬の傷を示す。
「詫びってわけじゃねえが、治すか? 治癒の術は得意じゃねえけどよ」
「いや、いい。掠り傷だ。…きみの治癒術の腕前は、察せるし」
男は顔の真ん中に古傷の痕があった。着物から僅かに見えるかぎり、身体にもあちこちに傷痕があるようだ。術がお粗末なのか、治療が追いつかないほど怪我ばかりしていたのか…そこまで踏み込むほどファウストは厚かましくはなれなかった。
「帰ってくれればそれでいい。関わらないでくれるのが一番ありがたいよ」
「…そうかよ。わかった、邪魔したな」
ばさりと羽を広げると、盗賊一味は飛び去っていく。こんどは月を遮らず、山の木々の中を縫うように。
自分も住処に戻ろうとして、ファウストは気がついた。袂の端が破れて糸がほつれている。男の妖術を避けそこねた時だろう。
──あの男の妖術は相当だった。もしかしたら、かつての師匠でも手を焼くくらいかもしれない。…そんな自分の思考に嘆息して、頭を振った。
「…袂、直さないとな」