「魏公子。これは、一体……?」
藍曦臣は目の前のことが信じられず思わず隣に立つ魏無羨に訊ねた。
「見ての通りです」
「見ての、通り」
「ですね。見ての通り、江澄の奴、猫になりました」
「……猫」
「猫、ですね」
笑いを含んだ魏無羨の言葉に藍曦臣は改めて日の当たる場所で丸くなっている江澄を眺めた。薄っすらと透けた黒い三角の獣の耳が頭に。やはり薄っすらと透けた黒く細長い尻尾が尾てい骨の当たりから生えている。猫と言われれば確かに猫だ。
藍曦臣はさらなる説明を魏無羨に求めた。
昨日から藍忘機が雲深不知処に不在だからと蓮花塢に行っていた魏無羨から急ぎの伝令符が来たのが、卯の刻の正刻あたりだった。
藍曦臣は起きていたが魏無羨がその時間に起きていることなど珍しく、受け取ったときは驚いた。よほどのことが蓮花塢であったのだろうと慌てて急務の仕事を片付け、蓮花塢に到着したのが午の刻になったばかりの頃。案内をされるままにまっすぐに江澄の私室に向かい、開けなれた扉を開けた藍曦臣の目に飛び込んできたのは魏無羨の赤い髪紐にじゃれて猫のように遊ぶ江澄の姿だった。
魏無羨曰く、麻疹のようなもので今日が終われば元に戻るという。そんな病も呪いも怪も聞いたことがなく一体何をしたのか問いただしたいところだったが、ひとまずは猫になっただけということで安心することにした。だけということで済ませられるはずはないのだが、魏無羨も藍曦臣も怪異の類に慣れすぎて人体に影響がない変身であればさほど疑問に思わない。
耳と尻尾は江澄の霊力が漏れ出てあのような形になっているという。曰く触ると本物の猫の耳のような触り心地で、さらには江澄にも感覚があるらしく嫌がるそうだ。「触ったんですか?」と問うと言い訳をするように「尻尾が当たって来たんですよ」と苦笑をされた。
「江澄」
呼ぶと耳がピクリと動いて尻尾が一度パタリと床を叩いた。目だけはこちらを見ているが、日向から動く気はないようだ。
「澤蕪君、ちょっとこれを見てください」
魏無羨が唐突にどこから出してきたのか、ちょうど人一人が入るとみっしり埋まるような大きさの浅い木箱を江澄の前に置く。
「それは木箱? 一体どこから持って来たんですか」
「まぁ、細かいことは気にしないで。江澄。おーい。ほら、箱だぞ」
木箱を魏無羨が出した時から江澄の視線は藍曦臣から木箱に移っていた。魏無羨が木箱を足でコツコツと二回音を立てて蹴ると徐に寝ていた江澄がまるで猫このように伸びをしてから、四つん這いのまま木箱に近づき当たり前のように箱の中に入る。江澄は箱に入ってやけに満足気だった。
「箱を見ると箱に入りにくるんですよ。江澄! 猫っぽくないですか? 色々試したんですけど大きすぎても小さすぎても不満らしくて、今入っているちょうど身体が収まる大きさがお気に入りみたいです」
「魏公子。江澄で遊んでいないかな?」
「そんなことあるわけないじゃないですか。まぁ、面白いんで遊んでる気持ちは皆無じゃないけれど。割合からしたら、八割ほど?」
満面の笑みで答えられ、それはほぼ遊んでいるに等しいし残りの二割は一体何なんだろうね、などと思ったが深くは問わないことにした。
江澄に視線を合わせるようにしゃがみ、そっと手を出して頭を撫で頬を撫で顎の下を撫でる。顎の下を撫でると心地が良いのか、うっとりと目を細める姿は江澄だというのにやはり猫のように見えて仕方がない。
「おぉ。さすが澤蕪君には最初から懐いてる! 俺は最初警戒されてたんですよ。じゃ、あとは任せますね。俺姑蘇に戻ります。藍湛も今日帰ってくるって言ってたし」
「本当に、今日が終われば戻るんですか?」
「それは保証します。日付が変わるあたりで。もしかしたら数刻は猫気分が抜けないかもしれませんけど。明日の朝にはいつもの江澄に戻ってるんじゃないかと」
「それならばいいですけれど」
魏無羨が言い切り一切の焦りや不安などが彼から感じられないということは、本当に日付が変われば元に戻るのだろう。
藍曦臣はゴロゴロとご機嫌に喉を鳴らす江澄を眺めてから、まぁこういうこともあるでしょうねと納得し、現状を受け入れることとした。
魏無羨が返ったあと藍曦臣は箱の中に入っている江澄を抱き上げ箱から出し箱を乾坤袋にしまった。呼んでも紙をひらひらと振って誘ってもよほど箱の中が気に入ったのか、外に出ようとしなかったのだ。仕方なく強制的に箱を撤去した。不満げに尻尾を激しく振り床に強くたたきつけて、拗ねてしまったのかせっかく箱から出したのに呼んでも来ない。
藍曦臣の呼び声は無視して、すたすたと日が差し込む床まで移動すると江澄はそこで丸くなって眠ってしまった。
猫はあまり構いすぎると嫌われるらしいからと、少し離れた位置で瞑想することにした。
一刻ほど経過した頃か。
ふと、間近に気配を感じ内に向けていた意識を戻し藍曦臣はゆっくりと瞳を開けた。膝が何やら重い。視線を膝に落とすと日向で丸くなって寝ていたはずの江澄の頭が胡坐をかいている藍曦臣の足の上にあった。集中しすぎていたのだろうか。江澄が来たのに気がつかなかったとは。
藍曦臣は口角を上げて目を細めた。自分の足を枕にして心地よさそうに眠っている江澄にそっと手を伸ばす。頭をなでるとピクリと猫の方の耳が動いた。
猫の耳に触れたい。むしろ食みたい。どんな鳴き声をあげるのだろう。
視線を尾てい骨から伸びている黒い尻尾に移す。あれも触ったり引っ張ったり食んだりしたらどうなるのだろう。普通の猫ならば嫌がり怒るだろう。けれど江澄だとどうなるのか。尻尾の生え際あたりを触るとどうなるのか。
猫が酔うたようになるまたたびを与えたらどんな反応を示すのか。
藍曦臣は目を瞑り、現状起きうる様々な状況を予想し想像し夢想し本能と理性を戦わせた。
結果、抹額のおかげで理性が勝った。もしも抹額をしていなかったら本能が打ち勝っていただろう。
藍曦臣は理性に従い、江澄の髪をすくようにして撫でる。ぴくぴくと耳が動き閉じていた江澄の瞳がパチリと開いた。むずがるように頭を動かした後、身体を起こして伸びをする。じっと見つめてきたかと思うと、ぐりぐりと頭を藍曦臣に擦り付けてきた。じゃれているのだろう。腹、胸、肩と江澄の頭は下から上へと移動する。
「江澄?」
「にゃぁ」
いつもの声で、可愛らしく鳴かれ藍曦臣は思わず額の抹額に触れた。相手は江澄だが猫だ。動物だ。江澄の意識はおそらくないはずだ。たぶん。きっと。
自分に言い聞かせ、ついでに家規を一から胸中で唱え始めていると、ぺろりと江澄が藍曦臣の口を舐めて来た。
「なぁ」
小首を傾げられ藍曦臣は慌てて立ち上がった。これ以上は本能が打ち勝ってしまう。少し外の空気を吸わねば。そう思って立ち上がったのが裏目に出た。
立ち上がった途端に抹額の端がひらりと揺れる。魏無羨の髪紐で遊んでいた江澄がその抹額の端が揺れたのを見逃すはずがなく、飛び掛かって来た。両手でぱしりと掴み引っ張ってじゃれる。
引っ張られれば外れるのが道理というもの。理性の証である抹額が外れてしまえば、本能が打ち勝ってしまうのもまた仕方のないこと。と藍曦臣は自分に言い訳をした。さようなら理性。ようこそ本能。いっそすがすがしい気分だった。
「あぁ抹額が……。これは、仕方ないですね」
藍曦臣は深くため息を吐いた。床ではただの一本の細布となった抹額に江澄が全身でじゃれている。とりあえず、江澄が部屋から逃げ出さないように結界を張った。
「……阿澄、そんなに遊びたい?」
満面の笑みで、まさしく猫撫で声で問いかけると江澄がピクリと動きを止めて固まった。普段よりも、猫な分本能による危機察知能力が敏感になっているのだろうか。今にも床を蹴って藍曦臣から遠くへと逃げ出しそうだった。だが動きは藍曦臣のほうが早い。
逃げ出そうとする前に江澄をとらえると、抱き上げた。腕の中で江澄ががむしゃらに暴れだす。フーフーと警戒して唸る江澄をなだめながら、藍曦臣は牀榻へと向かった。