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    輝薫
    アニメ最終回ちょっとあとぐらいのまだ輝薫になってない輝薫です。
    初出2017/2/7 支部

    #輝薫
    ##SideM

    ファインド・アウト いつもより濃いコーヒーで無理やりに己をたたき起こし、昨夜のうちに防水スプレーをかけ直しておいた靴を履いて外に出れば、夜明けまでしんしんと降り続けた雪はとうに止んで、灯油の匂いのする、銀色の朝だった。予報通り地面の積雪は10cmほど。空は澱みがすべて凍り落ちたみたいに澄み渡っていて、東京の空はこんなに綺麗なものであったかと、上京してからもう何年も経つというのに、初めてそんなことを思った。耳がひどく冷たい。一歩一歩、足を進めるごとに、ふすふすと爪先が沈んでいく。しかし何年振りかわからないそのささやかな感触は、コートのポケットの中のスマホの振動に紛れた。
     315プロダクション全関係者のグループLINE。6ユニット19名の所属タレントに社長含めわずか3名のスタッフという小所帯ならではなのだろうが、自分たち以外のメンバーの動向もなんとなく把握できるというのは、他の事務所ではさほど一般的ではないのかもしれない。
     送り主はHigh×Jokerの秋山で、降雪により電車が止まってしまい、メンバー全員が足止めを食っているというものだった。今日は昼から番組収録がある、どうしよう、というSOSに、プロデューサーよりも速く反応したのは渡辺みのりで、午前中はオフだから彼らを迎えに行って現場まで送っていくとほぼ秒で返信があった。文章が表示されたと思えば、すぐに「まかせて!」という台詞の書かれた可愛らしいスタンプが続く。彼の家からハイジョの五人が暮らしている地域へは近くはなかったはずだが、誰も止めないところを見るにきっと任せてもいいのだろう。そんなやり取りを確認しつつ、いつもよりかなり早めに家を出て、ほぼ同じ時刻に事務所へとたどり着いた。ひんやりとしたドアノブを握れば、少し回ったまま、動かない。施錠されている。確かにこの時間はまだ事務所の始業前ではあるが、特に始業すぐからミーティングがある場合には、だいたい社長かプロデューサーあたりが先に来て鍵を開けている。
     鞄から事務所の鍵を取り出しつつ――所属タレントが鍵を持たされているなんて随分信用されたものだと思わないでもないが、警備員などのスタッフを雇うことと、人数が少ないゆえにそのモラルをそれなりに見極めることができているだろうことを思えば、リスクとコストはこのあたりで釣り合いが取れるのかもしれない――、スマホを見れば、通知画面には「プロデューサー」の文字が見えた。おそらくは彼もまた雪による交通トラブルに巻き込まれたのだろう。ひとまず鍵を開けて入った無人の事務所は未だ暗い。ブラインドを降ろしたところで防ぐことなどできないしんとした冷気が満ちていた。
     ブラインドを上げ、まずはエアコンのスイッチを入れた。動き出したような音はするが、温風が出てくるまでにはしばらくかかるだろう。コートは脱がずに先程のLINEの内容を確認する。ドラスタとプロデューサーだけのグループメッセージには予想通り、振替輸送で事務所を目指しており、通常の始業時間には間に合わない、打ち合わせにはなんとか間に合わせたい旨連絡が入っていた。天道と柏木からもプロデューサーをいたわる内容が続き、また、柏木も同じように遅れそうだという。天道からは特に自分の遅刻に関する連絡はなかったから、きっとオンタイムには来るはずだ。
     壁のボードを見やる。打ち合わせのある自分たちのほか、午前中にここに来る予定があるのはS.E.Mぐらいだった。他の面々は遠方でロケだったり、オフだったりでここには来ない。あの子犬のような双子はせっかくの貴重なオフが大雪になってしまって気の毒に、と一瞬思ったが、むしろこの珍しい景色にはしゃぎまわっているのではないかとすぐに思い直した。長野ならば雪にも慣れているだろう。兄の脚に冷えが響いていなければ良いと思う。
     自分の細かい今日のスケジュールを改めて確認する。そんな作業はすぐに済む。次いで資料に目を通そうとしたが、そういえばそれは今朝プロデューサーから受け取る予定だった。まさか勝手に彼のデスクを物色するわけにはいかないが、手持ち無沙汰、などという時間が自分にあっていいはずはない。周囲を見渡せば、「桜庭さん宛」と書かれた箱がいくつも置かれている。あの合同ライブのプレゼントボックスに入っていたファンレターにはすべてもう目を通していた。数はまだトップアイドルと呼べるものとは当然程遠い。しかし、自分がこれまで思っていた以上に一通一通に込められていた想いは大きくて、強くて、その一語、一文字すら、きっと忘れることはない。健康を心配する内容が多いのは、自分の不徳の致すところであり、悔しいところだが。
     あのライブの大成功を受けて更に大量に寄せられたファンレターや、クリスマスシーズンと重なったこともありそれはそれは膨大な量になったプレゼントは、ようやく昨日山村が仕分け終えたところだった。そのうちのひとつを覗き込めば、たくさんの封筒や箱が色とりどりにきらめく。星のモチーフや青色のものが多いのは、ユニットのモチーフや自分に設定されたイメージカラーのためだろう。箱の底のほうには、上に手紙の束を重ねたところで問題はなさそうな、しっかりとした箱に入ったプレゼントの類が入っている。無論中身は検めたあとであるのだろうが、包装はなるべく綺麗に開いたのち、極力元通りになるように包み直してあった。ところどころ不格好なのは、ご愛敬だろう。そんな箱のひとつにふと目が留まった。故郷で見覚えのある菓子屋のロゴが描かれたそれを取り出そうとすれば、見た目から想定していたよりもかなり重く、危うく取り落としそうになる。その包み紙には、淡い桜色の封筒が貼り付けられていた。
     同じように淡い青色の便箋には、桜庭が同郷と知り応援していたこと、合同ライブがどれだけ楽しかったかということ、どれだけ、幸せな時間だったかということ、出演した例のドラマの感想、そして桜庭の健康をかなり真剣に案ずる言葉が綴られ、……少し苦い思いを感じながらも続きを読めば、喉や寒さにも良いので、と、贈り物の意図が認められていた。おそらくは山村によって再度包装されたのであろう包み紙を再び丁寧に開き、中の紙箱を開ければ、濃い赤茶色の蜜で満たされた瓶が、三つ程おさめられていた。
    「冷やし飴、か」
     そういえば上京してからはあまり見ることもなかった気がする。好きに割って飲む形式であるらしいこれは、お湯で延ばせば今日のような日にはぴったりだろう。意図せず口元が緩む。
     ひとまず、電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れたところで、窓の外が目に入る。雪こそ降ってはいないものの、行き交う人々は寒さに身を縮こまらせているように見える。窓の近くに立っただけでも、吐く息が白く煙った。きっともうすぐプロデューサーや天道、柏木、山村と社長も来るだろう。打ち合わせが終わるころにはS.E.Mも来るはずだ。コンロの下を探れば、それなりの大きさの鍋が見つかる。十人分ならこんなものだろう。ケトルのお湯はあれば誰かしらが使うはずだと電気魔法瓶へと移し替えた。ひと瓶分に相当する水を計量して鍋で沸かし、説明書きに従って瓶の中身を湯に溶かした。ふわりと甘い匂いに混じって、ぴり、と生姜の香りが鼻を刺激する。湯呑に注いで少し息を吹いて冷まし、一口ゆっくりと口に含めば、舌の先からあたたかさが広がるように思えた。もう一口。あっという間に湯呑は空になり、かわりに体に心地よいやわらかな熱が満ちたようだった。気が付けば、部屋もエアコンとコンロをを使ったおかげか、十分に暖まってきていた。これならば、寒い外から入ってきてもすぐに上着を脱ぐことができるだろう。
     やがて、古い扉の向こうから、階段を駆け上る足音が聞こえた。少し慌てたような不規則なリズムは、遅刻のためか、それとも一刻も早く室内に入りたいがためか。
    「おはようございます!……うぅ、やっぱ中あったけえ…………」
    「……おはよう」
     ひとりなのに賑やかにドアを開けて入ってきたのは天道で、しかし外の寒さを知っているから、朝から騒がしいなどと文句を言うことはしなかった。息を整えて、顔を上げた彼は、きょろきょろと部屋の中を見回した。
    「おはよ、桜庭。お前ひとりか?」
    「ああ」
     そう返せば、さすがだな、と彼は言う。
    「こんな日でもちゃんと五分前には着いてるんだもんな。JR止まってるから地下鉄まで歩いたら、ぎりぎりになっちまった」
    「今朝は積雪で交通機関が麻痺するおそれがあると一昨日からずっと天気予報で言っていただろう。その分を見越して早めに出るのは当然だ。特に、早めに出さえすれば遅れを取り戻すことが可能な場所に住んでいるのならな」
    「それはそうだけどよ」
    「あと僕がここについたのは予定時刻の20分前だ」
     反論できる要素がないと判断したのか、少しばつの悪そうな表情で目を逸らした先で別の何かに意識を向けたようで、ぱっと表情が変わった。
    「なんかいい匂いすんな。あの鍋?」
     そのまま上着も脱がずにコンロの方へと歩いていき、鍋を覗く。
    「これ、なんだ?」
    「飴湯だ。糖分が豊富で生姜がきいている。寒い朝にはちょうどいい」
     そういえば鍋の上でまるで動物のように鼻をひくひくとさせる。確かに生姜だな、なんて、あまり実のないことを言いながら。
    「これ、お前が?」
    「瓶の中身をお湯に溶いただけだ。京都在住のファンからのプレゼントだ」
    「へえ。うまそうだな。なあ桜庭、これ少し飲んでも良いか?」
    「この量を一人で飲むつもりで用意したとでも思うのか? プロデューサーたちと柏木やS.E.Mの分も含まれている。くれぐれもひとりで飲み過ぎるなよ」
     天道が入ってくる直前に注いでおいたおかわりを口に含む。おう、と返事があったのち、しかし注ぐ音も聞こえなければ手を洗いに行く足音もなくて、顏を上げた。
    「……なんだ、その顔は」
     天道はどこに行くでもなく、何をするでもなく、ただこちらを見ていた。なぜか妙に腹立たしさを覚えるほどの、はっきりとわかる喜色を顔中に浮かべて。
    「ありがとな、桜庭」
     ……彼は、そこまでこれが好物なのだろうか。こんなにうれしそうな表情を見せるほどに。
    「礼なら贈ってくれたファンにパフォーマンスで報いるんだな。同封されていた取り寄せ用の紙ならまだ捨てていない。欲しいなら君にやろう」
    「そうじゃなくて! いやファンの子に報いるほうはそれでいいんだけど! あー……」
     そこじゃないだろ、というどうにも癪に障る言葉が小さく聞こえたような気がしたが、続きを待ってやる気になったのは、飴湯のやさしい甘みのせいかもしれなかった。糖分はエネルギーになるだけでなく、精神的にも落ち着かせる作用が、少なくとも自分に対してはあるのだろうと思う。
    「俺たちの分もって、わざわざ用意してくれたんだろ? ありがとな」
     どうしてだろう、おそらく、今自分はなにかを間違えている。天道が礼を言う理由を、きっと正確には理解できていない。なぜか、そんな気がした。なんとなく、だ。
     天道がこちらをまっすぐに見つめる。伝わり切っていないだろうことに気が付いているのか、少し首を捻って、ちょっとだけうーん、と唸ってから、お前の気持ちが嬉しいんだ、と、言った。
    「……僕の、気持ちが」
     オウム返しのように口にすれば、ああ、と頷く。
    「外寒いから、温かいものを俺たちにも飲ませようって、思ってくれたんだろ? お前、実はすごいいい奴だよな」
     いいやつ、という言葉を頭の中で繰り返す。外が寒いこと、事務所の暖房が不十分なことで、飴湯が彼に齎す効用が最大化することは予想できていた。けれど、彼がこれを好まない、あるいは寒さに耐性があるなどの理由で、彼にとって何の利益も齎さないことだって十分にありえた。たまたま、天道の体は冷え切っていて、たまたま、飴湯が嫌いではなかった。あるいは好んでいる。それだけだ。
     けれど、もしも。そうだったとしても、何らかの理由で口にしようとすら思わなかったとしても、彼は同じように笑って礼を言ってくれたのではないだろうか。勝手に自分がしただけのことを、褒めてくれたのではないだろうか。
     ふと、例の贈り物の箱が目に入る。その中には未開封の瓶があとふたつ入っている。確かに、今の状況にはぴったりだった。味も美味しかった。だけどそうでなかったとしてもきっと、
    (僕は、これを送ってくれたファンに、感謝しただろう)
     当たり前のことだ。だとしても、それでも、はっきりと、意図に対して誰かから感謝をされたのは、いつ以来だろう。あるいは何度もあったのかもしれない。けれども、そうだと認識したのは。
     アイドルになって、ファンからの「ありがとう」は数えきれないほど浴びて、けれどそれは自分が為したパフォーマンスに対する感謝だと、思っている。医者だったときだって、首尾よく救うことのできた患者やその家族、あるいは術中に上手にサポートすることのできた執刀医らから何度も心からの感謝を貰った。けれど、力が及ばなかったときは、ーー救えなかったときは。
    「…………桜庭?」
     何秒、考えていたのだろう。いろんなもののつくりがくっきりして大きい顔に心配、の二文字を貼り付けて、天道が近づいてくる。肩に向かって伸びてくる手。何かを思い出しそうになる。その手はこんなにごつくなくて、伸ばされた先は肩ではなくて、頭で。
    「ありがとう」という言葉の主は、「薫」と呼んでくれた。
    (姉さん)
     歌うと、いつも姉は喜んでくれた。素敵な歌だと、褒めてくれた。
     けれど一度、少し喉が不調で、話すのにはたいして支障はないものの、歌おうとするとどうにも思ったように声が出なかったことがあった。そのころには姉の病状はもうだいぶ悪化していて、毎日面会できるわけではなくなっていて、その大事な日に歌えないことが、ーーあるいは、気づかないふりをしていただけで、姉の前で歌える時間がそう多くは残されていないことも、薄々わかっていたからかもしれない――、申し訳なくて、悔しくて、不覚にも泣きそうになってしまったことがあった。今思うと自分の歌にはそれだけの価値があると何の疑いもなく思っていたことについては、子供ながら大した自信だと思わなくもないが、それだけ姉が褒めてくれていたということでもあるし、また、現状を思えばそうそう的外れな自己評価でもなかったのかもしれない。泣きそうで、けれど姉の前で情けない姿を見せるのも嫌で、こぼれそうになる涙を一生懸命に堪えていると、痩せて血管の浮いた優しい手が、頭に乗せられた。撫でてくれた、というにはあまりにも、その感触は軽かった。
    「ありがとう、薫」
     なんで、歌ってあげられなかったのに。詰まり詰まりそういえば、姉は困ったように少し首を捻って、うーん、と声を出して考えるような様子を見せてから、それでも、花が咲くように笑って、
    「私のために歌ってくれようって頑張ってくれたんでしょう。嬉しいわ。ありがとう。薫は優しい子ね」と、そう言ってくれた声は、自分なんかよりずっと、ずっと、優しくて。
     たぶんきっと、あれが最後だ。
     その気持ちに意味があると、はっきり言ってもらえたのも、そう信じることができていたのも。
     叶わなければ、いくら努力したって意味がないのだと思ってしまったから。どれだけ尽力してくれていたのだとしても、姉を救えなかった医師に、感謝なんか、できなかったから。
    「おい、桜庭、……桜庭? 急にどうしたんだよ、大丈夫か?」
     姉のものとは似ても似つかない、少しかすれた男の声に、はっと意識を引き戻される。同世代の男性にしては職業柄しっかり手入れされている分綺麗といって差し支えないのだろうけれど、筋肉質でごつい手が肩に乗せられる。力強くて、重たかった。思わず目を見開いて、全身がびくりと跳ねた。
     忘れていたわけじゃない。思い出さなかっただけだ。別の記憶が、思い出に重たい蓋を乗せていただけで。なのに、なんでこんな、錆びついていた血管に血が通ったような、やるせないような気持ちになるんだろう。世界をとらえるこの視界に、一枚、別のフィルターが加わったように感じるんだろう。
    「天道」
    「おう」
     名前を呼んでは見たものの、何を言いたいのかはわからなかった。感謝、ではない、と、思う。ただ、思い出さずにいたことが、彼の言葉をきっかけに思い出されただけだ。そうさせるつもりもなかっただろう。彼は、桜庭に姉がいたことさえ知らないのだから。彼が為した結果でもなければ、彼が意図したことでもない。だから、きっと礼を言うのは適切ではない。
     だから、思ったことを正直に述べてみることにした。
    「嬉しい」、と。
     相手が己に対して悪意を以てなにかをしたのか、良かれと思ってのことではあるがその方向性、あるいは結果が望ましいものではなかったのか、等しく自分にとって利益を齎さない行為であったとしても、さすがにその二つの区別はついている。それを以て、糾弾するのか、余計な気遣いだと切り捨てるのか、その程度の切り分けは当然してきた。そのおかげで効率よく生きてきたという思いは、ある。だけど、その余計になるかもしれなかった気遣いをしようとした、その気持ちを認めてもらったことが、こんなにも、血の通うような思いがするなんて、考えてもみなかった。
     それを天道に伝えることの意味は、よくわかっていない。ただ、嬉しい、としか言いようがなかった。彼の言葉が、それが思い出させてくれた姉との記憶が、それが見せてくれた世界が、とても心地よいもののように思えたから。だから、そう口にした。それだけ、なのだが。
    「…………天道?」
     何故彼は茫然と立ち尽くしているのだろう。そんなに自分は論理性を欠く言葉を口にしたか。それとも、ポジティブな感情を表現することが珍しいか。目を見開いたまま固まった表情。口をぽかんと開けて、なんて間抜けな面構え。しかしなぜかその間抜け面が、うっすらと朱を増していく。
    「どうした?」
     声に苛立ちが滲んでしまう。それに怯えたのか天道が、何がごにょごにょとつぶやくのが聞こえた。
    「お前ほんと……笑ってれば……」、と、その先はうまく聞き取れない。
    「笑ってれば、なんだ」
     そもそも今、自分はどんな顔をしていたのだろう。
    「言いたいことがあるならはっきり言え。僕はちゃんと言った」
     そう言えば猶更、彼はその大きな手で自分のこめかみを押さえ、あー、ともうー、ともつかない呻き声を上げた。癪に障ることこのうえなくて、もう一度名前を呼び、かけたとき。
    「俺が、伝えるから」
     顔に当てていたその手を外して、今までの情けない声とは打って変わった、落ち着いた力強い声で、彼は意味の分からないことを口にした。
    「……………………は?」
     今の自分は、大概間抜け面をしているだろうと思う。だとすると、先ほどの自分の発言で同じような表情をしてみせた天道への怒りがふつりと湧き上がりそうになる。こんなわけのわからない言葉と、同レベルであってたまるかと思いかけて、けれども踏み留まる。あの言葉は確かにまぎれもなく己の素直な感情ではあったけれど、そこに至るまでの筋道を自分でも明確には把握できていないものでもあったからだ。ただ、その気持ちは伝えるべきなのだろうと、理由もわからないままに思っただけで。意図が伝わっていないことははじめからわかっていたのか、特に自分の間の抜けているだろうリアクションを揶揄うでもなく、天道は続けた。
    「お前の優しい気持ち、俺がちゃんと見てるから。それが嬉しいんだって、ちゃんとお前に伝えるから。…………だから、さっきみたいに」
     それまで淀みなく出ていた声が、唐突に止まった。
    「さっきみたいに?」
     元弁護士らしからぬ不明瞭な呻き声が、しばらく口の中を転がっているようだった。暫くの後、漸く意を決したかのように口を開いた、そのタイミングで。
    「おはようございます! 遅れて申し訳ありませんッ」
     と、いつもの調子でプロデューサーが微妙に軋むドアを開けて駆け込んできた。露骨に救われた、みたいな顔をされて正直癇に障る。こんな誤魔化し方、ベタなドラマでもなかなか見ない。
    「おはようプロデューサー、こんな雪だからしかたねーよ、な、桜庭?」
     桜庭、と呼ぶ声にやや震えが混じっているように聞こえる。いつものように無視した。
     寒くないか、との天道の問いかけにプロデューサーはコートを掛けながら息を整えつつ、おふたりが部屋を暖めていてくれたから大丈夫です、ありがとうございます、と返す。そして振り向きざま、コンロの方で視線を止めた。
    「なんだかいい匂いがしますね」
    「おっ、わかるか? 桜庭が用意して待っててくれたんだよ。飴湯、だっけ。な」
     なんで、どうして。
    「桜庭さんが?」
     自分のことでもないのに。
    「お気遣いいただいてありがとうございます」
     どうしてそんな、嬉しそうで、誇らしそうで、照れくさそうな顔をしているんだ。まるで、自分が褒められたみたいな。プロデューサーもおかしいと思わないのか。おかしいのは、自分、なのだろうか。
     二人分の器を戸棚から出し、天道がコンロの方へ向かうのを、ただ見つめている。きっと自分はさぞや間抜け面を晒していることだろう。表情筋が、思ったように動いてくれない。不意に天道がこちらを見て、どうしてか、目を大きく見開いた後、みるみるその頬が赤に染まっていく。口はぽかん、という形容が似合うにもほどがある間の抜けようで。
     どうして、自分を見て、そんな顔をするのだろう。
     何故、その間抜け面から、目を離せないのだろう。
     その理由を、伝えてくれないか。
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    onsen

    DONEクラファ仲良し
    クラファの3人が無人島で遭難する夢を見る話です。
    夢オチです(超重要)。
    元ネタは中の人ラジオの選挙演説です。
    「最終的に食料にされると思った…」「生き延びるのは大切だからな」のやりとりが元ネタのシーンがあります(夢ですが)。なんでも許せる方向けで自己責任でお願いします。

    初出 2022/5/6 支部
    ひとりぼっちの夢の話と、僕らみんなのほんとの話 --これは、夢の話。

    「ねえ、鋭心先輩」
     ぼやけた視界に見えるのは、鋭心先輩の赤い髪。もう、手も足も動かない。ここは南の島のはずなのに、多分きっとひどく寒くて、お腹が空いて、赤黒くなった脚が痛い。声だけはしっかり出た。
    「なんだ、秀」
     ぎゅっと手を握ってくれたけれど、それを握り返すことができない。それができたらきっと、助かる気がするのに。これはもう、助かることのできない世界なんだなとわかった。
     鋭心先輩とふたり、無人島にいた。百々人先輩は東京にいる。ふたりで協力して生き延びようと誓った。
     俺はこの島に超能力を持ってきた。魚を獲り、木を切り倒し、知識を寄せ合って食べられる植物を集め、雨風を凌げる小屋を建てた。よくわからない海洋生物も食べた。頭部の発熱器官は鍋を温めるのに使えた。俺たちなら当然生き延びられると励ましあった。だけど。
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    onsen

    DONE百々秀

    百々秀未満の百々人と天峰の話です。自己解釈全開なのでご注意ください。
    トラブルでロケ先にふたりで泊まることになった百々人と天峰。

    初出2022/2/17 支部
    夜更けの旋律 大した力もないこの腕でさえ、今ならへし折ることができるんじゃないか。だらりと下がった猫のような口元。穏やかな呼吸。手のひらから伝わる、彼の音楽みたいに力強くリズムを刻む、脈。深い眠りの中にいる彼を見ていて、そんな衝動に襲われた。
     湧き上がるそれに、指先が震える。けれど、その震えが首筋に伝わってもなお、瞼一つ動かしもせず、それどころか他人の体温にか、ゆっくりと上がる口角。
     これから革命者になるはずの少年を、もしもこの手にかけたなら、「世界で一番」悪い子ぐらいにならなれるのだろうか。
     欲しいものを何ひとつ掴めたことのないこの指が、彼の喉元へと伸びていく。

     その日は珍しく、天峰とふたりきりの帰途だった。プロデューサーはもふもふえんの地方ライブに付き添い、眉見は地方ロケが終わるとすぐに新幹線に飛び乗り、今頃はどこかの番組のひな壇の上、爪痕を残すチャンスを窺っているはずだ。日頃の素行の賜物、22時におうちに帰れる時間の新幹線までならおふたりで遊んできても良いですよ! と言われた百々人と天峰は、高校生の胃袋でもって名物をいろいろと食べ歩き、いろんなアイドルが頻繁に行く場所だからもう持ってるかもしれないな、と思いながらも、プロデューサーのためにお土産を買った。きっと仕事柄、ボールペンならいくらあっても困らないはずだ。チャームがついているものは、捨てにくそうだし。隣で天峰は家族のためにだろうか、袋ごと温めれば食べられる煮物の類が入った紙袋を持ってほくほくした顔をしていた。
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