さよならかみさま 屋敷は阿鼻叫喚に包まれていた。
常ならばきれいに掃き清められている床は血で汚れ、見る影もない。火の気のない場所から炎が上がり、またたくまに燃えひろがった。広大な屋敷は人気のない山奥にある。助けを求めたところで、警察や消防が駆けつけてくるのは、早くても明日の朝だろう。どうにか扉の中に身を隠した男は必死で息を殺していた。すべてうまく行っていたはずだった。すべてはあの男がこの屋敷に来てからおかしくなった。賢かった妻は愚かな女に変わり、大人しかった娘も言うことを聞かなくなってしまった。あの男。九井一と名乗った男。
男は売れない劇団員だった。金に困っていたところを女に、いまの妻に拾われて、教祖に仕立て上げられた。シナリオはすでにできていて、男はそれを演じただけだ。
彼は不幸な人々に救いを与えた。許しを与えた。彼らが言ってほしいであろうことを、口にしてやった。要するに詐欺だ。心が痛んだのは最初だけだ。才能があったのだろう。瞬く間に教団は大きくなった。動く金は巨額になり、若い女が喜んで足を開いた。
犯罪であることは知っている。罪の意識は少なかった。救ったはずの人々が、男の知らぬところで首をくくっていたとして、関係のないことだった。
恨みに思っている者はいるだろう。けれどそれ以上に救われたい人々が列をなす。男は彼らの求めている言葉を与えてやり、金を得る。どこが悪い。俺はなにも悪くない。そもそも演じろと言ったのは男の妻だ。シナリオを作り、舞台を用意して、衣装を与えたのは妻だ。あの女がすべて悪い。ああ、でも、妻はもう。
「みぃつけた」
幼い子供のような言葉とともに隠し扉が開かれ、冷めた目をした男の前に引きずり出された。
九井一。
関東卍會の金庫番と呼ばれる男。
彼が屋敷にやってきたのは、一年ほど前のことだ。山奥に暮らす男は関東卍會のことをあまりよく知らなかった。不良のチームだというくらいの知識だった。組織をおおきくしたい。だから金が要る。金を巻き上げるノウハウを教えてくれないかということを真綿に包むような耳障りの良い表現で乞われた。むろん断った。提示された条件や金額は魅力的ではあったが、詐欺行為を認めるわけにはいかなかったからだ。
けれど九井は辛抱強く屋敷に通った。なんでもする。下働きをする。どうか仲間にしてほしい。
九井は関東卍會にいることを悩んでいるのではと言ったのは娘だった。
なるほど関東卍會は暴力的なチームだ。男は関東卍會を知らなかったが、佐野万次郎の噂は聞いていた。無敵のマイキーの伝説は聞けば聞くほど九井のようなスマートな男には不釣り合いに思えた。
さりげなく話をもちかけると、九井は大きく頷いた。実はマイキーが怖い。幹部たちもヤンキー上がりの屈強な男ばかりで、いつ殴られるかわからない。気が休まらない。そこへいくと、宗教団体は穏やかだ。関東卍會を抜けることはできないが、こちらに移動してきたい、と言う。
男としても九井が提示する金は魅力的だった。信徒から金を巻き上げるにも限度がある。
九井一は優秀な男だった。
一を教えれば次の日には百になって帰ってくるような男だった。
事務方が幾人かでやっていた仕事は九井さえいれば動くようになっていた。
警戒していた妻も、頭の良さに感心した。まさか妻が娘よりずっと若い九井に本気で惚れるとは思わなかった。いつもの浮気だろうと高をくくっていたのだ。
気が付けば九井一はパソコンからすべての情報を抜き出していた。男と妻が行った過去の犯罪のすべてを知った。
屋敷が襲われたのは、その次の日だ。
黒塗りの車にのった関東卍會の男たちが屋敷に押し寄せてきた。妻がむざんに殺されるのを見た。騙されたと叫んでいた娘の声も止んだ。護衛の者はどこにもいない。長らく信用していた者は九井の手によって解雇されていた。
扉の中に隠れていた男も引きずり出された。最初は安っぽい化繊で作られていた教祖の衣装も今は絹で作られている。それが無残に千切れ、汚れ、血に塗れている。震えながら九井の前に跪いた。額づいた。
「なにが目的なんだ。金ならいくらでも出す」
九井は答えなかった。かわりに目の前になにかが転がされた。焦げた匂い。黒い塊はもぞもぞと動いた。息がある。これは、これは、
「四千万あれば火傷を治せるんだよな」
「は……」
顔をあげた。つめたい視線がある。そんなことを、言っただろうか。言ったかもしれない。おぼえていない。
「治癒の水だっけ? それを飲ませれば治るんだよな」
「そ、れは」
「治したら、傷ひとつつけずに逃がしてやる。金もくれてやる」
九井はアタッシュケースを転がした。おそらく金が入っているのだろう。
無茶だ。そう言いたかったが、九井の冷たい視線は口を開くことをゆるさない。
思い出した。
もう何年も前。
娘が火事に巻き込まれ、全身に火傷を負った。治してほしいと言った夫婦がいた。
巻き上げられたのは手付金の数百万。治癒の水を与える間もなく、娘は亡くなってしまった。息子の火傷は治さなくていいのかと聞いたが、答えはなかった。
治癒の水、じっさいはただの水道水を使った詐欺はなんども行ったが、四千万を提示した全身火傷はいちどきりだった。あの夫婦、名字をなんと言ったか。
「も、しかして、あんたはあの娘の弟なのか」
年齢はあっているように思う。九井は偽名か。そうか。それで復讐に来たのか。苗字は思い出せない。たしか、そうだ、弟の名は。
「青宗」
「は?」
殺気が満ちる。
部屋の温度が下がった。
男を抱えた関東卍會の部下たちも震えている。
「……」
九井一は無言だった。表情が削げる。細身の男の全身から死の匂いが立ち上がる。ここにいるのは死神だ。九井一は死を支配している。その場にいる誰もが息を殺した。やがて九井がおおきく息を吐くまで、指ひとつ動かせなかった。
「やめた」
「は、」
「やめた、もう、いい」
「……あ、」
「ころしてやろうかとおもったけど、それもやめた」
「……あ、ああ」
「てきとうに足でも撃ちぬいて、あとは放っておけ」
「た、たすけ、たすけてくれ、なんでもする」
つめたい目をしていた死神が罪から逃れるようにそっと目を伏せた。
「ああ、もうイヌピーには会えねぇな」
そうだ。あの夫婦の名は乾といった。娘の名は。
銃弾が男の身を貫く。あまりの激痛に思考が途切れた。床に転がってのたうちまわるも、気を失うことも出来ない。男たちが去っていく気配がある。待ってくれと叫んでも、誰も振り返らない。阿鼻叫喚に溢れていた音もいつのまにか無音になった。床を舐める火の粉が刻々と近づいてくる。
それが男の最後に見た光景だった。あとはもうなにものこらない。