俺の彼氏はアイドル!?2なけなしの勇気を出して劇場に足を運んでみたら、とんでもない目に遭った。
やはり外は危険だった。女の集団は本当に怖い。
何より自分よりも小柄な人間達にぶつかられたぐらいで転んでしまう己の軟弱さが情けない。
仕事柄、腕には筋肉が着いている方かと思っていたが
足腰は弱かった。
辛い…もうあんな思いはしたくない、と青宗はここ最近通勤をバイクから徒歩に変えた。
バイクで5分、徒歩15分。その道を走って少しでも足腰を鍛えようと思う。距離は大したことは無いが毎日続けるのが大切だ。
それに、通勤時間が少し伸びたから卍龍やココの曲を聞く時間が増えて中々に楽しい。
しかしふとした時に思い出してしまう。
嘘みたいに間近で見た九井一の顔。香水の匂い。
あれが自分のような冴えない男等ではなく、それこそドラマのヒロイン役の女優みたいに可愛いらしい女であれば様になったかもしれない。
だが現実はファンの女達にふっ飛ばされた軟弱なキモい自分だ。
眼鏡まで吹っ飛んでこの顔を晒してしまったから、さぞ九井は不快だったろう。
不可抗力とはいえ、最悪な瞬間だった。
九井だってあんなに驚いたような顔をしていた。
常に綺麗な女優やイケメンなメンバー達に囲まれているのだから、自分のような冴えない男は見慣れていないのかもしれない。
あんな形で九井の視界に入ってしまうなんて、本当にツイて無かった。
結局ミニポスターの行方も解らないままだ。
それにしても、至近距離で見た九井も凄く素敵だった。整った顔立ちも、真っ黒で深い瞳も格好良い。
しかも勝手にすっ転んだ自分なんかを心配して駆け寄ってくれるなんて、中身までイケメンだった。
拾われた眼鏡は何だか勿体無くて家の九井コーナーに飾ってある。
それからとても良い匂いがした。雑誌で九井が使っているという香水を数種類取り寄せてみたがどれも何だか違う気がする。
やっぱり九井が身に纏っているからあんなに良い匂いになっているのかもしれない。
舞台はもう1公演チケットを持っている。
でもあの醜態や女達の勢いを思い出すと怖じ気づいてしまい行くのを躊躇う気持ちにもなった。
舞台上の役を演じる九井の姿、綺麗だった。演技も凄く良かった。歌だって最高だった。
あれを遠くても生で見れて本当にそれだけは行って良かった。
今までは映像だけで満足していたが、生の良さを知ってしまった今…やはり行きたい、という気持ちも大きくなる。
それに失くしたミニポスターももう一度入手したい。
そうなるとやはり現場に行くしか無い。
大丈夫だ、周囲に注意を払い女の集団には近寄らないようにすれば良い。
九井だって、舞台から自分の事が見える訳でも無いのだしチケットの番号からしても真ん中くらいの席だ。
自分の事なんて覚えても居ないだろうし、万が一視界に入ってもその他大勢になっている筈。
良し、やっぱり絶対舞台を観に行こう。
覚悟を決めると青宗はまたその日から普段は怠っている髪の毛のトリートメントや、身嗜みを少しでもまともにしようと試みた。
格好良くなりたいとかそういう事では無い。
九井の舞台を観に行くのだから自分なりに精一杯、身綺麗にしておきたいだけだ。
それに周囲にも臭いとか清潔感が無いだとか、そういう事で迷惑はかけたくない。
後はネットでホテルを予約するのも忘れない。
今度の会場は県外で少し遠い。帰って来れなくは無いがバタバタと満員電車に乗りたくは無いから泊まる方が良い。
ついでに溜まっていた有給休暇も消化しよう。
そう決めてからは青宗の心はその日が楽しみで、待ち遠しくて弾んでいく。
仕事中、偶に嫌味を言ってくる先輩の小言も耳を素通りしていった。
何故なら、もう直ぐまた生の九井を見れるのだから。
オタクは推し活の予定に生かされている、と実感した。
九井一。
21歳、職業、男性アイドルグループ卍龍のメンバーの1人。
高校生の頃に街中を友人と歩いていた所を今の事務所の人間にスカウトされるというベタなきっかけでアイドルとなる。
子供の頃から同級生達より思考が大人びている自覚はあった。
勉強もスポーツも、大体の要領を掴んでしまえばそこそこに熟せたし大人が求める優等生にだってなれた。
比較的裕福な家庭に生まれ、容姿もそれなりで頭脳も馬鹿では無い。
そういう物を予め持って生まれたが故に、九井の人生は然程苦労をせずともやってこれた。
周囲の人間はそんな九井を羨望や嫉妬の眼差しで見つめ、友人達ですら利用し利用されという殺伐とした関係しか築け無かった。
それを九井自身不満に思う事も無く、何をするにも「こんなもの」という感覚しか無かった。
何でもそこそこに出来てしまうから何にも夢中になる事も無く、心の中は常に冷静だった。
大人の前では品行方正に、同級生の前では時々やんちゃな事もする。そういう普通に見えるように演じ分けるようになった。
その方が生きやすいからだ。良くも悪くもはみ出た者に、世間の目は冷たい。
幼い頃に既にそれを感覚的に分かっていたから、人間関係も大体思い通り。
自分がやりやすいようにだけどそれを悟られないように、コントロールして来た。
生きていても特に面白味は無いが、かと言って自らの手でそれを終わらせる程の情熱も無かった。
それなりの地位に着きそれなりの家庭を持てば親も世間もうるさくは言わないだろう。
笑っているのに、どこか冷めた顔をする。そんな子供であった。
スカウトされて芸能界に足を踏み入れたのも単に知らないジャンルの情報収集程度の気持ちだった。
だが実際にその世界に居る人間達を目の当たりにすると、普通じゃない、変わった人間が良しとされがちで驚いた。
普通では無い事は、世間では異常な事だったのに芸能界ではそれが個性となって受け入れられたりもする。
最初は事務所から与えられたモデルの仕事なんかを細々と適当に熟していたが、アイドルグループを結成するオーディションを受けるようにと事務所から言われたのが転機になった。
正直芸能界に居る人間は画面越しには良く見えても変わり者が多く癖が強い人だらけで、個人的に付き合いを持ちたい人種では無かった。
九井が所属する事になった卍龍というグループも、メンバーは歳が近い者が集められたが協調性の無い個性的過ぎる人間達ばかりだった。
その中に居ると九井は自分なんて平凡でつまらない人間なのだろうなと客観的に思った。
飛び抜けて身長が高いだとか、ダンスが得意だとか、歌が上手いだとかそういったものが特に九井には無かった。
なんでも平均値よりやや上を取るのは得意だったが、そんなものこの世界では何も役に立たない。
そこで初めて九井は負けたくないだとか、のめり込むという感情を実感した。
自分の得意なもの、個性。それを考えた結果、記憶力の良さと幼い頃から演じる事をしてきたそれを活かそうと考えた。
メンバーは個性が強く、容姿も整っている者ばかり。
その中で演技だけは負けないよう、評価を貰えるように努力した。
その結果スタート時点では目立た無いポジションだった九井はいつしかゴールデンタイムの連ドラ主演や舞台のオファーがひっきりなしに来るようになった。役者としての才能を開花させたのだ。
他のメンバーにそのジャンルだけは負けないようにと、必死にやってきた事が評価される事の楽しさを覚えた。
それから今まで、九井は個性豊かなメンバーの中で俳優業を担うイメージを勝ち取ったのである。
実際にやってみると俳優とは奥が深く、正解が一つでは無く厳しい道だが楽しめている。
他のグループのアイドル達はファンにチヤホヤされ綺麗な女優達と接する内に、変な下心を出してスキャンダルになったりしているがその辺は九井は慎重だった。
同業者と付き合う時は仕事が一番なタイプの口の堅い女性を選んだし、ファンには絶対手を出さなかった。
何故なら、ファンはあくまでもファンだからだ。
応援してくれて、それに仕事で応える健全な距離と関係を保ってるうちは良い。
ちょっとタイプのファンに電話番号を渡されてノコノコと会って関係を持てば、たちまち弱味を作る事になる。
ファンである自分が、好きなアイドルにプライベートで会えた。遊んだ、セックスをした。
そういう事になると、幾ら最初は用心深く黙っていてもその内優越感や承認欲求を満たしたくなりその関係を洩らしたり匂わせたりするようになる。
そういう事で身を滅ぼしていく者は男女共に後を絶たない。
この業界でやっていくと決めた時からその辺には神経質な程気を配っていた。
ファンには愛想よく、感謝を忘れずに。
だけど絶対におなじ立場にはならない。
あくまでもファンとアイドルの関係を崩さない。
その筈であったのに、イレギュラーはいつだって起こるものだ。
連日の舞台公演が続く日々。
一つの公演が無事に終わり、ホテルに戻りまた明日も公演がある。
忙しい事は有り難いことで、自宅に殆ど帰れないのも仕方がない。
疲労は溜まるが、ファンには笑顔で応えるのがアイドルだ。
ルールとしては良い事では無いが、どうしても出待ちをしているファンは居る。
それを適当に印象を損ねる事無くあしらうのも仕事の内。
慣れたものだと、群がるファン達に手を振っていつものように送迎の車に乗り込もうとした時だ。
ファンの人だかりの後方で、誰かが派手にふっ飛ばされたのが見えた。
もしかしたら会場のスタッフや警備員かもしれない。
或いは一般人かも、と思った。
そうなるとここは自分がフォローしておいた方が印象は大分変わるだろうと、少々面倒ではあるが倒れた人物の元へ駆け寄って声を掛けた。
膝を着いて蹲っている人物は体格からして男性のようだった。
キャップを深く被っている為に顔はよく見えない。
物販のロゴの入った袋を持っている事から、どうやら九井のファンのようだった。
女性が8割を占めるファン層ではあるが、男性ファンも居るには居る。
この場合助け起こしても同性である分、変な嫉妬や憶測は呼ばないだろうと判断した。
「あの、大丈夫ですか?」
落ちていた黒縁眼鏡を拾い上げて、差し出す。
男性は九井から声を掛けられた事に動揺した様子で、あわあわと慌てて引っ手繰るように眼鏡を取った。
だがその拍子に自分の腕が被っていた黒いキャップにぶつかり飛んでいく。
その瞬間帽子の中に隠れていたらしい、ハラリと金色の髪の毛が舞い上がる。
それからこちらを今にも泣きそうな表情で見つめる潤んだ、エメラルドの瞳。
現れた顔立ちの美しさに九井は思わず魅入った。
ぽってりとした赤い唇が微かに震え、動揺しているせいか白い頬は仄かに色付いていて色っぽかった。
困り果てたようなハの字になる太目の眉も影が出来る程長い睫毛も、髪と同じ金色に光っている。
時が止まったみたいにその姿に見惚れてしまった九井にどう思ったのか、彼はキャップを慌てて被り直し立ち上がるとその場を立ち去ってしまった。
あっという間の出来事に、後を追う事も出来ない。
いや、こんな場で後を追ったり名前や連絡先なんて聞ける訳が無いのだが。
それでもどういう訳なのか、九井はたった今目の前にいた男の事が気になって仕方が無かった。
容姿の美しい人間なんてそれこそ、たくさん見てきた。
芸能界にいれば、テレビではそんなに可愛いくないと評される程度のアイドルや女優でさえ平均値以上の美貌を持っている。それが当然の世界だ。
そういう人々を見過ぎてもう一般人を人間と思えないなんて言う者も居る。
九井は共演者の容姿には然程興味が無かった。
仕事相手としてやりやすいかどうか、演技が上手いか下手か、事務所同士の立場はどうか。その辺りの事しか気にならなかった。
特に俳優なんて作品によって様々な容姿が必要とされるのだから、優劣のような評価はあまり意味が無い。
自分が人気が出て売れていけば行くほど、美しいモデルや豊満な胸を武器にしたグラビアアイドルなんかが近寄って来る。
プロデューサーやスポンサーによってはそういう女性をわざわざ差し出そうとする者も居なくはない。
それを上手く断ったり、そのまま寝たりした事もあるにはあるが別に容姿が気に入ったからではない。
そうした方が後々良いと判断したからだ。
だが今の九井の頭の中には、金色の髪のあの男の姿が焼き付いて離れない。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
ひと目見て、忘れられ無いなんて。それも相手はファンであり、男であるというのに。
そういうものを飛び越えてもう一度彼に会いたいとさえ思った。
もしかして、これが一目惚れという感覚なのだろうか。
そんな事を感じている自分にこそ驚いてしまう。
ほんの一瞬見ただけなのに、彼の顔立ちの細部からふわりと香ったシャンプーの匂いまで思い出せる程に気になって仕方がなかった。
件の彼が気になって、どうしたらまた会えるのだろうかと考える。
男のファンは比率的には多くは無い。それならファンの間では知られた人間かもしれない。
あの容姿なのだ、話題になっていても不思議では無いだろう。
そう考えてSNSなどからファン達の反応や情報を辿る。
男性ファン達はちらほら見掛けるものの、どう探しても彼らしき人物は見つけられ無かった。
どこの誰かも解らない、探す難易度が上がれば上がる程余計に追い掛けたくなってしまう。
彼は自分の舞台を観に来て居たようだった。持っていた袋のサイズや量からして、中々の度合いのファンだと思う。
それなら確実に再び舞台を観に来るであろう。
だがそれがどの会場かは全く見当がつかない。
可能性として考えられるのは千秋楽辺りだろうか。
視力はあまり良くないが、コンタクトは入れている。
だが演技中は客席も暗いし自身も集中しているから見る事は出来ない。
九井は信頼しているスタッフに、客の中に探している人物が居る、と相談した。
理由は以前出待ちしているファンが彼に打つかって怪我をさせたかも知れないから心配だ、という風を装った。
スタッフは各当する人物が居たら直ぐに九井に報せる事を承諾してくれた。
日頃からスタッフを労い差し入れをしたり、食事をご馳走したりした甲斐があるというものだ。
そして九井が思っていたよりも、幾分か早く彼を見つける事が出来た。
特徴的な見た目であった事からスタッフも気が付いたらしい。
黒いキャップに黒縁メガネで身長は九井より少し高く、猫背で色白でドラケンがモデルをしているブランドの服を着ていた。
女性だらけの客の中でそんな人物がいれば印象には残り易い。
入場の際のIDチェックの時に本名は判明した。
「乾青宗」というらしい。
せいしゅう、か。少し珍しい名前だが綺麗な響きだと思った。
ほんのひと目見ただけの、それも男の情報を一つ得ただけでこんなに高揚している自分が少し不思議で可笑しかった。
次に九井が取った行動は、青宗の泊まる予定のホテルを突き止める事だった。
地方公演で終演の時刻を考慮したら恐らくこの辺りで宿泊していくだろう。
知り合いのこの辺で顔の利くイベンターへ連絡を取り、個人情報の扱いの観点から明らかに違法である方法でその情報を得た。
イベンターには今度、お気に入りのグラビアアイドルとの飲みの席をセッティングする事で手を打った。
青宗が宿泊するホテルは下の階は一般の宿泊客が泊まり、上の階は限られたVIPだけが入れる駅にほど近い有名なホテルだった。
九井は宿泊予定だったホテルをキャンセルし、またもやイベンターの口利きでVIP階の最上階を押さえた。
公演終了後、九井は急いで身支度を済ませると出待ちをどうにか躱してホテルへ向かった。
それから近くに停めた車の中から隠れて事の成り行きを見守る。
昔から何かをする時は用意周到に、それを相手に気取られる事なく自分に有利に進めるのは得意な方だった。
今回も練りに練って、一番確実で単純な方法を思いついた。
後は自分の演技力だけだ。
暫くすると、夜道を猫背の男がトボトボと歩いて来る。
九井が待ち構えていた、あの乾青宗だ。
顔こそ見えないが、見間違えたりはしない。
せっかく身長も高く、スタイルも良いのにあの歩き方は素材が勿体無いなと思う。
車をゆっくり降りると、そのまま青宗とは反対方向からホテルの出入り口へと向かう。
青宗は俯いて肩に掛けたバッグとグッズの袋を手に提げて、こちらに気付く事は無く歩いている。
やがてホテルの前までやって来たのを見計らい、今だと九井は足を踏み出した。
手にはスマホを持って、歩きスマホでもしていたという体だ。
「うわっ」
青宗が自動ドアを潜ろうとした辺りで、すれ違い様に肩をぶつけた。
思っていたより少し強く当たってしまい、青宗は悲鳴を上げてよろめきそのまま尻もちをついた。
ここまでするつもりでは無かったのだが、青宗が意図も簡単に転んだのも原因であろう。
その勢いでまた弾き飛ばされていく眼鏡。
肩に掛けていたトートバッグが落ちて、中の荷物が散乱した。
スマホや、眼鏡ケースやウォークマンが地面に落ちている。
「すみません、余所見してしまって…」
努めて自然に、あくまでも偶然を装う。
打つかってしまった事を心から申し訳無さそうに謝って、落ちた物たちを素早く拾い集めた。
古典的な手法ではあるが、これが一番手っ取り早く自然に出来ると踏んだのだ。
「あ、いえ…だ、大丈夫ですから…」
あわあわと焦った様子で青宗もしゃがみ込んで散乱してしまった物たちを拾っている。
手に取ったスマホを汚れを適当に払って、その手に手渡そうとして顔を上げる。
「あれ、もしかしてこの間、劇場にきてた…」
「え!!?あっ、こっ、こっ、ココ!?」
やっと青宗も顔を上げてこちらを見たかと思うと、目の前には先程まで舞台の上に居た九井の姿に驚いてまた尻もちを着いている。
九井の方は多少変装をしているものの、近くで見れば直ぐに誰か解る程度に留めていた。
そのお陰か青宗は直ぐにそれに気付いてくれた。
ここまでは概ね計画通り、順調である。
「この間も俺のファンの人があなたに打つかってしまったようで…今日は俺がなんて、本当にすみません」
「い、いや…平気、大丈夫…です…」
「あ、手擦りむいてませんか?」
少し赤くなっている手を取ってみれば、顔の割に案外しっかりと骨っぽくゴツゴツして男らしい手をしている。
自分は手にしろ外見をとにかく細部まで綺麗に保つのが仕事のようなものだから、普通に働いている男の手はこんなものなのだろう。
青宗の温かい体温を感じられるその手が心地良いと思った。
「ヒッ…手、大丈夫、大丈夫だから、離して…」
九井に手を握られているということに動揺して顔を真っ赤にしながら、手を引こうとする青宗の反応は面白い。
だが、本当に怪我をさせるつもりは無かったのだ。
例え掠り傷でもそれは申し訳無い気持ちになった。
「でも、俺のせいだから…そうだ、良かったらこの間と今日のお詫びも兼ねてこの後食事でもご馳走させてください」
正直強引な形ではあるが用意していたセリフを口に乗せて言うと、青宗はは?!とそれは面白いくらいに驚いた。
それからブンブンと勢いよく首を振って、無理、大丈夫、平気、と単語を発する。
断ってくるのは想定内だったから、九井はギュッと手を握り直して表情を作った。
心底申し訳無い、と言う顔で困ったように眉を下げて距離を詰める。
青宗は九井のファンである事から恐らくこの顔には弱いだろうと踏んでの力技だ。
「俺のせいで2度もこんな事になって怪我までさせてしまったら申し訳無い。お願いです、どうかお詫びをさせてください」
ぐっと顔を近付けてそう言ってやれば、青宗は数秒九井の顔に見惚れて呆けていた。
それから直ぐにハッとして、でも…と迷う素振りを見せるからぎゅっと握る手に力を込めた。
そんな迫真の演技の九井に騙されてくれたらしい、青宗はじゃあ少しだけ…と頷いた。
良かった、と安堵の笑みを浮かべながらもここまでは概ね計画通りに事が運んでいるなと思う。
しかしそれにしても、この乾青宗という男は押しに弱過ぎるのでは無いか。他人事ながら少し心配になってしまう。
青宗が起き上がるのを手伝うと、ここで良いかとホテルを指し示せばどこか気まずそうに頷いた。
そんな青宗を連れてフロント前を通り抜け、上階のエグゼクティブフロア直通のエレベーターに乗り込むとカードキーをパネルに当てる。
一般フロアより上はこれが無ければ上がれない作りなのだ。
エレベーターの中、怪我の心配や今日も舞台を観に来てくれたんですね、なんて世間話を振ってみる。
青宗はその度にボソボソと小さな声で大丈夫、うん…、と短く答えた。
緊張と戸惑いのせいもあるが、恐らく青宗は人見知りをする方なのだろう。
それから他人との交流が苦手でもあるようだ。
まるで自分の容姿を隠すような格好をしている。深く被ったキャップに、顔を隠すような分厚いレンズの眼鏡。
一見大人しそうな地味な青年に見えるが、九井はその下にある美しい素顔を知っている。
光りを受けて艶々と輝く金色の髪や、緑にも青にも見える不思議な虹彩の瞳。ぽってりとした赤みのある唇。
それらがこの後どう変化するのか見てみたかった。
自分の前でこの男はどんな風になってしまうのか、考えると楽しみで仕方ない。
「え、ここって…」
てっきりレストラン等に行くだろうと思っていた青宗であったが、九井が足を止めたドアには部屋のナンバーが印字されている。
廊下の奥まった所に現れた扉。隣の部屋とは随分距離があるようだ。
「あまり目立つと困るから、レストランとかは避けたくて俺の部屋でルームサービスを取りましょう。男同士だし気兼ね無く寛いでください」
男同士だからと言ってその身が安全だなんて、一体誰が言ったか。
九井は人の良さそうな作り笑いを浮かべて、青宗を部屋の中へと誘った。
戸惑いながらも、ファンであるアイドル九井一がどんな部屋に泊まっているのかと言う好奇心はあるようで興味深々に室内を見ている。
「すごい…ひろい…」
この街の夜景が展望出来る最上階の、所謂特別室と称される部屋だ。
九井程の国民的アイドルグループともなれば、地方に泊まる際にはそれなりの部屋が用意される。
本来泊まる筈だった部屋はここよりも更にグレードは上だったが、今回は「偶然」が必要だった。
それでもこの部屋も悪くは無い。ここのホテルはルームサービスもそれなりに充実している。
「今ルームサービス頼むから、待ってくださいね。適当に寛いでてください」
コクコクと頷いた青宗はそれから視線を彷徨わせたあと、手…とつぶやいた。
恐らく手を洗いたいのだろう。九井は他人より察する能力に長けている。
洗面所の場所を教えると逃げるみたいにパタパタと走り去った背中を見送ってから、九井も上着を脱ぎ備え付けの受話器を取るとフロントへ電話かける。
ルームサービスを二人分、飲みやすく度数がそこそこにあるワインも頼んでおく。
年齢は知らないが、成人は過ぎているだろう。そうで無かったらこの後流石に何も出来ない。
何も、が意味する所はなんなのか。そういう展開にどうにか持ち込めるかどうか。
九井は頭の中で考えている案を思い出しながら、とりあえず持て成す為にミニバーで軽い食前酒を漁る。
「そういえば、名前聞いて無かったよね。」
洗面所から出てきた青宗へ、少し距離を縮める為に砕けた口調に変えて名前を尋ねる。勿論把握済ではあるが。
「ぅ、え、と…いぬい、です…」
「名字が乾さん?下の名前は?」
「せいしゅう…」
「せいしゅうって言うんだ、格好良い名前だね。俺は、九井一、って知ってるか。これ本名なんだ」
安心させる為に少し戯けて言って見せると、青宗は頷いて九井が本名である事も知ってる、と答えた。
そりゃあファンなのだから、その辺りの事は当然把握出来るだろう。
「ね、乾くんはあだ名とかある?俺はまんまココってアイドルやる前から呼ばれてるんだけど」
「…い、いぬぴーとか、ガキの頃、言われてた…」
「へぇ、イヌピーか。可愛いね、俺もイヌピーって呼んでいい?」
コクリと頷いた青宗へ、フルーツワインを注いだグラスを差し出した。
アルコールは平気かと尋ねれば、少しならと答える。
「じゃあ、改めて怪我させちゃってごめんなさい。細やかだけどお詫びさせてね。遠慮しないで好きな物好きなだけ食べて」
「ぁ…、ほんとに、大丈夫だから…」
遠慮がちにしている青宗のグラスにコツンと軽くグラスを重ねて乾杯をする。
グラスに口をつけた九井に習って青宗もそれを口に含む。
座るようにソファへ促して、青宗が腰を落ち着けた所でドアをノックする音が聞こえた。
ドアスコープから相手を確認して、頼んでいたワインと簡単なオードブルが運ばれて来たのを迎え入れた。
ホテルの従業員がテーブルをセットしてワイングラスやカトラリーを並べ配膳を終えると、速やかに出て行く。
青宗はどうしたら良いのか身の置き場に困ったみたいにソファの隅で小さくなっている。
「そういえば、イヌピーって何歳なの?」
「おなじ、ココと…」
「俺と?じゃあ21なんだ。歳近そうだなと思ってたけど、同じ歳なの嬉しいな」
微笑むと青宗は頬を赤らめて俯いてしまう。
さっきから反応は可愛いが、その不躾な眼鏡が邪魔だなと思う。
正直ダサいと言える眼鏡やキャップは容姿を目立たなくさせる為なのだろうが、勿体無い。
あまり目立つ事を好まなそうな性格だと思うが、ここまで隠さなくても良いのに。
よほど、その容姿で嫌な思いをしたのかもしれない。
妬まれて嫌な事を言われたり、好きな子の気を引きたくてガキ臭い揶揄いをされたりだとか。
「イヌピーのそれって、レンズ入ってないよね?伊達眼鏡?」
無くなった食前酒の代わりに白ワインを勧めながら、突っ込んだ事を聞いてみる。
それに青宗はぎゅ、と唇を噛んで頷いた。
余程そこには触れられたくないのだろう、とは思うが九井はもう一度その顔が見たくて仕方ない。
「外すの嫌なの?」
「…人前で、顔みせると、嫌な気持ちにさせるから」
何か根が深いものがあるのだろうか。
あんな綺麗な顔を見せられて不快に思う人間なんて少ないと思う。
好みはあれど、少なくとも青宗の顔はそういう嫌な感情を抱かせるようには見えない。
自分は仕事上、高感を持たれる表情や容姿を作っている。
例え好みじゃない髪型だろうが、衣装だろうが望まれれば着るのが仕事でもある。
そういう事情がある訳でも無いのだから、その容姿を活かした服装をすれば良いとは思うが本人の思う事もあるのだろう。
普段ならそれを考慮し触れないようにするが、九井は青宗のあの美しい顔が見たい。
「嫌な気持ちになんてならないと思うけど…、ね、俺とイヌピーしか居ないんだし外してみない?」
キャップすら脱がない青宗にそう切り出してみる。
予想通りふるふると首を振って嫌がる青宗の反応に、九井は向かい側に座っていた体をテーブルの上に乗り出す。
それから顔を近付けて、眼鏡の辺りをじっと見つめる。
それにタジタジとなって身を引こうとした青宗の手を握り更に顔を近付けてから、眼鏡を指差した。
「これ、傷ついちゃってる!ちょっと見せて」
「え、いや、平気…」
「駄目だよ、この間落とした時のやつじゃない?ちゃんと弁償するから、貸して」
「や、ほんとに大丈夫、安物だし」
「良くないよ、俺のせいだし。ね、貸して見せて」
少々強引な言い分で手を差し出すと、暫し九井とその手をうろうろと視線を彷徨わせ見つめた後。
青宗は渋々といった様子で眼鏡を外した。
野暮ったいデザインの眼鏡の下からは、綺麗なエメラルドの瞳が現れる。
重たそうな程長い睫毛を気まずそうに伏せて視線を逸らす様がどうにも色っぽい。
「…あー、やっぱりここ欠けちゃってるね。着けると危ないしこっちに置いておくね。」
「え…」
「キャップも取っちゃいなよ。あっちのハンガーラックに掛けておくよ」
立ち上がって眼鏡を手にキャップを寄越すようにと言うと、迷ったように瞬きをしたあとにじゃあ、と遠慮がちに脱いだ。
一つに縛られた金色の髪が肩に落ちる。
(マジで顔が良い。髪も綺麗…めちゃくちゃタイプだわ)
それを目に留めると、本当はもっと鑑賞したいぐらいだがジロジロ見ると不審がられると何でも無い振りを装う。
キャップをハンガーラックに掛けて、眼鏡はミニバーのカウンターの端に置いた。
少し離れた所から見る青宗はこの状況と、素顔を晒している事に落ち着かないのかソワソワとしている。
バレ無いように頭の上から爪先までを眺めた。
さて、この後どうやって彼を上手い事ベッドに持ち込もうか。
今日は食事だけして、眼鏡を弁償するからと連絡先を聞いて帰らせても良かった。
だがあの綺麗な顔を目の前に、何もせずに帰らせるなんて勿体無い。
経験は少なそうだし、ちょっと酔わせて押せばいけるだろうか。
勿論無理強いなんてする気は無いが、向こうだって自分のファンだと言うのだから多少はガードも緩むに違いない。
そうやって我ながら最低な事を数秒間で考えついた。
黙っていれば女は寄ってきたし、落とそうと思って落とせなかった事も無い。
だからこんな風に獲物を前に、それをどう攻略するかを考えるのが楽しくなってきた。
九井はアイドルとして培って来た爽やかな笑みを浮かべながら、青宗に近づいていった。
.