レオナと召使い夢を見ていた。
なによりも大事だと思っていた人と、小さな家でささやかな幸せに笑い合う夢を。
少し手を伸ばせば触れられる距離にある肩が愛おしくて、自分を見つめる眼差しが可愛くて、年甲斐もなく大声を上げて泣きたくなった。だってこれは夢だから。現実とはあまりにもかけ離れた…叶うことのない夢。
彼女の隣で笑いながら、自分はこれが夢なのだと分かっていた。彼女の声を聞くと胸が痛くなるから。彼女の指先が触れると、恋しくて堪らなくなるから。普段の自分なんかかなぐり捨てて、子供のようにしがみついて、置いていかないでくれと泣き叫びたくなるから。
幸せな夢。
覚めないでいられたら、どれほど良かっただろう。けれど無常にも朝はやってくる。明けない夜なんて無い事を、もう自分は知っているのに。自分を置き去りにして朝日は登ると、もう自分は知っているのに。
瞼を持ち上げて天井を見つめれば、まだ夢の残り香が自分の隣に寄り添っている気分になれた。
「…お前の居ない世界は、こんなにもつまらないんだな…」
ズキズキと痛む左目に語りかけるように、レオナは朝日に照らされながら涙を流した。
彼女の居る暖かな世界から、彼女の居なくなった冷たい世界へ戻る時、その境界線を、レオナは涙を流さずに越えることは出来ないのだ。
その日は珍しく雨が降っていた。
夕焼けの草原において、雨は恵みだ。
王宮の中から窓の外を眺めた女は、ある人物に目を留めた。
護衛の1人も付けずに、優雅に歩みを進めるのはこの国の第二皇子。彫刻のような凛々しく美しい横顔は、彼が30歳を迎えてからより磨きが掛かったように見える。
湿気を多く含んだ風に靡いた、長い髪の間から覗いた彼の三つ編みに、エメラルドグリーンに光る髪飾りが見えた。
レオナ様…今夜会いに行きますね…
「レオナ様…」
「…早くこっちへ来い」
「はい」
彼女は恭しく頭を下げて、規格外のベッドに寝転ぶレオナに近づいた。
「最近あまり眠れていないのですか?」
「あぁ…そうだな…」
「では、失礼しますね」
決まり事の様に彼女がベッドを軋ませて、ちょこんと座れば、レオナは躊躇いもなく彼女の太ももに頭を乗せた。
「ゆっくりお休みください」
「助かるぜ…」
長い髪を撫でて、普段は手の届かない温もりがすぐ側にある事を確かめる。
いつからか彼は髪の毛を伸ばし始め、その美しさに磨きをかける様になっていった。
「レオナ様…髪の毛は切らないのですか?」
小さな声でまだ寝ていないであろうレオナに聞いてみれば、傷痕の残る左目が薄く開かれた。
「そうだな…お前をここから攫える日が来たら切るんじゃねぇか?」
エメラルドグリーンの美しい瞳に見つめられて、恋焦がれる彼にそんなことを言われて、胸が震えないわけがなかった。それが彼の本心で無いと分かっていても。
「嬉しいです…いつまでもお待ちしてますから…」
「あぁ…」
ゆっくりと瞼が閉じられると、すぐに小さな寝息が聞こえてきた。
彼とこんな関係になったのはいつの頃だっただろうか。別に劇的な出会いがあった訳でもない。自分はこの王宮に仕える召使いの1人で、彼は王族だった。
初めて膝枕をした次の日、安眠できるからという理由でこうして偶に呼び出される。合図は彼の髪飾り。そこにエメラルドグリーンの宝石が揺れる時、彼女の胸はジワジワと熱を帯びて、胸に秘めた恋心と共に彼の元へと足を運ぶのだ。
ただ夜を共にする、プラトニックな関係。それが10年近く続いていた。
2年前にレオナにはフィアンセが出来た。そこに彼の意思は存在しないと言っていたが、そんなものお構いなしに全てが決まっていくのが王族の務めでもあるらしい。
「レオナ様…ご結婚されたら私はお役御免ですよね…?」
分かっていても、彼への想いが消えることは無い。いつの日か美しい妻を横に連れて歩く彼を見る日が来ようとも、今この時は…彼の温もりを手放したくない。
夜が明ければ、彼女は1人暗い廊下を歩いて部屋へと戻る。誰にも知られてはいけない、2人だけの秘密を胸に仕舞い、今日の仕事に取り掛かる。
「…流石に年齢的にも寝てないと辛いかも…」
10年前は寝なくても仕事に支障は無かった…フラつく脚は、やはり年齢には勝てないということの証明に他ならないだろう。
朝食の準備の為、厨房に向かう途中の廊下で足を止めた。頭までクラクラして、なんだか本当に倒れてしまいそうだ…
「おねぇさん、大丈夫?」
「あ…チェカ様…、申し訳ございません…」
廊下の柱に肩を預けていたせいで、要らぬ心配をさせてしまったと焦って頭を下げる。
「別に謝らなくても大丈夫だよ?けど、体調が良くないなら休まないと」
「い、いえ…大丈夫ですので…無用なご心配をさせてしまい申し訳ありません」
「…そう?あまり無理しないでね?」
ミドルスクールに通い始めたチェカは、この頃よりファレナに似てきたように見える。陽だまりのように優しく温かい笑顔。それが愛しのレオナを苦しめていると知ってから、あまり良いものに感じなくなってしまった。自分は最低な女だ。
チェカが去っていったのを確認して、彼女は近くのお手洗いへと駆け込んだ。
「ハァ、ハァ…」
体調が悪いなんて言えない。言ったら最後、優しいレオナは呼び出してくれなくなるだろう。余計な言葉を交わす事の無い、歪な関係。それに縋り付いてもう10年も経ったのだ。今更こんな事で失うのだけは嫌だった。
「レオナおじさん」
おじたん呼びを数年前に辞めたチェカに呼び止められて、レオナは気怠そうに振り返った。
「なんだ」
「さっき召使いのお姉さんが体調悪そうにしてたんだけど…知ってる?」
その言葉に、レオナの素直な耳はピクリと動いた。そしてチェカがそれに気付かない筈もない。
「あ?召使いって…王宮に何百人いると思ってんだ」
「おじさんってば素直じゃないんだから…今更分からないなんて僕には通じないよ?」
「…チッ」
まだ10代半ばにして食えない性格に育った甥っ子に、レオナは顔を顰めつつも踵を返した。
それからレオナは広い王宮を歩き回り、漸くチェカの言っていた召使いを見つける事が出来た。
「オイ」
「あ、レオナ様…!如何されましたか?」
「体調…大丈夫なのか?」
レオナは優しくそう聞いた。
もし彼女の体調が優れないのであれば、それは自分のせいだろう。昔のように無理をさせてはいけないと分かっていても、彼女を呼び出すのを辞められずにいるから。
「体調ですか…?
特に何もありませんよ?」
「…本当か?」
「もう、レオナ様もファレナ様の様に心配性になられてしまって…私は元気ですよ」
「それなら良いが…」
ニコニコと笑う彼女の冷や汗に、レオナは気付かない。レオナが鈍感なわけではない。寧ろ彼はこの王宮の誰よりも感が鋭かった。しかし、10年も側に居続けた彼女の方が上手なだけだ。
「レオナ様こそ、お加減はどうですか?」
「お前のおかげで問題ねぇ」
「それは良かったです。
またいつでも呼んでくださいね」
彼に必要とされていたい。
それで例え自分の体がボロボロになったとしても、きっともう彼が自分に甘えてくれる時間は多く残されていないのだから。
「…なんかあったらすぐ言えよ」
「はい、胸に刻んでおきます」
「じゃあな」
レオナはそれだけ残して、再び来た道を戻り始めた。
「レオナ!」
「兄貴か…なんだよ」
「いやぁ、偶々さっきお前宛の手紙が届いてると知ってな!確かラギー君だったかな?ホラ」
声を掛けてきた兄から手渡されたのは、1通の封筒。
「ラギーが?」
「レオナが学生時代によく世話になった子だろ?何か困ったことがあれば力になってやるんだぞ?」
「わーってる」
なんの変哲もない封筒に、なんだか胸騒ぎを覚えた。
レオナの予感は当たった。
ラギーが監督生を追いかけて異世界へ旅立ったと手紙には綴られていた。レオナへの感謝の言葉と、別れの挨拶と共に。
「あの野郎…!」
ラギーとは卒業後も関わりがあったのだ。レオナにとって、彼の存在は大切なものであったし、自分たちの絆がこんな一枚の紙切れで終わらせられるものだとも思っていなかった。
それ故怒りが湧いたと同時に、どこまでも自由な彼を羨ましく思った。
「クソ…とりあえずモヤシ野郎のとこに行くか」
ラギーを異世界に送り込んだのはイデアだと書いてあった。それならばラギーを連れ戻すことが出来るのもあの男だろう。ラギーの10年に及ぶ恋慕も知っていた。あの男が幸せになる時、それを分かち合うべきなのは自分だとも思っていた。決して口には出さないが。
そしてもう一つ。
レオナの胸にはある野望が形を成していた。それは長く望んできたこと。諦めかけていた野望を遂げることが出来る僅かな可能性。それを掴んだのならば、離す気など更々無い。
外出用の服に着替えて、レオナは王宮を後にした。
それから3日後、レオナの髪飾りにエメラルドグリーンを見つけて、女は胸が躍った。
まだ体調が完全に戻った訳では無かったが、彼が自分を求めてくれているという事実が嬉しかった。早く夜になれと願いながら、彼女は淡々と仕事をこなした。そんな彼女を見つめるチェカの視線にも気付かぬほど浮かれていたのだ。
その晩、女はいつものようにこっそりとレオナの部屋へ向かった。
「レオナ様」
「悪いな、頻繁に呼び出して」
「いいえ…とても光栄な事ですから」
「そうか…こっちへ来てくれ」
「はい」
いつも通りにベッドへ腰掛ければ、太ももに柔らかい髪の毛が触れる。
「レオナ様、何かお悩み事が?」
「どうしてだ?」
「私を呼び出すのは、レオナ様が眠れない時でしょう?何か悩み事があるのかと…」
レオナは美しく輝く瞳をパチクリとさせ、女を見上げた。彼女は何かを勘違いしているらしい。
自分が彼女を呼ぶのは、ただその愛しい温もりに触れていたいから。寂しいからなのだ。
しかし今はその感情を言葉にすることも、形にすることも許されない。それが自分の置かれた立場だからだ。
黙りこくっていたレオナに、女は申し訳なさそうに慌てて眉を下げた。
「…出過ぎた真似をしてしまいました…申し訳ございません…」
「別に構わねぇ。
悩みならもうすぐ解決する予定だから心配すんな」
「そうなの、ですね…」
レオナの苦悩など、自分には分からない。第二王子という立場で生まれ、苦しみ続けてきた彼をずっと見てきた。それでも彼の痛みの全てを知る事は叶わない。
「顔色が良くねぇな。
近いうちに色々あるからな…体調を崩さねぇようにしろよ」
近いうちに…何があるのですか?その一言が言えない。深入りはしてはいけない。レオナは自分に優しくしてくれたり、甘えたりしてくれるが、それはただの気まぐれでしかないのだから。
「ありがとうございます…レオナ様」
「あぁ」
忙しなく過ぎ去る日々の中で、唯一の安息の時間。まだ奪われたくはない。いつか終わりが来ると分かっていても。
喉を鳴らし始めたレオナを見つめながら、鼻の奥がツンと痛くなるのを感じた。
その日、女はいつもと変わらず調理場で大量の野菜を洗っていた。レオナが最近王宮に帰ってくることが少なくなったせいもあり、あの夜から彼には触れていない。それどころか、姿を見る事自体めっきり減ってしまった。
冷水に晒され続けた指先にはささくれが目立つ。
どこか節くれ立った指は、お世辞にも綺麗とは言えない。
仕事柄仕方がない事だと分かっていても、やはりレオナにそれを見られるのは嫌だった。
…次のお休みにハンドクリームを買いにかないと…
次にいつ呼ばれるかは分からない…いや、もう呼ばれる事は無いかもしれない。もうあの温もりを感じることも、柔らかい髪の毛を撫でる事も無いのかもしれない。そう思うだけで今にも涙が溢れそうになるのに、その日はいつか必ずやってきてしまうのだ。
余計な事は考えないように、不安を頭の片隅に追いやって目の前のことに集中する。でないと、今日を乗り越えられないから。だって今日は___
レオナのフィアンセがやってくる日だから。
やっと久しぶりにレオナの姿を見られるのに、その隣にはあの美しくて気高い姫がいるのだ。
それから3時間後。
予定通りレオナのフィアンセはやってきた。レオナは相変わらず気怠げな顔をしていたが、無礼を働くことはない。大人しく妻になる女性の隣に座っていた。
「いやぁ、また美しさに磨きが掛かりましたなぁ」
「うふふ、そんな事ありませんよファレナ様」
「いいや!前回お会いした時もお美しいとは思いましたが、今回もお会いした瞬間刻が止まったかと思いましたよ!な、レオナ!」
ファレナにいきなり話を振られて、レオナは思わず固まった。隣に座るフィアンセはキラキラした目で此方を見ている。ファレナからでは無く、レオナからの言葉が欲しいのだろう。
しかしそんな彼女の奥に、レオナは真に愛する女性を見ていた。陶器で出来たジャグを持って立っている彼女こそがレオナの本当に欲しい人で、そんな人の前で他の女性を褒めるのは憚られた。
「レオナ様は…褒めてくださらないのですか…?」
フィアンセは黙りこくるレオナに、眉を下げて身を乗り出した。
「…思わず見惚れてただけだ…」
「まぁ!レオナ様ってば」
「レオナは口下手だからなぁ〜
しかし貴女となら上手くやれそうだ!」
「光栄ですわ」
そんな会話が繰り広げられる中、エメラルドグリーンの瞳は愛する人に向けられる。
好きでもない女に、思ってもいない事を言う自分を見て欲しくなかった。レオナは堂々とした姿で、己の不甲斐なさと不安に押しつぶされそうになっていた。
約10年も想ってきたのだ。
ただの一度も、好きだと伝えられずに。
その辺で出逢った、なんの肩書きもない者同士であれば10年前にきっと彼女を抱き締められたのに。
でも、愛する女性は眉ひとつ動かさない。それがレオナには堪らなく切なくて、冷たい雨に晒されているような気持ちになった。
「貴女…手のケアはしていらっしゃるの?」
女の勘とは怖いものである。
レオナのフィアンセは、意地悪な笑みを浮かべて召使いを嘲笑った。
勿論ここにレオナは居ない。
彼女をお手洗いに案内する為に、長い廊下に2人きりだ。
「あ…申し訳ございません。
お見苦しいものを…」
「可哀想ね、召使いだと女である事も忘れてしまうなんて」
「…申し訳…ございません…」
フィアンセの嫌味になんと答えたら良いのか分からない。女は俯いて小さく謝罪の言葉を述べるしか無かった。
チラリと見えたフィアンセの指は、遠目でも分かるほど美しくてしなやかで、自分のガサガサになってしまった指とは比べ物にならない。…いや、それだけではない。彼女はまだ若くて美しくて、自信に満ち溢れている。獣人の女性らしい強さがある。肌もボロボロで、生きる糧がレオナとのささやかな触れ合いだけしかない自分など、到底敵うはずもない女性だ。
「良いのよ、謝らなくて。
でも私貴女のこと気に入ったわ。
ちょっとウジウジしてて湿っぽいのが玉に瑕だけど、女にしては珍しく従順だし」
「?…ありがとうございます…」
「だから、貴女を私の王宮で雇ってあげるわ」
その言葉を聞いて、女は目の前が真っ暗になった。
「あの…それは…」
「明日からでも構わないわ。
ファレナ様には私から話をつけておくし、貴女の代わりはこっちで用意するから気にしないで」
彼女の真意は掴めない。
ただレオナから引き離されるという現実以外は、何も分からない。あと1年もしたらフィアンセはレオナの妃になる。だからせめてあと1年は…そう思っていたのに。
何も答えられない女に、それを黙って見つめるフィアンセ。永遠かと思える沈黙を破ったのは、そのどちらでも無かった。
「お姉さん、その話僕も詳しく聞きたいな」
突然話に入ってきたのはチェカだ。思わぬ人物の乱入に、召使いは慌てて頭を深々と下げた。
「あら、チェカ様。
ごきげんよう。
今ね、この人をうちで引き取ろうかと思っていまして」
「ふーん、どうして?」
「だって、この人やつれてるし隈は酷いし肌はボロボロで…何より手先もガサガサなのよ。女性として可哀想よこれは。ここはどうしても男性が多いからこうなってしまうのも仕方がないけれど」
まるでこの人は悪くないのよ、この環境が悪いの。そう言ってるかのようだった。心配してるような言葉に、もっともらしい提案。きっと優しいファレナは気付けず申し訳なかったと謝って、彼女の提案を飲むだろう。
しかしチェカはそっかぁ〜とだけ明るく言うと、コツコツと足音を響かせて女に近寄った。そして、その荒れてしまった手を優しくとると、可愛らしいポットを掌に乗せた。
「はい、ごめんね。遅くなっちゃって。このハンドクリーム、前話した僕のお気に入りなんだ。早速今日の夜から使ってみてよ」
チェカの言葉に、掌の上のポットに、上手く頭が回らない。だって、彼ととハンドクリームの話なんてしたことは無い。ハッと我に返って、こんな良いもの受け取れない…そう言おうと顔を上げたが、チェカの瞳は"話を合わせて"と訴えかけているようだった。
「あ…ありがとうございます…チェカ様。大事にいたします」
「うん、そーして!…で、お姉さんは…僕の召使いを横取りしようとしてるんだっけ…?」
振り向いたチェカは、子供とは思えない鋭い視線をフィアンセに向けていた。
「よ、横取りなんて…ただ、私はこの人の為を思って…!」
「心配してくれたんだね、ありがとう。でも大丈夫だから。確かに僕たちは気が利かないけど、お姉さんに教えてもらえたしこれからは気をつけるよ」
だからもう、これ以上その話をするな。そうチェカは言っているようだった。
フィアンセは顔を真っ赤にして眉を釣り上げると、来た道をあっという間に走り去ってしまった。どうやらお手洗いに行きたいと言ったのは嘘だったらしい。
唖然とした顔でフィアンセの後ろ姿を見ていた女は、慌ててチェカに頭を下げた。
「も、申し訳ございませんチェカ様。私のせいでこのようなことに…」
「ううん、大丈夫だよ。
君がここから居なくなっちゃう方が僕は悲しいし。きっとレオナおじさんも悲しむから」
まるで2人の関係を知っているような口ぶりで、女はなんと答えたらいいか数秒迷ってから、手の中にあるハンドクリームをチェカに差し出した。
「その…私如きが受け取るわけにはいけませんので…こちらはお返しいたします」
「ダメだってば。
今あのお姉さんにも約束しちゃったし、それは貰ってよ。僕の使いかけで申し訳ないけど…無くなる頃にまた新しいのを渡すからさ」
「そんな!滅相もございません!チェカ様のお手を煩わすなんて」
「じゃあ命令だよ。
それは君が使って。
次からも受け取って。良い?」
「…っ…ご命令ならば、従います…出過ぎた真似をしてしまい申し訳ございません」
チェカはその言葉にふんわり笑うと、良かったと一言言った。
まさかチェカに助けてもらうことになるとは夢にも思わず、更にハンドクリームまで貰ってしまった。
申し訳ないような、でもレオナとまだ離れなくても良いのだと思うと、心の底から安堵した。
その夜、レオナは女を寝室に招いた。一日中フィアンセの相手をして酷く疲れて果て、あの優しい眼差しで見つめて欲しくて夜が待ちきれなかった。
いつものように扉からスルリと入ってきた彼女は、ベッドに座ってレオナの頭を撫でる。
「レオナ様、今日はお疲れ様でございました」
「あぁ…お前も疲れてるだろうに悪いな」
「いいえ。私は大丈夫ですよ」
彼女の前では、王族としての自分を忘れられる。ただの男になって、ありのままの姿でいられる。それがどれほど難しくて尊い事か、レオナはよく知っていた。
もっと触れていたい。
言葉という形にして気持ちを伝えたい。
日の当たる場所を2人で肩を並べて歩きたい。
そんな日が、きっともう少しでやってくる。
幸せな未来を想像してまどろみ始めた頃、彼女の小さな手が自分の頭を撫でて、ふと嗅ぎ慣れた香りが鼻腔を掠めた。
「ん…お前、この匂い」
「あ、お嫌でしたか?」
「いや…嫌いな匂いじゃねぇが…ハンドクリームか何かか?」
「はい…実はお昼間にチェカ様から頂いてしまいまして」
彼女口から出てきたチェカの名前に、一気に眠気が吹っ飛んだ。
「なんでチェカから…」
「それが…」
女は今日起こったことを淡々と話した。レオナのフィアンセに連れてかれそうになったこと。チェカが助けてくれたこと。それらを静かに、レオナの睡眠の邪魔にならない程度の声で話すのだ。
レオナにとって、この話はつまらない話だと思っているから、彼が飽きていつの間にか眠りについても良いように。
けれどレオナからすれば、寧ろ目が覚めるような話だったわけだ。なんせ、自分が知らない間に彼女がここを去ることになっていたかもしれないのだ。
フィアンセはきっとレオナの眼差しに気づいていた。だから彼女をここから追い出したいのだろう。きっと女性として傷付いただろう。酷いことを言われてもいつもの様に眉を下げて笑って、耐えたのだと想像ができる。そんな時自分はファレナと呑気に食事をしていた…情けなくて涙が出そうだった。
そして彼女を助けたのは自分ではなかったことにもショックを受けていた。
「悪かった…俺がいりゃ…」
「とんでもありません。
レオナ様はあの方の旦那様になるのですから、今からトラブルの火種を起こす必要はありませんよ」
彼女がレオナの立場を心配してそう言っているのは重々承知していたが、やはりそこに居るべきはチェカではなく自分でありたかった。そして彼女にもそれを望んで欲しいのに…
「お前は気を使いすぎだ…もう少し頼れ。それに…もしアイツが今後同じような事を言ってきてもすぐに頷くな。必ず一旦保留して俺に相談しろ」
「ありがとうございます…ですが、私はただの召使いですから…レオナ様の奥様になられる方が望むのであれば仕方のないことです」
「お前は…アイツに言われたらそんなに簡単に此処を出ていくのか…?」
「…レオナ様…私に意思などございません」
どこか諦めたような声色だった。彼女はいつもそうだ。初めて会った時はもっと明るくて、そばに居るだけで心が温かくなった。自分は今も彼女といることが幸せなのは変わりないが、彼女はどう思っているのだろうか。ふとその心に影が落ちた。
レオナはずっと両想いだと思っていた。自分は彼女だけを特別扱いし、彼女もそんな自分を受け入れてくれていた。でも、この10年でそれはただの重荷になっていたのかもしれない。
そこに彼女の意思はなく、ただレオナの命令だから仕方なくこうして会いに来てくれているのかもしれない。
そう考えたら、レオナの胸はぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
「意思くらい、あるだろ…俺には嘘をつくな」
「も、申し訳ございません…」
「謝らなくていい。
ただ…自分を蔑ろにするな」
「…ありがとうございます…レオナ様はとてもお優しいですね…。きっとフィアンセもお喜びになりますね」
「っ…!
前も言っただろ…俺はアイツになんの感情もねぇって」
「で、ですが…」
「口答えするな!!」
思わずレオナは声をあげていた。そしてすぐに我に帰る。彼女の恐怖に揺れる瞳が嫌でも目に入って、どうして自分はいつも上手くやれないのだと後悔する。
「わ、わりぃ…違うんだ。俺は色々混乱してて…」
「大丈夫ですよ…分かっております」
「…何も分かってないだろ…お前は」
こんな事を言いたいんじゃない。彼女には彼女の立場がある。自分よりも更に厳しい場所に身を置いていて、この関係がバレた時真っ先に処罰されるのは彼女なのに。どうしていつも自分は彼女の事を考えてやれないのだろう。
「申し訳ございません…」
その言葉は聞き飽きた。
もっと他の言葉を聞きたいのに、このままの関係ではそれは叶わない。
でもそれも、あと数ヶ月。
イデアが依頼を成功させれば、本当の自由を手に入れられる。その時、彼女が喜んでくれるのかは分からない。手を取ってくれるかは分からない。
それでもレオナは長年の夢を渇望した。
あの夜から数日、女の体調は悪化の一途を辿っていた。悪い病気かもしれないと同僚に言われ、仕方なく病院へとやってきていた。
真っ白な診察室で、目の前に座る医者が顎に手を当ててため息をついた。
「…我々ではどうにも出来ません…申し訳ない」
その言葉を聞いた時、女は悲しくなったのかホッとしたのか、自分の感情も分からぬままただ俯いた。診察室の前を通る看護師たちの足音がやけに大きく聞こえた。
「先生…私はあとどれくらい生きられますか…?」
「もって1年ですね…無理をすれば1年も経たずに…」
医者はその先を言わなかった。"無理"というのは、レオナの側にいる事を指すのだろうか。例えそうであっても、彼女の中にレオナのお願いを断る選択肢は存在しない。
寧ろそう遠くない未来、自分が消えてしまうのなら最後の時間は彼の側で、彼の温もりに触れていたい。
トクトクと動く心臓の鼓動に耳を澄ませて、その気持ちが嘘ではないと感じた。
「たしか王宮に勤めてらっしゃると…悪い事は言いません。あと1年しか残されていないのですから、早急にお仕事を辞めて穏やかな余生を送られては?人出が足りないということも無いでしょうし…何よりあのファレナ王であれば貴女を最後まで面倒見てくれると思いますが…」
「ありがとうございます、先生…。たしかに人出が足りないということも無いでしょうし、ファレナ様がお聞きになったら先生のおっしゃる通りにして下さると思います…でも、私にしか出来ないお仕事もあるんです」
仕事を辞めたらレオナの側に居られなくなる。それならば、寿命を削ってもいい。
女は往々として、恋心には勝てない生き物なのだから。
その頃レオナはイデアの元にいた。
「まだ出来ねぇのかモヤシ」
「そ、そんなすぐには無理でござるよ…ラギー氏を向こうに送るのに10年も掛かったんですしおすし…」
「チッ…まぁ良い、少し休め」
「え?言ってること矛盾しすぎでは…?」
「うるせぇ。
どうせ朝からずっとやってんだろ。多少の休憩を挟まなきゃ良い仕事なんざ出来るわけねぇだろうが」
「ゔ…マァ、雇い主がそう言うなら…」
イデアがすごすごとゴーグルを外して、レオナが座るソファに腰を下ろした。
「その…レオナ氏はさ…あっちと行き来できるようにして…どうしたいの…?」
「あ"?
なんだ今更。
最初にラギーを連れ戻す為だって言っただろうが」
レオナが初めてこの場所に訪れた時、たしかにそう言った。それはレオナがラギーを心配して、彼の恋を応援したいと思っていたからだ。
「た、たしかに最初は拙者もそれだけなのかな…って思ってたけど、なんかどうも腑に落ちなくて…」
「どういう意味だ」
「だって…レオナ氏ってそんな優しいイメージ無かったですし…だから、他にも何か理由があるのかと…例えば……自分にも得がある、とか…」
イデアの知る限り、レオナという男は多少の事では動じないし、その重い腰をあげたりしない。
多額の金を貰ってるにしても、やはり作り手としては本当の理由を知りたいのだ。
レオナは眉を寄せ苦い顔をしてから、何かを覚悟したように口を開いた。
「俺は…異世界に行きてぇ」
「は…?え、どゆこと…レオナ氏異世界に興味とかあったの…?」
「別に向こうの世界に興味があるわけじゃねぇ。ただ…連れて行きたい奴がいる」
最後の方は声が掠れていた。思わぬ返答にイデアは面食らったが、なんとなく彼の"連れて行きたい奴"が、レオナにとって大事な人なのは分かった。
「で、でも…こっちの住人が向こうで暮らすなんて難しいんじゃない…?いや、別に駄目とかではないでござるけど…き、君なら王宮に居れば何不自由なく暮らせるだろうし…わざわざ苦労するって分かってる環境に飛び込もうとしてるのが拙者には理解できないというかなんというか…」
「別に理解してもらおうなんざ思ってねぇよ…ラギーでもお前と同じことを言うだろうしな。でも…何不自由しねぇ俺の暮らしは、俺の求める本物の自由じゃねぇ…それだけだ」
「レオナ氏の求める本物の自由って…?」
「…好きな女に、好きだって伝えられる事だな」
「へ、へぇ…
レオナ氏にも好きな子居るんだ…」
「俺にいちゃおかしいかよ」
「別にそういう訳では…というかお相手さんも了承済みで?」
何も持たずに異世界に飛び込むなんて、イデアには想像がつかない。ラギーのように監督生のような頼れる相手もいない訳だ。いくらレオナと一緒だろうと、不安ではないのだろうか。
「…言ってねぇ」
「は、ハァ!?!?
言ってないって…え?ちょ、ハァ!?」
「キャンキャン吠えるなうるせぇ」
「いやでも、ホラ…いきなり違う世界行きますよなんて言われてすぐ決められないかもだし…先に言うべきでは?」
イデアの言葉は最もだった。もし鏡が完成したとして、レオナの大事な人とやらが彼の手を取らなかったら?その時自分はレオナに対してどんな顔をして、何を言ったらいいか分からない。そんな面倒ごとはラギーだけで充分なのに。
「言うつもりはねぇ。
前もって伝えたらあいつはきっと俺に応えようと悩む筈だ。この世界を捨てるか、俺を捨てるか…悩んできっと俺を取る」
「そ、それの何がご不満なのさ…?」
「駄目に決まってるだろ。俺はあいつの意思を尊重したい。時間を与えれば、あいつは自分の意思より俺を優先しちまう…そういう奴なんだよ」
結局最後にその人がレオナを選ぶのなら、それもまたその人の意思なのではないか…そうイデアは思ったが口にしなかった。レオナの中で全てが決まっているのを察したからだ。
「無理に来させたい訳じゃねぇ…一緒に来てくれと伝えた時に、すぐに全てを捨ててでも一緒に居たいって答えが出ねぇなら…あいつはきっといつか後悔することになる」
ずっと自分の立場を利用してきた。大嫌いだったこの肩書を散々利用して、彼女に甘えてきた。でももうそれは使いたくない。ただのレオナとして、彼女に選んで欲しい。
「そっか…マァ…その、応援…してるよ」
「ハッ!
それならとっととこの鏡を完成させるこったな」
レオナはそう言いながら手土産の駄菓子をドサっと机に置いた。以前高い菓子を持ってきたらイデアに駄菓子にしてくれと頼まれたのだ。
「分かってますし…全く…
君ももう少し素直になればいいのに…」
結局のところ、レオナもラギーも己の業火のような恋心に身を焼いているのだ。それこそ、全てを捨てる覚悟で。
「ねぇ、アンタ最近見るからにやつれてきたけど…本当に何も異常は無かったの?」
「うん、どこにも異常は無いよ。ただ年齢的なものみたい」
「にしても…少しシフトを減らしてもらうとかしたら?無理したらそれこそ本当に体を壊しかねないでしょ」
「そうね…少し考えてみる」
真っ白な顔で、彼女はどこか悲しそうに笑った。医者の話では、心臓が悪くなっているらしい。既に3分の1は使い物にならなくなっていて、残りも徐々に機能しなくなっていく。動き回ればそれだけ負担が掛かり悪化するペースは早まるというのに、彼女はレオナに呼び出される為だけに仕事をこなしていた。
…レオナ様…あれから全然呼んでくれない…もう私は用済みかしら…
レオナの瞳と同じエメラルドグリーンを見たいのに。暗闇で煌めくあの色は、いつだって心の中の揺らめく恋心を大きくする。初めて見た時から、その美しさに恋焦がれてきた。例え心を貰えなくても、彼がひと時でも自分の側にいてくれた事実があれば、この人生に悔いは無い。
ひとつ心残りがあるとすれば、それはレオナの未来だ。眠れない日々が続いてしまったらどうしよう。死んでしまう自分にはもう何もしてあげられない。彼は不器用だから、きっとフィアンセと何度もすれ違う事があるだろう。そんな時、彼の愚痴を聞いてくれる人はいるのだろうか。
…なにが悔いは無い、よ…心残りだらけじゃない…
一丁前に自分の運命を受け入れた気になってみても、レオナと離れる事が何よりも辛い。レオナが誰かのものになる日を見なくて済むと思えば、心が楽になると思ったのに。結局どんな形でも、あのエメラルドグリーンを見つめていたかった。
…レオナ様…どうか、あと一度でも構いません…この命が消えてしまう前に、もう一度貴方のお側に呼んでください…
「おい」
突然後ろから聞こえた声に、思わずハッとして振り返った。見なくたって分かる。少しぶっきらぼうで低いその声は、会いたくてたまらなかったレオナのものだ。
「レオナ様…」
振り返った先に居た彼は、今日も美しかった。あまりにも眩しくて、頭を下げる事も息をする事も忘れてしまう。
しかし、息をするのを忘れそうになったのは彼女だけではない。振り向いた彼女が、あまりにも痩せていたのだ。
「何があった」
「何もございません…
レオナ様はこれからお出掛けですか?お気を付けて行ってらっしゃいませ」
「嘘をつくな。
大分痩せただろ。
ちゃんと食ってんのか」
「私痩せました?」
「見りゃ分かる」
「ふふ、それは嬉しいです。実はダイエットをしておりまして…やはり最近年齢のせいもあって太り気味だったので。レオナ様に気付いてもらえたってことは、ダイエット成功ですね」
レオナにだけは悟らせたくない。その命の灯火が消えるその瞬間まで。だから女は完璧に嘘をついてみせた。笑顔が引き攣らないように、声が震えないように。
「…ダイエットなんざする必要ねぇだろ」
「そんな事ありませんよ。
女はいつだって綺麗で居たいんです」
「…そうかよ。
けど俺は前のお前の方が好きだ」
レオナの言葉を聞いた瞬間、胸の中が熱くなって涙がこぼれそうになった。
彼の好きは、あくまで前の自分の体型の方が好きだと言っているに過ぎないのに。
「…そ、そうでしたか…なら、ダイエットはもう終わりですね」
「そうしろ。
そんなに痩せてちゃ俺が安眠できねぇ」
どうして彼の言葉はいつも心を掻き乱すのだろう。深い意味なんて無いと分かっているのに、また呼んでもらえるんだと期待で胸が膨らむ。
召使いとして何か言わなければいけないのに、言葉が喉につかえて上手く出てこない。今喋れば、泣いてしまうかもしれない。不器用ながらに、彼が自分を心配してくれているのだから。
私…自惚れてもいいですか…?
まだ私を必要としてくれてるって…思ってもいいですか…?
何も言えなくなった彼女を見て、レオナはポケットからあるものを取り出した。
「受け取れ」
「これは…?」
「、ハンドクリームだ。
見りゃ分かんだろ」
「ですが…」
「良いから使え…じゃねぇな…良ければ使ってくれ…一応色々調べて買ってみた…悪くはねぇ筈だ」
辿々しく言葉を紡ぐ姿に、堪えていた涙がぽろりと溢れた。
「ッ!?
な、なんで泣くんだよ!
そんなに嫌だったか!?」
「ち、違います…っ、ただ、嬉しくて…」
「…っ大袈裟すぎるだろ…
別にただのハンドクリームじゃねぇか」
「レオナ様から戴くから特別なんです」
レオナから貰えるのであれば、石ころだって宝石より価値があるのだから。
涙を流しながら喜ぶ彼女を見て、レオナは心底安堵した。今はまだ確かめられなくても、彼女もきっと自分と同じ気持ちで居てくれているのだと実感したから。
「…そうかよ…
無くなったらまた言え…じゃなくて、また欲しければ言ってくれ。次はもっと良いのを探しておく」
「そんな…お気になさらずとも大丈夫ですのに…」
「俺がそうしたいだけだ。
だからお前も自分のしたいようにすれば良い」
レオナの声はどこまでも優しかった。きっとこのハンドクリームを使い終わる前に、自分は消えて無くなってしまうけれど、今はそれでも構わなかった。
レオナ様のその不器用であたたかな優しさを、知ってくださる方が居ますように…
ラギーがツイステッドワンダーランドから去って3ヶ月、漸く異世界の全ての鏡に干渉できるようになった。
彼は10年の想いを抱えて彼方に行ったのに、まだ監督生に気持ちを伝えられないでいるらしい。
普段は器用な癖に、素直になれない彼の背中をレオナは押した。イデアも、アズールも、ジャックも。
レオナはラギーの姿に自分の姿を重ねていたのだ。
同じように10年間、1人の人を想い続けてきた悲願を叶えることは、レオナにとって希望の星にも似ていた。