生まれて初めて 昨夜、万民堂で夕餉を共にした行秋と翌日の仕込みの合間に顔を出した香菱とで、明日に控えた重雲の誕生日会について話していた。
ふた月前に開催された胡桃の誕生日会。このひと際癖の強い往生堂七十七代目堂主と、行秋同様仲の良い重雲も招待されたのだが、自身の体質の所為で折角の祝いの席が台無しになることを恐れ、参加を辞退しようとしていた。
しかしその申し出を予め予測していた胡桃に「来てくれないと末代まで恨むわよ」とドスの効いた声で脅され、誕生日会当日になって彼女に寝返った行秋が助力したこともあり容易く見つかってしまう。
土煙と共に全速力で迫り来る胡桃の形相に戦慄し思わず逃げてしまったものの、動きの素早いキョンシー少女を追いかけ回している内に鍛えられたらしい彼女の俊足に結局は負けてしまい、漸く面子が揃ったと至極ご満悦な様子の七十七代目に半ば引き摺られる形で参加させられた。
先に行われた胡桃の誕生日会を思い返しながら、「きっとまた楽しい宴になるだろう」と二人は笑っていた。重雲にとっては胡桃に追いかけ回されたこと以外の記憶が生憎とおぼろげであったが、友人達がこうして笑ってくれるなら――と、彼らと同じように今日の訪れを楽しみにしていた。
昨日までは心待ちにしていた今日という日を、あのような夢を見た所為でこれほど不安な思いで迎えることになるなどと、露程も思っていなかった。
日課の鍛錬を早々に切り上げ、天衡山を下山したその足で向かった万民堂は、既に見知った顔ぶれが幾人か揃っていた。いずれの客席も近しい者同士が盃を片手にテーブルを囲い、談笑と呼ぶには些か騒々しいその様子から、店内にいる者達の大半が既に出来上がっているように見える。
壁側の席で声高らかに笑う北斗が万葉の背を思い切り叩いていた。叩かれた方は衝撃により口に運ぼうとしていた酒を盛大に溢していたが、豪快な船長はどうやら話に夢中なようだ。噎せる弟分を全く意に介していない。
南十字の船員達がこぞって笑う中、相席していた辛炎も笑いながら大きな声で「サムライが酒こぼしたから何か拭くものくれー!」と厨房で父を手伝う香菱を呼んでいる。
鼻の先から胸にかけてびしょ濡れになった万葉に目をやると、着物とテーブルに吸われた酒を惜しんでか、哀愁を多分に帯びた双眸とかち合ってしまい、重雲は思わず小さく吹き出した。
「重雲ー!こっちだよ」
厨房から近い客席にいた行秋と胡桃が入り口に立つ重雲の姿を見つけ、にこにこと微笑みながら手を振っている。テーブルには運ばれたばかりの炒め物や幾つかの蒸籠が湯気を立てながら並んでいる。
空いていた椅子に重雲が腰を下ろすと、行秋が彼の目の前に置かれていた盃に酒を注ぐ。
商会の会合が長引き行秋自身もついさっき来たばかりである事。今日も日がな一日鍛錬していたの?と飽きるほど聞いた冷やかし。不卜廬の七七にまたしても逃げられてしまった、慰めて欲しいと項垂れる胡桃の姿を見るのもこれで何度目かわからない。
取り留めのない話に耳を傾け時折相槌を打ち、重雲が漸く冷めた料理達に箸を伸ばす頃には空の酒瓶が増えており、飛雲商会次男が備えていた端正さと往生堂堂主が纏っていた荘厳さは完全に消え失せていた。
酔いが回り、すっかり上機嫌となった胡桃が詩会を兼ねた二次会を提案し、二人の返事を待たずして香菱を呼ぶ。
持ち帰り用のつまみを何点か注文する胡桃にまだ飲む気かい!?と笑う行秋。二人を見て微笑んでいた重雲だったが、ふと何かを思い出し店の入り口を振り返る。
「重雲?どうしたんだい?」
「ああ、いや……」
随分と長い間姿を現していない友の存在を、重雲は思い出していた。
璃月滞在時にはこの店をよく利用していた。あの食いしん坊の小さな相棒を連れているなら、きっとまたふらりと現れるのではと、ずっと期待を抱いて過ごしてきた。――あの者が人知れずテイワットを旅立ったと人伝に聞いても、きっとまた会える……と。
しかし、流れた年月によって風化を齎す摩耗の力に、人一人の儚い願いが叶うわけも無く。
「なあ、行秋」
「うん、何?」
「あの二人とは……やはり、もう」
もう会えないのだろうか?
そう続けようと言葉を紡ごうとしたがそれは叶わず、意識はぼやけ視界はゆっくりと霞に覆われる。
それまでそこにあった景色と空間、共にいた人々の音と温度、それら全てが薄らぎ霞の中へと消えていくのを為す術無く見つめ、これが現実でない事を重雲は漠然と理解する。
心を満たしていた幸福感と、何かが欠けて出来た隙間に生まれし喪失感を抱いたまま、少年の新たな一日が始まろうとしていた。
――九月七日、重雲にとって特別な日。
起床する筈だった時間がとうに過ぎていることを部屋に差し込む朝日で知ることとなった重雲は、寝惚けた頭で今日の予定を思い出し勢いよく飛び起きた。
毎年誰かが誕生日を迎えると行われる万民堂の祝宴では、集まった者が宴の席を派手に賑やかす。
高まる陽気と心の乱れを厭う重雲の‘静かに過ごしたい’という主張は一度たりと聞き入れられることは無く、自身の誕生日ですら平穏に過ごすことも許されず、終いには決まって記憶が欠落するこの誘いを彼自身が頑なに拒否しようとしないのは、それでも毎年懲りずに祝福してくれる友人達の温かさが心の底から嬉しいからに他ならない。
――朝の鍛錬時間を寝過ごしてしまった。招待された身で遅れるわけにはいかない、待ち合わせ場所まで走って向かおうか。
そう思い立ち早々に身支度を済ませ、慌しく屋敷を飛び出す。鍛えられた足は軽快に大地を踏みしめ、一定のリズムで弾む呼吸が乱れることも無い。
心地良く冷えた朝の風を切りながら、寝過ごす程に見入った幸せな夢と、その夢が生んだ未来へのある懸念について考えた。
今はまだ想像でしか無い、いつか訪れるかもしれない温かな未来。
平和な璃月港で大切な人達と笑い合いながら過ごす、穏やかで幸せに満ちた光景。
しかし、自分や皆にとってかけがえの無い友である筈の存在があの場にいなかった。
同じ空間にいた誰もがそれをわかっていて諦めていたようだった。
自分はそれでもずっと待ち続けていて、――しかし夢から覚めるその瞬間までやはり現れることはなく、最後には‘また会いたい’という願いそのものを諦めてしまったのだ。
眩く降り注ぐ朝日に相応しからぬ靄が、少年の心を覆い込む。
「おーい!重雲ーー!」
「おはよう!今そっちに行くよ」
帝君の像を通り過ぎ、小さな砂利を踏み鳴らしながら階段を上っていく。
掛けられた声につられて顔を上げると、物見台の上から旅人とパイモンがこちらに向かって元気に手を振っていた。返事を返そうと口を開いたが、上手く声を出すことが出来ない。晴れの日にそぐわない暗い面持ちをした今日の主役の姿に、パイモンが心配そうに顔を覗き込む。
「ど、どうしたんだよ重雲?具合でも悪いのか?」
「いや、大丈夫……」
「そんな落ち込んだ顔で大丈夫って言われても説得力ないぞ!何があったんだよ?また行秋に悪戯されたのか?」
「……何か嫌な夢でも見た?」
「!」
異邦の旅人に、人の心を読む力は無い。それでも思い付くままに投げかけた言葉に示された僅かな反応を、旅人は見逃さない。周りをくるくると飛んでいたパイモンも、旅人の意図を汲み大人しくしている。
山間を通り抜けて来た涼しい風と、生い茂る木々の紅がざわめく音だけが静かに彼らを見守る。
「……なぁ、旅人」
「うん、何?」
お前は……お前自身の旅の目的が成就したら、別の世界に行ってしまうのか?
来年も、再来年も、探している家族が見つかって、その先もずっと。
大切な人達と過ごす温かな時間に、もしもお前も共にいてくれたなら――。
「……。いや、すまない。なんでもない」
喉から出かけた想いを、既の所で言い留まる。
子供じみた想いを口にすれば異郷の友を困らせてしまうだけだと、重雲はわかっていた。
「さて、もう行こう。皆を待たせるわけにはいかない」
香菱が美味しい料理をたくさん用意している筈だ。
明るく笑いかける重雲の顔が、旅人の目には無理をしているようにしか映らなかった。
なんでもないわけがない、些細なことでも悩んでいるなら話して欲しい――。言い淀んだであろう言葉を促そうとしたが、美味しい料理というワードに目を輝かせたパイモンに遮られてしまい、問い詰めるタイミングを逃してしまった。
旅人の煮え切らない顔に気付かぬふりをして、一歩大人に近付いた少年はいつの日か必ず訪れる別れに震える心を無理矢理押し殺した。
――九月七日。疎らに浮かぶ白雲がよく映える青空の下。
一つ歳を重ねた少年方士が、生まれて初めて友達に嘘を吐いた日である。