夏の夜に咲く祭の宵は様々なものが夢見心地で宙を行き交う。歓声、燈明、怒声に嬌声、引きも切らぬ熱気、どこか遠い名も知らぬ楽の音、誰かが無鉄砲に放った魔術光の煌めき、そして琥珀色の酒をなみなみと湛えた無数のジョッキ。
「そこな淑女よ」
ひらひらと踊るように目交を行き過ぎる者を呼び止めれば、夢の中にしかあり得ぬほどのまっさらな白の衣をふわりと翻しながら、それはこちらを顧みる。馴染みというほど深い仲ではないが、知らぬ顔でもない。スキルやら宝具の相性を見たいからと、マスターの命で幾度か編成を組まされたことのある女魔術師である。
「はいはーい、ご用命かな?」
「おうとも。そのふわふわしとる酒を」
わし様にも……、と指を立ててからふと思い直す。
「……そなた、それをあとどのくらい売りたい?」
販売ノルマを訊ねると、髪の先まで真っ白な魔術師はふむと首を捻る。
「ええと、そうだねぇ。うん、まあこの暑さだ、この時間で既にそれなりに出てはいるから……もう十杯も売れてくれれば十二分、というところかな」
「ほう。して、一杯いかほどだ。……おおなんだ、そんなものか。であれば」
若干の色を載せ、しめて三十杯分の金(QP)をドゥリーヨダナは懐から取り出した。おやまぁ、と女は飴玉のような瞳をくるりと丸くする、
「これはまた。ずいぶんと太っ腹なことだね、お兄さん」
「ふはは。なに、高貴にして英邁なるこのわし様からの振る舞い酒だ。せっかくの祭であるし、飲みたい者に飲ませてやってくれ。……もし差が出た場合はこう、な」
カルデアでは最早珍しい"お兄さん"扱いにニヤニヤと相好を崩しつつ、指を懐に収める仕草で締めくくる。
「そういうことなら、断るのも野暮というものだろうね。有り難く受け取るとしよう。まいどありがとう! ──君の夜に美しい夢が降りますように」
先に所望した分の酒杯と共に、何やらまじないめいた言葉を残し、眩い給仕服に身を包んだ魔術師はまたひらひらと歩み去っていった。それ自体がひとつの出し物のような売り子姿が、少し先で誰ぞに呼び止められているのを遠目に見、ドゥリーヨダナはふふんと満足げに笑みを零しながら、たらりと汗をかくジョッキを持ち上げる。
「……ん?」
傍らのテーブルには、今彼が手にしたものも含めると大振りのジョッキが3つ置かれていた。誰の分か、などはいちいち考えるまでもない。カルナにアシュヴァッターマン、かの愛しき友らだ。しかしてドゥリーヨダナは今現在、この場にひとりきりである。賑々しい夜を、なぜあやつらと離れて過ごしているのだったか。
「…………」
キリリと冷え、喉越しも良い発泡麦酒をぐびぐびと流し込みながら思い返してみるが、どうした事か、とんと記憶にない。ぷは、と一杯、勢いのまま飲み干し、泡の付いた口元を拭いながらまあ良いか、とドゥリーヨダナは結論づけた。召喚に応じた順で言えば古参、中堅に当たる友らは、催しごとのたびに役目を与えられ、忙しくしていると聞くから、この日もおそらくそういうことなのだろう。余計なことを考えていては、せっかくの酒の味もわからなくなる。
そういえば、酒を調達したはいいが、手元には肴がない。このままでは片手落ちである。ジョッキを持って人混みの中へ立ち入るのも無謀であるので、ドゥリーヨダナはその場から辺りに目を凝らした。馴染みの顔……出来れば遣い走りを頼めそうなのが近くにいないだろうかと、祭に合わせて仕立て、着付けてきた浴衣なる装束の袖口を揺らしながら、手で庇をつくり行き交うひとの群れに目を凝らす。
──と。
ひゅるりと風の気配がした。やけに肌に馴染むそれに、意識よりも先に身体が反応する。ぐりんと顔が向いたすぐ先の中空に突如として黒い塊が現れる。当然のごとく、その塊はごく短い距離を垂直に落下し、まだ手をつけていない麦酒のジョッキをもろとも巻き込みむ派手な音を立てながら、地面にまで転げ落ちていった。
「っ、おい、大丈夫か⁈」
慌てて身を乗り出しそう呼びかけたのは、数瞬目に写った塊がいかにも人の形をしているように見えたからだ。案の定、それが転げていった先からは、いてて……と呻く声が上がる。
「…………どこだ、ここ」
半身を起こしつつ呆然と呟くのは、まだ若い──幼い、の範疇からようやく数歩抜け出したばかりの年頃の少年だった。思いの外長いまつ毛を揺らし、丁重に研磨された稀少な紫玉を嵌め込んだ大きな瞳が訝しげに周囲を窺う。
「お……まえ、もしや」
「……っ?」
戦慄く口が絞り出した声を拾い、少年は緊張と警戒も露わにドゥリーヨダナの姿をとらえた。視線がぶつかったその瞬間、生前の記憶なる残像の断片がドゥリーヨダナの脳裏に浮かび上がってくる。その髪、その目、その顔立ち──。
「……ビーマ、か?」
いかな祭の宵とはいえ、そうホイホイとひとが降ってくる道理などない。種か仕掛けか、あるとすれば犯人候補筆頭は思わせぶりな言葉を残していったあの女魔術師なのだが、彼女は既に人混みへ紛れていった後である。
これがいい大人ならともかく、右も左も分からぬ様子の子どもをひとり放ってあれの後を追う、というのは今なお九九の弟たちを率いる身であるドゥリーヨダナには到底出来ない相談だった。
しかも、おそらくは英霊でもない、ただの人間を。
「……やーっぱそうか」
「触った感じねー。あれは違うわ」
氷を浮かべた麦茶を勢いよく飲み干しながら、薄桃色の妖精、ハベトロットが言う。
幸い怪我などはなかったものの、地面へ転がり落ちると同時にかなりの量の酒を引っ被り、散々なことになった少年の身体と衣服をどうにかするため、ドゥリーヨダナは真っ先にミス・クレーンの出張所へ駆け込んだ。催しに乗じて日頃と違う衣装を着ているサーヴァントも多いこの日、着崩れを直したり、汚れや解れの補正などを一手に──しかもほぼ趣味で引き受けているのが彼女である。さらに事前にはサーヴァントたちから晴れ着の特注も受け付けていた。頼ればどうにかなるだろうと踏んで足を運んでみれば、白装束の女魔術師は──またしても、である。よもや今日の不幸のアイテムだったか白い女魔術師──伴っていった少年を頭から足先まで眺め回してはオホホホホホホホと上擦った声を上げ、「委細承知いたしましたあとは全てこの私にお任せ下さい」、とひと息に捲し立てたのだった。……おお、良きに計らえ、と気圧されつつドゥリーヨダナが返した言葉など、いっさい耳に届いていなかったに違いない。
酒や土埃の汚れを拭き清めた少年を、補佐として詰めているハベトロットが採寸を行う隣で、ほとんど瞬時に描きあげたデザイン画をまさしく目にも止まらぬ勢いでミス・クレーンは仕立て上げ、今は奥の部屋へと雪崩れ込み着付けを行なっている真っ最中である。
聖仙に悪魔に神々と、錚々たる面々の祝福などを受けながら育ったとはいえ、元はただの人間で、いわゆる魔術的な素養はほぼないと言って良いドゥリーヨダナにも、同種の存在である英霊とそれ以外との区別くらいはつく。己の感覚に、他の者の証言も加わればほぼ間違いないだろう。あの少年は、少なくともサーヴァントとしてこの場に召喚されたものではない。
「……なんでサーヴァントでもないもんが突然現れたりしとるんだ?」
「さあね。ボクもしーらない。……ただまあ、歪んだり捻れたりしてスキマが出来たり、なんてしやすいもんなんじゃない? オマツリの日ってのは」
「はーん……」
急な依頼に対するちょっとした謝礼と、手持ち無沙汰の時間潰しを兼ねて、近くの出店で買った謎のフレイバーパウダーをまぶした揚げ芋をハベトロットと並んでつまみながら、ドゥリーヨダナは分かったような分からないような相槌を返す。
何かの拍子に、何かの因果で、その歪みだか捻れのスキマに、本来の世界から転がり落ちてきたのではないか、というのがハベトロットの見立てだ。齧っている揚げ芋同様、よく分からんフレイバーがふんだんに散りばめられているなと、インド神話の英霊は思う。
「ちゃんと調べればいろいろ分かるかもだけど……」
「……面倒だなー」
「ね」
どうせ今夜はカルデアの頭脳たちも祭を楽しんでいることだろう。それに結局、こういう事態はなるようにしかならないものだと、二騎で頷き合う。
そうこうするうち、すす、と奥の部屋の引き戸が開いて、着付けを終えた少年と女が姿を表す。
「大変お待たせいたしました」
「おっいいじゃんいいじゃん! カッコよ〜〜……くもあるけど、なんてーか清楚系?」
「ハベにゃんよ、どうなんだその表現は」
ニュアンスはわからぬでもない。
少年の張りのある褐色の肌、力強くも成長途上のしなやかな肢体を包むのは、ぱっきりと清潔感のある白の地に、半身だけを鮮やかなロイヤルブルーから夜明けの空を思わせる赤みがかった紫のグラデーションに染めた浴衣、腰元はやや背伸びした印象ではあるが、大人の着付けと同様、金糸織を施した濃色の帯を低い位置で締めている。
「コンセプトはあやつの第二再臨か……」
「ええ、ええ。こういうお色味って、浴衣ですと皆さまお若い……といいますか、正直なところお子さまのうちしかお召しになってくださらないので」
「帯はなーんかわし様のと似たようなの出してきおったな、ミス? わし様のもこれ特注ぞ?」
「うふふふふふふふ」
「……まあ良いわ。おい坊主、腹とか胸とか苦しくはないか」
「……ああ、まあ」
ちょっと来い、と手招くと、少年はまだ幾分硬い顔をしたままドゥリーヨダナの目の前までやって来る。
「よしよし。では後ろ向いて、しばし大人しくしているがいい。……しっかし暑苦しい髪だな」
「どうせ結うんならオソロにするとかどぉ? リリィクンも結構長さあるしさ〜」
片側へ流して編み込み、ところどころに花飾りを差し、手間暇を掛けて装ったドゥリーヨダナの髪を見やるハベトロットを、当のドゥリーヨダナは眉を吊り上げて一喝する。
「適当なことを抜かすな。そら見てみろハベにゃん、こやつのすーぐ跳ねよるこの剛毛を! こんなん編んでも編んでも大人しくせん毛質だわ! わし様のこの優雅で艶美な髪形は、生まれ持った滑らかサラツヤヘアーの賜物であると心得よ!」
「凛々しい系美少年のシンプルな結い髪、大変乙ですわね。ああ、ああ、なんとまあポニーテールになさる……思いがけない僥倖といいますか目に過ぎる至福といいますか。ちょっと記念に……いえ資料のために少ぅしお写真だけ撮らせて下さいませね。ところでリリィくん、履き物はどうされます?」
「そうさな……下駄はナシだ。足の指が死ぬ。とにかく歩きやすいものを頼む」
「それではこちらをどうぞ。……履いてらっしゃる間にちょっと失礼して。あ、カメラはお気になさらず。視線は下さらなくて大丈夫ですよ。あくまで自然に、自然に」
あれよあれよという間に真新しい衣服に着替えさせられ、髪を結われ、革紐を編んだサンダルを履かされ、ついでに写真もあらゆる角度から撮られ、そうして身支度を終える頃には、少年はすっかり草臥れた顔をしていた。
「世話になったな、ミス、そしてハベにゃんよ。支払いは後で回してくれ。……では行くぞ、坊主」
「……は? 行くってどこへ」
「その格好で、祭見物以外になんかあるか?」
「なぁ、リリィだの坊主だの、一体何なんだ? 俺は──」
「……分かっておる。おまえは『ビーマ』、なのだろう?」
クル王パーンドゥの子、恐るべき男、神々の血を引く五兄弟の次男。バララーマの弟子にして棍棒の名手、我が生涯の宿敵……の、これは幼き日の姿だ。何より当人が認めているし、共に育ったドゥリーヨダナにも見覚えがある。連れ立っていれば、無視したくともしきれないあのヴァーユの気配も色濃く感じる。サンプルはたった二名だが、他の者から見てもあの槍兵の英霊との繋がりは明らかなようだった。
だからこそ。ドゥリーヨダナは嘆息する。今の己はおまえを「ビーマ」と呼びたくはないのだ。
「それで、おっさんは……」
「『お兄さん』」
「お、っ、さ、ん、は。誰なんだよ」
「……──」
我が名はドゥリーヨダナ。
盲目の王ドリタラーシュトラの子、カリの化身、一の肉塊より出でし百王子の長、バララーマの弟子にして棍棒の名手。……いずれおまえが殺す男。
名乗りをあげようとすると、その度にことごとく、言葉は何らかの力──またしても正体不明のフレイバーである──によって阻害されてしまう。知れば、この「ビーマ」の属する世界を害することになるからだろうか。
「何を隠そう、森羅万象が平伏し崇め讃える偉大な名を持つのだが、余りに偉大過ぎて聞かせてやれぬ。ま、通りすがりの親切な『お兄さん』ということにしておけ」
「……」
「わし様からも訊ねるが、おまえ、先ほど落っこちてくる前に何があったか覚えておるか」
「……それが」
ぱし、と手を当てた額を撫でながら、少年は口を尖らせる。記憶の混乱があるのか、良く思い出せないらしい。元いた世界に戻る手立ての糸口になればと思ったが、無理はせぬで良かろう。こうしたトンチキ現象は大抵、その場のノリと勢いでどうにかなるものだからして。
などと、雑に慰めようとした矢先、少年があ、と呟く。
「そうだ、確か突き落とされたんだ」
「あん? 誰にだ」
「一緒に暮らしてる、性悪従兄弟に」
「…………おおっと」
何やら因果の糸が繋がってしまった。まあ、このくらいの年の頃からちょっとした(・・・・・・)小競り合いは絶えんかったよな。ぎらりと瞳を燃やす横顔をチラリと見やり、ドゥリーヨダナはハハと乾いた笑いを零す。
「その、なんだ。おまえもなかなか苦労をしておるようだが? 今ひと時くらいはその憂さを忘れるがいい」
怒りを収めたわけではないだろうが、少年は幾分表情を和らげて、指先に挟んだコルク玉を弄くる。
通りを冷やかし歩く途中、ふと足を止めた射的の屋台に吸い込まれることしばし。五発一ゲームの遊戯を一周こなす中で、少年は早くもコツを掴んだらしく、二周目には四発当てて、トータル三つの景品を手元に並べている。
「なあ、おっさん」
「んー?」
「もう一回やってもいいか、これ」
「おーおー、一回と言わず気がすむまでよいぞー」
「ああ。でも」
次であとふたつ。イケる気がする。
すぐさま補充されたコルクの弾を金属の筒の先にきゅむきゅむと詰め込み、構える。バネ仕掛けで詰め物を弾くだけの玩具を片腕だけでひょいと持ち上げ、直後、たん、と小気味良い音が響く。武芸などと到底呼べぬ児戯ではあるが、初めて触れるものでもこうもあっさりこなしてみせる憎たらしいほどの器用さは、さすが大英雄の前身というところか。気がすむまで、と安請け合いしたは良いが、妙な逸話が付与される前にほどほどでやめさせたほうが賢明ではないだろうかコレ。
「……土産か。あとふたつ」
「うん、まあ。兄貴も弟たちも見たことないだろ、こんなの」
的として並ぶのは、それはまあ神話の時代には存在し得ない品々である。時を移せばオーパーツ……持ち帰ることは出来ないかも知れんとは思うものの、わざわざ口にすることはない。
「つうか、おっさん何でも知ってるな、俺のこと」
家族構成までかよ、と凛々しい眉の間に深く皺が寄る。
「キモいは禁止」
「きもちわるい」
「はっはー、ガキんちょらしい捻りのない悪口よな」
「そっちばっかなのが」
たん。まだすらりとした、あまり節の目立たない指が引き金を引く。
「なんか、すげえムカつく」
弾は見事に命中したが、生憎、的を倒すには至らなかった。むう、と唇を尖らせる様は、その手の好事家垂涎の実にいとけない仕草だった。
しかし、今のその「ムカつく」は。良く浴びせられるのと、なかなかに近しい響きであったなと、つい思ってしまった。もっとも、そもそも声音が違うし、この子どものそれは臓腑の底を抉りかかるような重苦しい情の欠けらすらも帯びてはいないが。
「生憎、今のわし様はミステリアスお兄さんモードなのでな。はぁ、ただでさえ罪深いまでの魅力がいや増すばかりで困ってしまうわ」
人生、知るべきでないことも少なからずある。例えばおまえの場合は、その行く末に待つ違えられぬ運命とやらの数々だろう。おおよそその全てに繋がりを持つ"お兄さん"としては、秘匿路線を貫かざるを得ない。
「……クソ従兄弟のとこは、兄弟が百一人いる」
当然、知っているとも。何なら上から順繰りに名を誦じてやっても良い。
「おいこらクソガキ、ひとの話無視しおって」
「あいつは、考えねえんだろうな。あといくつ、とか」
これはどうだろうな。ふむ、とドゥリーヨダナは顎先を撫でた。そのクソ従兄弟とやらの胸の内に腹の底など、どこまでも知らぬまま英雄は正しく歩んでいくのではないか。要らぬものなら、件の謎の力によってどこかで篩い落とされるようにも思う。
「そりゃいちいち数なんぞ数えてられんなぁ、間怠っこしいし。考えるなら店ごと持ち帰る方法だろうよ」
さもなければ、この通り一帯ごとだ。0も1も、その先の数にさえも、さしたる意味はない。全てだ。全てを得れば必然、血を分けた同胞も、友も、この身を慕い付き従う者どもも、相応に満たしてやることが出来る。
「……それ、あいつも同じこと言いそうだな」
げえ、と舌を出して少年は言った。
なるほど。不和の種を育てる土壌は案外きちんと耕されていたようだと、ドゥリーヨダナも内心舌を出した。ああそうだろう、ただの荒地に芽吹き根を張るものなどありはしない。……なんて、きもちのわるい。