ともしびを手に 1午前の最後にある座学の途中で、教育係が資料を探しに行くといって部屋から出て行った瞬間、魏無羨は目の前に広げられた教則本を机の脇に追いやると、懐から厚い紙束を取り出して座学とは全く関係の無い書き付けを始めた。
教育係が口を酸っぱくして姿勢を正しくしろと言っても、集中するとつい姿勢が前屈みになってしまう。高い位置で結ばれた一つ結びから髪が頬に落ち掛かるのを払うと、輪郭がまだ子ども特有のまろみを帯びた少年の横顔が現れる。魏無羨は大きな瞳を輝かせながら、紙束に猛然と書き付けていく。
「今度は何を作るつもりだ魏無羨」
一応は真面目に授業を受けていたが、内容は退屈極まりない教則本だったので、隣に座っていた江澄は好奇心のまま、書き付けを覗き込みながら魏無羨に訊ねかけた。
「この前、火を纏いながら自動で飛んでく鏢を作っただろ?」
「ああ、あの敵味方関係なく、一番近くに居た奴を追いかける迷惑極まりない奴か」
火を噴きながら豪速で飛んでくる鏢に追いかけ回されたのは他ならぬ江澄だ。冷や汗をかきながらはたき落とすも、眉毛を半分焦がされたのは嫌な思い出だった。
「肝心の識別機能が未搭載だったから今回は敵味方識別機能を搭載した上、江澄なんかにはたき落とされない速度と、眉毛程度じゃすまない火力に機能を向上させるから楽しみにしてろよ」
「抜かせ。あんな蚯蚓よりも遅い鏢なんてまたはたき落としてやるよ」
江澄は鼻でせせら笑うと、書き付ける魏無羨の机に身を乗り出した。並べられた机は大きく、子どもが二人並んでもゆうに座る事ができるので、江澄は魏無羨の身体を肩で押して場所を空けさせると書き付けを指さす。
「というか、これ全部の機能が搭載出来るのかよ」
鏢は掌よりも小さい投擲武器だ。魏無羨が望むままの機能を付け加えたら剣よりも巨大な鏢になってしまいそうだと江澄は言い放つ。
「もっちろんだろ」
魏無羨は自信満々で応えるが、頬杖をつきながら江澄はどうだかなと応えてまた鼻で笑った。
魏無羨と江澄が結丹したのは、揃って十二歳のことである。
結丹を境に急速に伸びていく霊力は、昨日できなかった事が今日には出来るようになり、明日には得意になるほどだった。
若竹の様に力を伸ばしていく二人は、最近では結丹をした大人の門弟相手でも勝ちを取れるようになると、結丹前でも十分にやんちゃだった二人はその行動に拍車が掛かった。
他者が見れば肝を冷やすような無茶も過ぎた行為に怒られることも時にはあるが、魏無羨も江澄も毎日が楽しくて仕方ない。
面白いように伸びていく霊力に稽古にも熱が入る。その熱が入る先が江澄は主に剣になった。魏無羨も剣に大いに熱を入れたが、好奇心旺盛な少年は呪符や法器にも大いに興味を示し始めあれこれと作り始めた。
目にすれば手当たり次第に興味を持つ魏無羨に、剣をもっと真面目にやらないかと江澄は言うが、剣の腕前が同じくらいならば別の一手が勝敗を決めることもあると、魏無羨は減らず口を返して呪符や法器の発明を止めることはしない。だが魏無羨の開発する法器は江澄から見れば失敗ばかりでくだらない物ばかりだ。
雨も降っていないのに常に濡れている靴、十人力になれるが持ち上げられないほどに重たい手甲、十里先にいても臭う香などだ。江澄は割と実験台にもされるので、眉毛以外にも犠牲になるものがしばしばあった。その度に野郎ぶっ殺すと吠えては、身の丈にはまだ長すぎる三毒を振り回していた。
しかし一漕ぎでその三倍は距離を稼げる櫂や、夜になれば火を使わずとも暖かな熱が生まれる行灯、姉である江厭離の為に作った、夜の中で仄かに光る美しい絹衣など、たまには良いものを作る。その上とても素敵な衣装ねと江厭離に褒められて鼻高々になったりもするので、魏無羨の発明熱は留まる事を知らない。
「――あれ? うーん……」
資料が見つからないのか、教育係が戻ってこないのを良いことに魏無羨は法器の設計図を熱心に書き付けていたが、途中で考えに詰まり手が止まった。筆をうろつかせながら頭の中で設計を考えるもどうにも上手くいかない。こういう時は実物をこねくり回すのが一番だと、懐から江澄の眉毛を焦がした鏢を取り出すと、魏無羨に寄りかかって教則本を読んでいた江澄が動くなと文句を上げる。
「貸し出し賃取るぞ」
「だったらもうちょっと寄りかかり心地の良い椅子になれ」
身勝手な文句に肘打ちで返事をしてから、魏無羨は手の中の鏢を矯めつ眇めつ考える。しかしどうにも妙案が浮かばない。
何か手本になるようなものがあっても良いよなと考えたところで、一つ思い浮かんだ。
「なあ江澄。江家の宝物庫に、どんだけ凄い法器があるか気にはならないか?」
「なんだよいきなり――そんなの、母上の紫電に勝る法器はない」
母である虞紫鳶の右手に嵌まる一品霊器が一番すごいと言うが、目的がある魏無羨は勿論それでだまらなかった。
「確かに紫電は素晴らしい法器で虞夫人の修位もすごい。でもさ、いくら虞夫人だって一品霊器を、二つも三つも身につけるのは不可能だろ」
「それはまあ、確かにそうかもしれないけど」
「だからきっと紫電に並ぶ法器だって在るはずさ」
江家は五大世家と数えられる規模の大きな仙門だ。呼ばれるにふさわしい歴史と財産を持ち、法器の数とて二千は下らないだろう。魏無羨の好奇心と発明の助けになる法器の百や二百だって下らないはずだ。
もしかすると神仙が使うような凄い宝貝だってあるかもしれないと、江澄をそそのかすが、常ならば話に乗ってくるはずの江澄はしかし反応が悪い。
貴重な法器を治めている宝物庫には、宗主の許可が無ければ入ることが出来ない所為だ。
頼めば江おじさんはきっと入れてくれると言うだろうが、それは江楓眠が魏無羨に甘いからだ。
宝物庫の法器は確かに興味があるが、きっと自分一人であればまだ早いと、断られると考えてしまって江澄は同意をしあぐねた。
気難しい顔で考え始めてしまった江澄に魏無羨は、ならば次はどんな方向でそそのかすかと思案していると、二人が座学を受けている部屋に近づく足音を耳が拾った。教育係の足音ではない。もっと体重が軽く、歩幅も狭い。耳にするやいなや、魏無羨はだらしなかった姿勢をぴんと伸ばした。同じく足音に気が付いた江澄も、寄りかかっていた魏無羨からすぐさま離れ、自分の席に戻ると背筋を伸ばして教則本を捲った。
「阿澄、阿羨」
ややあって部屋に現れたのは痩せた小柄の少女、江厭離であった。春先に咲く楚々とした花を思わせる雰囲気を纏った少女は、柔らかな薄衣を重ねた裾と丁寧に梳られた黒髪をなびかせながら、二人が並んで座る机の前に歩いて来るとにこりと笑いかけた。
「勉強は頑張っているかしら」
「もちろんだよ師姉」
魏無羨は笑顔で応えるが机の上は端に追いやられた教則本と、紙が黒くなるほどの書き付けが真ん中に広げられている。その様子に江厭離はあまり教育係を困らせては駄目よと告げて、墨で汚れた指先を柔らかな紙で拭った。
「なにか用事かい、姉さん」
優しい義姉に構って貰うのが大好きな魏無羨が、にこにこしながら世話をやいてもらっている隣で江澄は尋ねかける。
「もうすぐお昼だから呼びに来たのよ」
その言葉に外へ目を向けると太陽は中天に輝いていた。なるほど確かに昼餉の時刻だ。しかし未だ戻らぬ教育係にどうしたものかと考えていると、件の教育係が速足で戻ってくる音が聞こえてくる。そして両手に山ほど資料を抱えてやっとのこと戻ってきた教育係に、午前の座学はこれで終わりだなと無情に告げると、魏無羨は鏢と書き付けを懐に戻し、江澄は教則本を閉じて同時に立ち上がった。
明日は最初からこの資料を用意して待っていますと、嬉しくも無い言葉に見送られて部屋を出ると、三人は連れだって回廊を歩きだす。
「ねえ師姉」
前を歩く江厭離に纏わり付きながら歩く魏無羨が訊ねかけると、江厭離は足を止めてまだ頭半分ほど低い魏無羨を見下ろした。
「どうしたの阿羨」
「師姉は江家の宝物庫って入ったことある?」
「お前、そんなに入りたいのかよ」
先ほどの話を蒸し返してきた魏無羨に江澄は迷惑そうな顔をしてみせるが、魏無羨は勿論だと言い返し、話が見えていない江厭離に先ほどのやり取りを聞かせてやった。すると江厭離は熱心ねと微笑み、虞紫鳶が使う離れの側にある宝物庫に入ったことがあると教えてくれた。
膨大な量がある法器を収める宝物庫はいくつかあり、虞紫鳶の離れの側にある宝物庫は彼女が実家から嫁入りの時に持参した品や、衣装や装飾品が主だと告げた。
「阿羨が見たい法器は別の宝物庫にあると思うから、父様に頼んでみましょう」
「姉さん、いいの?」
姉も魏無羨の味方だと表情を暗くする江澄の頭を、江厭離は優しく撫でた。
「外廷と内廷の間あたりに一つあるでしょう? あそこは確か高弟なら出入りの許可を貰えるから、三人でお願いすれば大丈夫よ」
「……うん」
告げる姉の言葉に、江澄はようやく頷いた。