私が腹を開くまで 節操のない眩しさも、己のあげる甲高い泣き声も嫌いだった。自分の体も思い通りに動かず、どうすれば周囲の大きなモノのようになれるのかもわからず、不快を感じるたびに意志とは無関係に泣き続けた。
寝返りができるようになり、床を這って動けるようになると視界が大きく広がった。大きなモノのほかに、自分より少し大きいだけのモノがいることがわかった。「れーじ、れーじ」と話しかけられるので自分はそのような名だと知った。
これが自分の思い出せる一番古い記憶。私のことを「れーじ」と呼んでいたなにかは私の兄であった。歩けるようになると、とにかく兄の真似がしたくてひたすら後を追いかけていた。
兄が積み木で遊び始めたら、自分もそこへ行く。すると、兄が積み木を渡してくれる。隣で時々盛大に崩れる音を聞きながら、まっすぐ自分の身長を超えるぐらい上に積んでいった。兄はきらきらした瞳で「れいじ、すごい!」と褒めてくれて、頭を撫でてくれた。あたたかな手だった。
このころの私は兄以外の他者の存在をあまり認識していなかったように思う。存在の希薄な幽霊に囲まれているようだった。そのせいもあってか、眠ると決まって悪夢を見た。
輪郭のぼやけた白い影たちが好き勝手に動き回り、笑い声をあげる。徐々にねじれて絡まりあい、くっついて大きな塊になって波のように私に倒れこんでくる。
そこで悪夢から弾き出されるように目が覚める。心臓がうるさい。冷たい汗で寝巻が体にまとわりつく。そのまま寝直すのが到底無理なことはわかっているので、2段ベッドの下へおりて兄の布団に潜り込んだ。兄は体温が高いから、冷えた足先を兄の足にくっつければ段々あたたまってくる。半分だけ目覚めた兄は私を抱きしめてくれる。
「またこわいゆめ?だいじょうぶ。オレはここにいるよ」
兄の寝ぼけてふにゃふにゃな言葉と、トクントクンと鳴る鼓動を聞けば悪夢の続きを見ずに眠ることができた。
兄が学校へ行くようになると、兄の周りはすぐに同い年の友達で溢れた。兄は変わらず優しかったが兄の友人たちには近づきたくなくて、放課後自宅に遊びに来た者たちを遠巻きに観察していた。
何度目かの観察から徐々にこれまで白い靄のようだった人間の形がくっきり見え始めて、何を考えているか、何を考えていないかがわかるようになってきた。
「〇〇くんと仲良くなりたい」「あの子は嫌い」「この遊びつまんない」「もっと遊びたい」「帰りたくない」
みな考えていることはおよそ単純で、どの人間も似たり寄ったりだった。つまらないな、と思った。
自分が学校に通うようになっても、兄のようにはなれなかった。周囲が自分を遠巻きにして近寄りがたそうにしているのは見えていたが、予想していた通りどの人間も単純で退屈で、自分から話しかけたいとは思えなかった。
入学当初は兄とともに通学していたが、兄は友人たちとともに歩くようになり、一人で学校へ行き、一人で授業を受け(この時間がことのほか退屈だった)、一人で給食を食べ、一人で帰った。さしてつらいとは感じなかった。そうなるべくしてなった、これが自然な自分の形だとすら思った。
ただ、夕飯から寝るまでの、兄といる時間は誰にも邪魔されたくなかった。一緒に何かして遊ぶわけではないが、リビングで宿題をしたりテレビを見たりする兄の横に座って本を読むのが好きだった。時々、「何読んでんの?見せてー」とか「礼二はもう宿題終わったの?」とか話しかけられて、ぽつぽつ答える。兄はいつもうれしそうに相槌を打ちながら聞いてくれた。兄が笑っているとうれしかった。
兄は私に対していつも優しく、私の在り方を尊重してくれた。頼まないうちからイチゴのショートケーキのイチゴが大きいほうを渡してきて、外食で違うものを頼んだ時は一口味見させてくれる人間だった。
兄が結婚すると聞いたときは「よかった」と思い、そう思えた自分にわずかに驚いた。もしかしたら、自分がショックを受けるかもしれないと予想していたから。
兄の結婚相手は美しい人だった。善良な人だった。
私にとってはそれだけだったが兄にとってはかけがえのない人だと、二人が仲睦まじく話すところを見てすぐに分かった。どうか幸福になってほしいと願っていた。
――兄はきっと家族に対して、私に与えたような愛情を示したのだと思う。献身的に分け与え、望みを叶え、そばに寄り添った。自分をなおざりにしてでも。
その結果、彼の病の発見は遅れ、病巣は体中に広がってしまった。
やり直せるのなら、どこからやり直せばいいのだろう。兄の愛し方が私によって歪められていたとしたら?はじめから……私が生まれるそのまえから始めなくてはいけないのでは?いっそ私は生まれない方が良かったのだろうか?
存在しえない仮定が私を苦しめた。
苦しくて、痛くて、耐えられなかった。だから、蓋をして閉じ込めて、代わりの理由を探した。この世界自体が狂っているのだと。
今日も私は、この世界が狂っていないかを確かめている。