「だから駄目ッスってば!」
慌てて腕を伸ばしてその口に手のひらを押し付ければ、空色の瞳が恨めしそうに俺を見た。
数ヶ月前から、俺は翠くんと『お付き合い』をしている。
告白してきたのは彼の方だった。まさか翠くんに思いを寄せられてるなんて夢にも思っておらず――忍くんにそれを言ったら鈍感だと呆れられたけれど――今後のアイドル生命も含めてどう返事をするべきか散々悩んだ。でも、結局伸ばされた手を取ったのは俺も彼のことが好きだったからだ。
付き合ったところで翠くんはデートとかあまり好まなさそうだったし、そう変わらない生活が続く――と思っていたのだが。彼氏となった翠くんは意外と積極的だった。デートどころか、手も繋いだし――キスもした。そのキスが俺の目下の悩みとなっている。
勿論翠くんとのキスが嫌という訳ではない。ただ、彼はことあるごとに俺とキスしようとしてくるのだ。例えば学院で2人きりになった時や、一彩くんに嫉妬した時とか――恥ずかしいのでこれ以上は割愛する。
翠くんは平気な顔をして俺に口付けを落とすけれど、俺はいつもそれだけでいっぱいいっぱいだった。だから本当は心の準備をしてからちゃんとそういうことに臨みたいのだけれど、翠くんからする時はいつも不意打ちばかりで俺は翻弄されてばかりだった。
このまま彼の好きにさせる訳にはいかない。そう決心して今回のキスは阻止してみたところ冒頭に至る。
「……何で駄目なの?」
「いつもこういう場所でするのは嫌って言ってるじゃないッスか! ここ何処だと思ってるんスか?! もし誰か来たら――」
「誰も来ないって。このレッスン室予約したの俺たちだけだし。……むしろ鉄虎くんが騒いだ方が誰か来ると思うけど?」
痛いところを突かれて口を噤む。けどここで挫ける訳にはいかない。1度甘くしたら調子に乗って、どんどん要求を呑ませようとしてくるのは身を以て知っている。ここは彼の恋人としても心を鬼にしなければならないだろう。
俺が引かない気であることを翠くんも悟ったらしい。不満そうな表情は変わらないが、少し身を引いてこちらを見据えてきた。
「……何かあったの? 誰かに揶揄われた、とか」
「そんなんじゃないッスけど……前からする時はちゃんと言ってほしいし、場所は選んでほしいって言ってるじゃないッスか」
「え〜、宣言するのは俺の方が恥ずかしいんだけど……? あと、場所はちゃんと弁えてるよ。鉄虎くんも人が来ないってわかってるから今まで何も言わなかったんでしょ?」
「そ、それは……! ……でも流石に公共の場でやるのはどうかと思うッスよ。せめて寮の部屋とか――」
「寮も公共の場だとは思うけど?」
「と、とにかく! これ以上無断でするならしばらくキスは禁止ッスからね!」
禁止と言ったところで意味があるかはわからないけれど。翠くんは面倒くさいと言いたげな表情を全く隠していなかったが――不意に何か閃いたように顔を上げた。
「……じゃあ、俺からするのは止める」
「そ、そうッスか」
一先ずこちらの意見が通ったことにほっと胸を撫で下ろす。しかし、それも束の間のことだった。
「だから――鉄虎くんがしたくなったらキスしてきてよ」
「へ?」
「俺からはしないから、鉄虎くんからしてきてねってこと」
未だ尚頭に疑問符を浮かべたままの俺に対し、翠くんは満足そうに笑うのだった。
恋人とのキスの頻度とはどれくらいが適切なのだろうか。
流石に1日1回は多い――ことはないか。ドラマでも毎日してるカップルが……いや、確かあれは海外ドラマだったはずだ。キスが挨拶代わりになる国なのだから日本基準では参考にならない。
「1週間に1回……? いやもうわかんねぇッスよ!」
天井を見上げて頭を抱える。そもそも俺は翠くんとしかお付き合いしたことがないのだ。彼がやりたがる頻度が明らかに多いのはわかるけれど、だからと言って参考にできる他の経験がある訳ではない。
と、いうことは翠くんは昔付き合ってた経験から積極的な行動を取っているのだ。……そう考えると少しへこむ。
「まあ、言い出しっぺは俺なんスけどね……」
ごめんね、これからは気を付けるよ。そんな風に言われてあっさり終わると思っていたのに……現実はままならない。
しかし、これはピンチと同時にチャンスでもあった。普段恋愛方面では翠くんがリードして、俺は振り回されてばっかりだ。それが嫌だって訳じゃないけれど……俺だってそういうことをやろうと思えばできると証明する良い機会だと思っている。
「そもそも俺はかよわい女の子じゃないんスから。気合さえあれば翠くんを見返せるはずッス!」
翠くんに小さな仕返しをすることに必死になった俺は、キスをした時の羞恥心などとっくに頭から抜け落ちていた。やっぱり夜景の見える綺麗な場所が良いだろうか。だけど寮の周りにはそんな場所もないし――。
「鉄虎くん、お疲れ様」
「うひゃあっ?!」
「うわっ!? ……どうしたの?」
考え事をしていたらいつの間にか目の前に翠くんがいて、思わず変な声が出た。知ってる人の気配にすら気付かないなんて。まだまだ修行が足りない。慌てて机の方を見ると、課題に変な落書きはしていなくてほっとした――まだ真っ白なままだけれど。
「ご、ごめん。考え事してた時に話しかけられたからびっくりしちゃって……そういう翠くんこそどうしたんスか? 珍しく自分から部活行く〜って言ってたッスよね?」
「2年になってからは割と真面目に行ってるんだけど〜……? でも、今日は休みだったんだよね。急にそうなるのは仕方ないけど誰も連絡してくれてないし……」
鬱だ、といつもの口癖を吐いて翠くんは息を吐いた。通常運転の彼に思わず苦笑する。
「それはご愁傷様ッス。でも寮には直行しなかったんスね?」
「うん。……鉄虎くんが課題するために居残りしてるって、知ってたから」
キャラメル色の髪と、綺麗な薄青の目が窓から差し込む光を反射してきらきらと光る。言葉を失ったまま翠くんのことを見つめていると、彼は無言のまま俺の手を握ってきた。
しん、と静かな教室。まだ空は明るく、彼の瞳と同じ綺麗な青が浮かんでいる。触れられた左手が温かい。
――特に躊躇うことなく、気付けば自然とそうしていた。シャーペンを置いて立ち上がり――俺の唇と彼の唇が触れ合う。宝石のような目が真ん丸に見開かれた。
触れ合うだけのキスは直ぐに終わる。俺が口を離すと、翠くんは口を手で塞いで凄い勢いで後ずさった。……もしかしてタイミングを見誤ってしまったのだろうか。
「ご、ごめん翠くん……嫌だったッスか?」
「い、いや、全然嫌じゃない。けど、もうちょっとこの距離保たせて……」
「う、うん? わかったッス」
「はあ……破壊力が凄過ぎてヤバい……悪いのは自分だけど……」
顔を隠して蹲っているため表情は伺えないが、翠くんが怒っている様子はなく俺は内心安堵した。しばらく何かぶつぶつ呟いていたが、ようやく彼はゆっくりと顔を上げる。その頬はほんのりと赤に染まっていて、その原因は間違いなく俺に違いなかった。
「もう……他の人に絶対こういうことしないでよね?」
「す、する訳ないじゃないッスか、こんなこと……!」
段々俺も後から羞恥心が込み上げてきて、体が熱くなるのを感じる。俺はどんな顔をしていたのだろう。わからないけれど――翠くんはこちらを見ておかしそうに笑った。
「わ、笑うなッス! こっちは色々考えて頑張ったのに……!」
「ごめんごめん、馬鹿にした訳じゃないから。……ねぇ、鉄虎くん――キスしていい?」
はにかんで、愛おしそうに笑ってそう言う彼に、俺は無言のまま1つ頷いた。
誰かに見られそうな場所でやられるのも、不意打ちでやられるのも恥ずかしいから嫌だけれど――。
まあ、1日1回なら許せるかも、しれない。