Recent Search
    Sign in to register your favorite tags
    Sign Up, Sign In

    Ac_4265

    @Ac_4265

    ☆quiet follow Send AirSkeb request Yell with Emoji 💖 👍 🎉 😍
    POIPOI 36

    Ac_4265

    ☆quiet follow

    『みにくいみにくいぼくらのはなし』
    ※ズ!!開始から1年後のひいてと
    ※なんでも許せる人向け

    ##ひいてと

    【1】



    「鉄虎、どこかに出かけようよ」
     珍しく彼が名前を呼んでそう言うものだから、俺は静かに頷いて彼の手を握った。


     ■ ■ ■


     電車に揺られ何時間が経ったか。気が付けば窓から見える景色は全く変わっていて、一彩くんに引っ張られるまま進んできた俺はもうどこにいるのかわからない。次は終点だというアナウンスが人気のない車両に流れた。
     降りるのだろうか。それともこのまま乗って帰ってしまうか。彼の方を伺ってみれば、綺麗な青色の瞳と目が合った。一彩くんは視線が合ったことに気付くとにっこりと笑うだけで、益々彼の意図がわからなくなる。
     この車両に座っているのは俺たちだけ。隣にあるもう一つの車両にもおそらく人はいないだろう。やがてブレーキ音と共に電車が止まった。一彩くんはすくっと立ち上がると直ぐ様ドアへと向かう。しかし、彼は自動でドアが開くと思っていたようだ。
    「あれ、おかしいな……開かないよ?」
    「一彩くん、ここは横にあるボタンを押さないと開かないッスよ。後、改札がないから運転手さんに切符を渡してから降りるッス」
    「そうなのかい? 全く知らなかったよ。部長はやっぱり物知りだね!」
     別にこれくらいは常識だと思うのだけれど、尊敬の眼差しで見られれば悪い気はしなかった。少し重いボタンを押すとドアが開き、俺たちはこちらを物珍しそうに見てくる運転手さんに切符を渡して降車した。電車はドアも閉まらず動く気配もない。おそらく折り返しの出発をするまではずっとこのままなのだろう。
    「一彩くん……ここってどこッスか?」
     辺りは山ばかり――否、最早山の中にある家の一軒すら見当たらない無人駅。一応聞いてみるものの、予想通り彼は首を傾げるだけだった。
    「さあ? 僕は兄さんに教えてもらった通りに来ただけだから」
    「兄さんって……」
     天城燐音か。益々不安が募って思わず顔を顰める。一彩くんはそんな俺を見て、部長は本当に兄さんが嫌いだね、と苦笑した。
    「別に嫌いじゃ――」
    「心配しないで……と言っていいのかわからないけれど。この場所を教えてくれたのは今の兄さんじゃなくて、ずっと前の兄さんだよ。おそらく嘘も吐いていない」
     曰く、この山は故郷の一族のものらしい。なんでも彼らはいずれは都会まで攻め入ろうと企てていたようで、ここを本丸にしようとしていたのだとか。今ではその計画は崩れ去ったものの、管理されている小屋が一つだけあるという。語られる言葉はどれもお伽噺のようで、俺は呆然としながらその話を聞いていた。
    「そこに行きたくてあんなこと言ったんスか?」
     だったら前以て言ってくれれば色々と準備できたのに。肩にかけているショルダーバッグは最低限のもの以外ほぼ何も入っていないに等しかった。
    「……どうだろうね」
    「へ?」
    「自分でもよく、わからないんだ」
     そう言う一彩くんは顔を逸らしているからどんな表情をしているのかわからなくて。自分よりも背の高いはずの彼がどうしてかとても小さな生き物に見えた。


     ■ ■ ■


     ――君に俺の気持ちがわかる訳ないよ。
     ――やっぱり天城くんは天才だね。
     都会に出てから――いや、アイドルになってから何度言われた言葉だろう。
     故郷にいる頃は知らなかったが、僕は少しだけ人より物覚えが良いようだった。普通の人ならば時間がかかることも、僕はあっという間に会得してしまうらしい。らしい、と言うのは僕自身にそんな自覚はないからだ。
     最初は、いや今も友や仲間たちは成長した僕をいつも褒めてくれる。だけど、その中に黒い声が混じるようになったのは何時のことだったか。気にする必要はない、ただのやっかみだと優しいみんなは僕の耳を塞いでくれる。だけど――本当にそうなのだろうか?
     僕は、彼らを踏み台にして輝かしいアイドルの一員になっているのではないか。その下にいる者に気を払っていなかっただけの話ではないか。


     心の中に何かが渦巻く心地がした。


     ■ ■ ■


     こんな山の中によく小屋を建てたものだ。一彩くんに導かれるまま、駅から山登りを続けた俺はすっかり汗だくになっていた。ちらりと隣を見れば流石に少しは額に汗を浮かべているものの、涼しい顔をしている。俺の方が新陳代謝が良いのか、はたまた一彩くんが俺以上に鍛えているだけなのか。おそらく後者だろうと思うとやっぱり悔しかった。
    「ごめんね。こんなところまで連れてきてしまって」
    「今更ッスよ。……それにしても随分立派ッスね?」
     一彩くんに倣って小屋とは言ったものの、外見はログハウスと呼ぶべきに相応しいものだ。おそらく中にもそれなりの設備があるのではないだろうか。兵士が集う場所と言うよりは、友人とキャンプをするための場所だと言われた方がしっくりくるくらいだ。
     俺の感想に、一彩くんは一つ頷いてみせた。
    「ウム、実は数年前に兄さんが改築したみたいなんだ。電気も水道も通っているし、中も綺麗だと思うよ」
    「あいつが……」
    「いざという時にここに逃げるって言ってたね!」
    「あの人……兄貴たちに内緒で借金なんかしてないッスよね?」
    「兄さんは頓挫する計画なんて立てないよ。必要な出費なら惜しまないだろうけどね」
     日頃やってるパチンコやら競馬やらも必要な出費だと言うのだろうか。理解に苦しむが、俺も趣味にはそれなりにお金を掛けている方だからとやかくは言えないのだろう。
     物思いに耽っていると、一彩くんに腕を掴まれてそのまま引かれる。
    「とりあえず中に入ろうよ。部長も疲れただろう?」
    「……ッスね」
     はしゃいでいるように見える一彩くんはいつも通りで。数時間前のあの顔が幻のように感じられた。


     中は予想通りと言うべきか、これまた立派な造りになっていた。照明からトイレ、果てにはお風呂まできちんとあるし、日用品や食料の備蓄も十分ある。スーパーが近くに無さそうだったので心配していたが、とんだ杞憂だったようだ。
    「ウム、これくらいあるなら問題ないね!」
    「なんかもう……普通に旅行みたいッスね、これ」
     食事はレトルトばかりだから豪勢に、とはいかないだろうけど。どんなところにでも着いていく覚悟を決めていたから、あまりにも『普通』と変わらない小屋の中に拍子抜けしてしまった。
    「部長を危険なところに連れていったりしないよ。僕が鬼龍先輩や千秋先輩に怒られてしまうからね!」
    「いや、二人は俺の親でも何でもないッスよ。まあ、置き手紙もせずに出てきたから怒られるとは思うッスけど……」
     一体一彩くんは何時までここにいるつもりなのだろう。食料が尽きるまで? それとも、もう明日には帰るつもりでいるのだろうか? 様々な思いが脳内を駆け巡るが、結局その問いを口にすることはできなかった。――なんとなくだけれど、今の彼にとってその質問は地雷のような気がするのだ。
     俺が小屋の中を見渡している内に、一彩くんがてきぱきと部屋を整えていく。流石にこのままぼうっとしている訳にはいかないと、俺は荷物を床に下ろして彼の下に駆け寄った。
    「一彩くん、俺も手伝えることはないッスか?」
    「え? 部長は今日はお客さんなんだからゆっくりしておいてほしいよ」
    「もう、俺がじっとしてられない性分なの知ってるッスよね? それに――これから二人でしばらくここで過ごすんだったら、俺も手伝うのは当たり前だと思うッス」
     彼に押し切られる前にそう詰めよれば、一彩くんはきょとんとした後何故か嬉しそうに笑った。――眉を下げて幼さが見えるその顔は、俺を可愛くて仕方がないと思っている時の顔だ。
    「ふふ、部長がそう言ってくれるならお言葉に甘えようかな……って、どうしたの部長? 顔が赤いよ?」
    「ひ、一彩くんのせいッスよ……」
     そんな顔をされたら。多分恋人じゃなくたって照れない人間はいない。慌てて腕で顔を隠そうとすると、一彩くんがそれを引き剥がそうと奮闘する。
    「な、何で見ようとするんスか!」
    「だって本当に真っ赤だよ……もしかして山登りで日頃の疲れが出たんじゃ……?!」
    「こんなのでへこたれるほど柔な鍛え方はしてないッス!」
     結局、顔が別の意味で赤くなるまでこの押し問答は続くこととなった。


     ようやく一段落した頃には、木々の隙間から夕日の光が差し込んでいた。随分長く電車に揺られていたし、当然と言えば当然だ。不意にポケットから取り出したスマホを見てみる。流石に電波はここまで届かせるのが難しいようで、圏外という字が左上に表示されていた。……もしここが電波が届く場所だったら、今頃きっとメッセージの嵐が届いているだろうからある意味助かっているのかもしれない。
    「部長、どうしたの?」
    「一彩くん」
    「お風呂湧いたよ。先に入るだろう?」
     部長は代謝が良いからね、と一彩くんが笑う。先程の自分の思考を見抜かれているようで少しどきりとした。
     内心を悟られないよう、彼に笑い返してスマホをさり気なくポケットに仕舞う。
    「そういうことなら、お言葉に甘えるッスかね」
    「ウム。……そう言えば部長は着替えを持ってないよね?」
    「そりゃ荷物これだけしか持ってきてないし……よく考えたら下着とかもないッスね」
     服はまだ我慢できなくもないけれど、下着も一緒なのは衛生面にも問題が出てくる。今更どこにも買いにいけないしどうしようかと思っていると、俺の不安を他所に一彩くんは笑みを浮かべて自身の持ってきたリュックを取り出した。
    「大丈夫だよ、僕が持ってきてるから! 服の着替えもきちんとあるよ!」
    「ひ、一彩くんが?!」
    「サイズは問題ないと思う。デザインは……僕が勝手に決めてしまったから目を瞑ってほしいな」
    「え、いや、それは構わないッスけど、えっ?」
    「あ、勿論新品だから安心してほしいよ!」
    「いや、そういうことじゃなくて――?!」
     押し付けられるまま下着と寝間着の入ったビニール袋を受け取り、そのまま流されて風呂場へとやって来る。気付いた時には、既に自分の体は浴場にあった。
     そのままとりあえず汗を流して、体を清め、いよいよ彼が用意してくれたそれを身に纏う。――完璧としか思えないほどサイズがぴったりで、まさか寝ている間に測られていたのではないかと俺はしばらく疑うこととなった。


     ■ ■ ■


    「部長……やっぱりスマホを見ていた」
     一人きりになり、水音が聞こえる部屋で呟く。冷静に考えなくとも当たり前だ。僕は半ば強引に彼をここまで連れてきてしまったのだから。優しい部長は同意した時点で僕を責めることはないと思うけれど。
     きっと今頃寮では沢山の人が彼を心配しているのだろう。部長も何も言わずに出ていってしまったことを悔いているに違いない。――そうさせたのは僕だ。
     ここまで連れてきてしまったことを実は少し後悔する。それを言葉にすれば彼への侮辱になってしまうだろうから絶対声にはしないけれど。
    「部長は、どんなことがあっても人と……アイドルを愛しているんだ」
     当たり前のことを口にする。そうだ。【アイドルロワイヤル】でも、【MDM】でも、【コメットショウ】を経た後でも――彼は彼のままだった。ずっと眩しいものだと、憧れたそれになりたいと思っていたのに……それが嘘だったかのように今は酷く苦しい。
     きっと何があっても部長はアイドルを辞めないのだろう。――――部長『は』。
    「……ねぇ、部長。僕は――」


     ――アイドルを辞めた方が良いんじゃないだろうかと言ったら、彼はどんな顔をするのだろう。


     ■ ■ ■


    「お風呂上がったッス!」
    「おかえり。湯加減は大丈夫だったかな?」
     笑う一彩くんはいつも通りのように見えるけれど――どこか疲れているように見えた。彼には失礼だけど、草臥れたとかやつれたという表現がしっくりくる。別に肉体的に変わったところがある訳ではないから、聞いたところで否定されるだろうけど。
    「部長……?」
    「……ううん、なんでもないッスよ。良いお湯だったッス。一彩くんも入ってきたらどうッスか?」
    「そうだね、そうさせてもらうよ。上がったら夕食を用意するからそれまでゆっくりしてて」
     そう言うと、一彩くんはさっさと浴室に向かって行ってしまった。今はその方が有難いから少しほっとする。
     風呂場から水音が聞こえ始めてから俺は再び部屋を散策し始めた。部屋の構成的には一つの大きな部屋に小さなキッチンが着いているだけというシンプルな造りだが、ここが山の中だということを踏まえれば十分過ぎる設備だろう。部屋にはおあつらえ向きにベッドが二つあり、他には日用品を保管する棚が一つ置かれていた。
    「流石にこんなところじゃ手合わせできないッスね」
     そう嘯いても今答えてくれるのは水音だけだ。不意に一彩くんが持ってきた黒いリュックが視界の隅に留まった。
    「……いやいやいや、流石にそれは駄目ッスよ、流石に」
     口ではそう言いつつも、ついつい視線はそっちへと向かってしまう。
     ――よく考えれば一彩くんは非常時のことを考えているのだろうか。ここは電波が届かないから警察は勿論、救急車も呼べない。いざという時に対処できなければ最悪死んでしまうかもしれないのだ。
     だからそう、これは……安全が確保されているか確かめるための大切な作業だ。
     ゆっくりと一彩くんのリュックに近付く。水音はまだ止まないが心臓は今にもはち切れそうだ。ファスナーを開けると少し音が鳴って、それだけでも大袈裟なくらい肩が跳ねた。
     心の中で謝りつつ、リュックの中を見ていく。着替えだけでなく、缶詰や簡単な医療キットまで入っていた。本当に用意が良い。
    「一彩くんは……ずっとこのことを計画していたんスね」
     ここまでちゃんとした準備を思い付きではできないことくらい、いくら馬鹿な俺だってわかる。ふと、一番奥に入っていた封筒が目に留まった。取り出してみるとそれなりに分厚いことがわかる。中身を見て俺は目を見開いた。
    「こ、これは……!」
     中に入っていたのはスタプロ及びESの規則が纏められた冊子だった。正確には『就業規則』と言うらしく、ここに書いてあることに違反すれば懲戒や減給、最悪は退所処分になるらしい。とは言え、真面目に仕事をしていれば破ることなんてまずないだろう。
    「何でこんなの持ってきてるんスかね……」
     他に入っていたものと比べたら明らかに余計な荷物だろう。むしろこれを持って来ずにリュックを軽くした方が良いとさえ思える。――それでも一彩くんはこれをここに持ってきたのだ。
     物思いに耽ろうとすると水音が止み、俺は慌ててそれを元の場所へと戻してファスナーを閉めた。すっきりした気持ちよりは公開の方が残る。……彼の心の中を無断で少し覗いてしまった気分だ。
     そんな俺の心情などつゆ知らず、一彩くんは元気よく走って帰ってきた。
    「ただいま、部長!」
    「お、おかえりッス!」
    「どうしたんだい、そんなに慌てて?」
    「い、いやちょっと油断してたから……俺変な顔してなかったッスか?」
    「別にいつも通りだったけど……?」
     不思議そうな顔をしながらも一先ず納得してくれたようで、俺は内心安堵の息を吐いた。いくら寛容な一彩くんだと言っても、流石に荷物の中身を漁ったなどとバレれば疑いの目を向けられることは避けられなくなる。――そんなことを考えている時点で色々駄目なのだろうけれど。
    「――部長?」
    「はいっ?!」
     不意に名前を呼ばれて条件反射で大声で返すと、いつの間にかキッチンに立っていた一彩くんが青い目を丸くして瞬かせた。変な声を出してしまったと顔が熱くなるが、幸か不幸か不審に思われていないようだった。
    「カレーか中華丼、どっちがいいかな? どっちにしてもレトルトだけどね」
    「それならカレーが良いッス!」
     キャンプ……ではないにしても、やっぱり山と言えばカレーが定番だ。俺の返答に自分もそうしようと思っていたと、一彩くんは笑って頷き返してきた。
    「俺もなんか手伝うッスよ? ほら、米を炊くとか……!」
    「心配には及ばないよ。部長はそこで待ってて!」
     一彩くんに悪気はないのだろうけど、言外に火に関わるなと言われてる気がするのは被害妄想が過ぎるだろうか。思わず尖る唇を隠せないまま、調理に勤しむ彼の横顔を完成するまで眺め続けていた。


     娯楽も仕事もないこの場所では、食事を摂れば後は寝るだけだ。外に出ないかと言い出せないまま時間が流れていく。けれど不思議と無駄な時間を過ごしているようには感じられなかった。――この無意味で穏やかな時間が、きっと今の一彩くんがなによりも欲しているものだろうから。
     けれども、流石に山に来たのに天体観測をしないのは勿体ない。自然豊かな故郷で育った一彩くんには見慣れた光景なのかもしれないけれど――二人で見ればまた違ったように見えるかもしれない……多分。
     明日この辺りで見晴らしの良い場所がないか聞いておこう。そう考えていると、不意に一彩くんが俺の隣に座ってきた。その表情はやけに真剣だ。
    「部長、今日なんだけど……その……」
     珍しく彼にしては歯切れが悪い。ここは俺が促してあげるべきだろう。頭の中は自然と『空手部の部長』へと切り替わっていた。
    「どうしたんスか?」
    「今日……僕と一緒に寝てくれないかい?」
    「はぁっ?!」
     予想外の『お誘い』に俺は目を見開くことになった。寝る、ってそういうことでいいんだろうか。まだお互いの裸も見たことがないのに唐突過ぎる。いやでも、野性的なところもあるから突然そういう気分になったのかも――。
    「……子どもみたいなことを言ってる自覚はある。けど……駄目かな?」
    「あ、ああ……寝るってそういう……」
    「ん? 他にどんな意味があるんだい?」
     しまった、墓穴を掘ってしまった。絶対に自分の口からは教えたくない。だけど、それで兄であるあいつに聞かれでもしたらもっと後悔するような気も――。
    「な、なんでもないッスよ。俺は構わないッスけど……一彩くんは狭くて嫌じゃないッスか?」
    「僕は大丈夫だよ! ……元より僕がお願いした身だからね」
     ありがとうと言う声は少し弾んでいて、俺は内心胸を撫で下ろした。一彩くんがずっと沈んだ空気だとこちらまで調子が狂ってしまう。傲慢だとわかっていても、彼は彼らしくいつも笑っていてほしいのだ。……それが難しいことは自分の身を以て知っているけれど。
    「……一彩くん」
    「何だい?」
    「好きッスよ」
     不意打ちのようにそう耳元で囁けば、一彩くんは目を見開いた後照れくさそうにはにかんだ。
    「どうしたの、部長? 嬉しいけど」
    「……こういうところじゃないと素直に言えないッスからね、俺は」
    「僕は部長のきちんと場所と立場を弁えているところも好きだよ。都会では確か――『てぃーぴぃーおー』って言うんだっけ?」
    「はは、物は言いようッスね」
     一彩くんに愛され、一彩くんを愛せることを幸せだと思う。――だからこそ、この幸せを壊してまで踏み込むことを躊躇してしまう。


      だけど――――俺はそれで一度後悔してしまったから。だから、彼に恨まれることになろうとその問いを口にする。


    「一彩くん――出かけようって言った時からずっと変ッスよね。……どうしたんスか?」


     ■ ■ ■


     とうとう恐れていた事態が訪れる。いや――部長はずっと聞かないでいてくれただけだ。ずっと見えていたのに、僕を傷付けないためにと知らない振りを決め込んでいた。……その優しさが今は少し痛いけれど。
     今直ぐ全てを吐き出したい衝動に駆られる。きっと部長は静かにそれを聞き、受け入れてくれるだろう。その感情を抱き締めながら僕をより良い方向へと導いてくれるだろう。


     だけど――ごめんね、部長。


     こんな醜い姿を、どうしても目の前の愛している人だけには見せたくないんだ。


     ■ ■ ■


     しまった、なんて思ったところで後の祭りだ。おまえが一彩くんを傷付けたんだと頭の中の冷静な部分が詰ってくる。
     俺の問いを聞いた一彩くんは目を零れ落ちんばかりに見開かせると、明らか様に強がった表情を浮かべた。それでも完全には誤魔化せないようで、眉が弱ったように垂れ下がっている。
    「……もう寝ようよ、部長。僕も今日はなんだか疲れてしまったよ」
     結局、長い静寂の後紡がれた一彩くんの言葉は俺の問いに答えるものではなかった。優しく手を引かれ、布団の中へと誘導される。一彩くんは何も言わなかった。――俺も何も言えなかった。
     消すよ、という声と共に部屋が真っ暗になる。どうやら一彩くんは常夜灯を点けない派らしい。ひなたくんと兄貴もそうなのだろうか。
     目が暗闇に慣れていない視界は黒で塗り潰されていて。けれど、隣に確かな体温を感じる。ごそごそと動くような音が横から聞こえてくる。一彩くんがこちらを向いたのだと見えなくともわかった。
    「…………鉄虎」
    「……何スか?」
    「ごめんね。……弱い僕を赦して」
     謝る一彩くんに俺は何も返せなかった。なんとなく、『そんなことはない』と否定するのは違うような気がして、だからと言って俺だって別に怒っている訳ではなかった。
     彼は今、一生懸命適切な言葉を探している。そして――俺に心の柔い部分を見せようとしている。ならば俺は、彼の気持ちが決まるまで待つのが最善だろう。……幸い、時間にはたっぷり余裕がある訳だし。
     一彩くんは弱くない。俺がいるんだからそんな顔しないで。そう言う代わりに、俺は布団の中で彼の手に指を絡めた。
    Tap to full screen .Repost is prohibited
    😭😭👏🚃💯😭💘♠🐯💘
    Let's send reactions!
    Replies from the creator

    recommended works