槍を持つ英霊が二騎、後方で焦りを滲ませた目を険しく歪めながらも真っ直ぐに前を見据えながら立つ人間が一人。つい一瞬前までまだその場に立っていたサーヴァントが強制帰還した感覚に、全員に緊張が走る。
「あれが厄介だな、どう思うディルムッド」
「まだ余力があるように思います。攻撃は効いてはいますが、ただ突きを繰り返すだけではこちらが消耗する一方かと」
目の前にはまだ力を持て余したエネミーが行く手を塞いでいる。兵士のような姿形をしたものが数体、進もうにも引こうにも切りかかってくるそれらに対処しなければならなかった。
そして二人が視線をやる先には一際異様な目玉のような形をした敵性体が浮かんでいる。数いる兵士と異なり、それは少しばかりダメージを加えた程度では動きを鈍らせさえしなかった。
「マスター!ここは私たちがどうにかする、任せてくれるか!」
ディルムッドの見解に頷いていたフィンは後方へ向かって声を張り上げる。その堂々たる宣言に呼び掛けられた青年が頼むと潔く答えるのを聞いて、フィンは襲いくる兵士を打ち払いながらディルムッドのすぐ側まで体を翻した。
「ここは私が囮になる。お前がとどめを撃て。」
「っ、本気ですか、そんなことをしてはフィンが…!」
既に消耗している様子が見て取れるフィンにディルムッドは眉を寄せる。フィンのスキルが囮を引き受けながらも攻撃を回避することが可能であることは分かっていたが、その練度が十分でないこともディルムッドはまた知っていた。
「あぁ、お前の宝具解放まで時間を稼ぐ。お前の宝具ならばあれを一撃で落とせるだろう。残りの兵士を散らしたらすぐにマスターを安全地帯へ、準備が整い次第管制室に帰還しろ」
我々の使命はマスターを守ることだ。二人掛かりで必死になって敵と共倒れ、などという事態になってはならない。そうフィンは強い口調で続ける。
「なに、運が良ければ回避できるさ。そうしたら私も共に帰ろう、良いな!」
有無を言わさぬ力強い声に、ディルムッドは目の前の敵を鋭い目で見つめ直して短く返事をした。
フィンの体を特殊な魔力の色が覆う。対峙したエネミーの注意が全てそれに絡め取られるように自分から逸れていくのをディルムッドははっきりと感じた。フィンが放つ魔力に目の前の敵が気を取られている隙を突いてすぐにディルムッドが兵士を一人、二人と屠った次の瞬間だった。
目玉のエネミーが勢いよく発した光線が、いやに激しい音と共に伸びていく。それはその先で構えられた神霊殺しの槍を掻い潜り、貫いた。
苦しげな呻き声に思わず振り返ったディルムッドの目に映ったのは、片腕と脇腹の肉を光線に抉られて槍を落とすフィンの姿だった。
顔を歪めて蹲るその口の端に真っ赤な筋が流れ、咳き込むたびに穴の空いた腹を、口元を鮮血が染めていく。ディルムッドは彼の名を叫び、目を見開いてその様を凝視する。
後方からマスターの叫び声が聞こえて、フィンを映して妙にゆっくりと動きを捉える視界に入り込んでくる影にディルムッドは我に返った。
追い討ちをかけるようにディルムッドが取り逃した兵士がフィンに剣を振り上げる。フィンは残っていた腕でそれを受け止めたが、剣は手甲に深く突き刺さり生身の腕までもを切り裂いたようだった。
それが最後の一撃になったらしい。
カルデア式の召喚では、座に退去するほどの損傷を受ける前に強制帰還という措置が行われる。満身創痍の体が金色の光に包まれ、後は頼んだ、という呻くような呟きと共に、フィンの体は全て金色の光となって霧散した。
その直後、禍々しい魔力を纏った二本の槍がフィンを貫いた怨敵を突き刺す。巨大な目玉が黒い塵のようなものになって消えたその様子を気にも留めずに、続けて血に濡れた剣を間抜けに携えた兵士の心臓が一瞬にさて差し穿たれる。
フィンの指示通り速やかにその場を制したディルムッドはマスターの元へ舞い戻り、軽々と主の体を抱えると見晴らしの悪い大樹の森から一足飛びに脱出した。
「ごめん!みんな、大丈夫だった!?」
ディルムッドが医務室へ入ると、共に入室したマスターは先に帰還させてしまったサーヴァント一人ひとりに詫びた。既にある程度回復している英霊は既に何でもなかったかのように体を起こして労いの言葉や戦闘中の指摘を返しているが、ディルムッドが探した人はその中にはいない。
「マスター、こちらへ」
医術の心得があるために医務室を任されているサーヴァントが主を呼んだ。
「彼は今回少々消耗が激しくて、マスターがしばらく側にいられた方が良いかと思います」
そう指し示されたベッドには長い金の髪が流れていた。
横たわったその人は薄く目を開いており、どうやら意識はあるらしい。よく見ると失われたはずの腕も既に戻っていた。
「やあすまないねマスター…ディルムッド、よくやった」
体は修復されているが血の流れた跡の残る肌が痛々しい。普段より幾分か掠れた声、立ち尽くしたディルムッドはその言葉に返す声が出せなかった。
「ごめん、俺が未熟なばっかりに…」
「そうだな、特に序盤はもう少しやりようがあったかも知れない。ただ我々はそういう君のためにいるのだから結果はあまり気にするな。あの状況ではあれが最善手の一つだったと理解してもらえれば構わないよ」
いつも通りの口調ではあるがやや固い表情を浮かべる顔は青白く、ディルムッドはそんなフィンを見ていれば見ているだけ嘔吐きそうな心地になっていく。
「…ディルムッド?どうした、お前も休んだ方がいいぞ?」
「問題ありません、私は先に戻ります…」
目敏いフィンが、人の心配をしている場合ではないだろうに、怪訝そうにディルムッドの顔色を伺う。その心遣いがますますディルムッドの胸に突き刺さって埋まり、その場に留まる苦しみを増させたので逃げるようにそう言うしかなかった。
レイシフトが終わったのが午後、昼食と夕食のちょうど中間くらいの時間だったため、フィンの体の状態は夕食頃にはしっかりと回復していた。
精のつくものをたんまり食べて眠れば明日からはまた問題なく出撃できるぞと胸を叩いてマスターをフォローしたものの、フィンはもう一人声をかけなければならない者がいることに気づいていた。
生憎夕食時に彼と会うことは叶わなかったので、今はその部屋の前まで足を運んだところだ。扉の外から声をかけると、だいぶ覇気がないがしっかりと返事があり、内側から扉を開いたディルムッドに迎え入れられる。
「浮かない顔をしているな、どうしたんだ?」
難しそうに眉を顰め眉間に皺を寄せるせいで、垂れ気味で普段は穏やかな印象を与える目が険しく歪む。そのくせ唇は真一文字に引き結ばれ、何かを耐えるような悲痛な雰囲気すら見て取れる。
黙ったままのディルムッドのそのような顔はあまり見たことがない。フィンがため息をついていると、ふと体の横に下ろしていた右手を取られた。甲斐甲斐しく持ち上げられた手はディルムッドが添えた両手にそっと包まれ、確かめるように握られた後、乾いた唇が指先に触れた。
「……ディルムッド」
「……あなたが…」
名を呼ぶと、重い口を開いたディルムッドがゆっくりと言葉を紡ぎ始める。
「あなたが傷つくことなど、考えてもいませんでした……あなたが、只人のように血に塗れ、膝をつき倒れ……あなたを失うことになるかもしれないなんて、一度も……」
しっかりと太い声が震える様が痛ましい。それ以上に言葉にされたディルムッドの心が憐れでフィンはもう一度深くため息をついた。
「それは買い被りというものだろう。私は人だし、深く傷つけば死ぬ体だ。今も、……昔もな」
右手はディルムッドに貸したまま、左手を小さく震える肩に置く。幼子をあやすようにとんとんと叩いていると小さな声がディルムッドから絞り出された。
「お体に、触れてもよろしいでしょうか」
「構わないよ。存分に堪能しなさい、私はどこを取っても完璧だからね。触れたくなるのは当然だろう」
「……………」
重苦しい雰囲気があまりに好きになれずに茶化そうとするが、ディルムッドは黙ったまま適当な相槌すら打ってくれなかった。
ディルムッドの手がフィンの右手から右腕を伝って脇腹へ触れる。ちょうど先の戦闘で吹き飛ばされた部分を念入りに指でなぞられて、こそばゆさと居心地の悪さを感じるが、ディルムッドは一心不乱といった様子でフィンの困り顔を窺おうとはしない。
しばらく腹と腕を念入りに確認した後、ディルムッドの体が一歩近寄ってフィンを腕の中に収める。
弱く抱きしめられたことに抵抗せずに、フィンはディルムッドの後頭部に手を添え、癖毛の頭を自分の肩口に優しく抱き寄せた。
「……もうしわけありません……」
「…おまえがそこまで参るなら、私も無駄な負傷はしないように気をつけるが…我々のすべきことはゆめゆめ忘れるなよ?」
「…心得ています」
「本当か?マスターを守ることに百の力を使えるか?」
「…使えます……しかし」
ディルムッドが言葉を切る。しかしなんだ、とフィンが促せばややあって話が続いていく。
「次に敵を引きつける役目があるなら、私が…」
そう言って腕に力を込めるディルムッドに、フィンは首を傾げる。
「うん?おまえにそんなスキルはないだろう」
「ですが私が…!王をお守りしなければ…!!」
「全然わかっていないではないか…」
切羽詰まった言葉にため息をつくとディルムッドの背に回していた腕を今度は肩に置き、フィンは頭ひとつ分ほどディルムッドの体を引き剥がす。しっかりと目線を合わせればその顔は数分前よりさらにひどい有様だった。
「いいか、私を守ることとマスターの勝利に貢献すること、天秤にかけるならおまえがなすべきは零対十で後者だ。今日私はマスターを無事に帰還させるに最も有効な手段としてああいった判断をしたまでで、私に従ったおまえは正しかっただろう。」
「ですが…!」
「良いか、間違っても私を庇おうとするな。それとも何か、おまえの中で私はおまえが守らなければならないほど弱いものか?」
「……ッ違います……!」
歯を食いしばるディルムッドのあまりの表情に、ひどく虐めているような気分になってフィンは落ち着かない。いつものケルトジョークで弄る時などよりよほどで、ディルムッドが本気で痛手を受けている反応がこれであるなら、これからはあまり悪戯に揶揄うのは止そうと思うほどだった。
「では今後も私に背を預けてくれるな?我が騎士よ」
「……はい」
「よろしい、この話は終わりにしよう。夕食はちゃんと食べたか?まだなら早く行った方がいい。私も共に行こう。」
両手でディルムッドの肩を叩く。返事はしたもののまだ煮え切らない様子の部下を見て見ぬ振りをして、フィンはその腕を引いた。
後日のディルムッドは、結局フィンが付き添って食堂に向かった後も晴れない表情だったその日の姿からは一転、至って普段通りとなっていた。
勿論フィンが戦闘で当時と同じようにスキルを使っても、動揺の片鱗すら見せない。寧ろ何もなかったかのようにさえ見える素振りには、フィンとしてもわざわざ事を掘り返すのは躊躇われた。
どうもディルムッドなりに整理をつけたようだと考えて胸を撫で下ろしていた頃、再びフィンはディルムッドと連れ立って出撃する機会に恵まれた。
「我々もだいぶ思うように力を出せるようになったな!マスターのおかげだ」
「ええ、これなら並大抵の相手に打ち勝てましょう」
彼らのマスターは戦術の研究だけでなく、日々リソースを集め、サーヴァントの状態の確認や強化に勤しんでいた。その甲斐あって最大にも近い力を出せるようになった英霊たちは以前よりずっと頼もしく、崖っ縁の戦いを強いられることも少なくなってきた。
「フィン!宝具の解放はできる?」
「あともう少しだ!少しばかり被弾すれば十分に足るだろう!」
「了解!第二スキルの使用を許可する!」
後ろからの声にフィンは応えた。
マスターはもうすっかりフィンのターゲット集中スキルの使い方を心得ている。練度もしっかりと高められたスキルは基本的にフィンの消耗を引き換えにすることなく仲間を守り、また僅かに足りない魔力を補うためのものとして運用できるようになっていた。
「承知した!では…輝いてしまおうか…、…っ!?」
勿体ぶって台詞を吐いたフィンはふと、前方で敵を蹴散らしていた男を見やり、そして目を大きく見開いた。
視線の先ではちょうどディルムッドがフィンを振り返っていて、じわりと開いていく深い琥珀色の瞳孔がフィンを捉えていた。一瞬のうちにディルムッドが纏った異様な雰囲気は、ちょうどフィンがひどく負傷した日に見たそれと同じだった。
視線が交わった一瞬、驚きに息を止め戦場の感覚を忘れていたのはフィンだけだった。
「ッ!!?」
襲い来る敵の攻撃に構え遅れたと思ったその瞬間、目の前に光のような速さで現れた影が崩れ落ちた。
「は……?」
その状況を頭では理解できずとも、体は今取るべき行動を割り出して勝手に動いていく。倒れかかった男の体を自分の背後へ庇うとフィンは向かってくる敵の動きを愛槍で器用に全て往なす。
腹に深い穴を空けた男の姿に頭の端が割れるように痛んだが、気力で頭痛を振り払うと男の体を抱きかかえ、後方に控える主人の元へと跳んだ。
「マスター!少しだけこれを頼む!すぐに戻る!」
傷を負ったディルムッドを抱えてとんできたフィンに青年は一瞬目を丸くしたが、すぐに頷くと回復礼装を起動させた。
フィンの姿が再び前線へ向かって消えた直後、怒涛が大地を割った。
「この、馬鹿者…!」
ディルムッドのぼやける視界に金色の光がちらりと煌めく。
「…ディルムッドが受けた攻撃は多分に魔力が溜め込まれていた。幸い致命傷ではないが、この通りだ…しばらく動けないな。すまないが少々時間をもらえるだろうか」
フィンはそう言うとディルムッドの頭を持ち上げて何かをディルムッドの唇に当てた。口の中に流れ込んできた水に、ディルムッドの靄のかかった意識は急激に晴れていく。
「……!!」
「気がついたか…説教は後にしてやる、気分はどうだ?」
「わが…王、これは……」
フィンがディルムッドの頭を抱えた方とは逆の手に持っていたのは、彼が普段携帯している水袋だった。戦闘中に発揮されるスキルではないものの時折出撃メンバーのお役立ちアイテムになっているそれが何物かはディルムッドもよく知っていた。
「今回はまだやることがあるがおまえもう後方待機だ。動けるようになったとして、今のおまえに無理をさせるのはマスターの本意ではないだろう」
再び有無を言わせず流し込まれた水をディルムッドは飲み込むしかない。
フィンの神秘が注ぎ込み霊体の損傷が癒えていく感覚と引き換えに、心臓は耳障りなほどに鳴り、身体中にまわる癒しの力を飲み続ける。
その水はディルムッドにとって特別で、因縁だった。こんな形で、こんなにも容易く再現されてはならない光景だった。
生前今際の際でどんなに切に求めても終ぞ与えられることのなかった癒しが、躊躇いなく潤沢に体を満たしていく。引き攣る胸がずきずきと疼く。
「王よ…何故…」
フィンはちらりとディルムッドと視線を合わせると困ったような笑顔と歪む憂い顔の間のような表情を一瞬見せるとまた目を逸らした。
「何故も何も無い。頼むからそんな顔をするな…調子が、狂うではないか……」
少しの沈黙が過ぎ去った時、傷は既に完治していた。
フィンの助けを借りて体を起こしたディルムッドは大人しく前線を後方待機の英霊に譲り、マスターの側に従った。
その後はそれ以外のイレギュラーは起こらず、無事に目的も果たしてカルデアに帰還した一向から静かに離れたディルムッドはその足で医務室に向かい軽い治療を受けた。そのままなるべく誰にもあわずに自室へ戻れたらと思っていたが、医務室を出たすぐの場所に立って待ち構えていたフィンに目論みは崩された。
「大丈夫か?」
「はい、お陰様で…」
「そうか、大事が無くて良かった」
「感謝いたします」
歩調を合わせてくれるフィンの顔を見ることができない。
フィンと敵の間に立ち塞がった時何故そのように体が動いてしまったのかはわからなかったが、その根底にある恐れと憂慮のことはわかっていた。それはつい先日自覚したもので、気づいてしまえばどんなに押し込めようと完全に消し去ることはできなかった。
「申し訳ありません、王の命を守れず…」
俯いたまま零す。隣を歩くフィンの纏う雰囲気が何故か穏やかに感じられることに少しの怯みを感じながら自身の不忠を謝罪した。
「うむ…いいや、事情があったのだろう。先ほどは私も説教などと口走ってしまったが、あの時おまえの様子がおかしかったのは気づいていた」
ややあって訳を話してほしいとフィンが告げた時、二人はちょうどディルムッドの部屋の前にいた。自分に反応して開いた扉を、ディルムッドはフィンに先に通るように促し、躊躇いがちに呟くように続けた。
「……あなたが傷つくのは嫌です…あなたの最期なんて、俺は知らない…」
要領を得ない言葉にフィンはすぐには答えずに、部屋の中をゆっくりと歩いてベッドの端に腰掛けた。
「そうだな、ただ私の最期など実際碌なものではなかったぞ」
淡々とした声。
まるで自分事ではないかのようにフィンは続ける。
「我が騎士団は瓦解した。愛する子も孫も去り、孤独な老爺は孤独のままに、若かりし頃の栄光などまるで無かったかのように死んだ。そんな終わりに比べたら、たとえ不慮の事故だとしてもここからの退去の時は誇り高いものだろう。私にはその自信がある。」
「ですが…」
「恐れがあるのは私も同じだ。おいで、ディルムッド」
フィンが両手を差し出す。自然と足が前に進み、少し低い位置にある体を立ったまま抱きしめると、伸ばされていた手が優しくディルムッドの腰のあたりにまわった。
「私はおまえに水を注ごう。何を都合の良い事をと罵ってくれても構わない、…私はおまえを死なせない。私は…二度と繰り返さないよ」
静かに力強く、ディルムッドの胸に顔を押し付けているせいかほくぐもった声が誓う。
その温かい声が心から、体から毒をとかした。
決して言葉巧みに語られたわけではないその一言一言を噛み締めると、蟠りが今度こそ澄んだ水に流れていく。嗚咽を漏らすことでしか吐き出せないと思っていた胸の詰まりが解け、心地よく力が抜けていく気がした。
「それよりもおまえだ、私のことを見くびり過ぎだろう。流石に考えを改めさせざるを得ないぞ」
一転、不貞腐れたような声色にディルムッドははっとして、伏せていた瞼を見開くと腕の中に収めた体を離してフィンを見た。
「それは、しかし…!私には王のような宝具は無いので、事が起こってからでは遅いと言いましょうか…!ただ我が王が侮辱と感じられたのであればそれはそうに違いなく…!……申し訳ございません…!」
「ふはは、あまり畏まるな!ただまあ、うん、やはり私を信用していないな?」
「滅相もありません!!」
なんの心境の変化があったのか、今やけろりと捨てられた子犬のような顔になった部下に、フィンは笑みを深める。そのまま悪戯そうに片眉を吊り上げてわざとらしくゆっくりと息を吸って吐いた。
「…まあいい、おまえも知っての通りだが…私は強いだろう?」
「はっ。王に敵う者など古今東西の英雄を探せど一握りかと」
「その通りだ!私がそう簡単に敗れることなど無いよ。それにおまえが…我が騎士団の誉れ、一番槍たる騎士が、私の背を預かってくれるのだろう?」
「はいっ…!それはもう、全身全霊で…!」
今度の顔はまるで拾われて腹一杯の食事と温かい寝床を与えられ甘やかされる犬だった。きらきらと輝きを取り戻していく瞳にきっとディルムッドは無自覚だ。
おもしろくておかしくて、憎めないどころか愛おしさで胸が溢れそうになってフィンはもう一度大きな犬を抱き寄せる。
「ならば心配はなかろう?おまえに複雑すぎる感情は似合わない、…あんな顔はしないでくれ」
最後は独り言のように呟いたが、フィンの唇のほど近くに耳を寄せていたディルムッドには届いていた。
フィンの憂いがどのようなものかディルムッドには図りかねたが、その心配はないように思えた。フィンがいれば、フィンが導いてくれるならば何もかもが上手くいくのだ、そんな安堵が一度は枯れたディルムッドの心の底に満ちる。偉大な王に命を捧げた輝かしい日々が、再びディルムッドの中に舞い戻っていた。
「我が王よ…感謝いたします」
そんな騎士の背を抱いて、目を閉じてその声を聞く騎士団長の表情はどこまでも温かく穏やかで、それでいて沁み入るような物悲しげな静けさを湛えていることをディルムッドは知らない。
仮初の体同士が分け合う温もりが、鼓動の音だけが、互いの言葉は嘘偽りないのだと繰り返すように伝わっていた。