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    eats_an_apple

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    MMMディルフィン
    かなり前にベッターでお漏らししてたやつになります

    #でぃるふぃん
    imGoingToSpoilIt

    固く尖ったページの端を捲る指が静かに空を切る。
    飲んだり騒いだりが実体のイベサー、ケルティックサークルが勝手に部室という名の溜まり場にしている小規模の廃講義室。フィンは再び指に摘んだ紙をそろりと離してから次の見開きをそっと手で押さえた。手に触れたそのページの中では制服姿の少年と少女が光の差し込む二人きりの教室で向かい合っている。

    「ね、そこなんか特に良いでしょう!?憧れるわよねこういうの!」

    本の中に吸い込まれそうになっていた意識は、明るく華やかな声によって途端に現実に引き戻された。
    メイヴはフィンが読んでいた漫画のページを覗き込む。

    「私とクーちゃんの出会いだって運命的だったからこっちのが良かったってわけじゃないけど…でもこれはこれで捨てがたいわけ!わかる!?」
    「あぁ、あぁ。こういうのは何、恋する者の浪漫とでも言うのかな?たとえ運命の相手でも、寧ろ愛を誓い合った同士だとしても悪くないシチュエーションだ。」

    そう言って食い気味に今度はフィンの顔を覗き込んだメイヴに振られたフィンは素直に感想を口にする。
    その言葉は目の前の可憐な乙女を喜ばせ、その熟れた果実のような頬に笑みを咲かせるためのものではない。彼女相手にそんな小細工を仕掛けたところで全て見透かされた挙句、嫌味と歪んだ表情の応酬を受けてしまうことをフィンは知っていた。

    「そう!そうなのよね!!やっぱりあなたってこういう話だけは分かるわね!勧めて正解だったわ!」
    「ふふ、乙女の欲する言葉や仕草は最低限弁えておかねば、万が一にも恥をかかせるようなことがあってはならないからね」

    軽率なプレイボーイ気取りは人の機微に聡いメイヴの機嫌を損ねてしまう。そのことも十二分にわかってはいるのだが、フィンはどうにもそういう星のもとに生まれついているらしい。
    肩をバシバシと叩いてくるメイヴを咎めずにそう答えると、メイヴは今までの賞賛から一転、心底引いたというような顔でフィンを見下した。

    「あり得ない…こんなのに一瞬でも引っ掛かる女って絶対に趣味が悪いか超のつくお馬鹿さんよね……というかいつまで経っても恋人の一人もできないのにやり方を間違えてるとは思わないのかしら?」
    「ははは、実に痛い指摘だとも!うん、ではメイヴ殿的に私に足りないものは何だろうか?」

    フィンは懲りもせずに漫画を閉じるとメイヴに向き合った。
    真っ直ぐ見つめてくる男に引きつらせた顔を隠しもせずにメイヴはその質問にさらに嫌そうに顔を歪める。正直、乙女のしていい表情の限度を超えただろう。
    ここにメイヴの本命であるクー・フーリンがいきなり現れでもしたら面白いことになりそうだと、フィンはメイヴのよく変わる表情を楽しんでいた。

    「知らないわよ……と言いたいけどそういうところよ。あなた、見るからに軽そうなのに一定の距離以上に近寄り難い雰囲気があるの…躱されるというか、はぐらかされるっていうか…?」

    知らないと切り捨てておきながらも随分と具体的な指摘を続けるメイヴにフィンはやんわりと笑って漫画を手渡す。
    唯我独尊が服を着て歩いているような彼女だが、それでも自分を含め周りに人が絶えないのはなんだかんだと面倒見が良く、気持ちの良いところがある女性であるからだとフィンは思っている。

    「やはりメイヴ殿は実は人を放っておけないタイプだな」
    「はぁ?何よ急に気持ち悪いわね!?もう、そういうところだって言ってるの!…あぁ寒気がする!!」

    素直に賛辞を返しただけだというのに、両手で腕を擦りながらふるふると肩を竦めたメイヴからフィンはさらに氷のように冷たい視線を頂戴した。
    と、まあそんなやり取りではあるが、早数年になる付き合いの中でこれはもう自然な軽口のようなものだ。なんだかんだとケルサーの姫ことメイヴとフィンの関係はまずまず良好である。
    肩を竦めながらメイヴは髪色と揃いの可愛らしいピンクのカバーがかかったスマートフォンの画面をちらりと見た。

    「…あら、もうこんな時間?じゃあ私、クーちゃんと待ち合わせがあるからお先に失礼するわ。フィン、それ次会うまでに読んで返してよね」
    「ああ、勉強させてもらうよ」

    目を瞬かせた間にメイヴはそれまでの歪んだ表情をくるりとリセットしてそう言い放つ。妖精のように軽やかに体を翻した彼女の姿が講義室の外へ消えるのを見送って、フィンは今し方返却したものとは別に机の上に積まれたいくつかの冊子を鞄に詰める。
    そして手を動かしながらとある光景に想いを馳せた。

    二人きりの教室、僅かに吹き込む風と緑の匂い、室内を染める光、告げられる拙くも精一杯の思いの丈。
    モノクロの漫画の画面からその光景をフィンは緻密に思い浮かべることができた。その世界にたった二人の登場人物の不規則な心の弾みまで全て。
    見開きのページが自身の心の中に染み付いたように離れない光景とオーバーラップをしている。
    それを思い返さないわけにはいかなかった。



    季節は晩夏だったはずだ。
    場所は風の吹き抜ける教室ではなく、換気が足りず蒸した更衣室。そこに人は自分の他には一人しかおらず、差し込む西日で部屋はオレンジ色に染まっていた。
    放課後だった。最終時限の授業は体育で、片付けに追われてホームルームの前に着替える時間が作れなかったことに加え、その日は一手間かかる掃除の当番にあたっていたために、ようやく制服に着替え始めることができたのは部活の生徒たちもとうに更衣室を後にした時分のことだった。

    きっと他愛無い会話をしていた。当時から一等仲の良い相手だった。
    いつもと変わらない穏やかな時間をいつも通り過ごして、いつも通り途中まで重なった帰り道を辿り、別れる。
    そんな日常をその日だけはなぞらなかった。

    じゃあ、帰ろうか。

    お互いに着替え終わったことを見計らってそう声をかけた時、腕を力強い手に掴まれた。汗ばんで少し震えていて、それでもどこか強い意志を感じるちぐはぐな手に思わず振り返ったところまではしっかりと覚えている。

    それから___
    それから、たしかに告白を、好きだと伝えられたはずだ。ただ実際の言葉は実はよく覚えていない。それよりも真っ直ぐに見つめる瞳の強い光が眩しかったことが印象に強い。

    私は今までそんなふうに思ったことはない。

    まず口を出たのはそんな気の利かない素直な言葉。
    取り繕うこともできなかったのだと思う。耳に飛び込んだ告白を噛み砕いて理解をした瞬間心臓が跳ね始め、言葉を返そうとしたときにはそれは胸の奥で口から飛び出そうなほどに大きな音を鳴らしていた。鼓動が呼吸の邪魔をする、その隙に口からなんとか滑り出させた言葉は震えていたかもしれない。

    彼はフィンの言葉を聞いて体を強張らせた。少し紅潮していた頬が青白くなる様子はオレンジ色の空間にいても何故か非常によくわかったので、慌てて次の言葉を告げたのだった。

    でも、不思議と嫌ではないよ。こういうのをなんと言ったらいいのだろうな…

    そして相手を安心させるように笑った。青くなった顔には少しだけ血の気が戻ったのを見て安心したこともまたよく覚えている。
    その日の記憶はそこまでであとは朧げだった。



    「それから何も、本当に何も変わらない。…この漫画の少年少女よりも奥手な恋愛をしているな?…ん、奥手?奥手…、奥手とすら到底言えないのだろうか…?」

    独り言を呟いたフィンは自分の発した言葉に引っ掛かりを覚えて何度か繰り返す。今さらながら自分たちの普段の行動をあれやこれやと思い返してはその言葉に次々と被さっていく疑念をも口に出す。
    頭の中で、十は「奥手エピソード」を連ねてやめた。

    「ううん、これは…普通の友人…!!」

    今さらながらどうなのだろうと思うほどに二人はただの友人だった。
    恋人らしい接触など思い返してみれば一度もなく、しかしそう思い至っても尚フィンは特に疑問もなければ何かを変えようとも思わず、今回も早々と思考を放棄した。

    その相手、ディルムッド・オディナとフィンは現在も同じ大学に通う同級生だ。学部学科も同じであるからほぼ常に行動を共にしている。そして二人は大学では所謂飲みサー、出身校を同じくするメイヴを中心に設立されたケルサーに所属しながら飲み会に合コンを繰り返す自堕落な生活をそれなりに謳歌していた。

    「思えば嬉々として堂々と合コンに参加しているのも…いかがなものか…?」

    フィンは首をひねる。
    恋人らしい付き合いはなくても自分たちはお互いに無二の存在であるとは感じている。少なくともフィンのディルムッドへの信頼は一入だったし、何かあればまず相談するのは彼なのだ。

    「謂わばそうだな、実家のような安心感、という感じだろうか……それはそれで良いのだが……」

    やはり曲がりなりにも特定の相手がいる者同士が揃って合コンに参加しているのは世間一般的な常識から考えると特異だという結論に落ち着く。ケルサー的な常識から考えると何ら問題はないのだろうが。
    うんうんと顎に手を当てて唸っていると机に置いておいたスマートフォンが着信のバイブ音を響かせた。

    『週末!合コンセットしたから来なさいよ!』

    すぽん!と音が鳴ってチャット画面に新しいメッセージが現れる。その音と同じような軽快さでフィンの頭の中から一瞬前まであった憂いは消え去った。
    すぐに了承の意を伝えるスタンプを返す。色々考えるのは性に合っていない、そういうことにしてフィンは既に他に誰もいなくなったケルサー部室からの即撤退を決めるべく鞄を背負い込んだ。

    それはそれ、これはこれ。
    女性たちの可憐さ、優美さ、諸々の素晴らしさの前に勇まない男などいないのだ、とはフィンの生来の考えだ。そもそもが操を立てられるような性格ならば、ケルサーなどという怪しげでふしだらなサークルになどとうに籍を置いていない。
    華麗なまでの開き直りを決めてフィンは軽い足取りで帰路に着いたのだった。



    女性というものは良い。目に見えてかわいらしい人も、一見鋭さを感じさせる人も、靄を掴むような捉えにくい雰囲気を持つ人も、皆一様に強かさと柔さと可憐さを持っている。そしてフィンは一度女性を相手にすれば誰にでもその美しさを見出せる人間だった。

    そうであるから合コンという大義名分を使ってそんな女性たちを心のままに口説けるものはフィンにとって最大の娯楽のうちの一、心ゆくまで愉しく過ごせる大事な時間だ。美しくあろうと努力を惜しまない彼女たちは、フィンにとってあわよくばと短い時間でも懇ろな関係になるに不足はなかった。


    「恥ずかしながらお付き合いした女性はあまり多くなくてね…正直に言うとこのような場にいることにも実は少し浮き足立ってしまったり…」

    向かいに座る女性からそれとなく恋愛遍歴を聞かれ、そう素直に答えると意外だなんだと彼女は両隣の女性を巻き込んで盛り上がり始める。いつもとさほど変わらない合コンの風景だ。
    人はギャップというものに少なからず弱い。これはフィンが場数を踏んで身につけた女性にモテるための知恵だ。プレイボーイに見えるらしいフィンが女性経験の少なさを露呈すると、大抵悪く無い反応が得られることは今までに学習済みだった。

    戦略的ギャップ作りといえどフィンに女性経験が多くないのは本当のことで、実を言うと十代も前半の頃にお遊びのように数人の女の子と付き合ったきりだ。
    当然それはディルムッドの存在のためである。女性と戯れるのは好きだったし相応の関係になることも吝かではなかったが、そこはそれ、しっかりと超えてはならない線が引いてある。フィンは一般的な基準からは多少ずれてはいるものの、義理堅い男だった。

    「参考までに聞かせてほしいのだが、貴女がたはこう、お付き合いする男に何を求めるのかな…?」

    何となく、そう口に出してみる。
    普段は恋愛初心者を匂わせてもここまであからさまなことは聞かない。ただ今日はそれが少しだけ強く気になった。世間一般的には、恋人とはどのような振る舞いをするべきなのか。何を求められるものなのか。今さらではあるが、有用そうなことは実践してみようという軽い気分だった。

    すこし情け無さを演出して尋ねると、前に座る女性たちはもう特に促さずとも十分に語って聞かせてくれた。
    そして結果として、フィンは自分が恋人としてなんら望まれる行動を果たしていないことを思い知らされることになった。

    要約すると大体こうだ。
    まず一に特別な気遣い。特別だと思われていると感じられる何かは必須とのことだった。対してフィンはディルムッド相手に意図して態度を変えようなどと思ったこともなかった。
    次に恋人らしいふれあい。そういう関係になったからには、ということらしい。そんなものはありもしないことだけは事前に自覚済みだった。
    他にも出てくる出てくる、大小様々な彼女たちの要望、というよりも愚痴。ほとんど満たせていないどころか意識すらしたこともなかったことには本当に今さらながら、多少のショックも受けよう。

    「仕方がないじゃないか、男子高校生なんて全くの子どもだ。恋愛なんて分かるはずもない、きみもそう思うのでは?」

    「高校の頃に彼女はいなかったのか?」との旨を聞かれた流れでフィンは答えた。
    半分自分への言い訳のように口にした言葉だったが向かいの女性は大いに賛同したようで、次いで自身の当時の恋愛経験について語り始めた。
    適当に相槌を打ちながら流れてくる言葉を噛み締める。

    初めは本当にどうしたらいいのかわからなかった。
    なまじ仲が良かったせいで何となくそれまでと同じような付き合いを続けてしまい、そのうちに自分たちの間で恋人らしさなんて演出しようにもできないものになってしまった。
    「元から友達みたいな関係だったから余計なんだよね。なんだか恋愛してる気持ちになれなくなって、気づいたら終わってたよ。」そう笑う相手の言葉が耳に痛い。

    合コンでまさかこんな思いをするとは思わなかった。
    浮気なことをしていた報いなのだろうかと思いながら、フィンは片手で額を抑えていた。


    心躍る場であるはずの合コンは結局そんなどうしようもない気持ちのままお開きを迎えてしまった。
    とはいえ向かいに座った女性は大層フィンを気に入ったらしく、席を立った瞬間から彼女の腕はフィンの肘のあたりに絡められている。普段なら内心浮き立ちまくっているシチュエーションだというのに、珍しいことにフィンはどうにも気が乗らない。少しでも気分を紛らせようといつも以上にアルコールを煽ったのも良くなかった。

    「すまない、店に忘れ物をしてしまったようだ。取りに戻るよ。」

    喧しい集団の中に紛れて店の外に出てすこし歩くと、フィンはそう言って体に絡められた女性の腕を解いた。待っているとごねる彼女に皆と離れたら危ないよとやんわりと断り、元来た道を引き返すように足早にその場を離れる。
    限界が近かった。
    飲み過ぎによる頭痛と吐き気と、無意識な女性に痛いところを突かれた心労が。
    今この時点においては、かなりの比率で、吐き気が。


    ***


    「…、あぶなかった……」

    荒い呼吸の合間にフィンは独り言を溢していた。
    万が一粗相をしても被害が少なくなるように人通りの少ない場所へと歩を進めている最中に一等大きな波が来たため、よろよろと退避した先の裏路地で口元を拭う。
    口の中まで迫り上がったそれを無理やり飲み込むと喉が不快な酸味に反応して痛んだが、その刺激によってか少しだけ気分が楽になった。
    少し回復した体をずるずると引きずってちょうどいい段差に腰掛け、そのまま両の膝を抱えて顔を埋める。

    「早急に別れてよかった…彼らの前で戻したりなどすればもう暫く合コンは出禁になってしまう…」

    合コンは懲りたのではないのかとその項垂れた頭を小突く者はいない。
    どうにもフィン・マックールという人間は世間一般的に十分浮気と言われる性質の人間なのだ。今回の一件で少しは自分の不甲斐なさを思い知ったものの、ここまで続けてきたものに対して根本的な改善には時間を要することは目に見えている。

    「はぁ…う〜ん…ディルムッドに、一度、聞いてみるかな……う、うん………」

    独り言を呟いて、沈黙する。その時だった。
    突如、いきなり何者かに腕を掴まれ、反応するより先に乱暴に引き上げられた。
    周囲のことも気に留めず蹲ってからそう長い時間は経っていなかった。すぐ側に人がいたとは思ってもみなかったフィンが弾かれるように顔を上げるのと、強い力に半ば強制的に立ち上がらせられたのは同じタイミングだった。

    「あ?こいつ…男かよ?」
    「だから言っただろ。チッ…紛らわしいな」

    そう言った男二人組に乱暴に髪を引っ張られて思わず声が漏れる。

    「じゃあもうこいつでよくね?割とキレイな顔してんじゃん」

    下品な笑い声とともに品定めをされるように顔を覗かれて、自分が今置かれている状況を察する。そして彼らの本当の狙いがなんだったのかまで理解してしまったフィンは最早されるがままというわけにはいかなかった。

    「そうやって女性に乱暴を働くのか?男の風上に置けないな。」

    細い腕を掴んでいたと思っていた次の瞬間、自分の腕がその白い手に捻られていることに男が気を取られた一瞬の出来事だった。
    バキッ、っとしっかりと良い音が路地裏に響いてフィンに絡んでいた男の体が吹っ飛んだ。唖然として固まったもう一人にフィンが向き直ると、男は途端に及び腰になった。

    「おまえたちのような者は、心底許容できないんだ、わた、し…は……、?」

    しかしきつく踏みしめようとした地面が急に揺らぎ、フィンは言葉を続けられなかった。
    自分が、一時的に吐き気が引いてすっきりした後とはいえ、許容量以上の飲酒をしたことをフィンはすっかり忘れていた。さらに想定外なことに、体勢を崩したフィンに目の前で竦んでいた男はそれまでの情けなさが嘘のように動いていた。
    胸部と腹部に一発ずつ、重くはないが決して軽くもない衝撃が走り、さらによろめいたところに最初にフィンが殴りつけた男が体勢を立て直し胸ぐらを掴んだ。

    頬を殴りつけられ頭が揺れる。ただでさえ揺らぐ視界に重ねて与えられたダメージは決して小さくはなかったが、脳は「怯んではならない」とガンガンと警鐘を鳴らしていた。
    回る視界をなんとか制して相手の頬にお返しとばかりに一撃お見舞いすると同時に男の手を振り払う。距離を取り、今度こそしっかりと地面を踏み締めて睨みつけた。

    「……、なんだこいつ…」
    「舐めやがって……」

    ほぼ意地の威嚇が運良く功を奏したようだ。
    よくある悪役のように後ずさってから小走りに姿を消した男たちを確認したフィンは、脱力しかけた体を引きずって暗い路地を覚束ない足取りで後にする。
    ろくに庇いもせず拳を受けた箇所が熱を持ってじくじくと痛む。頭は回らず、視界がとらえる情報を上手く処理できない。思考がままならない。

    今日はとんだ厄日だなあと辛うじて意識を失わないでいる頭で思ったフィンにその後の記憶はほとんど残らなかった。


    ***


    「なにその顔!?はぁ!?ワケわかんない!!」
    「おうマックール、派手にやったな」
    「いやはやかたじけない、先日の合コンで出会ったお嬢さんとあまりに良い感じだったもので…つい飲みすぎたら家の前の段差で転んでしまってね…」

    メイヴが悲鳴を上げクー・フーリンがしげしげと見つめるフィンの顔は片側が大きく腫れ上がり、もともと非常に均整の取れていたその顔面を酷く歪ませていた。
    マスクをして目立たないようにしてみてもその酷い有り様は当然に見て取れる。フィンは適当な言い訳をしながら嘘は言っていないと心の中で呟いていた。事実、翌朝になって気がついた覚えのない痣からして帰宅までに何度か転倒したのだろうと窺い知れた。

    「あなたそれちゃんと治るの!?ねえ!ありえないわよ!顔だけが取り柄なのに!」
    「しかしひっでえな…さてはやった後ちゃんと処置しなかっただろテメェ」
    「ははは、酷く酔っていてね…正直なところあまりよく覚えていないんだこれが…」

    既に相当な盛り上がりを見せていた会場だったが、直後もう一人の男の乱入によりボルテージは最高潮に達した。

    「メイヴ殿!一体何が!?…あれ、フィン?…え!?は!?ど、どういうことですかこれはッ!!」

    部屋に飛び込んでくるや否や騒ぎの中心を見据えたディルムッドは、すぐにそこにある異常に気がついてどたばたと駆け寄ってくる。

    「知らないわよ!こっちが聞きたいくらいよ!」
    「うるせえな…とりあえずこいつら黙らせろマックール」
    「ええ…と…」

    もはやパニック寸前だ。主にディルムッドのせいでメイヴが余計に刺激され二人が相乗効果で盛り上がっているだけなのだが。クー・フーリンは既にフィンへの興味を無くして輪の外へ引き下がっている。

    「フィン・マックール!!どういうことですか!?医者にはかかりましたか!?」
    「いや、まだ……」

    すごい剣幕のディルムッドの怒鳴り声に責められる。
    珍しくフルネームで名前を呼ばれればフィンもなんだか背筋が伸びてしまい、つい素直に事実を答えてしまった。素直に答えてしまったらどうなるかなど普段であれば簡単に想像できたのに、そこまで考えて回避する隙を与えられなかった。

    「まだ!?!?どうしてですか!!…よし、この後行きましょう!すぐ行きましょう!良いですね!?」
    「いや、この後!?ちょっと待て、それに行きましょうって、おまえまさか…」
    「はい!口約束で逃げられても困るので俺もついていきます!」
    「いや、いやいや…逃げるって、そもそも…」
    「ご安心召されよメイヴ殿!俺が責任を持って連行します!」

    これほどテンションの高いディルムッドは年単位でもなかなか見られるものではない。なんだか自分の状況がここまでディルムッドを刺激しているのだと思うと、そんな場合ではないのに少しむず痒いような気分になった。

    やいのやいのと何かを言い合っているメイヴとディルムッドをフィンはぼうっとしながら遠くに見つめる。
    何を言っているのかは聞こうと思えばわかるが聞く気力が起きない。要するに現実逃避だ。メイヴはもちろんのことこうなったディルムッドからも逃げるには非常に骨が折れることをフィンは長年の経験則から知っていた。

    「行きますよ!」

    ディルムッドに腕を軽く引っ張られて我に返る。

    「え?今?」
    「今のあなたにこんなところで油を売っている暇があるとお思いですか?」

    なんとか手に取った鞄はそのままディルムッドに奪われ、フィンは腕を掴まれたまま半ば引きずられるように退室を余儀なくされた。


    ***



    「で?もう一度言ってみろ」
    「その、転んで………」

    ディルムッドに連れてこられた病院で、寡黙そうだな、などと呑気な第一印象を抱いた医者の前で、フィンは冷や汗をかいていた。診察室までついてきて隣で怪訝そうな顔をしているディルムッドをちらりと見遣って、最初の説明の時と同じ言葉を口にした。

    「………………チッ」

    問診で詰まっているため肝心の診察は何一つ始まっていない。
    目の前では医者が舌打ちのような音を立てて長いため息を吐いたかと思うと、ボールペンの先でカルテを力強く叩くと軽く音を立てて息を吸った。
    そして次の瞬間の医者の姿は、フィンの第一印象を打ち破っておまけに釣りまで出していた。

    「僕はこの仕事に誇りと、責任を持っている。患者の面倒を看るのは仕事だからな。どんなに面倒でも、確実に、やる。」
    「はい……」

    吸った息を吐き出すと急に饒舌に喋りだした医者の目は据わっていて「やる」という文字が特殊な変換をされているのではないかと思われた。

    「ただ僕にもどうしても許せないものがある。一つ、医者の言うことを聞かない愚患者。一つ、医者の言うことを聞かない愚患者ッ、そして一つ!医者の言うことを聞かない愚患者!だ!!医者がやれと言ったことはやれ、やるなと言ったことはやるな!僕はその怪我を拵えた経緯を聞いている、医者に虚偽申告をするな愚患者め!!」

    医者に詰め寄られてずるずるとキャスター付きの椅子を後退させたフィンは気づけば付き添っていたディルムッドの陰に隠れるように身を寄せていた。
    この診察室の医者は非常に恐ろしいと分かったが、そばに控える看護師もこちらを視線だけで射殺せるだろうと思うほど鋭く眼を光らせていて逃げ場がない。
    ない逃げ場を求めて診察室の隅から隅に視線を彷徨わせていると、医者はそこで初めてフィンの怯えに気づいたらしく詰め寄るのをやめ、静かに元の場所へ戻るように促した。

    「はぁ、おまえの都合は僕の知ったことではないんだ。さて、他にもあるだろう、隠してないで全て見せろ。」

    頑なに隠そうとしたことが阿呆らしく思えるほど全てお見通しということらしかった。
    フィンはようやく観念して着ていた服を胸まで捲し上げる。今度は斜め後ろのディルムッドの視線を痛く感じながら。



    「どうして嘘をついていたんです?」
    「みっともないだろう…喧嘩なんて…」
    「あなたは理由もなく喧嘩をする人ではありません。何があったか教えてくれませんか?」
    「いやだ…言いたくない……」
    「なぜです」
    「いやなものはいやなんだ」

    念のためと検査を受け、体の方には外傷以外の問題はないと診断されてやっと蛇のような睨みをきかす医者から解放された帰り道、フィンは当然にディルムッドからの追及を受けていた。
    あまりにみっともない事の些末なので、ぶすくれて説明を拒否をするフィンにディルムッドも苛立ちを隠さない表情を向ける。両者とも退かないので次第に空気が悪くなるがそれでもフィンは沈黙を貫いた。

    「………はぁ、そこまで言うなら構いませんが…」

    先に折れたのはディルムッドだった。
    誰よりも今回のことを心配し、今もこうして呆れながらもフィンに歩調を合わせるディルムッドに、妙なプライドから洗いざらい話してしまえないことがもどかしい。

    「……ディルムッド…」
    「どうしました?」

    不機嫌そうに歪めていた顔を既にけろっと元に戻して目を合わせてくるディルムッドに胸を締め付けられるような苦しさを覚える。
    こんなに親身になってくれる心地の良い存在が、自分のことを好いてくれているというのに。それは何より温かいことだと切に感じるのに、何年もずっと気付かなかったことが情けなかった。

    「…今日はうちに来ますか?ここからフィンの家より少し近いですし、まだ体も痛むでしょうし…今日は疲れたでしょう?」

    名を呼んだきり何も言わなくなったフィンに代わってディルムッドがそう提案する。唇を噛みしめ引きむすんで頷くことしかできないでいるフィンの手はディルムッドに優しく掬われた。

    迷子のように手を引かれることを手を繋ぐと表現して良いのかわからないが、思えばこうして手を繋いで歩いたことすら初めてかもしれないと、そんなことをフィンは考えてしまった。




    ディルムッドに連れられて訪れたアパートの小さな一室。

    もう幾度訪れたかわからないディルムッドの部屋で、浴室の方から聞こえるシャワーの音にフィンは妙に落ち着かない気分で床に座っていた。
    フィン自身は帰宅するや否やろくな準備もさせてもらえずにシャワールームに突っ込まれたため既にシャワーを終えている。夕飯は帰宅前に近所のコンビニで見繕ってきた。ディルムッドが浴室から上がるまで特にすることも見つけられない。
    いつもと何も変わらない部屋なのにどうにも落ち着かないのは、身にまとう服から僅かに香る匂いのせいだろうか。

    今フィンが身に纏っている服は、着の身着のままのフィンを浴室へ閉じ込めたディルムッドがその間にバスタオルと着替えを用意しておいてくれたものだ。
    学校にも僅かに近いディルムッドの家にそれなりの頻度で寝泊りするために常備してあるフィンの所謂お泊まりセットだ。もちろんそれらはフィンが持ち込んだ私物なのだが、この家の洗剤で繰り返し洗濯され、ディルムッドの服と一緒に収納されているそれらは既に自分が普段纏うものと同じ匂いではなくなっている。
    シャツの裾を持ち上げて鼻に当て、息を吸い込む。ディルムッドの近くに立つと鼻腔をくすぐる香りが肺の中に満ちて思わず体が小さく震える。

    「上がりました。具合はどうですかフィン?」

    そうこうしているうちに濡れた髪にタオルを軽く乗せながら部屋に入ってきたディルムッドの声でフィンは慌ててシャツを下ろす。

    「だ、大丈夫だ……それより早く食事にしよう…実は朝からほとんど食べていないんだ……」

    普段自分がどう振る舞っていたかすらも思い出せずに口から出てきたのはぎこちない返事だった。
    これは恋人としてはかなり良いシチュエーションなのでは?と思いながらも、今までにも似たようなことを何度も繰り返した経験があり、その度に何も起こりなどしなかったことを冷静に思い出す。
    そうであるから尚の事、まさか今さらこの状況に緊張していますとはとても言えない。強張る体はもう仕方ないとして、せめて言葉と声だけでもなんでもない体を装い、夕飯と呼ぶには少々お粗末な夕飯の支度を促した。



    「フィン?怪我が痛むのですか?痛み止めは飲みましたか?」

    夕飯を終えて部屋の隅に腰を下ろしているとディルムッドが尋ねてきた。
    結局食事をとることもままならなかったが、それには実は理由がある。腫れ上がった頬が咀嚼をするたびに痛んでとても食事どころではないのだ。食事中も普段に比べてほんの少量しか食べられていないフィンにディルムッドは何度も痛むのかと尋ねていた。

    「そこまで痛むわけではない…」
    「強がっても仕方ないでしょう…水を持ってきますね」

    ものが食べられないのは不便だし腹は満たされなかったが、今のフィンのぎこちなさは腫れのひかない頬の痛みからきているものではない。呑気にも献身的にグラスに水を注ぎにいったディルムッドにフィンはできることなら文句の一つも言いたかった。

    ディルムッドの匂いがするタオルや服、広くはない部屋に二人きりでいること、先刻までそれらに逐一体を緊張させていたフィンだったが、すべて些細なことだったと思い知らされている。
    この部屋を訪れてからというもの一瞬たりとも休まっていなかった心をやっと落ち着けることができると思って床に就こうとしたのに、大変なことに気がついてしまったのだ。ベッドに入ることに気が逸りとあることをすっかり失念していたということに。

    自分のために用意された水を無碍にするわけにもいかず、処方された鎮痛剤のアルミ箔を破ったフィンは、ディルムッドからグラスを受け取って喉に錠剤を流し込むといよいよ目の前の脅威に向き直った。

    すぐそばには一人用のベッド。決して小さくはないがやはりどう見ても一人用のベッドが広くない部屋のかなりの面積を堂々と占拠している。
    そしてそこに並べられている枕は二つ。一つはもちろんディルムッドのもの、そしてもう一つは頻繁にこの部屋に寝泊りするフィンのために用意されたものだ。どんなに目を逸らしてもマジックよろしくその枕は煙と消えたりはしない。今からここに体を横たえるのだと思うと、体に余分な力が入る。
    明日も二限からとはいえ今日はお疲れでしょうから、とフィンの葛藤をよそにディルムッドはさも当然のようにフィンの背を押してベッドへ誘導する。それもそのはず、この明らかに男二人が寝るには狭いベッドに一番はじめに二人で寝ようと提案して押し通し、そのまま恒常化させたのはフィンなのだから。

    「どうかしましたか?」

    ディルムッドの部屋は一人暮らしの男子大学生らしく簡素なものだ。
    特に余分な備えはない。最初にフィンが泊った時などディルムッドは唯一の寝具であるベッドをフィンに譲り、自分は絨毯すら敷いていないフローリングの床でバスタオルを敷いて寝ようとしたものだから、見かねたフィンがこのベッドは少し広めだから二人でも寝られると言い張った。もちろん何の下心もなく、もはや兄弟のように思っていたディルムッドとなら肩が触れ合う近さでも眠りにつけると思ってのことだった。
    実際に今日この日までは疑問の一つも抱かずにディルムッドの隣で快眠していたからこそ、ここで渋るのはあまりに不自然に思われてどうしようもない。

    「大丈夫だ。それよりおまえまでこんな早くに寝てしまうのか?無理に私に合わせなくても良いのだよ?」

    世話焼きのディルムッドがそう易々とただでさえ怪我人である自分を床で寝かせるわけがない。それならばせめて、この状態で寝入ることができるかどうかはわからないが、自分が寝入った後に布団に入ってくれないものかと、フィンは遠慮をする体で打診する。

    「いえ、俺も昨夜は課題の締め切りに追われていてあまりよく眠れていないので…」

    苦しい提案は呆気なく却下された。
    さあ、と背中を押され処刑台にでも登るような気持ちでベッドに乗り上げる。壁際へ体を詰めるとディルムッドも続いて布団に潜り込んできた。落ちたらいけません、と初めに壁側を譲ってきたのはディルムッドの方だった。これではディルムッドが眠りについた隙を見計らってベッドから抜け出すことも容易ではない。

    「そ、そうか…その課題というのは例の選択必修の……」
    「ええ、フィンは去年単位を取ったのですよね」
    「……抽選に当たったからな…運が良かった」
    「全くです。実質必修のくせに抽選だなんて馬鹿げています」

    焦りから会話を引き伸ばしてしまって後悔する。相当意識して避けなければ身体が触れ合ってしまう距離、お互いに喋る際の吐息すら感じられてしまう近さにフィンは体をさらに縮こまらせた。
    そんなフィンの様子にディルムッドが何を思ったのかはわからないが、しばらくすると話は自然と長引かずに途切れた。

    すぐに眠りについたディルムッドの横で、眠れないフィンの目は冴え渡る。
    今自分とディルムッドの体を覆う布団は、普段はもちろんディルムッドが使っているものだ。すなわち、服などとは比べ物にならないくらいに隣に眠る男の香りが濃いわけで。
    洗濯洗剤やら柔軟剤、ボディソープ、そしてディルムッド本人の匂いが混ざり合ったそれがフィンは嫌いではない。それどころか寧ろずっと嗅いでいても飽きないだろうと思う程度には鼻に馴染むものだ。しかしそのことがここまで裏目に出るとは思っていなかった。
    落ち着かない心を誤魔化すように寝返りを打つ。
    ディルムッドに背を向けるように壁の方向を向いてみたり、そうかと思えばその寝顔が気になって向き直ってみたり。あまり忙しく動くと寝息を立てるディルムッドを起こしてしまうだろうと思い最終的には壁の方を向いた。

    心臓がゆっくりと大きく鼓動している。あまりに大きな音が体の中で響くせいでディルムッドに聞こえはしないかと思い、気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をすると体中を包む香りを吸い込んでしまう。
    そんなことを繰り返しながら、フィンは一人眠れないままに秒針の音を数えていた。


    ***


    僅かに耳に聞こえた物音でまどろみの中から意識が浮き上がる。
    薄く開いた目に映るカーテンを閉め切った部屋の中はまだ薄暗いが、時折漏れ入る光は眩しく、朝の清涼感を感じさせた。

    「起こしてしまいましたか?…まだ早いのでもう少し眠られては」

    昨夜散々悩まされた温もりは隣から消えていて、代わりに頭上の方から囁き声が聞こえた。時間になったら起こします、とディルムッドは告げて眠る赤子をあやすかのようにフィンの頭を一撫でした。
    いつの間にか寝入る前、ディルムッドが寝息を立て始めてから数時間ほどは起きていただろうか。今夜は最悪眠れないだろうと覚悟していたフィンだったが、体は案外疲れに正直だったようだ。それも覚醒してしまえば呑気に二度寝などできそうになかったが髪を撫でる手があまりに優しく思えたので素直に目を閉じる。

    何度も迎えたことのある朝だった。
    同じ布団で眠りにつき、何事もなく穏やかに、稀に朝寝坊をして慌ただしく目覚める。フィンはこの時間が好きだ。好きなはずだった。
    少し残念だ、などと…私が思える義理ではないが。心の中で独り言ちた。
    仮にも自分たちは恋人同士であるはずだ。好き合うもの同士が何度も寝床を共にしながらただの一度もそういった接触をしない、これにはさすがのフィンもやや世間一般的な感覚から外れていると思う。しかし現に今までにこの状況に下心も疑問も全く抱くことがなかった自分を省みると何も言えなかった。

    しかしこれでは私だけが意識しているみたいじゃないか、と不機嫌が募る。
    いくら記憶を細やかに手繰ってみても、ディルムッドにもその気はなかったように思う。お互いにずっと緩やかな恋に満足していれば良かったのに、さながら恋愛初心者のように浮つく心にフィンは本当に今さらながら不安を覚えさせられる。
    ディルムッドの心を覗いてみたい、何を考えているのか知りたいなどと、そんなことを思うのは初めてで胸が僅かに染みるように痛んだ。

    ああだこうだと思考をするうちに意識が遠のいていく感覚には抗い難いもので、フィンはディルムッドが出て行ったベッドを独占しうつらうつらと二度寝をしていたのだが、体感で数十分の後今度は鼻に届いた朝食の匂いに起こされることになった。
    何かと世話焼きなディルムッドが自分だけで淡々と家事をこなすのはいつものことだったが、何となく居心地が悪くなったフィンはディルムッドの目覚ましを待つことなく体を起こし、小さなキッチンへと足を向けた。



    結局は何かをしようとして起床してみたものの大して手伝いをしたわけでもなく、昨日フィンが食べ辛そうにしていたのをしっかりと観察していたらしいディルムッドが用意してくれた、いかにも胃に優しそうな食事を与えられただけだった。
    気遣いに感謝を伝えながらも黙々と食事をとり、数十分後には服を着替えて顔を洗い鞄を抱えれば終わる程度の通学の支度を済ませれば、二人は玄関前に立っていた。

    「忘れ物はありませんか?後で気づいたら連絡してください、俺が取りに戻りますから。」
    「流石に自分でやる。鍵は借りないとならないから連絡はするがね」
    「怪我人に無理をさせる趣味はないのですが」
    「怪我といっても足ではないし、動きに支障がでるものではあるまい…」

    食い下がるディルムッドをあしらうフィンの声は心なしか少しむくれている。
    フィンの頬には起床した際にはなかった湿布が貼ってある。これが今のフィンのご機嫌を損ねている理由の一つだった。



    「ただでさえ応急処置が遅れて悪化しているのですよ!もらってきた分くらい大人しく貼ってください!」

    ディルムッドがそう言って朝食の後にフィンの前に突きつけてきたのは病院で処方された湿布だった。最初こそ痛くないだの見栄えが悪いだのと渋っていたフィンだったが、一歩も引く様子のないディルムッドに気圧されて早々に白旗を上げた。そのはずだった。

    「わかっている!貼るから!自分で貼るから貸しなさい!」
    「いいえ!いつもそう言ってのらりくらりと逃げて!俺にそんな誤魔化しは効きませんからね!」

    気づけばどういうわけか、頑なに引かないディルムッドと玩具の取り合いをする子どものように湿布を巡る攻防戦が繰り広げられていた。

    「逃げるものか!そこまで言うなら今おまえの目の前で貼ってやるとも!だから貸すんだ、貸しなさい!」
    「嫌です!ここは大人しく俺にお任せください!!」

    日頃の行いと言ってしまえば話は単純だ。
    思えばディルムッドの世話焼き気質とフィンの奔放さは絶妙なバランスで、しかししっかりと噛み合っていたのだろう。数日前であればフィンだってディルムッドがかけてくる圧もどこ吹く風で大声で言い争う前に大人しく世話を焼かれていた。
    しかし今日ばかりは何も考えずにディルムッドに流されることができない理由がある。自分の葛藤も知らない無遠慮なディルムッドの指先に触れられることが嫌だったのだ。
    ただまさかそんな理由を本人に向かって言うわけにもいかない。押されに押されて断崖に立たされたような圧迫感に負け、フィンは頰を差し出すこととなった。


    数分前に湿布を持ったディルムッドの指先が触れた頰をフィンは自分の指でそっと触る。ほぼ無意識のその動作に我に返ってまたわかりやすく表情を曇らせるフィンの様子にディルムッドは気づいていなかった。


    ***


    「あら、相変わらず気持ち悪いくらいべったりね、あなたたち」

    怪我の方はどうなのかしら、フィン?
    昨日の動揺などまるで無かったかのように、連れ立ってケルサーの溜まり場に現れたディルムッドとフィンにメイヴが尋ねる。

    「おかげさまで。少しの間私の美しい顔は損なわれるがそこまで大ごとでもないらしい」

    隣で「フィンはどのような姿であれ美しいです」などと小っ恥ずかしい文句を並べ立てている男のことは無視してフィンは返した。普段であれば何とも思わずに「そうだろう、私は全てにおいて完璧だからね」などと茶番を展開させるところだが、生憎今のフィンにそんな余裕はない。
    どことなくぎこちない様子のフィンに何かを思ってか、メイヴは悪い笑みを深めながらも特につっこむこともなく言葉を続けた。

    「それはそうと、また来週合コンをセッティングしたわ。今度はほぼ私の伝手だから」

    ケルサー内では暗黙の了解だが、そういう場合のメイヴの狙いは大抵決まっている。そこに何食わぬ顔で細工、つまり身内の男を紛れ込ませて他の女たちの相手をさせるのがメイヴの常套手段だということはサクラ要員には常識だ。
    陰謀の片棒を担がされても合コンに参加していたのはフィンにも利があったからだが、今回のフィンの腰は流石に重かった。

    「それについてだが、今回私は遠慮しようかと…」

    この顔だしね、と付け足す。とても以前のようにお気楽に合コンに参加できるような気分ではなかったので上手い具合に言い訳があって助かったと思っていると、メイヴはけろりと続けた。

    「あら、もちろんよ。あなたはそれが治るまで出禁、当たり前でしょ。違うわよ、そこで他人顔してるあなた!そう、あなたよディルムッド!」

    次の瞬間矛先はフィンの思わぬ方向へと向いていた。

    「実は最近人選がちょっと不評でね。今回は髪を派手に染めてたりプレイボーイ気取りな男は少なめでいきたいの。そう、考える余地もなくディルムッドが適任よ」

    意味ありげな視線をフィンに向け頭から足先まで見定めるように眺めたメイヴにフィンは思わず口を挟む。

    「待ちたまえメイヴ殿、ディルムッドは最近不参加が多いし、やや荷が重いのではないかな?良ければ私の知り合いを紹介するが?」
    「人手を増やしてくれるなら助かるわ。実はあなたの分の空席をまだ埋められてなかったの。堅実そうな男でお願い。」

    あなたの参加は決定事項よ!とディルムッドに指を突き立てるメイヴに対してフィンはそれ以上の対抗措置を取れない。

    「フィンが来られないのは残念ですが、そういうことであれば」

    当のディルムッドはいつものように喜ぶでも遠慮するでもなく淡々とその決定を受け入れているようだった。
    絶句したフィンは咄嗟に言葉を継げられなかったお陰でそれ以上の牽制をすることもできなかったが、焦ってディルムッドを止めたいがために無様を晒すこともなかったと思えば良かっただろうか。


    ***


    おまえには私がいるではないか。何食わぬ顔で合コン参加を了承するなど一体どういう了見だ?
    などと、隣に座る男に投げつけられたらどんなに気が晴れただろうか。例えディルムッドがそれでも合コンに参加するとて、いつものようにからかい半分に詰ることができたらどんなに気楽だったろうか。本人に言えずじまいのその言葉は今や思うだけで弧を描くように飛び戻ってきてフィンの胸に突き刺さる。

    言えない、言えるわけがないのだ。あまつさえ合コンに参加して欲しくないなどと。
    なにせディルムッドを餌にして女性をナンパしようとしたことすらあるフィンだ。それこそまた「具合でも悪いのではないですか」と一日中世話を焼かれかねない。
    ディルムッドはそんなフィンの胸中を知る由もなく真剣に前方のスライドを睨みながら何かをノートに写し取っている。その仕草を盗み見るフィンは最初から教授の講義など耳に入っていない。ディルムッドに気づかれないように本日何度目になるかもわからないため息を小さく吐く。
    項垂れていたフィンがようやく再度前方に視線を向けると、前の席からA5サイズの紙束が回ってきていたのをちょうどディルムッドが受け取っていた。

    「今日の範囲は難解でしたね。正直何を書いていいやら…」

    ディルムッドはそう言って用紙を2枚を束から抜き出すと残りを後ろの席に回す。その紙を見たフィンは頭からさあっと血の気が引いていくのを感じた。
    ただでさえ厳しいとされるこのケルト文化研究科教授の受け持つ授業でのフィンの成績はもともと芳しくない。授業後の小レポートの存在はディルムッドのことで満員だったフィンの頭の中から今の今まで完全に忘れ去られていたが、思い出した瞬間に突如脳内を占めていたものを全て塗り替えるような勢いで襲いかかってきた。

    隣ではディルムッドが小レポート用紙に数行文字を書き連ねて手を止めている。
    フィンは講義室の前方に映し出されたスライドと、真っさらなノートとレポート用紙を見比べ、そしてもう一度そろりと視線を上げて教壇の前に立つ教授を盗み見るとそっと自身の親指を唇に咥えた。


    「はぁ、全く書けませんでした…今回に限った話でもありませんが…」

    数分後、ディルムッドはそう言って項垂れていた。
    結局真面目に授業を受けているように見えたディルムッドでさえ最初に書いた数行からほとんど筆を進められずにレポートを提出したようだった。その数行すらまともに捻り出せなかったフィンにとってディルムッドの呟きはさして嘆くべきものではないように思えたが。
    親指をいくら舐めてみたところで無から有は生み出せない。今回の内容をほとんど聞いていないフィンはといえば「何をしていたんだ」と最低評価を頂くも妥当な内容でそれを提出していた。

    「…大丈夫だろうよ、多分」

    私に比べれば。と心の中で付け足して中途半端な労いの言葉をかける。もともと胸中を占めていた憂いに加えて、上からさらに重たい塗料で塗りたくったような疲労感が否めない。心なしか吐き出した声も幾分低かった。
    最近何もかもが上手くいかないような気さえする。
    ディルムッドの些細な言葉や動きにも動揺してつい素っ気ない反応を返してしまうフィンは、すでにこれまでの自分がディルムッドを前にどう振る舞っていたのかわからなくなっていた。

    「……フィン、大丈夫ですか?」

    ディルムッドが眉をひそめて顔を覗き込んでくるので目線を逸らすように軽くそっぽを向く。この男がこうして自分を気遣うのは今に始まったことではないのだが、どうにもそれを意識してしまうといけなかった。

    「…なにがだ?」
    「いえ、やはり元気がないようですので……その…」

    そろりとその凛々しい造りの顔に視線を戻す。痛ましげに歪んだ表情は捨てられた子犬のような、はたまた捨てられた子犬に向ける悲痛と同情が込められているようで居た堪れない。

    「…昨日から情けない様を見せているかもしれないがしかし、おまえが思うような心労は抱えていないよ。そう見えるならそれは些か過保護というものだ……友人の分を超えよう…」

    自分で口に出した言葉が妙にしみる。その刺激がつんと鼻の奥を突いて滲みそうになる目元を誤魔化すように目を軽く見開いた。

    「…そう…ですね、失礼しました…では俺は次の講義があるので、また。」

    少し強い言葉で諌めればそれ以上の詮索はされない。友人という言葉をも否定はされなかった。
    これがきっとお互いの最適な距離間であろうとフィンは思う。しかし聞き分けの良い理性ともう少しくらい押してくれはしまいかと思う感情は別物で、フィンの胸をぎりぎりと締め付けていく。

    いつからここまで甘えてしまっていたのだろう。
    同郷のよしみで、などという言い訳はとうに時効を迎えている。それならば絆されているというのが恐らく一番の理由だ。
    いつの間にかディルムッドが隣にいることが当たり前で、その面倒見の良さに、どこへでもついて来てくれる安心感に甘えてしまうのが常になっていた。
    フィンは隣の講義棟へ遠退くディルムッドの背中を見遣りながら小さくため息を吐く。

    「これはいけない…いけないぞ…」

    ディルムッドが他に目を向けようとすると覚える焦げ付くような胸の痛みは嫉妬心だろう。優しい心遣いを受けて心に抱く温もりは親愛と慕情が混じり合ったものだ。自覚はできているはずなのに、うまく御せずに自分という形が揺らいでしまうような気さえした。


    ディルムッドにこれ以上甘えてはいけない。
    自分たちは親友として、兄弟として無二であれど、その間には特別な、世間一般にいう恋人同士のような関係はきっとないのだから。甘えれば甘えるほど身の程知らずのわがままになってしまう。
    それからというもの、フィンは意図的にディルムッドとの距離を取って行動した。

    同じ講義に出るタイミングは幾度かあったが、そのほとんどを始業寸前に飛び込む体を装って離れた席に座った。授業後はそそくさと素早く講義室を後にして帰宅、サークルにも必要最小限の顔出しに留めた。
    それは偏にディルムッドとの距離感を掴み直したかったためだ。顔を合わせて言葉を交わすだけから回ってしまうような妙な居心地の悪さを忘れたかった。

    そうしてちょうど一週間を過ごした。
    長く感じたがそれなりに実のあるものだったと思いながらフィンはいつもと同じように講義室の入り口のドアを通る。
    例によって目立たない席に座ろうとする前に名前を呼ばれ教壇の前まで進むと、他人の筆跡でCの赤文字が書き足された小レポートと共に教授の冷たい視線を頂いた。

    「真面目に受けないか馬鹿者。」
    「申し訳ありません…」

    短い説教に応答するとほぼ白紙のそれを受け取ってそそくさと確保していた席へ戻る。
    お叱りを受けながらも比較的落ち着いた気分の中、一週間前はどうしてあそこまで集中を欠いていたのか不思議なほどだと心の中で大仰に自分へ言い聞かせすらしていた。
    ほどなくして教壇に妙な威圧感を纏う教授が立ったのを合図に、また一つディルムッドが隣にいない講義が始まった。

    窓から差し込む光は暖かく普段であれば心地よい眠気を誘う。
    今日は教授の放つ緊張感と評価の赤文字が目に痛くて折り畳んでしまったレポートがフィンの頭を冴えさせる。案外不真面目にもなりきれない性分だと内心苦笑しながら手に持ったペンを紙の上に走らせ、時折視界に入り込む見慣れた癖毛の頭にも一瞬思考を奪われる程度のものだった。


    授業終わり、今日こそはと要点をまとめた小レポートを書き上げたフィンは満足げに息を吐いた。我ながらそこそこの出来ではないかと用紙を持ち上げて数秒見つめ、席を立ち始めた周りの学生に倣ってそれを教壇に提出する。
    今日の講義はここまでだった。あとは速やかに帰宅するだけだったのに、思う以上によくできたレポートにフィンの気は緩んでいた。

    ぐい、と、突然自由を奪われた片手首を後ろに強く引かれてよろめく。痛みと言うには僅かだが腕に響いた衝撃、これ自体はフィンの想定外ではなかった。

    「フィン…!お待ちを…!」

    ディルムッドがいつか声をかけてくることは予想できていた。呼び止められてもさして驚くこともなく、咄嗟に振り向くこともしない。意地でも構われるのを待っていたようでみっともないと思わないこともないが、フィンはここ一週間、ディルムッドを避けることを一瞬たりともやめなかったのだから。

    「……なんだ?」
    「あの、俺は何かしたでしょうか…?怒らせてしまったならば…!」

    ディルムッドの声は特段大きいわけではないがよく通る。講義室を出かけている他の学生が数人何事かと向ける視線を気にしながら、ディルムッドの代わりとばかりに声を落として振り返る。

    「怒っていない、怒ってないから……」
    「ではなぜ…!?差し出がましいことをしましたよね……すみません、怪我が酷く見えたものですから…」
    「怪我については大したことはない…おまえも側で聞いただろう?」
    「しかし!あの時はあなたの痛ましい姿に…じっとしていられなくて……」

    一向に言葉の通じないディルムッドに徐々に苛つきが募っていく。
    まるで自分の弁明ばかりで人の話を聞いていないではないかこの男、とフィンは眉を潜めるがディルムッドは止まらない。

    知っていたとも。こいつのこういうところは。
    周りがろくに見えなくなるほどに罪悪感や責任感に振り回される人の良さ。それがディルムッドの美点でありフィンがディルムッドを心地よく思う理由の一つでもある。しかし目の前で顔を顰めてもこちらの意図を察するどころか気付かない様を見せつけられてはその美点も些かマイナスの方向に振れるだろう。

    「しつこいぞ!言いたいことはその謝罪だけだな?それについての返答は既に済ませた!」
    「フィン…!」

    立ち塞がる体を押しのけて出口へ進もうと足を踏み出す。何か言いたげに食い下がるディルムッドがフィンの手を取った。

    「…っ、おまえが気にしていることは私個人の事情だ、おまえに責はない。わかったら少し放っておいてくれないか…!」

    そうだ、ディルムッドは何も悪くない。フィンはそう心の中で繰り返す。
    ディルムッドは概ね普段通りだ。変わってしまったのは自分で、ディルムッドの厚意を今までのように素直に受け取ることができない自分自身にひどく辟易していた。挙げ句の果てにはその苛つきをディルムッドのせいにしてしまうなど何一つも格好がつかずさらに焦燥に駆られる。
    掴まれた手を振り払って早足で出入り口に向けて緩い登り坂になっている通路を進む。
    後ろから自分を呼ぶ声がするが振り返らない。立ち止まらない。
    ディルムッドにこれ以上悪いことをしたくなかったが、どう顔を合わせて喋ればいいのかフィンはわからなくなってしまった。意図的に距離を置いた一週間もそれにとどめを刺した。

    講義室の扉を軽く押して開き、外へ出る。扉のちょうど向こう側には、次の授業の受講生だろうか、突然開いた扉に咄嗟に身を引いたらしい数名の学生がいた。謝罪の意を込めて軽く頭を下げて通り過ぎようとしたフィンの視線は、ふとその中の1人とかち合った。

    「!?」

    いかにも大学生らしい出で立ち、あまり利発とは言い難い遊び慣れた雰囲気。フィンはその姿に見覚えがあった。流れるように視線が絡み合った相手もフィンを見とめて目を見開き、隣にいた学生の袖を引っ張った。

    「…っ!?こいつ…!」

    袖を引かれた男は怪訝そうに振り返り、そしてフィンに視線をやると最初の男同様に驚きに顔を歪めた。その頬から目元にかけて、治りかけのひどい痣が青黒く残っていた。
    両者の間に一瞬の緊張が走る。その時だった。

    「フィン、…フィン!お待ちを!」

    つい今し方フィンが出てきた扉から追いかけてきたディルムッドが勢いよく飛び出してきてあわや扉の前に立ち尽くしていたフィンに衝突しそうになり蹈鞴を踏んだ。

    「…?この方たちは…?」

    追っていた目的の相手が単純な驚き以外の表情の抜け落ちた顔で何を見つめているのか、勘の良いディルムッドはすぐに気がついたようだ。フィンの目の先に視線を移して尋ねる。
    その場で固まっているのは三人、ディルムッドはそれぞれの顔を見比べて、そしてそのうちの二人が持つ共通点にも目敏く気がついてしまった。

    「おい、おまえたち…」

    唸るような低い声が地を這って響いた。
    三者三様の表情で固まっていた場がその声で揺れ動くように解ける。フィンは不意打ちの驚きに感情が抜け落ちた顔を錆びた機械のようにディルムッドに向けた。正面の二人はフィンに向けていた少しの焦り、苛立ちと鬱憤といったような表情をこれまたぎこちなく顔に貼り付けたまま目の前の男を見た。

    「…フィンに…フィンに怪我を負わせたのは貴様らだな?」

    そう言って拳を鳴らしながらゆっくりと足を踏み出したディルムッドに正面の二人は一瞬怯みながら後ずさるものの、鋭すぎる眼光の前にそれ以上体が動かないかのようにディルムッドの接近を許していた。普段の温厚さが嘘のように消えた冷ややかな声にフィンすら体が動かない。

    「…答えろ」

    決して大きくはないもののよく通る艶のある声は狭い室内空間であれば簡単に響き渡る。講義室に入るために側を通る人は皆、尋常ではないその様子にすぐに勘づいて一帯を大きく迂回するように通り過ぎていく。

    「答えろと言っているのが聞こえないか」

    もう一度。静かに、しかし身の竦むような怒気を孕んだ声が空気を揺らす。
    その瞬間、やっとのことで伸ばしたフィンの手がようやくディルムッドの手を掴んでいた。 

    「っ!フィン…!?」
    「いいから…私のことはいい…」
    「は……しかし……」

    くるりと振り返ったディルムッドは驚くほど普段通りだった。緩まった緊張感の中でも動けないでいる二人を一瞥し、フィンは掴んだ手を引いたまま身を翻した。

    「フィン!フィン…!そうなのですよね?あなたのそれは…!」

    振り返らない。強く握りしめた手の中が僅かに汗でぬかるむ。ディルムッドの声は不満げだがフィンに掴まれた手は至って大人しくその手のひらの中に収まっている。

    「なぜですか…?なぜ止めたのです…?」

    フィンは答えない。歩調はどんどん早まって、ディルムッドは手を引かれるままに迷路のような構内の奥の奥へと誘われるままに引きずり込まれる。
    広い構内とはいえ表通りを外れると存外人通りは少ない。周囲に人っ子一人見あたらない細い小道まで引っ張られるのにそう時間はかからなかった。
    ぴたりと急に前を歩く足が止まり、ディルムッドは勢い余ってその体にぶつかってしまった。

    「っと、すみません、……フィン?」
    「……私も手を出したのだし、おまえは気にしなくていいんだ」

    振り向かずにフィンは呟く。
    その内心では嫌気が差すほど自覚せざるを得なかった。
    ディルムッドが自分のために憤ってくれることが嬉しかった。こそばゆくて、誰とも知らぬ何者かへの優越感すら感じてしまう。

    「私のために怒ってくれたなら嬉しい。でもいいんだよ…」

    フィンは、思えばずっとそうだったのだ。まるで保護者のように世話を焼いてくることすらあるから鬱陶しいと跳ね除けようとしたこともまだ記憶に新しいが、本当はディルムッドの親切が気恥ずかしかっただけだった。

    「悪かった、こんなところにまで連れてきてしまって…次の授業に間には合うだろうか…?」

    その優しさに胡座をかいていなければ良かったのだと思う。自分はいつもわがままばかりでディルムッドを振り回していると思い至ってため息を吐く。
    ディルムッドの顔を見ることができずに俯くフィンの長い髪が重力に従って流れ落ち顔に影を作った。

    「……今日の一回分くらい休んでも大丈夫です」

    温かな手のぬくもりが触れる。
    フィンの手からは力が抜け、既にその手を掴んではいないというのに、今度はディルムッドがフィンの手をしっかりと握り込んでいた。
    包むような優しい声。しかしその気遣いは、自分が特別だから受けているものではないと、いい加減にフィンには理解できている。気づかないままでいるためにはディルムッドの行動はちぐはぐすぎた。

    「……つくづく思うのだがおまえは優しすぎる。そんなだから、ちょっと夢見がちなお嬢さんにつかまりやすいんだぞ」
    「…あの、それはどういう…やはり俺は何かしてしまったのでしょうか…?」

    自分が作り出した重い空気が息苦しくて茶化すと、生真面目に狼狽えるディルムッドがおかしくて、思わず肺から空気が溢れる。

    「ふ、ふふ…ちがうちがう、ちょっとした僻みだよ。ふふふ、おまえは良いやつだな、本当に……」

    ゆっくりと顔を上げる。困ったようなディルムッドと目が合って、フィンは今度こそ柔らかに表情をくずした。

    「そういうところがどうしようもなく心地良いと、好き…なのだと、私は気付くのが遅すぎたかな…」

    ____________________


    穏やかに微笑んだフィンの手を取ったままディルムッドは「こういうところが可愛らしいのですよフィンは」と自慢げに語り始める頭の中の自分を振り払う。同時にちょうど今耳に届いた言葉を反芻していた。

    頼り甲斐のある年長者のような風格を持ちながら、フィンは茶目っ気に溢れる人だった。整った美しい容貌には少々不釣合いに見えるいじらしい笑顔をする人だった。ディルムッドにとってそれらはずっと好ましく、そばで見ていたいしできるならば自分に向けてほしいと思うものだった。

    「すまない、私は随分とおまえに甘えてしまっていたようだ。いけないな、そんなつもりはなかったのだが…」

    フィンが穏やかに凪いだ声で話している。しかしその前に告げられた言葉を消化し切れていないディルムッドには次の言葉もすぐに飲み込むことができない。

    「おまえに気を遣わせないようにこれからは気をつけるよ。もしよければ、これまで通り付き合ってくれ。……距離感にも気をつけよう」

    何かが食い違っている、そうディルムッドは察する。なぜ自分は愛の告白をしたわけでもないのに振られた時のような気分になっているのだろうか。まるで数年前の告白のときのような、ひやりとした気分だ。
    そこまで思い至ってディルムッドは探していたパズルのピースをようやく見つけたような心地を覚えた。数年前の夕暮れの更衣室と違うのは、ディルムッドを傷つけないようにか優しく笑って励ましてくれたその人が、当時のディルムッドと同じ表情をしているだろうことだった。

    「あとは…あ〜…、世話をかけたが、私の情けない姿は全部忘れてくれ……、とにかくこれからは色々、気をつけるから……」
    「……嫌です」
    「嫌か、…無理もない。今まで私はおまえに対してあまりにも無遠慮で、…ん?」
    「あなたが俺に心を許してくれるのを俺が迷惑がったとでも?それよりフィン、好きとはどういうことですか?誰が誰を?詳しく教えてください」
    「え…っとだな?好きというのは、私がおまえを?うん、…え?」

    その手をまず自分に、そしてディルムッドの方に振ってそう答えたフィンはみるみる赤くなっていくディルムッドの顔を見て間の抜けた声を出した。真剣さが過ぎて睨みつけるように見つめるディルムッドにつられてフィンの顔もゆっくりと紅潮し、握った手には汗が滲みはじめた。

    「ええと、その…いや!というのは冗談で…!………いや、冗談ではないのだが…しかし!冗談だと思ってくれれば、いいのではないかな…!?」

    空いた片手で顔を隠そうとしながら必死に取り繕おうとするフィンは今や耳まで濃い桃色に染めている。耳を覆い隠す長い髪もその淡い色では鮮やかに染める色を隠しきれていなかった。
    何がどうしてこんなことになっているのかディルムッドにはさっぱりわからなかったが、初めて見るフィンの焦りと照れの入り混じった表情に胸が高鳴り、体が勝手に動くままにその体を抱きしめた。

    フィンの体は一瞬驚いたように小さく跳ねたが、すぐにしおしおとディルムッドに縋り付く。その仕草に小さく何度もディルムッドの胸は締め付けられる。諦めたはずの春が幾度の冬を飛び越えていっぺんに訪れたような高揚があった。

    「あんまりだ、ずるいではないか……私だけ……」
    「すみません…すみません、フィン」
    「返事をくれないのか、聞くだけ聞いて宙ぶらりんにするのか、罪作りな男だ…」
    「……それは、そんなことを言ったらあなたも大概なのですが…」

    今になってフィンの寄越した気持ちが半ば信じられずどんな心変わりかと尋ねたくて仕方がないが、それが本物であることは先ほどからフィンが言葉で、全身で尽きず伝えてくれていた。
    丁寧に仕舞い込んだと思った思いにはたやすくまた火を灯される。腕を回して胸に抱いた温もりがどうしようもなく恋しかった。

    「好きです、フィン…ああ…夢のようです」

    思わず陳腐な台詞を口に出すと、フィンの指がディルムッドの耳たぶを軽く抓った。


    **

    もっとゆっくり話したいことがあるから今夜はうちに来てください、とディルムッドはフィンに自宅の鍵を渡した。

    「俺は合コンに行かなければならないので」
    「このタイミングで合コンに行こうというのか?」

    フィンは呆れたように首を傾げたが何か思うところがあるのかそれ以上は何も言わなかった。

    「メイヴ殿に詰られても面倒なので…どうせ下手な言い訳は見抜かれて余計に玩具にされるだけです。早めに上がるので待っていてください。」
    「それもそうだ。ではお先に寛がせてもらうよ。」

    そんなやりとりの後受け取った鍵でフィンは言葉通りにディルムッドの部屋へ帰り、その戻りを待っていた。早く上がると言った通り、ディルムッドは時計の針が頂点へ登るまでにだいぶ余裕のある時刻に戻ってきていた。


    「なんだか落ち着きませんね…」
    「何を今さら…私はこの部屋に手ぶらで来ても着替えもタオルも全部あるのだぞ」
    「そうなのですが…フィンは落ち着いていますね…」

    私はそのソワソワを既に先週味わったからなと思いながらも、フィンはディルムッドにそれを言ってやらなかった。ディルムッドのベッドにうつ伏せに寝転がって足をぶらぶらと揺らしながら身を固くして今だにベッドを背もたれにしながら板張りの上に座っているディルムッドを呼んだ。

    「ほら、ディルムッド。そろそろ寝ないでいいのか?」
    「俺は床で寝ます。フィンはベッドを使ってください。」
    「そんな主張が通るとでも?それとも私との共寝は嫌か?」

    ディルムッドはぐう、と唸りながら冗談はよしてくださいとじとりとした目でフィンを咎める。あくまでベッドで寝るという選択肢はないようなのでフィンは傍に盛ってあった毛布を掴むとディルムッドのそばへ座った。

    「風邪をひいてしまうぞ」

    そう言ってお互いの肩に回るように毛布を掛け、フィンはディルムッドに体を預けた。相変わらず体に力を込めたままのディルムッドにはそれを拒みさえしないものの受け止めるだけの余裕はまだなかった。


    結局いつの間にか崩れるように寝落ちてしまった二人は、仲良く毛布を敷いた床の上に窮屈な体勢で雑魚寝をした後にどちらともなく目を覚ました。
    これでもかというほど身を寄せ合っていたらしい寝相の跡と広々と皺も少なく清潔なままのベッドシーツを見比べて、ディルムッドは次からまたフィンとベッドを共有することを決めたようだった。

    フィンは薄暗がりの中カーテンに閉ざされた窓の方に視線をやり、少し目を細める。
    床に寝転んだ視点から見たせいだろうか、カーテンの裾から漏れ入る朝の柔らかな光が普段より一層眩しく感じられた。






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    TRAININGお題は「記憶」です
    軽率にご都合記憶喪失ネタ。薄味。
    「……すみません、とんと記憶がなくて」

    そう言われた二人の表情は各々だった。
    まるであり得ないとでも言いたげに、しかし言葉を忘れたようにぱかんと口を開いたフィン。太い眉を顰めて精悍な顔立ちに疑念の表情を滲ませるディルムッド。
    そしてそんな二人を見て申し訳なさそうに眉を下げるディルムッドがもう一人。一見混乱を余儀無くされるこの絵はカルデアでは至って日常のものだったが、一つだけ常と違うものがこの片方のディルムッドの言葉だった。

    「…………記憶が、ない……?私の?」

    次に独り言のように口を開いたのは意外にも、他のすべての感情が抜け落ちたように驚愕の表情を浮かべていたフィンだった。

    「俺のこともわからないというのか?」

    続いて双剣の戦士の方のディルムッドが尋ねる。

    「その姿を見るに、何らかの形で現界している別の俺であろうことはわかる…しかしその経緯もおまえとの今までのやりとりも……すまない……」
    「そうか……」

    納得したかのように頷いたセイバーのディルムッドは眉間に寄せていたしわを伸ばし、隣に立ち尽くしたままふるふると震える男を見た。その視線をランサーのディルムッドも追って恐る恐 9754

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    TRAINING「飽きる」からの連想
    ディルフィン未満のフィオナ主従
    愛の多い人だと思った。
    それ故に、多くに飽くのではないかと思っていた。


    「これはこれは、北斎殿。今日はお父君と一緒ではないのですか?」
    「おう旦那。とと様は留守番だよ、締め切りが近いんでな。本当はおれもこんな場所にいる場合じゃねぇんだが腹が減ってはなんとやら、えみやの兄さんに片手間に食べられるものをいただこうと思ってんだ」

    そう言うと画工の英霊は片手の指を窄めて何かを描くように手で空をかく。その手振りを見てフィンは頷いた。

    「そういうことでしたか。貴女のことは前々からお茶にお誘いしたいと思っていたのだが、それではまたの機会にぜひ。」
    「へえ、あんたほどの別嬪に誘われちゃあ、そりゃ断るわけにはいかねえよ。こんなときでなければあんたをもでるにこのまま一筆描かせてほしいところなんだけどなァ…」

    悔しそうに唇を噛む彼女にフィンはからからと笑う。それはそれは楽しそうなその様子は側から見ている分には微笑ましい。応為はそのままひらひらと手を振りながら遠ざかり、フィンはランチの注文を待つ列に舞い戻る。

    「我が王、彼女はついこの間召喚された日本の方ですよね?いつの間に親しく?」
    「あぁ、大し 6655

    eats_an_apple

    TRAININGほんのちょっとだけ背後注意(??)なシーンがあります。
    なんでもいい人向け。
    「王よ…その、装備の…ええと、胸当ては…着けないのですか…?」

    部下からの奇妙で唐突な質問にフィンは首を傾げる。
    質問者のディルムッドはというと、非常に言いにくそうにあからさまにフィンから視線を逸らしているので見つめ返しても目は合わない。彼が何を考えているのかフィンには図り兼ねた。

    「…?もちろん戦闘時の霊衣を変更するにはマスターに申し入れるのが作法だと知らないこともなかろう、今すぐには着けられないな。なぜそんなことを聞く?」

    素材集めと戦闘訓練のための招集命令に応じていた2人はちょうど管制室に向かう途中だった。ディルムッドはその正論に一瞬言葉を詰まらせたが、ぐっと息を飲み込んでから食い下がった。

    「今すぐに、ということではありません。普段からその装備でいるのはなぜかと…」
    「む…私の言葉を聞いていたか?質問に質問で返すんじゃない。」

    おちょくっているのか、とフィンが顔を顰めるとディルムッドは途端に表情をぱっと困ったようなそれに変え、とんでもありませんと弁明する。普段通りのやりとりを一通り済ませた後、フィンは目を伏せて部下の妙な観点にため息をついた。

    「なぜもなにも。マスタ 9915

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    そしてそんな二人を見て申し訳なさそうに眉を下げるディルムッドがもう一人。一見混乱を余儀無くされるこの絵はカルデアでは至って日常のものだったが、一つだけ常と違うものがこの片方のディルムッドの言葉だった。

    「…………記憶が、ない……?私の?」

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    「俺のこともわからないというのか?」

    続いて双剣の戦士の方のディルムッドが尋ねる。

    「その姿を見るに、何らかの形で現界している別の俺であろうことはわかる…しかしその経緯もおまえとの今までのやりとりも……すまない……」
    「そうか……」

    納得したかのように頷いたセイバーのディルムッドは眉間に寄せていたしわを伸ばし、隣に立ち尽くしたままふるふると震える男を見た。その視線をランサーのディルムッドも追って恐る恐 9754

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    「王よ…その、装備の…ええと、胸当ては…着けないのですか…?」

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    「…?もちろん戦闘時の霊衣を変更するにはマスターに申し入れるのが作法だと知らないこともなかろう、今すぐには着けられないな。なぜそんなことを聞く?」

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