表情というものは例えば別の土地に生きる者同士といった言葉の通じない者の間にも意思疎通を可能にしうるものだという。生きた時代を異にする者同士でも同じものを、そして魔貌とも呼ばれるほどの絶世の美を誇る顔であろうと、もちろん等しくそれを有している。
「だからなぁ、もうちょっとこう…にこっ、と。難しければやや爽やかめに…フッ…、こんな感じでどうだろう?」
故にこそフィン・マックールはどうにも躍起になっていた。
手本として目の前の男に次々に変化に富んだ笑顔を見せては期待の眼差しをきらめかせる。
「そうは言われましても…、……っ、…どうです…?」
「〜〜ッ不合格!かたい、かたすぎる!何故だ、どうして…!?」
せがまれていた彼の部下であるディルムッドは困ったようなぎこちない笑顔を返して何度目になるかもわからない駄目出しを受けた。
「無茶ですよ、何を言い出すかと思えば……そんなに私の顔は気になりますか?」
「ううむ…やっぱり私の意図するところを分かっていないな?どうしてこんなにテイクを重ねているかもわかっていないな!?全く、私をこれほどまでに執心させておきながら……」
大袈裟に天を仰ぐフィンにディルムッドは余計に困惑の表情を深める。
なぜこのような事態になっているかすら説明がないまま、特に人の心の機微に聡いわけでもないディルムッドに、普段通り気まぐれなフィンの意図など察せられるはずがなかった。
まるでわからないと雄弁に語るその顔にフィンはやはり身振りを大きくして嘆いてみせた。
「その顔っ!どうしてそう困り顔ばかりなのだ…!?なんというか距離感があって…そう、寂しいではないか!」
普段からフィンの、本人曰くちょっとした冗談に苦心させられているディルムッドを知る者は「それは日頃の行いによるものでは」と思うだろうが、できる忠臣というものはそんな言葉がたとえ頭を過ぎったとしても口には出さないのだ。
「そのようなことは…ない、とは言い切れないかもしれませんが…少なくとも私はそのように意識しているわけではなく…」
どっちつかずの歯切れの悪い応答をせざるを得ないディルムッドだが、だからといって何も心の距離があるわけではない、とは思う。己が王とはカルデアに召喚されたのち十分すぎるほどに充実した時間を過ごしていた。それでも唐突に笑顔を見せろなどと言われればたじろいでしまうのであったが。
「嘘だな、あの麗しき騎士王に向けるような顔をおまえは私には絶対にしない!断言できる!」
しかしそんなディルムッドの心を知ってか知らずか、今日のフィンはなかなかにしぶとかった。
「っ!それは、騎士王とは縁もありますし、彼女との真剣勝負は私にとってずっと果たしたかった望みでもありますので…!」
「縁なら私でもいいではないか?私だって得物は槍だが、金髪で青マントの美王なのだが!?おまえが望むなら本気で手合わせくらいしてやるし……私の何が不満なのだ?善処するとしよう、さあ言ってみろ!」
「なっ…!決してそのようなことはありません!誤解はなさらないでいただきたく…!そもあなたと騎士王では全く、全然、色々なものが異なりますゆえ…!!」
不満そうに顔を顰めるフィンを、もはや睨みつけるかのような勢いで見つめ返しながら必死に捲し立てるディルムッドにさすがのフィンも折れたようだ。
わかった、わかったから、とあからさまにむくれながらも軽く両手を上げたフィンは雑に言い争いに幕を引く。しかしこの話はまた今度、と話が収束していないらしいことを仄めかすとディルムッドの元へ来た時と同じように颯爽とその場を後にした。
「…………なんだとおっしゃるのか」
その後ろ姿を見送りながら、一人取り残されたディルムッドは誰もいない空間に向かって呟くしかなかった。
* * *
目は口ほどになんとやら、そんな言葉があるくらいには表情というものは雄弁だ。
とある神話における一時代を築いた英雄とて、目の前の人間のそれは関心を向けるべきものだった。寧ろ人の上に立ち人を導き守る英雄だからこそ、言外のサインというものには敏感になるだろう。
「マスターの表情はわかりやすくていい。ふむ、そんなことをいきなり言われても…という感情だな、それは?」
「何か今地味に貶されたような…?」
「気のせいだよ。いい、と言っただろう?きみのそれは長所なわけだから自信を持ちたまえ。」
ディルムッドに遠慮されている気しかしないのだが何故だろうか。唐突に尋ねたフィンに対してあからさまに表情を歪めたマスターは、そう言いくるめられていた。
マスターを右手に丸テーブルに陣取ったフィンはどこからか持参したティーカップを啜る。
「わかってるならさっさと退きなさいよ。私とマスターのティータイムなのにどうして当たり前のようにあなたがいるわけ?」
「それに関しては誠に申し訳ない。私も気づいたらここに座っていたという感じでね。ところで良ければメイヴ殿の所感をうかがっても?」
左隣からは桃色の髪が可憐な乙女がフィンの持ち寄った菓子の包みを無遠慮に開いている。彼女はじとりと嫌そうな顔で男を見つめるが、観念したかのようにため息をつくと菓子を口に放り込んだついでに言った。
「そんなの決まってるわ。あなたの嫌味、いやらしいのよ。」
「…嫌味?もしかして私の冗句のことを言っているかね…?」
「それ以外に何があるの。まったく…距離感がなんだのって、その最たる原因は自分なんじゃなくて?」
メイヴの言葉に目を丸くしたフィンは無言でマスターの少女を振り返り審判を仰ぐ。彼女は深く一度頷くとメイヴに軍配を上げた。
認め難い判決を言い渡されたフィンはテーブルに肘を乗せると顔の前で組んだ両手の甲に顎を乗せてため息をつく。
「…そうか、そうだったか…ディルムッドが時折そういう話題になるとあまりに辛気臭い顔をするものだから、良かれと思っていたのだが…ううむ、それはいけないな。早急に対応しなければ……」
難しい顔をしたフィンは独り言を呟くかのように声を落として息をつく。急に醸し出された神妙な雰囲気にテンポを崩された二人の少女は、その間フィンの独壇場を許してしまっていた。
「…よし、気の利いた冗談はしばらくやめるとしようか。名付けてフィオナ騎士団なかよし大作戦だ、ほかのアプローチで見事ディルムッドの心を開いてみせよう!」
間違いなく沈んだ表情を浮かべていたはずのフィンが次に放った言葉は、もはやなんの諦観も失望もはらんではいない。誰に聞かせるふうでもなく嬉々として喋りだすフィンのことをすぐに止められる者はいなかった。
「ふふふ、そういうことなら得意分野だ!私が女性からアプローチを受けまくる要因は何もこの美しさだけではないということを示さなくてはな!」
ふざけたような言葉と、強い意志を宿した瞳が輝くアンバランスさが寧ろ恐ろしい。
「……本当にわかってるのかなこれ?メイヴちゃんどう思う?」
「…どうでもいいわ…あなた毎回こんな茶番に付き合ってるの?大変ね」
得意そうに腕を組むフィンの前で唖然とした表情を隠さないマスターとサーヴァントは互いに言葉を交わす。
フィンがそんな二人のやりとりを見逃していたのは時間にして十数秒でしかなかった。すぐにくるりと右隣に顔を向けてよく通る声で呼びかけた。
「というわけでマスター!どう思うかね?私はどうすればもっとディルムッドと仲良くできるだろうか!?」
「今自分で得意分野って言わなかった?そういうのは自分で考えてなんぼでは?…まあ、もう十分仲良しだと思うけどなぁ…メイヴちゃん、パスしていい?」
「はぁ?…仕方ないわね、そんなのもうアレに決まってるじゃない。体の距離は心の距離、ね。はいもうこの話終わり。」
仕方ない、とメイヴが甘さを見せたのは自分を頼った主に対してだ。一方でマイペースな金髪の男にはかなり投げやりな助言をしつつ席から立ち上がると、力づくでテーブルから男を引き剥すためにその腕を引っ張った。
「ははは、乙女たちの茶会に水を差すのは流石に無粋だったか!いたた、メイヴ殿、そう力任せに引っ張らずとも…!」
可憐な乙女の姿といえどさすがはサーヴァントと言ったところだろうか。その細腕のどこにそんな力があるのかと疑いたくなるほどに力強く腕を引かれたフィンは、流石にこれ以上は邪魔者もいいところだとようやく察したらしい。最終的には自分から席を立ち上がると素直にその場を後にした。
「…いい?マスター。これからしばらくあいつらに関わっちゃダメよ?」
女の勘だと厳しく言いつけるメイヴに素直に頷く少女だが、如何せん彼女はマスター、自身のサーヴァントの間で起こるいざこざに知らぬ顔をしていられる場合の方が遥かに少ないことを覚悟はしているのだった。
* * *
ディルムッド・オディナは困惑していた。
顔に滲み出るその感情を隠し切れていないだろうことを察する程度にはひどく悩んでいた。その原因は数日前から様子のおかしい生前の主、フィン・マックールだ。
彼ら主従に特に興味のない者はその異変に気付かないかもしれない。仮に気づいたとしても余程の物好きでなければわざわざ蛇が出るか魔猪が出るかもわからない藪を突くことはしないだろう。
つまり今ディルムッドを苛む異変に助け舟を出してくれる者は誰もいなかったので、ディルムッドはただただそれを受け入れるしかないのであった。
例えば。
「よくやったなディルムッド!さすが我が騎士団随一の騎士!」
普段であれば胸が奮い立つような賞賛の言葉。
しかしその声と共にディルムッドの肩に温かな素肌の感覚と重みがのしかかる。
フィンが戦闘後の興奮からやや上擦った声でディルムッドの戦果を称えるのは珍しいことではない。いつもより高らかで明るい声が自分を呼ぶのをディルムッドは密かに気に入っていた。そしてその拍子に軽く体が触れ合うところまでなら、距離感に遠慮の少ないフィン相手では起こり得るだろう。
問題は、ディルムッドの感覚が正しければ、数日前から明らかに詰められたその僅かな距離の違いだ。
「…いえ…この程度は当然です…」
今までは精々が肩に手を置かれる程度ではなかっただろうか、とディルムッドは思う。ぐるりと首の後ろに回された腕はときどき無遠慮にディルムッドのうなじに触れる。掌で肩をしっかりと抱かれてはさりげなく振りほどくこともかなわない。
労いに対して言葉少なに返事をするディルムッドの様子に気づいてか気づかずか、フィンはその表情を覗き込もうとディルムッドに顔を近づける。
「…どうした?手柄を取ったというのに元気がないな」
「ッ、お構いなく…!」
うっすらと紅潮する顔がひどく近距離から覗き込んできたところで、ディルムッドは思わずフィンを振り払った。驚くフィンの顔をスローモーションのように眺めながら、ディルムッドは自分がとった行動を自覚する。
その永遠のような一瞬が過ぎ去った後も二人はしばらくぽかんと口を開いて見つめ合っていた。
「…ちょっと前から思ってたけどいったい何をしているんだおまえたちは?馬鹿、うぐっ」
「兄上!こういうのには首を突っ込むべきではないぞ…!」
すぐ側でそのやりとりの一部始終を見ていた少年が思わず口を挟む。慌ててそれを止める少女の言葉が終わる頃、見つめ合って固まっていた主従のうちまずフィンの動きは元に戻っていた。
「ううむ…今のはさすがの私も少し傷心だ…ところで孔明殿に司馬懿殿、どうにも懐いてくれない相手を手懐けるよい方法などご存知だろうか?」
「ほら言わんこっちゃない!すまないが騎士殿、その手のコツは私が知りたいくらいでね!」
名高い東洋の軍師として呼ばれながらも未だ年若い少女の姿の英霊は、兄と呼んだ少年の口を塞ぎながら少し離れた場所で集めた素材を確認していたマスターの元へと引きずっていった。
取り残されたフィンはため息をつきながら凍りついたままのディルムッドの目の前で手をひらひらと振った。
「悪かったな、驚いたか?…マスターもちょうど帰還準備ができたようだ、行くぞディルムッド」
名前を呼ばれたディルムッドが息を飲んで我に返った時には既にフィンは背を向けていた。フィンがどんな表情をしているかも確認しないまま、今この時点で何をすべきか決心がつかなかったディルムッドは一言返事を呟くとその後ろに静かに従った。
*
「というわけだ!…この作戦は失敗だろうか。どうしたものか……」
至極真面目な顔でフィンがそう告げる前には以前と同じく二人の少女が座っていた。
「そんなことしてたなんて知らなかった……」
「いよいよ愛想を尽かされたんじゃなくて?…ねえマスター、私この話心底どうでもいいのだけど」
もはや当然のように二人の茶会に紛れ込んでくるフィンに、メイヴはあからさまにため息をつき、マスターは諦めにも似た表情で苦笑した。
フィンはその中にあっても遜色ないほどに悩める乙女のような湿ったため息をついてテーブルに肘を突きながら自らの髪を指で弄ぶ。
「やはりそうなのだろうか…あれから以前にも増してディルムッドに距離を置かれているようなのだが…」
言葉や口調は普段通りでも、しゅんと眉を下げて目を伏せるフィンがあまりに真剣に悩んでいるように見えたので、マスターはついなんとなくフィンに言葉をかけた。
「フィンはディルムッドのことが大好きなんだね」
マスターが口にしたその言葉にメイヴは思い切り顔を顰めたが。
「…?もちろんだとも、己の騎士を愛さない者がいるだろうか?」
さも当然というようにフィンは首を傾げる。
その絶大な信頼に胸焼けを起こしそうになりながらもマスターは息を吐いた。
「……こんなことさらっと言っちゃうんだもん、ディルムッドの胆力に感心しちゃうよ……」
「……鈍いだけじゃないかしら…お互いに、いろいろと……」
何かと真意の掴みづらい発言を繰り返す男と、お人好しのせいかどこか着眼点がずれてきたようなマスターに堪らずといったようにメイヴが口を挟むが、その程度ではマスターはともかく、フィンのことは止められない。
会話の流れをわかっているのかいないのか、フィンは頷いた。
「ディルムッドはいい武者だ、あれほどの者はそうそういない。マスターは知っているかな?生前は我が騎士団の中でも随一の活躍を見せてくれたものだよ。たとえどうあってもあれは私の自慢の騎士だ。」
そう穏やかに微笑むフィン。遠くの記憶を懐かしく思い返すかのように優しい声色の惚気を真正面から浴びたマスターは額を押さえる。
「……なんか、聞いてるだけでのぼせちゃいそう…ケルトってみんなこんな感じ…?」
「まぁ、あながち間違いではないけれど……フィン、もういいかしら?」
呆れたようなメイヴが今度こそフィンに退場を促す。
フィンはその様子を見るともう一度ため息をついて大人しく席を立った。何度もこの女子会に乱入してもなんだかんだと許されているのは、メイヴの機嫌を完全に損ねる前に引き際を見極めているからなのだろう。
「もう時間切れかな?仕方ない、ではここらでお暇するよ……私はディルムッドに笑ってほしいだけだというのに、こうも伝わらないものなのだなぁ…」
「押してだめなら引いてみろ、ってことじゃないかしら?どうでもいいけど。私、あまり自分の持ち物を鼻にかける男には寒気がするの。」
「肝に銘じよう。メイヴ殿には世話になっているからね」
追い払うように雑に手を振り払う仕草をして嫌な顔を隠さないメイヴにもフィンはどこ吹く風といった様子だ。マスターに別れを告げて徐ろに立ち去って行った。
「メイヴちゃん、ありがとね」
フィンが去った後そう言いながら眉を下げて笑った少女に、サーヴァントは仕方ないわねと溢し何度目になるかわからないため息をついた。
* * *
ディルムッドは食堂のテーブルの前で、食欲をそそる湯気の立つ料理の前にも関わらず頭を抱えていた。ここ最近のディルムッドを惑わせることといえば、フィン・マックールの言動以外にはない。
数分前カウンターでトレーを受け取ったディルムッドはちょうど食堂に入ってきたフィンの姿に気がついた。つい先日フィンとちょっとしたトラブルを起こしていたディルムッドは、無礼を働いた申し開きをすべきだと思っていたところだった。
ちょうど良いタイミングであったし食事を共にできたら、そう思って声をかけた途端、フィンは罰が悪そうに笑って用事を思い出したと踵を返してしまったのだったのだ。
追いかけようかとも思ったが、ディルムッドの持つ料理はすぐに食べてくれと言わんばかりの匂いで鼻腔をくすぐっていたし、フィンが本当に急に用事を思い出しただけならば追っても迷惑になるだけだ。
結局はそのまま空席に座ったディルムッドだったが、考えれば考えるほど最近のフィンはどこかおかしいように思えた。
「ディルムッド、どうしたの?食べないの?」
突然明るい声が頭上から聞こえた。
ディルムッドが弾かれたように顔を上げると、このカルデアの唯一のマスターである少女が覗き込んでいた。そしてその隣では桃色の髪の乙女が慌てたように顔を顰めていた。
「マスター…いえ、今いただこうと思っていました。ですがその、少々よろしいでしょうか?聞いていただきたいことがありまして…」
この人の良いマスターに仕えるうちに、ディルムッドは主人に甘えるということを覚えるようになった。自分ではどうにも解決できそうにないこと、堂々巡りになる思考は主に打ち明けて、頼ってしまってもいいと考えるようになったのだった。
「いいよ、じゃあ向い失礼するね。メイヴちゃんもいい?」
「あなたね…何も自分から顔突っ込みにいかなくてもいいでしょう…これどうせアレよ?全く……」
呆れ顔のメイヴの言うところはディルムッドにはわからなかったが、とりあえず向かいの席に座った二人に対し話を切り出すことにした。
はじめは笑ってくれと言われたのです。
そうディルムッドは呟く。
笑えと言われても、フィンにいきなりそんな要求をされてさらりと応えられるほど器用ではない。結局ぎこちなくなる表情に何か気に入らないことがあったのか、フィンは何度もやり直しを要求してきたが、どうにも望みを満たすに足るものを見せることができなかったらしい。
「気紛れにお遊びになっているだけかと思いましたが、あまりに食い下がられたのでよく覚えています。思えばその辺りからだったと…」
ディルムッドは深く溜息をついてから、すぅ、と音が立つほど息を吸った。肺いっぱいに空気を吸ったかと思うと一秒ほど息を止め、再び深い溜息と共に言葉を吐き出した。
「距離が…!近いのです……!!」
既にマスターに付き合ってディルムッドの向かいに座っていたメイヴの表情は大変なことになっている。メイヴでなくても大抵の者はこの茶番に付き合いきれないと呆れるだろう。しかし彼らがマスターはただの少女にしては器の大きすぎる人間だ。真面目なのかふざけているのかわからないフィンに対してはともかく、至って真面目なディルムッドの悩みを無碍にはしない。
「もしかして困ってる?言いにくかったら私からでもフィンに伝えようか?」
メイヴは隣のマスターと向かいのサーヴァントに視線を交互に移してから至極嫌そうな顔をした。ディルムッドの次の言葉がなんとなく想像できてしまい、呆れに呆れて言葉が出ないのだ。
「そういうことでは…!…いえ、そういうことなのですが…しかし、我が王はああいう御仁なので別に意図があるわけではないのだろうと存じますし、きっと私をからかってお遊びになっていらっしゃるのだと思うのですが…そもそも私の勘違いという線もありますし…」
眉間に皺を寄せるディルムッドはメイヴの顔にもマスターの生ぬるい視線にも気づいていない。
「しかしながら…!そう遠慮なく接されるとどうしていいかわからなくなるといいますか…、落ち着かないといいますか、…というかあの御方にですよ、馴れ馴れしく笑い返すなどできるわけがないではありませんか!我が王のことをかわいらしいなどと、一瞬でも思った己の胸にゲイ・ジャルグを突き刺したくもなるではないですか!?」
ディルムッドがばりと顔を上げて訴えた先のマスターは目を細めて「とりあえずそのネタはやめようか」と言った。まあまあと落ち着けるような手振りをした彼女はディルムッドの言葉を制して喋り出した。その内容に今度はメイヴが目を見開いてマスターを振り向いた。
「フィンはね、ディルムッドのこと大好きなんだって。ただただディルムッドに笑いかけてもらいたかっただけだって。構ってもらいたいんだよ。フィンも可愛いところあるよね」
「失礼マスター。我が王が、でしょうか……?そのようなこと…本当に…?」
「うん、そう言ってたよ、自分で。」
途端に大きく目を見開いてから、赤くなったり胸元を抑えたり頭を抱えたりと忙しくなったディルムッドを横目にメイヴは「あなた中々やるわね…」と呑気なマスターに向かって呟いた。
「すみませんマスター、お先に失礼します!!」
そのうちにほぼ手をつけていなかった出来立ての食事を怒涛の勢いでかき込んで完食したディルムッドは、どんと音を立てて食器を置くとそのままの勢いで立ち上がった。
うどんをすすりながら親指を立てたマスターに見送られ、ディルムッドは大きな足取りで食堂を後にして行った。
* * *
その日いつものようにティータイムに乱入してきた男はひどく狼狽しているようだった。
「マスター!ディルムッド、ディルムッドが…!!」
その頬は火照り、自覚があるのかフィンは手のひらや手の甲をしきりに裏返しては頬に当てていた。
「ディルムッドがおかしいんだ!少し前までは普通だったのに…!どうしたらいいだろう!?私が下手に刺激してしまったからだろうか…!!」
珍しい慌て方をしているフィンに向けられる二対の視線は、特に状況を緊急事態だとは認識していないようだった。それもそのはずなのであるが、マスターの謀略に気付く余裕がないらしいフィンはそれどころではない。
時間は僅かに遡り、わざとディルムッドから距離を置くように食堂を離れたフィンは、十分な時間を置いた後に遅めの食事を取ってから図書館近くに設置されたソファでくつろいでいた。用事があると断った時のディルムッドは何か言いたげで、ほんの少しだけ優越感を覚えたフィンは人知れず口の端を緩めていた。
探しましたよ、と聞き慣れた声に呼びかけられたのはそんな時だった。
「どうした?何か用だったか?生憎この後も予定があってね、少ししか聞いてやれないがそれでも大丈夫だろうか?」
余裕綽々のフィンはそう言って視線を落としていた雑誌からディルムッドに向き直って、向き直ろうとして既にディルムッドの両手に持ち上げられていた自らの右手に気がついた。
そっと包まれた手はそのまま首を垂れたディルムッドの口元へ運ばれ、柔らかな唇が触れたのを感じた。一度、二度と口先で食むようにディルムッドの唇が指の関節や骨が浮き出た部分に口付ける。壊れもののように、しかし引っ込める気すら起きないほどしっかりと手は握られたまま。
「不肖ディルムッド、あなたの御心を察せずにいました。どうかお許しください。」
ディルムッドの発した言葉の意味が理解できないままフィンは生返事をした。そのまま状況を飲み込めずぼうっとしている間にもディルムッドは何度もフィンの名前を呼び、右手は一向に捕まったままだった。甘い呼び声に頭が麻痺しそうだった。
「あぁ、我が王、フィン…」
なんとなくディルムッドの頭の方に視線をやったその時、ディルムッドもまた顔を上げてフィンを見つめた。その表情を目にした瞬間、フィンの頭にぐわりと血が上った。
友と歓談する時のような屈託のない笑顔とはまた別の、好敵手と手合わせしている時の不敵で心からの喜びを湛えた笑みともまた別の、その表情はフィンが期待していた笑顔のどれとも違った。
甘く蕩かすように優しい、かわいらしい小動物でも見るような、恋焦がれるように情熱的な、とにかく「いくらなんでもそれを私に向けるのは違うだろう」と突っ込みたくなるほどの代物だったのだが、フィンの口から出たのは間抜けな吐息一つだった。
ぽかぽかと体が熱を上げ、居ても立っても居られなくなったフィンはその場を逃げ出したその足で乙女たちの茶会に乱入した。
「こう…要はプッツンしてしまったのでは!?私のせいなのか?元に戻したい場合はどうすれば…!」
フィンが無責任な言葉を口走ったすぐ後、背後から大きな影がぬっと近付いてぴたりとフィンの側についた。
「こちらにいらっしゃったのですね。あぁマスター、先ほどはありがとうございます!」
正面を向いたまま固まってしまい言葉を失ったフィンの後ろ髪を、ディルムッドは恭しく一房手に取っては撫でつけながらさらりと溢して、また掬い上げを繰り返す。
「フィン、先日のことについても謝らせていただきたく…。あなたの御心を知らず、私の気持ちだけで無礼を働きました。申し訳ありません」
ひどく困惑した表情で「私の心ってなんだ…?」と誰に向かってというわけでもなく呟いているフィンと、その横に立ち慈しみに溢れるような穏やかな表情を自らの王に向けるディルムッドを眺める二人の少女の表情もまた、感情を深くは読み取れないにこりとした笑顔と顰め面とそれぞれだった。
絹糸のような金の髪を愛でていたディルムッドだったが、しばらくすると満足したのか「さあ行きましょう」とフィンの手を取った。その頃には思考が混乱を極めたのか、上の空になっていたフィンは素直に従い、本日の茶会の妨害はいつもより少し短くおさまったのだった。
「とりあえず仲直りできたみたいで良かった」
「あなたわざとじゃなかったの?…大した子ね」
ティーカップに口をつけながら、メイヴは訝しげにマスターを見遣ったが、彼女が完全な善意から行動したらしく満足げだったのを見とめるとため息をついて笑った。
*
「最近寝ても覚めてもディルムッドだ。そろそろ満腹を通り越すぞ、あの輝く貌はカロリーが高いんだ」
後日、少し疲れた様子のフィンがそう溢しているのを聞いたという証言を何名かのサーヴァントがしていたとか。