猫の手足「銀の盥で月光を集めた水を使って清めると肌が美しくなる、というまじないがあるそうです」
「どうした、藪から棒に」
「いえ、グラスを取りにお部屋に伺った折、窓辺に水を張った銀盥があるのを目にして」
「あぁ……」
生真面目な顔で探りを入れてくる弟がおかしくて、気を回すのが早すぎた己の失態を暫し忘れる。テーブルの上は二本目のワインが空になろうとしていた。
「フェードラッヘの伝承か?」
「いえ、旅先で聞いたものですが……、兄上、このあと寝所にどなたか招かれるのであれば俺はそろそろ、」
「猫だ」
案の定立ち上がろうとするのを手で制するが、弟は怪訝な顔をする。
「近頃、部屋に出入りするようになった猫がいてな。好きにさせているから、我がおらずとも勝手に入って勝手に寛いでいよう」
「……いやしかし、猫が自分で手足を洗いますか?」
「まあ、洗わぬだろうが、あやつと相応の関係でいるためにはこちらも意思表示が必要でな。よいからこれだけ飲んでゆけ」
残りのワインを注いでやると、ちょうどグラス一杯ぶんになる。
気遣いとの板挟みできまりわるく座りなおした弟の顔がかわいかったので、実際『猫』が手足を洗ったらまじないなど押し負けて盥一杯に泥水ができるだけだろうことは頭の隅に追いやった。