艇に戻ったら猫耳生やしたままのアグロヴァルがいた。ノックに対する返事を待たずに開けた扉を、文句が飛んでくる前に後ろ手で閉める。
船室の壁に造り付けられた机に向かっていたアグロヴァルは何かしら言おうとしたらしい口を閉じ、何事もなかったように手元の書面へ視線を戻した。
元々、艇への滞在はひと晩のみの予定のところへ、ほとんど間髪入れずに書状が追ってくるのだから一国の領主は多忙である。
「この後また街へ降りるのか?」
「いや」
ジークフリートがもう二歩ほど室内へ踏み込んでも相変わらず視線は寄越されないが、歓迎されないだけで追い出す気もないようで返事はちゃんとある。
おかげで、部屋の扉を開けた瞬間に目に入った珍妙な光景の理由を、アグロヴァルに尋ねることができた。
「それならどうしてつけ耳を外さないんだ』
「外れぬからだ」
いかにも大した問題ではない、という風にアグロヴァルは言うが、しかつめらしい顔で書状と向き合っている様と、頭の両脇、ヒューマンの自前の耳より少し上から生えた猫の白い耳の噛み合わなさは少なくとも心配に値る。……堪え性がなければ笑ってしまうかもしれない。
ハロウィンの夜を楽しむためにアグロヴァルが身に着けていたのは、この猫の耳と、同じ色のふわふわと毛足の長い尾と、革型の爪のついた猫の手のグローブだった。団長が用意したもののなかからアグロヴァルが自ら選んだというそれらはなかなかの似合いで、また彼自身が恥ずかしがるでもなく堂々とそれで出歩くものだから街の子どもたちからも猫の王子様などと呼ばれて好評を博し、持ち込んだ菓子の類が早々に品切れとなった後も寄ってきた子どもらに他の団員やサービスのよい商店から多く菓子を徴収……もとい首尾よく集めるコツを入れ知恵してみたりと一夜の家臣を増やしては機嫌よく過ごしているように見えた。よくできているだろうとそこだけ多めに綿の詰められた肉球を頬に圧しつけられた彼の末弟だけがこの世の終わりのような顔をしていたが。
それが、子どもらがくたびれて三々五々家に戻り始める時間になると、夜はこれからとばかりに浮ついた空気に交じるでもなく、団長だけに艇へ戻る旨を告げて戻ってきたのだ。ジークフリートは遅れてその姿を追ってきた。
「外れない、とは?」
「そのままの意味だ。そう大層なものではないが、何かしらまじないがかけてあるようでな。外そうとすると痛む」
そう言ってアグロヴァルがつけ耳の片方を摘んで引っ張ると、やわらかな布の質感そのままに伸びる。髪に留めてあるなら根本の髪ごと持ち上がってもいいはずがそうならない。痛い、というのも本当なのだろう、引く方の手に従って無意識に頭が傾いている。
「不用意だぞ、お前ともあろうものが」
「団長の悪戯であろうと思うてな。なに、一晩程度で魔力も消えるだろうよ。明日に響くでもない」
「さすがの明察だな、うん、実は、お前が早々に帰ってしまったから、悪戯けで機嫌を損ねたんじゃないかと団長が心配していてな、それで様子を見に来たんだが、そういう風でもなさそうだ」
「この程度の児戯で気を悪くするほど狭量ではないわ」
他の殆どの団員もそうであるが、かの星の島を目指す少年を想うとき、アグロヴァルは気が緩む。今も狭量を疑われて少なからず拗ねながら、僅かに気を逸らした。その隙をついてジークフリートは彼に近づき、肩に手を置く。逃げられないよう両肩に、椅子にかけた背後から。アグロヴァルの手の中で、書状がくしゃ、と折れる音がした。何を、と低く唸りかけた声は途中で飲み込まれる。
それらは手を空けられないジークフリートがつけ耳に軽く噛みついたのと同時のことだった。
「ああ、やはりな」
間近から耳へ笑声を吹き込まれたアグロヴァルが身を竦ませる。ジークフリートが食んだのはつけ耳の方だが、咄嗟にアグロヴァルが庇ったのはつけ耳と同じ側にある自分の耳だった。
アグロヴァルが失態に身を震わせるのとは正確には同期せず、つけ耳も緊張して震えている。
つまりは、どういった力が働くものかはわからないが、つけ耳が生体の一部として機能しているのだった。ジークフリートがそのことに気づいた理由も、先ほど部屋に入った際にこの玩具が聞き耳を立てるように動いたように見えたことにほかならない。
「性質の悪い……、やめよ、こら」
しかも受け取る方の感覚がきちんとアグロヴァルに接続されている。噛みついたのと逆の耳の内側へ指を触れた途端、たまりかねた様子のアグロヴァルの手に払い除けられた。彼の耳の後ろから首筋までは見るからに赤らんでおり、口の方は離さないままジークフリートはまた笑って両肩へ手を下ろした。
「どこまで気づいていて受け取ったんだ、こんなもの」
「だから何か呪いがかかっておるようだと……いうことと、団長は気づいていないか、正しくは把握しておらんな、と」
差し出されたいくつかの仮装グッズから選ぶ間に、残りを他の団員にも配るのだと団長が言うのを聞いて、反射的に、かつ怪しまれぬように手に取ったのだ。結果としてただのジョークグッズなら問題がないが、たとえば呪いに対処のできないような幼い団員に渡っては拙いだろうと考えてのことである。
「お人好しめ」
「やかましい。一夜の祭に水を差すのも不粋であろう。実際、子どもらが楽しむ分の時間は我も堪能できた、何も問題はな、い」
言い募るアグロヴァルの語尾がまた跳ねた。つけ耳の根元あたりの髪に鼻先と唇を埋めていたジークフリートが、不意につけ耳の縁を舐め上げたからである。いい加減にせよ、という制止の声を黙殺して続けると、とうとうアグロヴァルが詰めていた息を洩らした。ジークフリートは別に、猫の毛繕いを真似ていたわけではない。猫のように櫛状の突起があるでもない舌ではただ唾液で布が濡れて毛が萎れるだけだ。理由もなく、獣毛を装った綿の毛が時折抜けて舌につく不快をやり過ごす意味もない。
こう執拗にされれば(あるいはされなくともジークフリートが自室に押し入った時点で)アグロヴァルも当然その意図を汲んでいるが、自分の不用意を恥じるところもあり、往生際悪く抵抗を繰り返している。が、そろそろ弓折れ矢尽きたようだった。
「……そも、貴様は何故戻ってきたのだ。子どもらは大方寝静まったとはいえ夜はまだ長いだろうに」
答えの決まっているような問いで白旗をあげ、すでにだいぶ皺が寄っている書状がこれ以上悲惨な目にあわないよう机上に投げ出す。
「それは、もちろんお前に悪戯をしに、だ。弄いがいのある弱点が二つも増えていることだし」
残念ながらこの化け物にお帰りいただくための菓子は配りきってしまってアグロヴァルの手元にないのだった。
翌朝、無事つけ耳は取れ怪しい術の気配も消えたものの、汚してしまったから引き取る、とアグロヴァルが言ったので団長の手にそれらの仮装道具一式が戻ってくることはなかった。