鵲の橋の上甲板を滑っていった雲の向こうに、踊る金の髪を見た。
夜半のことである。
「何をしているんだ?」
艇が風を切る音に紛れて気づかなかったのだろうか。おもむろに手を宙へ伸ばしたアグロヴァルは、そのまま固まってしまった。辛うじて首だけが動いてジークフリートを見る。
「少し酔って風にあたっていただけだ。……抱きつくな、鬱陶しい」
人目がないのをいいことに気まずくそろそろと下ろす腕ごと抱きすくめる。酔ったという体はたしかに常より少し熱を帯びているが、酒になのか船になのかは定かでない。拒否は言葉だけで腕には収まっていてくれる男の視線を真似て空を見る。
「星が掴めそうだ」
「貴様」
「すまん、唇を読んだ」
垣間見えた詩情が思いのほか胸を打って、捕まえておきたくなったのだった。国土を離れ空にある時の男は時折、王や兄と名のつく殻からやわらかい魂だけがまろび出たかのような顔を見せることがある。その様はどうしようもなくジークフリートの追う慕を誘った。
アグロヴァルが人知れずもらした言葉の通り、艇から見上げる空には雲も少なく、一面に星が満ちている。
「星祭りの伝承では雨が降ると天の川が増水して年に一度の逢瀬が叶わなくなるそうだが、こうして雲の上を飛んでいればその心配はないんだろうか」
「益体もないことを」
眼下の島々は今、低い雲に覆われている。途上で乗り込んできた他の団員によれば数日は広く雨が続いているそうだった。異国の説話にならって艇の共用部に飾られていた笹は、次の島で下ろされるべく倉庫に眠っている。
「星の河より高く飛べる艇などなかろうし、雲の上を永劫飛び続けることも我らにはできぬ」
また雲の一群が甲板を滑り、そこにいる人間などお構いなしに通り過ぎていく。まもなく地上に雨を落とす雲はもののついでのようにふたりの髪と肌を濡らしていった。
「潮時だな。我は戻る」
腕の中から抜け出たアグロヴァルは数歩分の距離をあけたところで立ち止まり、ジークフリートを振り返った。濡れて先ほどより重くなった髪は風に流れず、そのほんの少しの距離でも掴み損ねる。
「そも、星祭りの男女が逢瀬を年一度、しかも晴れて橋のかかる時だけと禁じられた理由は恋にかまけて本来の職を疎かにしたからなのであろう」
七夕の夜、幼い団員たちが聞かされた物語をどこかで耳にしたのだろうか。向き直ったアグロヴァルは薄らと笑んでいる。瞼の間で、赤い瞳がそれこそ星のように光を弾いた。
「貴様は天より処罰を受けるほど怠惰だったか?」
あらかじめ否定を含んだ問いを投げるだけ投げてアグロヴァルは踵を返した。歩調は常よりも速く、その背中らあっという間に船室へ続く扉の向こうへ消え、船室に姿のなかったアグロヴァルを探しにきたはずのジークフリートがひとり甲板に残される。
己のことはともかくとして、ジークフリートと交誼を結ぶようになってからのアグロヴァルが己の責務を怠るようになった、などということは当然なかった。むしろ互いに耽溺できるような素朴な関係ならばいくらか簡単だったかもしれない。ゆえに、このことを天から罰せられる謂れはないとアグロヴァルは言外に語るのだ。
濡れた髪から伝った雫を手で拭う。そういえば彼の髪も随分濡れていた。
(新しいタオルを運んだら受け取るだろうか)
そんな口実も不要と受け入れられたようなものだが。
艇の上での逢瀬は別に天罰でなくとも稀である。その時間が得難いものとなるように希って、とうに消えた彼の背を追った。