その日、所用があって艇内のジークフリートの部屋を訪れたパーシヴァルは、作り付けの机上に見慣れない筆記具が置かれているのを目にした。深い青の軸に、天冠とクリップの金が目を惹く万年筆である。クリップには彫金が施されており、遠目にも瀟洒なつくりのそれはそもそも物の少ない船室の中で浮いてさえ見えた。
「ああ、アグロヴァルの……お前の兄上のものだな」
パーシヴァルが気にしていることを見て取ったジークフリートは、あっさりと、だが意外な名前を口に出した。当然の経過としてなぜ兄の物がここにあるのかを問うと、「諸般の事情でウェールズを訪れた際に取り違えて持ってきてしまった」と言う。
パーシヴァルは兄が万年筆を使うところを見たことがなかった。城にあって政務についているならば執務室内に置かれたペンとインクを使うだろうし、視察先で必要になったとしても従者が携えているだろう。兄自らが懐に筆記具を携帯している場面があるとは思えない。それがどういう誤りがあってこの男の手元にやってくるのだろうか。首を傾げるも、肝心のジークフリートはそれ以上このことをつまびらかにするつもりはないようだった。こういうとき、問い詰めたとしてろくな回答がないだろうことは予想がつき、また強いて必要なこととも思えなかったので早々に追及を断念する。
「手入れはしているんだろうな?」
そちらを諦めると、今度は別のことが気になりだした。万年筆は繊細な文具である。まして兄のものであるならば、返す際に青軸に瑕の一つが増えていることすら許しがたい。今は停泊中とはいえ、航行中の揺れる船室内で、こうも無防備に机上に転がされているのだとしたら危険極まりなかった。
せめて抽斗にしまえと手を伸ばしたが、指先が届く目前ですい、と逃げていく。使う機会もないので、誤って持ち込んだことに気づいた際に扱いに詳しい団員を捕まえてインクを抜き、洗って保管していたのだと、キャップを緩めたり締めたりして弄びながらジークフリートは言った。示された抽斗の中には、きちんと筆を固定できる箱が入っていた。幾分不釣り合いに質素なその箱に筆記具がしまわれるのを見届けてようやく安堵する。
「返すあてがないのなら俺が預かっておくか?」
その提案には首を振られた。「お前が近々帰郷する予定があるなら別だが」と余計な一言を添えられる。すでによろず屋づてに誤って私物を持ち出してしまったことへの謝罪の手紙は送っており、急いで返す必要はない旨の返信もあったという。
「それに弟を伝書鳩扱いしたのでは……まあ顔が見られて喜ぶかもしれないが、俺は後で叱られるだろうからな」
何を知ったような口ぶりを、と思わないでもないパーシヴァルだったが、それでも出る幕ではないことは感じ、その話はそこで閉じて自分が部屋を訪れた本来の目的に話を移した。
「何か筆記具を貸してもらえないだろうか」
湯浴みから戻ったアグロヴァルに声をかけると、彼は数度瞬きし、咀嚼するような時間を置いてジークフリートの手元に目をやってから「待て」と言った。多忙だったようだから、眠気がきていたのかもしれない。
ゆっくりと寝台の足元を通って回り込み、ナイトテーブルの抽斗から一本の万年筆を取り出し、やはりゆっくりと寝台を回り込んでジークフリートに差し出した。
「お前もこういうものを使うんだな」
灯の下で深みを増すエナメルの青軸も美しいそれは、キャップトップに徽章の入ったもので問わずとも目の前の領主のためにしつらえられたものであると知れる。
「ここで急ぎの書類を扱っている時に羽根ペンからシーツにインクを落としてな。以来置いている」
存外便利もよくてな、などと言いながら、隣に座ったアグロヴァルは欠伸を噛んでいたが、おもむろにジークフリートが元々握っていたほうの筆を取り上げて小さく溜息をついた。
「インク詰まりか」
「ご明察だ」
借り物の万年筆の蓋を外す前に、頭をかいた。
ジークフリートが帳面とともに持ち歩いていた万年筆は黒軸の質素なものだ。いつだったか訪れた市で店主が熱心に勧めるのに言われるがまま買ってしまったもので、もう随分な長い付き合いになる。が、使う機会が多くないのでこうしてしょっちゅうインクを詰まらせている。
「あまり使わぬというならせめて使ったあとインクを抜いておいてやれ、先が錆びていないのが不思議な有様だぞ」
実はすでに何度か錆つかせていて剣の手入れついでに鍛冶屋で診てもらっているとは言い出しづらい。ジークフリートが特別ずぼらというわけではなく、身の丈に合わない持ち物なのだと感じている。常から構って手をかけてやらねば懐かないものは、ことに今のジークフリートとは相性が悪い。
「それが珍しく何を書いておるのだ」
へそを曲げた筆を憐れむように指先でひと撫でし、側の飾り棚の上へ置いたアグロヴァルが尋ねてくる。話の流れから出たなんの気もない、無防備な問いだったので少々答えるのに気が引けた。が、隠すのも寝床を貸してくれる相手に対して誠実ではないと思い、ジークフリートは口を開いた。
「ここへくる前、この体のことで世話になっている研究者のところへ行ったのでな」
そこまで言えばアグロヴァルは充分に察した。忘れないうちに検査結果を帳面に書き留めていたことを告げずとも、「そうか」と手短に納得して会話を終える。むやみに踏み込んでこない気づかいに少し甘えたくなって、書きかけの数字を急いて継ぎ足し先に寝台へ上ろうとする袖を引き止める。
「見るか?」
アグロヴァルは断りはしなかった。ただ差し出された帳面を受け取ることはせずに、ジークフリートの手首を掴んで帳面ごと自分の前へ引き寄せる。湯上りに使ったのだろう香が近くなり、形の見えない不安を慰めた。
「小康状態といったところか」
ジークフリートが指を挟んだところから数枚、ページをめくったアグロヴァルがぽつりと呟いた。言葉の通りで、その数枚に走り書いた内容にはほとんど大差がない。十人に見せれば(見せるつもりはないが)十人が同じことを言うだろう。だが剣を振るったあとの灼けるような高揚も、これまでは覚えのなかった炎の魔力の気配もまた変わらずあり、それらがいつ、何を己に引き起こすのかはわからないままだ。長さのわからない導火線がじりじりと減っていくのをただ眺めているだけの焦燥は常に裡にあった。
「我に出来ることといえばその漠然とした不安が形を成す前に貴様の息の根を止めることぐらいだがな」
黙考していて初めを聞き逃した言葉を埋めようとしているうち、アグロヴァルの指が帳面と筆とを奪っていく。それは再びは開かれず、先程と同じ飾り棚へ置かれる。こつ、と帳面の背にぶつかったジークフリートの筆が転がる音がした。
「必要か」
戻ってきた手が顎の裏へ伸びる。人のものとも竜のものともわからない血の流れるそこへ触れた指先は今はまだ温かい。が、ジークフリートが応と答え、彼が請け負ったならばそれはたちまちに喉笛を搔き切る氷刃へ姿を変えるだろう。水際の問いを投げかけるアグロヴァルは口元に笑みをはいてすらいた。
「いや」
ジークフリートは首を振り、顎裏の薄い肉を辿っていた指先をつかまえた。
「易々と持ち直しおって……」
「お前が揺らがないのを見ていたらな」
「当然だ、我が貴様のために揺れてやる義理はない」
鼻で笑ったアグロヴァルは、引き寄せられて腰を抱かれ、寝台に転がされても、それほど驚いた様子を見せなかった。目で促されて唇を寄せると、触れたそこは再び笑みの形をつくる。
平素、この類の戯れをけだものめ、と弄う彼だが、本心でそれを獣の行為と思っているわけではない。そうでなければ宥めるように、背を撫でながら「獲物を引き倒しておいて喉笛に来ないなら充分」などと言って笑うまい。
「眠るまで傍にいてくれるか」
「……貴様ここが誰の寝室であるか忘れておるな」
その呆れたような声を聞いてようやく、ジークフリートはその日一日こわばったままだった頬を緩めることができた。
久々に届いた弟からの手紙を仕舞おうと抽斗を開けたところで、アグロヴァルは手を止めた。
無沙汰を詫びる訳でもない弟からの手紙は、どちらかといえば団長やルリアから送られてくる旅先の珍品の添え状のようなものだった。便りなどというものは得てして待つ方は千秋の思いだが寄越す方にとってはしばしば起こす気まぐれによるものである。弟の旅が時の流れを忘れるほどに実りあるものならばそれはそれでよいが、言ったアグロヴァル当人もいつのことだったか忘れたような「旅先の土地のものを消息として送ってほしい」という軽口を依頼と受け取って律儀に大小様々なものを送ってくる団長達の方がよほど情がある。
それはともかく、開けた抽斗の中には私的な書簡の束の上にペーパーウェイトのごとく布張りの簡素な箱が鎮座している。
その中には先頃訪れた男が忘れていった筆記具があった。もともとは剥き身のまま同じ抽斗にしまっていたのだが、気まぐれに侍従を通じて出入りの職人に手入れを依頼したところ、その箱に入って戻ってきた。
万年筆は軸の汚れを落とされややぐらついていたニブを整えられていたが、職人からは侍従越しに「あまりに状態がひどいのでほとんど手が入れられなかった」と詫びと、丁寧なことに取扱説明書がついてきた。他人の預かり物だとまでは伝えなかったので、依頼主であるアグロヴァル自身が粗雑に扱ったのだと思われているとしたら少々腹に据えかねる物がある。本来の持ち主に説明書ごと渡したところでまともに読みはしないのだろうし。
パーシヴァルからの手紙をその下の束にまとめ、一度取り出した箱を開けて中のものを取り出す。手入れに出したのも気まぐれであるなら手に取って眺めるのも使うのもまた気まぐれである。机上の瓶からインクを吸い上げ、反故紙に線を引く。少しの引っかかりを感じながら今度は戯れに己の名を書いた。書きにくい。
長く使った筆は持主の癖がつくという。しかしその歪みはごく僅かなものだというから、ほんの少し文字を並べただけで感じるとしたらそれはもう故障ではないかと思うのだが、ジークフリートの筆跡を真似て書けば不思議と滑らかに紙の上を筆が進むのだった。
筆の進むまま、いくつか数字を書き連ねる。上下こそするもののほぼ同じ線上から離れずにいるそれらの数字が何を意味するものか、アグロヴァルは憶測でしか知らない。真似た字の持ち主はそれを語らず、アグロヴァルも強いて尋ねることをしなかったからだ。
握り込んだ万年筆を眺める。装飾のない筆記具はそれだけでは誰の存在をも語らない。
だからこうしているうちにあの男が何処かの空で横死するなり、あるいは彼自身の不安の通りに理性を持たぬ竜と化したならば、アグロヴァルの手元にはこの誰のものとも知れない筆記具だけが残る。剣の鋒に似た筆先に、僅かばかりその面影を辿るよすがを残して。そして、勝手に持ち去っていったアグロヴァルの持ち物は、団長なり弟なりを通して還ってくるのだ。準備のいい男のことだ、そのくらいの手はずはとうに整えていることだろう。
ポタリとひとしずく、インクが落ちて染みを作る。吸わせすぎたつもりもないのにこの程度で垂れるあたり手がかかりすぎる。
反故紙の上でよかったとアグロヴァルは溜息を一つついた。
乾くこともできずにじわじわと紙の上に滲んでゆく小さな水溜りを戯れにかきまぜる。そこから早く取りに来い、と書きかけて、やめて筆をおいた。