手水鉢の金魚ngro Ver.ここは外界から切り離された丸くて小さな世界。
硝子製の器を満たす冷たい水が心地いい。
ふわふわ揺れる水草にくっついた酸素の粒を、自慢の尾びれでぱちんと弾く。水面へと上るそれを目で追う自分は、世にも珍しい白の琉金。
金魚はぼーっとしているだけで「きれい」「かわいい」と褒めて貰えて餌も貰える観賞魚。
黒和金やらんちゅうと同じ金魚鉢で飼われたこともあるけれど、彼らとは気が合わなかった。きままに泳いでいるだけでいいのに小競り合いばかりするんだ。平穏な暮らしが俺の好み。なにも考えたくないや。
あー、暇だ。
平穏安楽な暮らしが好きだとは言った。でもたまに話し相手が欲しくなるときがある。そんなある日、人の姿に化けて飼い主にせびった。
ささくれた古めかしい畳の上に猫が背伸びをするようにごろんと寝転がり、「俺と同じ琉金を連れてきてよ」と話してみた。飼い主は大層驚いた様子で、空の金魚鉢と俺を交互に見て、皺が寄った目を擦った。彼にこの姿を晒すのは初めてだった。
「俺と喧嘩しない子がいいな」
「あ、ああ……」
「色も綺麗なやつ」
「知り合いに話をしてみる……」
齢八十のじいさん飼い主は最近は床に伏せってばかりで元気がなく、会話も減っていた。ちょっとさみしい。そして残念なことに、待てども待てども"相棒"は現れなかった。
家に町医者が頻繁に出入りし始め、飼い主の体調が悪いということを知った。
まもなくして彼はこの世を去った。どうも老衰らしい。色んな飼い主と会ってきたが誰もが俺より先に死ぬ。人には寿命があるから仕方ない。
痩せ細った腕を最期まで撫でさすっていたのは俺。血の繋がりもなければそこまで情もなかった、観賞魚。
「ああ、逝っちゃった」
またひとりになってしまった。
お腹空いたな。人に化けると体力が削られる。
めんどくさいけど次の飼い主を探さなければ。
変化を解いて金魚鉢の中へ戻ったとき、玄関の扉が開く音がした。どたどたとうるさい足音。この気配は飼い主の息子だ。俺は息子の荒っぽい性格が苦手だから金魚の姿でやり過ごす。
息子は父親の遺体と対面してなにやらぶつぶつ独り言をいう。耳をすませると不穏な言葉が聞こえてきた。
「親父が死んだのは、おかしな金魚を飼い始めたせいだ……。あの疫病神め……!」
あ、これまずいかも。
肉親の死は正常な思考を狂わせることもあるが、あいつは元から正常ではない。畳をけだててこちらへ向かってくる。荒れた畳は息子の歩き癖が悪いせい。あの穏やかな性格の父親からどうしてこんな奴が産まれてくるんだ。
息子は大きな手で金魚鉢の縁を掴むと、中の水を廊下の床板へ流した。当然、俺も重力に従って強制的に外の世界へ引っ張り出される。この姿で放置されても死にはしないが苦しいことには変わりない。
「……ただで済むと思うなよ」
それはこっちの台詞。
どうしてやろうかな。
ぴちぴち跳ねて見せているのは俺がただの金魚だと思わせるため。息子に害を与えるつもりはなかったけど、こんなことをされてしまったら黙っていられない。もう一度人の姿に化けて捻ってやろう。
その時、かんかんと戸を叩く乾いた音がして空気がさっと冷えた。
「誰だこんなときに!」
"人ではない何か"の気配。霊感を持たない息子は家全体を包む異常に気づかず、イライラしながら玄関へと歩いていく。俺は床で跳ねるのをやめ、ことの成り行きをじっと見守ることにした。
引き戸を開けると、そこには紫髪の長身の男が立っていた。髪と同じ色の大きな目が印象的。身につけている着物はかなり上質なもの。
俺はそれを目にして「あっ」と思った。気づいてしまった。
息子が男の威圧感に押されてたじろぐ。
「誰だ、てめぇ……」
「品性の欠片もねぇな。うぜぇからすっこんでろ」
紫の両眼に睨まれた息子は白目を剥き泡を吹いて倒れた。最期に苦し紛れに何かを口走っていたけどよく聞き取れなかった。
じいさん飼い主、やっと天国で穏やかに過ごせるようになったのに、クソ息子もすぐにあとを追うことになっちゃった。ごめん。
ぴちゃん、床板に広がった水を踏みながら男が近づいてくる。足袋が濡れるのも構わずに。
しゃがんでこちらを見下ろす目はとても優しくて。身も心も蕩けてしまいそう。初めての感覚だった。
「妖気が足りねぇなら分けてやるよ。じいさん相手じゃ吸えるもんも吸えなかったか」
男の手でそっと掬いあげられて、吐息が感じられるくらいの距離でまじまじと観察される。今の俺の色、くすんでいるからあんまり見ないで。
鱗に口付けられるとみるみるうちに活力が湧いてきた。
……唇、柔らかい。
命を救ってくれたのは綺麗な紫の琉金だった。俺が欲しかった、会いたかった色。
こんなに美しい雄の琉金が俺の相棒?
嬉しいや。
欲しがっていた琉金は飼い主が手配してくれていたが、体調悪化により家に迎え入れることが困難になったそうだ。代わりに息子に頼んだけれど、あの息子はそれを拒否してひとりで家に帰ってしまった。紫の子、玲王は息子の荒れた様子が気になって、人に化けてあとをつけてきたらしい。
会えてよかった。
温かくて居心地のいい手からするりと抜け出し、再び人の姿へと化けて、正面から玲王にぎゅっと抱きついた。着物からは品のいいお香のにおい。後頭部の高い位置で髪を結っているから首のうしろに後れ毛がある。思わず触りたくなるような柔らかそうな髪。噛みつきたくなる陶器のような肌。鼓膜を揺らす声。俺だけの。俺だけの。
「同類に会えて嬉しいか?」
「うん」
本当は、同類かどうかっていうより、玲王だから嬉しかったんだ。
「次は俺が護るから」
会ったその日に俺たちは"番"となった。
「ずっと一緒いて」