クリスマスソングも弾かないで 街がイルミネーションに彩られている。
地上26階から見下ろすと、ひかりのつぶてを纏う木々はまるで海の底に沈んだ流れ星のようにみえた。いつもより思考がロマンティックになっているのは場の空気に酔っているからだ。首筋に細く湿った吐息がかかる。煙草と石鹸と匋平の香水のかおり。はだけたバスローブのした、膚を撫でる手つきはやさしかった。
これまでクリスマスというものに特別な思い入れをもったことはなかった。年に何度かある掻き入れ時のうちのひとつで、年の瀬も近いから人々が浮足立って賑やかしい、その空気感が心地いい。依織にとってクリスマスとはながらくそういうイベントだ。
もちろん楽しみもあって、弟たちとパーティもすれば、プレゼントを贈り贈られすることもある。先代翠石が存命だったころも同様で、ど派手な宴会(あれはパーティと形容できるものではない)が行われ、大量の酒がふるまわれたあげく、泥酔した組員たちによるビンゴ大会などが催されていた。若いころの依織はどちらかというと会の裏方に回ることが多く、宴もたけなわのころには邸のキッチンなどで一服するのが常だった。そういうときに決まって親父がひょっこりと顔を出し、「袖の下っちゅーやつや」などと冗談を言いながら贈り物をしてくれたのを覚えている。いつまでもガキじゃねぇんだと嫌がる依織の心情を思いやってかプレゼントとは言われたことはなかったが、あれは間違いなく親父からのクリスマスプレゼントだった。だから依織にとってクリスマスとは家族のためのイベントだ。
匋平にとってはどうだろう。
たぶんかれは「仕事」と答えるに違いない。恋人たちのクリスマスの締めくくりに、あの落ち着いた雰囲気のバーはうってつけだ。依織のほうも似たようなもので、派手に飲み明かしたい人間でクラブは毎年盛況だった。しかもクリスマスが終わればあとには年末が控えている。師走の終盤は店の準備から片付けまで通常よりも業務量は多くなり、人手も足りなければ余裕もない。そういう事情で、この時期には自身の恋愛事情など二の次になってしまう。しかたがない。そういうものだ。
なのに、いま依織はクリスマスに浮かれる街を恋仲の男とともに眺めているのだ。シティホテルのジュニアスイートの窓辺から。
不思議なこともあったものだ。思わず咽喉を震わせると、首筋をたどっていた唇が吐息の声量で依織の名を呼んだ。顔だけふりかえり、もの問いたげな目に笑いかけてやってから相手の唇をふさぐ。軽く合わせるだけだったキスが徐々に深くなり、離れなくなって、依織はいつのまにかベッドに身体を預けている自分を自覚する。アルコールのせいだけではない酩酊感に身を委ね、身体を這いまわる匋平の肉体のあたたかさをたのしむ。
少し早い時期なら時間が取れる、会わないかと言ったのはめずらしくも匋平のほうからだった。
はじめは本気にしなかった依織だが、匋平の真剣な調子を見るうちになんだか話を躱し続ける自分のほうが悪いことをしているような気になり、了承せざるを得なくなった。別に会うのはいい。食事も酒を飲むのも構わない。セックスだって歓迎だ。依織が渋った理由は匋平が口にしたプランがあまりにもそれらし過ぎたからだ。いまさら恋人らしい夜を過ごすような仲か? そういう依織の内心を知ってか知らずか、匋平は絵にかいたような恋人のクリスマスの夜をやろうというのだった。
そして今日。匋平の顔なじみだという創作料理のレストランですこし早めの夕食を摂り、ホテルのバーで二三杯ひっかけてから早々に部屋に籠ることになった。依織にとってはこれがメインだったが、匋平にとってはどうなのだろう。
匋平がとった部屋は首都の夜景が見渡せる眺めのいい角部屋で、風呂はジャグジーという豪華さだった。ここに至っても居心地の悪さが抜けきらない依織は豪勢な部屋の様子に妙にハイテンションになってしまい、ジャグジーとアメニティのバブルバスの袋をさして「旦那一緒に入ろうや!」と言い、匋平はそれにノーを返す男でもないので三十分後には大の男がふたりして爆笑しながら泡まみれになり、ひとつの風呂に入っているという奇観を目にするに至って冷静になった。二十八の男がジュニアスイートの部屋とってまでやることか。修学旅行の男子高生じゃねぇんだぞ。そうは思ったが楽しかったのは本心である。
ちなみに若衆時代のようにゲタゲタと大笑いしたあとでセックスなどできるのかという疑問は杞憂に終わった。匋平にはこと雰囲気をつくる天賦の才がある。結局、依織が自分を取り戻した一瞬を見逃さずに匋平が依織の唇を奪った。それが合図で、そこからは匋平のペースに任せればなにも問題はおこらない。先ほどまで笑いの種になっていた浴槽にたまった泡が、互いの肌を愛撫する手段に変わる。ふたりのあいだで交わされる水音が濃厚になり、深くなっていく。遊びの性質が変わった、と依織は思った。方向性が変わっただけで、これが遊びであることには変わりがない。だから依織は存分に匋平の愛撫をたのしんだ。その日依織が最初の絶頂を迎えたのは、泡も消えてしまったジャグジーのなかでのことである。
何度目かを終えたころにはすっかり夜も更けていた。
「雪降ったらええのにな」
シーツに身を横たえながら依織がこぼすように言った。ひとりごとの調子で告げられたそれに、隣で煙草を吸っていた匋平が視線を返してくる。疑問を投げかける視線。
「ほらよう言うやん、ホワイトクリスマスっちゅーやつ。まあ、さすがにこの気温じゃ雪にはならんやろうけど」
「……見てえのか?」
「実際降ったら難儀するやろなぁ」
確信を避けるような物言いだと自分でも思った。自覚ができるくらいだからたぶん匋平にも伝わっているだろう。こうして依織が逃げたがるとき、基本的には匋平はなにも言わない。詮索もしない。その空気が心地いいからこうしてまた甘えてしまう。深みにはまっていると思う。
案の定、匋平は特になにを言うでもなく煙草のけむりを吐き出した。
一瞬視界が白くけぶり、匋平の吸うたばこの濃い香りが鼻腔を満たす。俺にも一本くれと言おうとしたところで、額に唇が押し付けられた。髪を撫でるやさしい手つき。
その瞬間、ベッドのうえを雨の気配が通り過ぎた。
「依織、」
笑いを含んだ匋平の声が耳のすぐそばで聞こえて、すぐに気配が遠ざかる。なぜかベッドを抜け出した匋平が裸のままカーテンの閉まった窓辺に近寄った。
「旦那?」
「見てみろよ」
言って、カーテンを引く。ガラスごしに広がるのはなんの変哲もない、ただの都会の夜だ。角度からして見えるのは薄く雲が伸びた空しかない。
わけも分からず身体を起こした依織の目に、しかしそれは徐々にはっきりと見えてくる。
紺碧を背景にしてひらひらと舞い散る白いなにか。
「雪?」
ありえない。今日は朝から晩まで快晴のはずで、雨の予報などでてはいなかった。
そこでふと、先ほどよぎった雨の気配を思い出す。
依織の目が窓からベッドに戻る。さきほどまで匋平が寝ていた場所に転がった煙草や灰皿、そして燻された銀色のシガーホルダー。匋平のファントメタルだ。
ファントメタルで幻影を作り出す際、使用者によって固有のイメージが展開することがある。多くはその人物の心象風景だ。メタルは人の精神に強く作用する。そのためだろう。
そして依織は知っていた。匋平が幻影を展開するとき、雨のイメージがうかぶことを。先ほど感じた雨の気配は匋平がメタルを使ったことによって生み出された幻影の兆しだったのだ。
ベッドに戻ってきた匋平が依織の背後から腕を回してくる。すこし冷えた身体が触れて、依織の体温が匋平に移っていく。
「メタルか?」
「いいだろ別に、このくらい」
雪が映るのはこの窓だけだから、と匋平が言う。いたずらの言い訳をするこどものような言い草に、思わず笑いが零れる。ライブ以外でのメタルの使用はたしかにあまり褒められたことではない。トラップ反応のこともある。だが効果範囲がその程度ならばいたずらにしてもかわいいものだろう。
ファントメタルの使用法についてはこれといったマニュアルのようなものはない。その効果は使用者の想像力に拠るところが大きいからだ。逆を言えば技量のある使用者がいれば、その使い方は千変万化する。窓一面だけに効果範囲を指定して幻影をうつしだすことも可能というわけだ。
星の見えない夜空を背景にまぼろしの雪が舞う。
積もることも融けることもないまぼろしの雪が。
雪がみたいと言ったのは、このごっこ遊びにもうすこし浸っていたいと思ったからだった。柄にもなく恋人らしい一日をすごした。居酒屋ではなくレストランで食事をして、普段なら泊まらない高価な部屋で眠る。そんな非日常の最後を彩るものがあればいいと思った。依織が雪が降ればいいと言ったのはそういう理由からだ。
だからほんとうは雪でなくても構わなかったのだ。ただこの夜があたりまえに特別であることを憶えていられるなにかであれば、雪でなくても、なんでも。
「これいつまで続くん?」
ベッドに横たわりながら依織は変わらず窓の外を見ている。
本物よりもずっとはかない、鑑賞されることだけを目的にしたまぼろしが散る。愚かしいことのような気がした。ただこの窓を画面にして降るそれはものの数秒で命をうしなう。依織が脳裏にえがく景色にはけっしてなれないのだ。それでも依織は目を離さなかった。これは依織のための光景だったから。依織のためだけに用意されたものだったから。
「おまえが眠るまで、」
背中から匋平の声がする。
「ハハ、もったいのうて寝られへんようになってまうやん」
そう笑った依織の身体越し、匋平もまた低く笑う振動が伝わる。
依織が眠ったあと、匋平は悪夢にうなされたりはしないだろうか。鈍い頭痛や、身体を襲う不快に苦しみはしないだろうか。その厭わしさを知っているからこそ、匋平の愚昧を責めたいような気持にもなる。戯れのことばひとつをいちいち真面に受け止める必要などないのだ。
けれどそれが神林匋平という男だった。そうして、かれが当然の顔をして差し出してくるやさしさは、取り違えようもなく自分のためのものなのだということを依織はようやく理解し始めている。
「ほーんま、ええ男になってもうたな、旦那」
依織は言った。雪はいまも静かに降り続いている。