鬼子母神 ミスタの薄い腹のあたりに耳を寄せる。きゅう、くる、くう、きゅる。内臓の脈動、生命の駆動音。ミスタはベッドに入るとき服を着ないので、その薄い皮や肉、細い骨の奥でほとんど直にそれを感じる。
目を閉じている彼が死んでいるのではなく、ただ健やかに眠っているだけだという証。……人間というのは、死んでもすぐ様相が変わらないから、ヴォックスは毎朝眠るミスタを見ては胃の底を冷やしているのだ。誰にも言っていないし、この先言うつもりもないけれど。
目を伏せ、そのまま頭を滑らせて心臓の上に横たえる。規則正しく刻まれる鼓動は起きているときよりだいぶスローペースではあるものの、それでもヴォックスのものよりずっと速い。 同じ血の色をしていて、似たような皮を被っていて、彼と自分のそれが同じ形をしていても、同じ時を刻むことは決して無い。ミスタはどうしたってヴォックスを置いてゆくし、ヴォックスはどうしたってミスタから過ぎ去ってゆく。
人間になりたい……。
同じ速さで老いて、同じ土の下に埋まりたい。
ヴォックスは時たまフッとそう考えては、叶わない望みに真剣に手を伸ばす自分がおかしくってクツクツ笑うのだが、今日は違った。疲れていたのかもしれない。もう日が天辺に差し掛かろうという空が珍しく晴れていて、アテられてしまったのかもしれない。
白い腹に手のひらをぺったりつけて、ゆるゆる撫でる。…………。人間の条件とはなん だろうか。ひとの胎から生まれたならば、それは人間だろうか。 十月十日を過ぎても母の胎にいた鬼子というのもあったが。
────ア、ミスタの胎に還りたい。
……しかし、渇望する柔らかなゆりかごはもちろんミスタには無い。そもヴォックスは胎の中の生ぬるい安寧を知らないので、母胎回帰願望というと少しズレているが、彼は今確かにそう思ったのだ。鳴呼、懐かしきかな麗し曼荼羅の胎!
あたたかい血と肉の中、羊水の中、螺旋の記憶の始まりの場所。そこを巡って生まれ落ちたら、俺は人間になれるだろうか。生きて老いて死んでゆけるだろうか。
「あああ……」
ミスタに胎が無くてよかった。その温もりを静けさを、注がれるであろう愛を、この先誰も知ることはないのだ。よかった。このおぞましい化け物を、この子が産み落とすことは、無いのだ。よかった。
何も知らない平穏なミスタは何事かむにゃむにゃ唇を動かして寝返りをうつ。 背中に浮かぶ肩甲骨の淡い陰影を無意識に指でなぞった。 これを人間が天使だったときの名残だと言ったのは誰だったのだろう。
ミスタ、鳴呼。 ミスタ。狂おしいほどに愛おしい、可哀想な、可愛そうなミスタ!愛している。愛している愛している。
無粋な神とやらがお前の翼を腕がなければ、お前はもっと自由に、美しく生きられただろうに。悪魔に絡めとられずに済んだろうに。
俺もお前も地獄ゆきだ。でも、もし、 他に行き先を選べるのなら、
「お前の胎がいいなあ」
ポツリとこぼれ落ちたその言葉を、きっとミスタは聞いていない。