雪の話 通年温暖な気候の璃月に珍しく、随分と冷えた風が吹く夜だった。湿り気のある海風が冷気を纏って吹けば、鼻腔にやけにまとわりついて人々の鼻を赤くして回った。けれどその海風は冷たさに似合わず実に穏やかで、雲は流れていかず街を覆い続けている。月も雲に隠れ、今夜は見えない。深くなる夜の色は透明感のある墨を思わせ、その淡墨の中で街の明かりが輪郭をぼかしながら煌々と輝いていた。
「外はそんなに冷えていたか」
鍾離は魈の纏っている冷気を浴びてそう言った。それから露出した肩に手を置く。そこに置かれた手は温かく、自分の体は冷えているのだと魈は認識した。
「岩のように冷たい」
「鍾離様の手は温かいです」
「いつもは逆であるのに、珍しいこともある」
鍾離は愉快そうに笑った。魈も釣られて頬を緩ませる。
相手の温度を感じることで自分の温度を知る。
同じ温度になるようにいつもより少し寄り添って眠る。
目覚めると街は一層に冷え込んでおり、外と内を隔てる戸の隙間から鉛ではない銀を思わせる澄んだ空気が入ってきていた。
身支度を軽く済ませ、その戸を開けて外に出る。
「珍しい、雪が降っている。まさかこの時代にこの港で雪を見ることになろうとは」
鍾離は空を見上げながらそう零す。
「確かにここ璃月港で数百年は雪を見たことがありません」
魈は鍾離を見上げながら応える。魈のその言葉に軽く頷きながら、鍾離はまた口を開く。
「積もることはないだろうが、皆この寒さには堪えるだろうな」
くすんで映る街並みを二人は眺めた。舞うように降っては、僅かな風で流されていく雪をどこか目で追う。吐く息は白い。やはり海風で湿り気のある空気は撫でるようでもあるが、油断をすれば時折刺すように皮膚を刺激する。
その皮膚を刺すような刺激がとても古い記憶につながる。
「積もれば……食えます……」
思い出された情景と、口から出た言葉は同じ場面のものではなかった。頭と体が分離したように別々に動く。
「しかし、もうこの土地に積もるような雪は降らないだろう」
魈の呟きにそう添うように言葉を零し、鍾離はその体を自分の方へ引き寄せた。魈ははっとして鍾離を見上げる。
「雪を食べる為に雪山にでも行った方が良いか?」
その魈の視線を受けて、更に言葉を投げる。
「そ、そのようなことは……」
しかしその目の色を見てすぐにからかわれたのだと分かった魈はそれ以上言わず、口を閉じた。その様子にまた満足しながら、鍾離を今度は頭を撫でる。
「この寒さだ。街へ温かいものでも食べに出掛けないか」
「街にですか」
寒さで強張らない魈の体が、その言葉で分かり易く強張った。
「けれど、その……」
魈は自分自身がまた無用な言葉を積み重ねようとしていることに気付き、一度そこで言葉を止めた。仕切り直して静かに息を吐いて吸うとまた口を開く。
「我は鍾離様のように作法を知りません。貴方に恥をかかせることになります」
恥を忍んで正直に吐露する。
「お前が考えている程に難しいことはない。しかし、気になるのなら俺の傍に隠れていると良い」
その想像は内心鍾離を喜ばせた。
「そもそも……街中でどのような心持ちで鍾離様のお傍に居れば良いのか、分からないのですが」
街中で従者然として傍にいれるのなら気が楽だった。従者であれば物言わずに気配を消して傍にいても何ら違和感もない。しかし凡人として過ごしている鍾離に従者の必要はない。それが分かっているので、魈は正直に問うことにした。
街にはもう二人を二人として知るものは仙人以外には恐らくもう居なかった。
「確かにそれは難しい」
鍾離は思わず鼻から息を吐くように笑った。
「……たとえば」
鍾離が僅かな間を取った後、そう続ける。
「人の親は自分の子に名前を与える。俺はお前に名を与えた。いわば、親子のようなものであるとも言えるだろう」
肩を抱かれるように身を寄せていた魈が大きく身を捩らせて体の正面を鍾離に向け、首を伸ばして見上げた。
「ご冗談が過ぎます。そのようなこと、鍾離様にとって不名誉です」
「俺がお前に名を与えてから、不名誉なことが一度として起こったか」
そう問うようしながらも言い切られ、そして強くその目で見つめられれば魈はぐっと息を詰まらせるように沈黙する他はなかった。その様子に鍾離は目を細める。
「しかし親子というのは……悪い言葉ではないが、不自由な言葉だ」
まだ見上げたままの魈の前髪を後ろへ流しながらぼやいた。雛鳥のように思いながらも、それは庇護の情が大きく占めるものではない。鍾離は髪を撫でた手で肩も撫でる。
「すっかり冷えてしまっているな。一先ず中に入ろう」
「はい」
魈は頷いた。
「食事をしながら親子に変わる言葉を考えよう。良い案だろう?」
中に入りながらそう鍾離が言い、それを受けた魈は何かを言いたげに口を開けては閉めたが、結局はどの言葉も音にはならず、また頷くことしかできなかった。
「それまでは不本意だが」
鍾離は曲げた人差し指を唇に当てるようにしながら、頬を緩める。
「愛する名誉な子として傍に隠そう。そして子ならば、手を引いて歩いてもおかしくはない」
その不本意さに鍾離はとてもよく笑って、魈は気恥ずかしく顔を伏せる。
「我は幼子では……」
そして気が早くもそれを想像し、それは二度目だろうか、三度目だろうかと考えた。
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