薄すぎて伝わらない小話③【二人しか知らない】「素敵な彼氏さんですね」
軽やかな笑い声と共に、そっと耳打ちをする。そして志保が答える間もなく、にこやかにサテン生地のブラウスを差し出された。滑らかな肌触りと洗練された色使い。
これは先ほどまでショーウインドウに飾られていたものだ。思わず目に止まったものの、彼女はこのまま通り過ぎようとしていた。だが、隣の男も彼女と同じく、一目見て気に入ったらしい。
――かわいいね、きっと志保さんに似合うよ、と彼女の手を引いた。志保の戸惑いを見透かしたように、とにかく一度着てみればいいと背中を押す。
志保には少々敷居の高いハイブランドのショップだったが、臆することなく物を見せてくれと言う彼の隣で、志保は必死に背筋を伸ばす。年上の、これまた相当ハイスペックな恋人を持つと、そんなの柄じゃないとわかっているのに、いつの間にか背伸びしてしまう。恋とはかくも恐ろしい。
応対してくれた女性店員は二人の希望を察して、伝えてもいないのに志保にぴったりのサイズを持ってくる。ついでに似たような他のデザインも一緒に。是非こちらに、という言葉で試着室に連れていかれる。それを満足げに見守る恋人。居心地が悪くなりながら志保が中に入ると、店員はにこりと笑って、彼に聞こえないように冒頭の台詞を言った。
試着室の中で、そっと襟元のボタンに手をかける。ドアの向こうで、彼が店員となにやら談笑している声が聞こえる。何を話しているのか気になったけど聞こえるはずもない。接客とは言え、変にそわそわしてしまう。考えすぎだとはわかっている。鏡に写る自分と目が合った。
キャミソールの胸元からちらりと見えた痕に、ひゃっ、と思わず声が漏れて、慌てて口を押さえる。
「志保さん、どうしたの? 着れた?」
気配に機敏な彼が声を掛けてくる。
「いいえ、まだよ」
この地獄耳と心の中で悪態を吐き、できるだけ平然とした声で答える。まさか本当のことを言えるわけもない。いつこんなものを。いや、もちろん心当たりはある。でも昨夜もいつものようにとろとろに溶かされてしまったから、はっきり言ってよく覚えていない。さすがに外から見える位置は避けてくれているらしいが、下着をめくってみると、鏡に写るそれはひとつふたつどころの騒ぎではなかった。遠い意識の中、余裕のない顔で彼女を見下ろした彼の顔が脳裏に甦ってくる。
いつの間にか顔だけでなく身体まで熱くなってきて、志保は大きく頭を振った。自分はまっ昼間からいったい何を考えているのだろう。
「うん、やっぱり似合うね」
試着室のドアを開けた途端に、降谷の表情は自慢げに輝く。自分の見立ては最高だと思っているのか、どうなのか。だけれど、彼のその表情に嘘がないことを志保は知っている。おずおずと襟元に触れながら、そうかしら、と可愛げ無く返す。本当は、満更でもない、けれど。
「これ、ください」
「え、あ、ちょっと…」
「ありがとうございます。他にも何かご覧になられますか」
「じゃあせっかくだからこれに似合う下を何か見繕ってくれますか」
店員はわかりましたと頷いて、服を見繕いに行く。彼が振り返り、試着室の中で立ち尽くす志保ににこりと笑いかける。
「かわいいよ、すごくよく似合ってる」
先ほどの言葉を繰り返して、彼は一歩前に出る。そして声をぐんと落として、彼女にそっと囁いた。
「外から見えなくて助かったな」
「……………は、」
はぁ? と志保が目を丸くすると、降谷は悪ガキのような顔をした。
「これで怒られずに済む」
ぺろ、と舌を出して、笑う。志保が言い返そうとしたとき、ちょうど店員が何枚かスカートを持って戻ってきた。
付けた本人だから、当たり前といえば当たり前だが。志保が試着室で声を上げた理由も、おそらく見当がついていたのだろう。外から見えないからって何でも許されるわけじゃない。だけど、いつも彼女は彼を怒ることができない。この男が所有の痕を残したがるのは自分だけなのだと思い、もじもじと甘い感情に浸ってしまう。
何やら志保のコーディネートについて賑やかに盛り上がっている彼と店員の会話を遠目で眺めながら、――私も、あの人の『素敵な彼女』に見えていますようにと願った。