【天色】 夕立 朝は澄んだ空に水平線には入道雲まで添える上天気だったのに、あれよあれよという間に山間から黒雲が湧き立つ。冷たい突風がひと吹きすれば、バケツをひっくり返したような豪雨が校舎を覆い、すっかり雨に閉じ込められたようだ。さっさと寮に帰りたいけれど、僅かな距離でもパンツの中までびしょ濡れになるのは目に見えている。
まあいいか、帰ってすぐシャワー浴びて、洗濯機回そう。
そう思い直して、昇降口で上履きを仕舞って大きくひと息付いたところで、背後からどすんっと大きな塊に伸し掛かられた。
「悟」
こんなことをするのは、ひとりしかいない。
少ない同級生のひとりにして、生意気なクソガキから昇格というよりは、そこに新たに友だちという肩書が追加された、長身のお坊ちゃんだ。
「傑、帰る」
「嫌だけど、まあ、びしょ濡れになるさ」
「水も滴るイイ男って言うんだろ」
「自分では言わないけどね、そーいうこと」
「俺よりは劣るけど、そこそこ好い男の分類だろ、タラシくん」
こんなにきれいな顔も、若干細すぎるとは言え、バランスのいい体つきも見たことはなく、君以上に好い男なんて、そうそういないだろ、と溜息をついて返した。
「えっ、なに、褒めてくれるの、珍しくない?」
浮かれた様子に、綺麗なだけじゃなく、かわいいも追加されるのかと思って、思ったことに戸惑う。こんなデカくて生意気な男とかわいいは、結びつかないだろ。そう自問自答したとて、ここ最近ふとした瞬間に、かわいいが顔を覗かせるのは自覚している。
「普通に褒めてるだろ」
「そう? 傑、あんまり褒めないじゃん」
小学生のような物言いでも、ご機嫌なままで、褒められて伸びるタイプかな、なんて、それすらも微笑ましくて、普段つんとすました姿と、他愛もないことで喧嘩をして夜蛾先生に怒られる姿とのギャップに、気が付くと口元が緩んでいるのは、何なんだろう。
「じゃあ、今度から、わかりやすく盛大に褒めてあげるよ」
「ふ~ん。それじゃ褒めてくれたお礼に傘になってやるよ」
「傘って、悟が持ってるってコト」
意味がわからずにきょとんとした顔になっているのだろうが、既に何度となく悟相手に晒している間抜け面だ。恥ずかしかったのは始めの数回で、今はすっかり慣れた。慣れたけれど、かっこいいと言ってくれるなら、常にそう思われていたい。
「違うって。まあいいから、外に出ればわかるって」
得意満面で告げる姿は、曇天模様の上にいるお日さまのようで、ただ綺麗なだけでなく、眩しいぐらいに惹き付けられる。頓にそう感じられるのは、なんだろう。
先に立って歩き始めた悟が軒下で半身を捻って振り返る。驟雨を背後に背負っても、薄暗い校内に比べれば随分明るい。光の中に立つようにして、差し伸べた手と、喜色を浮かべたその顔に、とくんっと心が跳ねた。
綺麗だ。
「傑」
「なに」
上擦った掠れた声に、頬に熱が集まるのが感じられる。
「手、貸して」
「んっ、どーいうこと」
「手、つないで」
差し出した手は私の胸元に向かって伸ばされる。鈴の音のような悟の声が、激しい雨音にあっても、耳の奥まで、胸の奥まで違うことなく届く。
ゆるゆると手を重ね合わせると、きゅっと力を込めて握られた。
「今まで無下限張って、自分から人に触れることなんて、殆どなかったから新鮮。なんか、いいな、手を繋ぐのも」
ああ、そうか。
悟は、今まで殆ど、ひとの体温なんて触れずに、知らずに、生きてきたのか。
とくんと跳ねた心臓が、とくとくと勢いを増して動き始める。雨音のかわりに心音が絶え間なく降り注ぐ。
「せーのっ! で外出るからな。ぜったい、手、離すなよっ」
並んでと促されて横に立つと、それじゃあ、と耳元で内緒話をするように悟に声を掛けた。悪だくみをするノリのつもりが、耳元で囁くようになってしまい、自分で仕掛けたのに、妙に気恥ずかしくなってくる。顎を引いてすぐ横は見られなくて、真正面を向いたまま、指を絡めて手を繋ぎ直した。ぴくりっと驚いたように指先も肩も微かに揺れた。重なり合った指先も、頬も熱くて、でも、振り解けなくて、一層力を込めた。
「準備はいいよ」
「それじゃ。せーのっ!」
弾むような掛け声で、二人三脚のように足を雨の中に出す。
「えっっ。悟っっ――。なんでっっ」
体に当たるはずの雨水は、膜を張ったように弾かれて、私までは届かない。目を見開いてすぐ横を振りむけば、大輪の花が綻ぶように、満開の笑顔を浮かべた悟がいた。
「すごいだろっっ」
「すごいっっ! すごいっ」
語彙がなくなるとはこのことだ。天空を仰ぎ見れば、透明な膜を纏ったように雨粒を、弾いて、飛んで、零れて、煌めく滴が幾重にも重なり、きらきらとスターダストのように輝き続けている。
「今まで、やったことなかったけど」
強い雨音の中にあって、誇らしげな悟の声だけは、確かに届く。もう一度高揚した表情のまま顔をあわせた。にかっと歯を見せて笑った顔が可愛くて、見惚れそうになりながら、告げられた言葉は。
「おまえは特別だから」
えっっ。
一瞬にして上がった体温に染まる顔色は、はにかみながら朱色に染まった悟と同じだ。