※いなくなる話
来主がボレアリオスミールに還った。命の循環を、自分たちの根っこに教える為に。重い身体を引き摺りアバドンを降りる。器からこんなにも離れたくなったのはいつ以来だろうか。苦戦はしなかったというのに、ところどころに目立つ擦過傷をみるに、自覚するより動揺していたらしい。以前から「僕もいつかミールに還る」と言い聞かされていたというのに、とうとう彼の最期まで、別れの言葉が浮かばなかった。
「甲洋くん。まだ、整理がつかないと思うけれど、渡しておくわ。私も、次はいつあなたに会えるかわからないから」
泣き腫らした羽佐間先生から渡された真っ白の封筒は、どこにも記名されていない。宛先も、差出人も主張しないそれの主の見当は、つくけれど。
咄嗟に声を出せない。肉体が心に引き摺られるように疲れ果てている。誰からですかと訊ねたくて、薄い封筒と彼女の顔を交互に眺めると、いとしいものを見つめる瞳で教えてくれた。
「操から、あなたに。自分がいなくなってから渡してほしいって、頼まれていたの」
「……あなた、には」
「私はたくさん話したわ。思い出だって、たくさん。甲洋くんにどう伝えればいいのかわからなくって、手紙を書くことにしたんですって……」
「そう、ですか。あり、がとう、ございます」
器の前で、震える声が響く。慰める為に抱き締めても許されるのか、わからない。俺も泣いていいのかさえわからないまま、「落ち着いたら読んであげて」と送り出してくれるまで、泣き続ける羽佐間先生の前に立ち尽くしていた。
***
時間が経つほど、寂しさが読む気を消していくような予感がして、手紙はその日のうちに読むことにした。とはいえ、一人きりの部屋で読む気にはなれない。戦いが続き、開いてやれなかった店に明かりを灯す。人のいない間に、うっすら埃が積もってしまった。激化するだろう戦闘を思えば、一騎に無茶はさせられない。抑えろと頼んでも全力で走り続けるあいつには、時間の許す限り休息をとらせたい。俺もきっと人の営みに気を回す余裕などなくなる。名残惜しいが、ここを、閉じることになるだろうか。
糊付けされた封筒を慎重に開けると、空色が二枚しまい込まれていた。よく確認しなかったのか、クーのものらしき白い毛と、来主の薄い髪も数本。
「けんかでもしながら書いたのか?」
答える声はない。開いた紙の中に、丸っこい字がいくつも並んでいる。こんにちは、甲洋──
***
こんにちは、甲洋。手紙を開く時間をくれてありがとう。もしかすると、きみの名前を呼ぶのはこれが初めてかもしれないね。手紙を読んでもらう前に、一度だけでも呼べていたらいいな。
あのね、甲洋。僕はきっと、きみを好きだった。好き、で合ってるのかな。美羽が教えてくれた友達とか、家族には当てはまらない感情、だと思う。
きみが嬉しそうだと僕の心も暖かくなる。きみが壁を作らずに誰かと笑い合う姿を見ると頬が緩む。きみが僕の名前を呼んでくれると……奥のほうがむずがゆくなって落ち着かなかったけど、おかあさんに抱き締めてもらうより、もっと嬉しくなった。あ、これ、おかあさんにはないしょにしておいてね。お願い。
いじわるばかり言われたけど、それでもずっと隣にいたかったな。きみの声で、たくさん僕の名前を呼んでほしかった。自分がいなくなる事を考えるたび、僕が痛くなるよりも、きみの隣にいられなくなる方が嫌になっていった。ああ、文字にするって難しいなあ。きちんと伝わっているといいんだけど。どうしてこんな気持ちになるのか、答えをきみと見つけてみたかったな。
素直に訊ねられても話を逸らされたかもしれないけど、僕が抱えた気持ちをきみに知っていてほしかった。こんなに文字をたくさん書いているのに、好きって言葉が正解に近いのかさえ、僕にはわからないままだから。だから甲洋に、わからなくても、気持ちを閉じ込めなくていいんだよって、言われたかったんだ。
直接言えなくてごめんなさい。これからもっと大変になるきみに、こんな言葉ばかり残して、ごめんね。
ねえ、甲洋。きみはまだいなくならないでね。どんなに苦しくても、終わりにしたくなっても、ずっと、ずっと、長く生きてね。僕の知りたがった答えを見つけても、誰にも言わずに心の奥底に仕舞っておいてね。いつか、平和になった世界をうんと生きてから、お前の気持ちはこうだろうって、教えに来てね。きみが見つけてくれた答えなら、きっと理解できると思うから。
ここまで読んでくれてありがとう。さようなら、春日井甲洋。僕に優しくしてくれた人。この先のきみの笑顔も、幸せでありますように。
***
異性から好きと伝えられたことは何度もあった。憧れだから、優しくしてもらえたから、それで。とっくに特別な人がいるとか、人を幸せにする自信がないなんて本音を言えなくて、断り方に慣れるまでずいぶん返事に困ったっけ。
これを書き終えた来主は、言い残せる事を安堵しただろうか。正体のわからない感情を誰にも明かせぬまま眠った少年は、寂しくなかっただろうか。もっと早くに、俺が気づいてやれたらよかった。結末は変わらないけれど、せめて抱き締めてやれたかもしれないのに。
「俺も好きだ」
応えられたはずの、たった六文字を伝えたい相手は、もうこの世のどこにもいない。
バッドエンド
心を擦り減らしていく甲洋
無意識に心を麻痺させて、容子を心配して負担を増やしたくなかったのに消耗しきった顔を誤魔化せていなくて余計に案じさせていることに一生気づかない
防衛機構と化していく 生きていると言えるのかな
ショコラとクーももういない
手紙を読みながらぼろぼろと泣いた
心を開いた「きみ」なので仲はよかった
一歩を踏み出せなかっただけ