2021.10.16
「ねえ、この冷蔵庫素材しか入ってないよ! ごはんってどうやったらできるの?」
俺に聞くな。総士が出ていってから、好奇心旺盛に店内を物色していた来主操が大声を上げる。どっちに訊ねたのか知らないが、織姫ちゃんは聞こえなかったように空にしたグラスを揺らしている。俺が行くしかないのか?
「これは今日まで、こっちはもう日付が過ぎちゃってる……」
フェストゥムに消費期限って、関係あるのか?
知らないが、放っておけばますます騒がれそうだ。足元で眠ったショコラを起こさないようそっと跨いで、カウンターを過ぎると封の切られていないバターを握りしめたまま振り返った。
「君、一騎カレーって作れる?」
今度こそ俺に話し掛けているらしい。話すなら扉を締めるよう促すけれど、ジェスチャーでは伝わらない。少年越しに手を伸ばして代わりに締める間も、避けずに棒立ちしている。ちょっとやりづらい。
軽い音を鳴らして離れても、変わらない顔で俺の動向を追う。こいつが島に居着くかは知らないが、人の波に居場所を望むなら、人の動作を理解できるように誰かが付きっきりで手本を見せて教えてやる必要がありそうだ。
「一騎の作ったものだから、俺が一から用意したら甲洋カレーになるよ」
そういえば、メニュー表に遠見の名前はなかったな。アルコールメニューと合わせる小鉢には溝口さんの名前が付いていたし、今いる西尾の弟の名前も正式メニューには載っていない。なにか、名前を添える為の決まりごとでも設けていたんだろうか。記録は触れられたけど、過去の思考まではさらえなかった。
「なにそれ。材料が同じでも?」
「ここのルールがそうらしい。君が作ったら操カレーになる」
「一騎カレー、食べてみたいなあ。起きたら、作ってくれるかな」
聞けよ。
「この、両手を並べるよりも大きなお皿に白いご飯と、じっくり火を通した茶色の液体をのせたのが一騎カレーなんでしょう? 味は前の俺の記録で教えてもらったけど、僕が食べてもおんなじふうにおいしいって思うかな」
「さあな。俺たちの舌が人の味蕾を備えてるんならおいしいよ、きっと」
「そうなんだ。楽しみだなあ」
裏表なく微笑む姿は、遠くに触れた、エウロス型を雄気堂々と従えるコアの印象からはまるでかけ離れている。
今も人らしく装える彼が望んで学べば、すぐに人々に受け入れられるようになるだろう。彼自身が望む居場所と、共にいたい人間が見つかるといいけれど。
「ここで待ってたら、一騎カレー、食べられるかな?」
「そんなに興味、持ってるんだ?」
「うん! 前の俺が口にしたものだからね。総士も気にしてたらしいから、記録の中でも特にきらきらして見えたんだ」
だったら俺は一騎ケーキと一騎プリンが気になる。御門やさんにデザートを頼んで以来、作っていないらしいやつ。もし甘ったるくても、あいつが作ったものなら食べ切れる。
「アショーカが落ち着いたら、頼んでみなよ。一騎なら断らないさ」
「君のぶんはねだってあげないからね」
いいよ別に。言い放って満足げな額をつつく。振る舞いのわりに体格がいい。あの頃の総士よりは質量もあるかもしれない。そのままくしゃくしゃに頭も撫でてやる。
「ちょっと、なに、触んないでよ」
「居座るなら、暇つぶしくらい付き合ってくれよ。ここ、俺の家なんだから」
「やだよ! ねえ織姫たすけて」
「仲がいいのね」
よくはない。ないが、細い髪の感触は面白い。これだけ指通りがいいなら、ヘアゴムでしばってやっても抜け落ちるんじゃないだろうか。ちょっと試してみたい。
「髪飾りなら、芹の家にたくさんあるわよ。付いていってあげる」
「俺、おもちゃじゃないんだけど!」
「まあまあ。人を学ぶ一環としてさ」
「やだあ!!」
束の間の平穏を、扱いに慣れる為に過ごすなら許されるだろう。ここに立つ少年に悪意は感じられないが、織姫ちゃんがいるならなにか起きても収めやすいだろうし。暴れる来主の腕を両側からとって、カラカラ響くドアをくぐる。
「鈴奈のところなら新しい服もたくさんあるわよ」
「えっ。制服とか、ぴっちりしてないやつ?」
「ええ。わからないなら、着方も甲洋が教えてくれるわ。行くわよね?」
なるほど、そういう誘い方もあるのか。世話を焼くこと自体は嫌いじゃない。知識の取捨選択を既にかなえている来主なら覚えも悪くないだろうし、おそらく楽しい。
「……い、痛くないなら、行く……」
「決まりね。甲洋、操とわたしを抱き上げて」
「え?」
なにを伝えたのか、幼子を腕に乗せるように来主が織姫ちゃんを抱き上げた。首にかじりついた織姫ちゃんも、さっきまで暴れてた来主も、なぜ実行しないのかと目で訴えてくる。
「一刻の猶予もないわ! 急ぎなさい甲洋、長い脚を活かす時よ!」
はあ。この状態ってどうすればいいんだ。縦に持つのはやりづらそうだ。棒立ちでいる来主の膝裏と背中を引き寄せて、横抱きにするなら持てるかもしれない。
不安定が怖いのか、促さなくても体重を掛けてきた。想像よりも軽くあたたかい。この背に、頼もしいボレアリオスがある。重心を寄せた来主の腕が制服を掴むのを確認してから、立上さんの店に向けて、言われたとおりに脚を回す。走ればいいんだろうか。抱え直された織姫ちゃんを潰さないよう、触れる腕に力を込める。
「あなたたちが守る島よ。目に焼き付けて、楽しんで」
「早くて景色がわからないのに?」
「非日常は思い出のスパイスよ」
「あとで歩いて回りたい。いい? 一緒に来てくれる?」
「好きになさい。わたしは付いて行けないから、甲洋のお守り付きになるわ」
「ええ……」
とっくにくつろぎ始めた少年少女は、頭の上で好き勝手に人の予定を決めている。この状態、どんなふうに見えるかな。体を作ってもらった時には想像もしなかった時間だ。悪くない。