※甲操前提
※死ネタを含みます
※カップリング要素は甲洋×二代目操のみ
2021.10.26
来主操がボレアリオスに還った日から、一年と半年が過ぎた。島も俺も無傷ではいられなかったけれど、からがらに送り届けた存在が、外装はすっかり修復を終えた白雲の中で無事転生を果たした日から、もう一年も。
あれから、中へ踏み入る勇気は出なかった。ぐちゃぐちゃの船内で傾いで今にも倒れてしまいそうなカプセルへ幾度も抱き締めた肉体を預けたあと、溶けてゆくさまを正気で見続けるのは、俺には難しい事だった。
光景を鮮明に覚えている。赤い海の中で撫でた頬の輪郭がほどけていく。細くやわらかな髪が失われていく。はじめからうまく崩せるよう構成されているかのように、ためらいなく存在が消えていく。涙は出なかった。まばたく暇があるならば、消える間際まで見ていたかった。
「おやすみ、来主」
俺のよく知る来主が溶けた海に、新たなコアが現れる。次に会えるのはいつのことだろう。次に出会う子も、俺を呼んでくれるだろうか。執着とちぎれた脚を引きずって、とうとう落ち着けずにいた彼らの島を後にした。
◇
ボレアリオスは遠くの海に浮かんでいる。同胞と認識した島の庇護を選んで、揺蕩いながらコアの成長を待ち続けている。今や一人きりになってしまった店に鍵を掛けて、海沿いからその姿を眺めるのが日課になっていた。
「今日は、どんな夢を見てるのかな」
コアはきっと夢を見ない。記録を夢と言い換えるならば、人間が一生のうち見るよりも多くの光景にひたれるだろうけれど。
白い波が砕ける。一時間もそうしないうちに分厚い雲がくすんだ空を暗く覆う。じきに夜が来る。人通りの少ない海沿いだとはいえ、話し相手のいない場所にいつまでも立っているわけにもいかない。今日はここまでにしようと振り返る後ろで、久しい音がした。
空間を跳ぶ音。ここではないところから現れる音。一騎だ。収縮する視界に闇を連れた男が立っている。
「お前を呼んでいる」
「かず、」
それだけを言って消えた友の瞳の先を、推測する必要はなかった。ほんの少し前まで、俺もそちらを見ていたからだ。
――呼んでいる?
――誰が、俺を?
「……来主?」
二百八十三日振りに彼の名前を口にした。言い終える前に足を浮かべる。まだ、名も知らぬ彼が誰であろうと構わなかった。あの中で俺を呼んでくれている。踏み入るのを恐れた場所へ向かうには、十分過ぎる理由だった。
◇
産声を上げない赤子は世界に酸素が満ちている事をいつ知るのだろう。真赤の液体に包まれて、瞼を開くその時までミールへ身を委ねる存在は、どのように世界の美しさを知るのだろう。答えを訊ねる人は他にもいる。俺が付いてやる必要はどこにもない。けれど、拒まれぬ限りは次に生まれる子の変遷をそばで見ていたい。あの日に生き延びてから、一層欲深くなってしまった。
「なにを好きになるだろうな。初めに俺の料理を食べてくれたら、一生満足させてやれるんだけど」
ふるまわれる食事を好むだろうか。それとも、新しいものを造る事を望むだろうか。好奇心を向ける先が物騒でなければなんだって構わない。俺の知らないなにかへ興味を示すかもしれない。その夢を教えてもらえたら、協力して学んでみよう。もしかすると、俺の手に馴染む前に、この子が先に得意になるかもしれないし。
見据えるカプセルの中で形を作り上げる存在は、まだ幼く頼りない。年頃は十ほどになるだろうか。昨日よりも少し、背が伸びている。正確に触れたわけではないから、細かな数字はわからないけれど。
「この調子で育つなら、服が追い付かなくなりそうだな」
あと、一年。それよりも早くに出会えるかもしれない。この子が来主と同じ背格好に育つ頃にはきっと。
呼ばれて、岩戸への侵入を許されてからの半年の間に、ここで自由時間を過ごすのが習慣になっていた。泡一つ吐いて俺を出迎えてくれたコアは、鳴りを潜めて赤子を越した背格好で眠っていた。コアの寝床をこうも間近で眺めるのは初めてだ。ルヴィの時は、毒が傷付いた根を手折る可能性と、レディであるとの理由で近付くことは許されなかったし。
一騎はこの子の言葉のなにを聞いたのだろう。よくよく眠ったせいで、寝ぼけて寝言を言いに来ただけだったりして。そのほうがきっといい。次にあいつが出てきたら、アイロン掛けしたエプロンを着せてやらないと。
ぐるりと見渡す心拍の空間には、彼の兄弟たるエウロス型の輝きが満ちている。コアの呼吸を倣うように、強めては、光源を遠ざけ、ゆっくりと明滅を繰り返している。
じっと身を固めて眠る彼らも、戦いの時が来たればこの子と共に目覚める。早く、目覚めてほしい。いつまでも、平和な夢を見続けて欲しい。矛盾する望みを抱いたところで、現実は変わらないけれど。せめて、今この幕間に目覚めてくれたならば、楽しい事をたくさん経験させてやれるのに。そう、うまくことは運ばないものだ。
触れる向こうで固く瞼を閉じて浮かぶ彼も、来主操を名乗るだろうか。織姫ちゃんがそうしたと伝え聞いたように、別の名を求めるかもしれない。どちらでも構わない。この子が、自分の心を育んでいけるなら。
「また来るよ。次はもうすこし、面白い土産話ができると思うからさ」
気泡を立てない子の頬をガラス越しに撫で、踵を返す。明日の昼には、近藤一家の予約が入っていた。光栄な事に、衛一郎くんとフェイちゃんが小学校に上がる前のパーティ会場に我が家が選ばれての貸し切りだ。クリスマス前の大口顧客のお望みに添うメニューの下準備は終えている。少し気の早いチキンと、とりどりに拵えたひと口サイズのサンドイッチと、二人の好物ばかりをビュッフェ形式で。パーティなんだから無礼講だ、とは咲良の言だった。その代わり、スープにはたっぷり野菜を溶かし込んだ。料理上手の咲良には必要ないだろうけど、提供するぶんのレシピ冊子も用意してある。
細々した用事もいくつかこなさなくちゃならないから、少なくとも二日後までは来られない。毎日のように来ていたから少し寂しいな。時間はいくらでもあるんだから、今に拘らなくたって構わないんだけど……
待って、を掛けるようにぱしゃりとこぼれた。エウロス型の気配はない。彼らは膜を抜けるように生まれる。床を伝って赤い海が足に触れる。
あの子が産まれた。まさか。あまりにも早い。なんの気配もない今?
「こうよう」
振り返るのは少し怖い。背中を押すようになにかが俺の名を舌に乗せる。思考を刺す音じゃない。肺に酸素を満たして狭間の空気を震わせている。
「甲洋」
もう一度。呼ばれるまま「彼」を見る。少年が視界を妨げる濡れた髪にもいとわず瞳を開いて腕を伸ばす。
「抱っこして」
呼んでいる。俺を。爛々と輝く薄緑の瞳で。
彼は来主だ。紛れもなく来主操だ。新しく生まれた、初めて出会う少年。……俺が好きだった、来主はもうどこにもいない。本当に、二度と、出会えない。
「……初めまして。君を、なんて呼べばいい?」
「操がいい。一度も呼んでなかったでしょ。だから、操って呼んで」
「ああ……君が望むなら」
押し殺しても声は震える。これ以上情けなく流れる涙を見せていたくなくて、身一つになにもかもを与えられて生まれた幼子を抱き締めた。