2022.12.24
暇だ。正確には、甲洋のお仕事を見守るので忙しいけど。ココアはもう飲んでしまった。染みにならないうちにシンクで洗わなきゃいけないけど、なるべくそばにいたい。
早く終わらないかな。たくさん撫でてほしいな。そう思いながら見ていたペン先が、ぴたりと止まった。
「今、なに考えてると思う?」
突然そう言って、ペンをくるりと回す。手元から視線を動かすと、ノートを見つめていた焦げ茶色の優しい目が、いつの間にかじっと僕を見ている。
普段は音では僕の方がおしゃべりで、甲洋はうん、うんと静かな相槌ばかりなのに。どうしたんだろう。ほっぺたを埋めて枕にしていた腕から頭の位置を変えて、斜め上の甲洋を見上げた。
「僕のミールが? それとも、甲洋が?」
「俺が。当ててみて」
「んん」
かけ直された鼻当てが、かちゃりと小さな音を出す。それぐらい静かだ。あとは暖房の風の音が聞こえるくらい。無音にもできるけど、起動してますってわかりやすいように、わざと鳴らしてるらしい。
眼鏡をかけた甲洋は、なんだかいつもと違って見える。なんていうか……うまい言葉がわからないけど、悪いものじゃない。なんにもつけてない顔のほうが好きだけど。
こういうのを表すので、お客さんの言葉にちょうどいいのがあったような……ああ、そうだ、かっこよくなると思う。特にまるっこい目の端っこが眼鏡のふちにうまく隠れて、オトナっぽく、見えるからかな。
外には閉店後からずっとの雪が降っていて、散歩に通りがかる人の会話なんかも聞こえない。あんまり静かにしていると、もういいよ、と切り上げられちゃうかもしれない。まだ話していたい。ううん、と悩むふりをする。
「お店のこと?」
「はずれ」
お仕事中なのに。頬杖をつく腕でノートは見えない。構ってくれるなら、僕が帰ったら続きをするのかな。
「じゃあ、明日のお天気とか? お天気メニュー、結構人気あるもんね」
雪か、雨か、くもりぞらか。それによって味付けを変えるメニューがある。それの仕込みを気にしているのかも。
材料はまだ在庫も期限も平気だった。もう一回確かめて、大丈夫だよって言ってあげればいいのかな?
「来主は、明日が晴れだったらいいなと思ってる?」
「うーん。雪のメニューがいいな。塩っからいの、食べたいし」
「残念。明日は午後いっぱい雨になるってさ。天気のことを考えてるかっていうのも、はずれ」
「うええ?」
まったくヒントがないのに、どう当てろっていうんだよ。口をとがらせてうなると、大きな手がそっと撫でてくれる。なだめるときの焦った様子じゃなくて、眠りに導いてくれる時みたいな優しい動き。大好きだって伝えてくれるぬくもりに、うとうとと眠ってしまいそうになる。
「わかんないよ。……正解は?」
ゆっくり撫でてくれるのがきもちいい。静かな波音を聞いている時と似た心地よさに、抗うのをやめて目を閉じた。呆れてやめようか、と言われるかと思ったのに、近づいてくる気配がある。横の髪が耳にかけられて、ふっと、そこに息がかかる。
「考えてたの、来主のことだよ」
「うひゃ」
のしかかられてるせいで逃げられない。肩をすくめて我慢しても、くっついたまま、耳元で笑うせいでくすぐったいったら。
くく。ふふふ。おかしそうに笑う甲洋は、きっとしてやったりって顔をしてる。
いたずらされるの、これで何度目だったっけ。二人でいると、たまにこうやって、小さい子みたいないじわるをしてくるのだ。
「ひゃ、ちょっと、くすぐったい」
「やだ。もう少し」
髪の毛に顔まで埋めて離れそうもない。すりつかれるたび、眼鏡のパーツが当たってちょっと痛い。もう。しょうがないな。
僕のことってなんだろ。昨日、きれいに盛り付けられたのは、もう褒めてもらったし。おかあさんからの伝言も今日はなかった。島で過ごす中でも、慌てる出来事なんかない、平均的な一日だったはず。
「僕、今日、失敗なんかしてないよね?」
「店の話じゃないよ。おとなしく待ってくれてるの、可愛いなって」
ええ? なにそれ。言われた通りにしてるだけなのに?
身じろぎすると、耳のやわらかいところを唇で噛んで離れてく。
「それ、やだって言ったのに。またやった」
「ごめん。来主の耳たぶ、やわらかくて好きなんだ」
耳にキスされるのはちょっと苦手だった。でも、いやじゃない。話すよりにぎやかな心の、ごまかさない気持ちがたくさん伝わってくるからかも。
すぐに帰ってしまわないで、そばにいてくれるのがうれしい。毎日のことを、二人の時間にしてくれることがうれしい。とか。いろいろ。ほんとにいろいろ、甲洋の思考で埋まっちゃうくらいに。
僕もうれしいのに、ざわざわする。甲洋がくれるものを、上手に受けとめられてるかわからない。でも、甲洋はそれでいいらしい。見ないふりをしないで聞いてくれるのが、一番うれしいって。
僕に向けてくれる言葉や気持ちを、否定しないで、まっすぐもらってくれるのが、うれしいって……。
なんか、そんなの、僕にとっては当たり前のことなのに。大事にしたくて、甲洋を知りたくて、していることを喜んでもらえるのは、なんだか体の奥がむずむずする。
出会った頃にはなかった感覚だ。もしかすると、名前を知らないせいで気づかずにいた感情かもしれない。どっちだとしても、甲洋に変えられたせいだ。僕のほうが、もらってばかりなのに。
「来主?」
すぐ、返事をしようとして、言葉に詰まった。なにを返せば正しいのかわからなくて、困るとこんなふうになる。いつもは相手の反応がわからなくなるからだけど、今日のはなんか違う。僕のことなのに、僕の心がわからない。今ぎゅうっとなっているのは、嬉しいのかな、苦しいのかな。
どうすればいいかわからなくて、顔を歪めると、冷たい手がまた耳に触れる。いつもよりひやっこい。違う。僕の体温が上がってるんだ。顔まで熱い気がする。実際、両手で包んでみると、温度が違っていてきもちいい。
「もしかして、照れてるの?」
「……わかんない。甲洋が言うならそうかも」
正体不明の感情を預けるみたいに、起き上がる勢いでどんっと寄りかかる。いつもなら甲洋だって驚くのに、僕のことを考えてたからか、なんか余裕そう。
「椅子、こっちに近付けて。落ちるよ」
椅子の脚を浮かせると、肩に手を回すついで、みたいに椅子ごと引き寄せられて、甲洋との隙間がなくなる。今度は、照れ、とは別の感情が浮かんだ。
「甲洋って、僕のこと大好きだよね」
「やっと気付いたの?」
今の心はわかる。むかつくってやつ。ほんとに怒ってるんじゃなくて、このやろう、って気持ち。まだ熱い顔のまま、むっと口を尖らせると「そうだよ、大好きだから、お前のこと考えてた」と追い打ちをかけてくる。甲洋の声で聞きたいって、思ってた僕を見透かすみたいに。
甲洋はいつもそうだ。自分でわからない僕のことをわかっていて、言わないでくれたら気にしないでいられたことを、丁寧に紐解いて……僕に、いろんな感情を植え付けていく。
ずるい。くやしい。僕を見ていてくれて、うれしい。
「終わったら、家まで送っていくから。もう少し、いい子で待てる?」
むっとするまま見上げると、ガラス越しの目が優しくゆるむ。誰にも見せてほしくない顔。僕だけの表情。
「明日のまかない、甲洋が作ってよ」
「なに。クリスマスプレゼント?」
「その一部! ね、いいでしょ?」
「はいはい。承りました」
楽しそうに返事する甲洋には、あとはなにをお願いしよう。二つじゃ足りない。もっとほしい。ようく考えておかなくちゃ。