Hey my baby, trick or treat?❖ ❖ ❖ ❖ ❖
「トリックオアトリート!」
朝の澄み渡った空気に子供特有の無邪気な声が響く。
今日はハロウィンの日。普段なら日曜礼拝が行われるこの教会も、装飾こそはしないものの今は可愛らしいおばけ達を迎える為に開放されているのだ。
色とりどりのキャンディや甘い香りを放つチョコレート、シスター達の手作りクッキーなどが、訪れる子供達が持つバスケットの中に次々と入れられていく。
「はい、これで最後のお菓子だ」
「シスター様、ありがとう!」
可愛くラッピングされた最後の包みをひとつ、目の前の幼いドラキュラ伯爵に手渡した。
礼を言って次の家に向かい去っていくその小さな背中を眺めていると、視界にちらりと映るのは、木陰に隠れた背の低い真っ白なかたまり。
「どうしたんだ?こっちにおいで」
僕が声を掛けると、そのかたまりはおずおずと姿を現した後に小走りでこちらに駆け寄って来た。
目の部分にだけ穴を開けたシーツを被った可愛いおばけだ。穴の開いた部分からは、きらきらとした空色の瞳が覗いている。
「えへへ…シスターのお兄ちゃん、トリックオアトリート!」
「君にはもうあげただろ?お菓子はひとり一つまでだぞ」
「ちがうよ、あれは教会からのお菓子でしょ?お兄ちゃんからはもらってないもん」
「屁理屈を言うなよ…」
僕の返した言葉に「へへ」とおどけて笑うこの子は、プラチナブロンドの猫毛が特徴の、いつも日曜礼拝に来る男の子だ。
時々、僕に相談事をしに来ては、お茶とお菓子を楽しんで帰って行く。
彼は友達と上手く仲良くなれずに四苦八苦しているようで、僕はいつも役に立つのか分からない助言をしていた。
「トリックオアトリート!だよ、お兄ちゃん!」
「ううん…お菓子をあげたいところだけど、手元にはもうないしな…」
「じゃあ、いたずらだ!」
「?わっ!」
無邪気な声でそう言ったその子は、僕にぎゅうと抱き着いてきた。僕の腰回りに温かい体温が近付いて、小さな細い腕がめいっぱい回される。
親しい人以外にそうされる事なんて今までなかった事に驚いて思わず固まってしまった僕に、へにゃりと緩んだ空色の瞳が向けられた。
「へへ、いたずら成功だ」
「…おまえ、僕に触れて気持ち悪くないのか?いや、それよりも、これは悪戯じゃないだろ…」
「?どうして気持ち悪くなるの?お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃん!それに、これはいつもぼくの話を聞いてくれるお返し!」
答えになってないし、お返しなら悪戯にならないだろ…と子供の言う事だと思いつつも腑に落ちない気持ちになっている僕に、その子は今度はもじもじとした様子で続けた。
「…今日はハロウィンでしょ?おばけに変身したら、ぼくじゃないぼくになれるし、恥ずかしくてできないこともできるかなって…」
「だから、おうちに帰ったらママにも、お兄ちゃんにしたのと同じいたずらするんだ」と、目元をほんのり赤く染めてそう告げる彼に、僕は目から鱗が出るような気持ちになった。
ハロウィンなんて、今までの僕にとっては意味のない日どころか忌み嫌う程だったし、これからもそうであると思っていたからだ。
抱き締める事に満足したのかその子は僕からパッと離れると、手を振って踵を返す。
「じゃあね、シスターのお兄ちゃん!お兄ちゃんも大切な人にやってみて、きっといいことが起こるよ!」
パタパタと走り去って行く白い後ろ姿を見守りながら、僕は ふむ、とひとつ考え事をしたのだった。
◇◆◇
「パスト、ディケンズ先生を知らないかい?久々にメンテナンスをしたいのだけど…」
依頼書の整理と研究作業が一段落ついた頃、久々にディケンズ先生のメンテナンスをしようと思い立って、先生の姿がない事に気付いた午後のひと時。
作業部屋やリビングなどにもいなかったその行方を捜しに、パストの部屋のドアをノックする。
彼は午前中の教会での仕事が終わり帰宅後、そのまま自室に入っていったようだった。
(というのも、作業中の私の耳にはドアが開く音と小さな彼の声が聞こえただけなので推測に過ぎないのだが)
珍しく返事の返ってこない事に、帰ってきたのは気の所為だったかなと思いつつも、ゴソゴソと聞こえてくる物音の後にガチャリとドアが開く音。
ドアの隙間からひょっこりと顔を覗かせた物に「おや」と反射的に声が出た。
「先生、こんなところにいたのかい?私がパストの部屋に来た時にうっかり置き忘れていたのかな」
こちらを見やるディケンズ先生に少々おどけたような声色で語り掛けてから、「部屋に入っても?」と居るであろう部屋主に声を掛ける。
無言を肯定の意と捉えてドアを完全に開けば、そこに佇んでいたのは真っ白なシーツに包まれたパストだった。
些か困っているようにも見える先生をぎゅうと抱き締めているその人物は、シーツの隙間から覗くベリーのように紅い瞳をそわそわとさせながらこちらに向けてくる。
あどけなさと愛らしさが具現化されたような姿に穏やかに笑みを溢していると、布に隔たれて籠もった小さな声が聞こえてきた。
「…ト、トリックオア、トリート……」
Trick or Treat、お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ。聞き馴染みのある言葉にハッとし、そういえば今日はハロウィンの日かと思い出す。
照れ隠しなのか期待の色を乗せていたベリーの瞳が今度はゆらゆらと泳ぎ出し、先生を抱き締めていた両腕にきゅっ、とほんの少し力が篭っているのが見えた。シーツに隠れている口元は、いつものようにもにゅもにゅとはにかむように動いているのだろう。
まるで幼い子供のようなその姿があまりにも可愛らしくて、よからぬ好奇心が芽生えてしまう。
「…困ったな、今は手持ちのお菓子がないから、私はこんなにも可愛らしいおばけに悪戯をされてしまうようだ。さて、恥ずかしがり屋のおばけくん、君は私にどんな悪戯をしてくれるのかな?」
私の返答が予想外だったのか目の前の彼は小さく肩を揺らして、その先を考えていなかったのか、どうしたものかと狼狽え始める。
数秒の思案の後、両手で抱えていたディケンズ先生を小脇に抱え直し、恐る恐るといったように私の腰に回されたのはシーツから伸びた細い腕だった。
至近距離まで近付いた事によって、顎下にシーツのさらさらとした感触が伝わる。腰に回された手から感じるのは、きゅうとシャツを握る微かな力。
「こ、これが、僕からの、悪戯…」
頭一つ分下の、白い旋毛から聞こえてくる上擦った「してやったり」という声。
シーツという壁一枚分隔たれているおかげか、本人的には大胆にも素直に甘えられるチャンスだと思い込んでいるのだろう。
そんな布切れ一枚で絶対的な安心感を得られる訳でもないというのに、普段から出来ないような事を、今ばかりは思う存分にやっても叱られないんじゃないかというその思考が、あまりにも浅はかで愛おしくて。
「君さぁ、それは反則じゃないか…」
「?わ、わっ」
健気な恋人を私からも抱き締め返して、このシーツを早く剥いでしまいたいと逸る気持ちと、彼にはもう少しハロウィンの空気を堪能させてあげたいという気持ちで綯い交ぜになりながらも、目の前にある頭頂部に優しいキスの雨を降らす。
布地越しにキスをされる感触が擽ったいのか、それとも焦れったい気持ちになったのか。されるがままだった彼がもぞもぞと身を捩り顔を上げた。
「あの、…えっと、る、ルカも…い、言ってくれないか?」
「何をだい?」
「ハロウィンの、おまじない…」
「…Trick or Treat?」
乞われるがままにその言葉を口に出すと、パストはうろうろと目を泳がせた後に決心したように口を開いた。
「ぼ、僕…も、お菓子、持ってない、から…だから…」
その先の明確な言葉も表さずに、ぐ、と体を密着させてくるパスト。上目で見つめてくる、布地の隙間から覗く潤む紅い瞳が意味する事は誰が見ても明白で。
「…ッ、本当に、君は…私を虜にさせるのが上手い」
ベッドの上にその細い体を横たわらせて、ずっと彼の隠れ蓑になっていたシーツを剥がせば、「今からされる事を期待しています」とでも言うように欲しがる表情が露わになる。
ディケンズ先生にはもう少し休んでもらおう。隠れ蓑に使われていたそれは先生の目隠しにして、私は小さく震える薄赤い唇に甘いキスを落とした。