コトバ「なんだよ、またお前か」
現れた青いトロルを見てマトリフは辟易した。魔王軍のこのトロルとは何度も顔を合わせているが、他の連中より頭が切れるらしく、戦う度に苦戦していた。
青いトロルはマトリフに向かって何か言った。だが魔族の言葉は聞き取るのは難しい。拾えた単語から推測するに、また会った、だとか、逃がさない、だとか、そんなことを言っているのだろう。
「じゃあ捕まえてみろよ」
マトリフは高く飛び上がり、呪文を唱えた。だがトロルはそれを簡単に相殺してみせる。呪文が長けたトロルなんて聞いたことがなかった。
「だからお前の相手は嫌なんだよ」
今はアバンたちと別行動をとっていた。魔王の根城を捜索中だったのだ。このトロルが現れたということは根城は近いのかもしれない。
マトリフはトロルと呪文で応戦しながら逃げる隙を伺っていた。ところが相殺し損なった呪文の爆発を間近で受けてしまった。
吹き飛ばされたマトリフが地面に横たわっているとトロルがやってきた。殺されると思ったが体は動かない。するとトロルが口を開いた。
「ワタシ……ノ、ナマエ」
辿々しい発音だったが、それは人間の言葉だった。
「ワタシ、ノ、ナマエハ、ガンガディア」
トロルは指を自分の胸に向けていた。私の名前はガンガディア。確かにそう言った。まさか殺す前に名乗る習わしでもあるのだろうか。
「ガンガディア」
トロルはもう一度ゆっくりと発音した。それがやはり自己紹介に思える。
マトリフは恐る恐る口を開いた。
「ガンガディア」
するとトロルはぱっと表情を明るくさせた。意思の疎通を喜んでいるらしい。まさか魔物の中に人間の言葉を理解するやつがいたとは。
***
魔族や魔物の言葉なんて理解できるはずがないというのがこの世の常識だった。マトリフは師の蔵書で魔族の言葉を学ぶ機会があったものの、それは単語を暗記する程度だった。
そもそも対話を望む魔族などいない。マトリフが魔族の言葉を教わったのも、向こうの言葉を知っていれば戦う上で情報を得られるからだった。
だが、目の前のトロルは人間の言葉を喋った。ガンガディアと名乗ったのだ。
ガンガディアは動けないマトリフを城の中へと連れていった。自然にできた地形を利用しているらしく、その城は地下深くにあった。
ガンガディアはマトリフを広いベッドに寝かせると薬草を使って治療をした。その間も短い言葉でマトリフに話しかけてくる。人間の言葉に近いように聞こえるが、よくわからなかった。
ガンガディアはマトリフが返事をしないと表情を曇らせた。そして机に置いてあった本を開くと、熱心に読み始めた。
マトリフが連れてこられたこの部屋はガンガディアの部屋なのだろうか。壁には一面本棚が並んでいる。
すると本を持ったままガンガディアがやってきた。
「キミノ、ナマエ」
君の名前。ようやく聞き取れた言葉に、なぜもっと早く気付かなかったのかと思う。確かにガンガディアはそれに近く発音をしていた。名前を軽率に名乗るべきではないという師の教えが頭を過ったが、それは一瞬で消えた。
「オレはマトリフ。マトリフだ」
「マチュリフダ?」
「ダはいらねえよ。マトリフ。マトリフ」
マトリフはゆっくりと発音してみせる。ガンガディアは真剣に耳を傾けた。そして理解したように口を開く。
「マチュリフ」
発音が少々違うが、だいたい合っている。しかしガンガディアは自分でも上手く発音できていないとわかっているのか、何度もマトリフの名前を呼んだ。一生懸命なその様子に、マトリフは何とも言えない気持ちになる。つい先日まで殺し合ってた相手と、言葉のやり取りをしているなんて。
「ガンガディア」
名前を呼ぶと、やはりガンガディアは嬉しそうな顔をした。そして慎重に口を開く。
「マトリフ」
その声は意外なあたたかさをマトリフの胸に届けた。
もしかしたら、言葉さえ通じれば争わずに済むのかもしれない。ここがその一歩なのかもしれないとマトリフは思った。
***
マトリフの名前を覚えたガンガディアは、ずっとマトリフの名前を呼びながら何か話しかけてくる。しかしそれらは人間の言葉ではなく魔族の言葉で、あまりにも早口な上に複雑な単語を使うものだから聞き取れなかった。
「ちょっと待てって。そんなに急いで喋ってもわかんねえよ」
マトリフがそう言っても、ガンガディアは喋るのを止めない。ガンガディアもまだ人間の言葉は覚え始めたばかりで、マトリフの言葉を理解するのは難しいらしい。
『待て』
マトリフは魔族の言葉で言った。するとガンガディアが言葉を止める。どうやら通じたらしい。マトリフは次に何と言えばいいか悩んだ。知っている単語は多くないし、文法もよくわからない。魔王軍の目的を聞き出せればいいのだが、あまり複雑な文章は喋れそうになかった。
するとガンガディアは指を一本立てて首を傾げた。それがもう一度言えという意味だと理解する。先ほどマトリフが「待て」と言った言葉が通じたわけではなかったらしい。
『待て』
マトリフは同じ単語を繰り返すが、ガンガディアの表情は曇ったままだ。発音が悪いのかもしれない。一口に魔族の言葉といっても訛りがあるのか、地域によって言語さえ違うのかもしれない。
そこでマトリフは思いついて体を起こした。ベッドから降りて本棚の前に立つ。マトリフは本の背表紙を眺めながら単語を探した。
「これだ」
マトリフは目当ての単語を見つけて指差す。するとガンガディアはマトリフの意図に気付いたように頷いた。そして魔族の言葉で「待て」と発音する。やはりマトリフがした発音とは違っていた。マトリフはガンガディアの発音を真似て何度か練習する。
だが、マトリフがようやく上手く発音できるようになった頃には、なぜ「待て」と伝えたかったのか忘れるほど時間が経っていた。意思疎通の道は果てしなく長いように思える。
「ところでお前は何のためにオレをここに連れてきたんだよ」
伝わるとは思わないが言ってみる。人間の言葉の練習相手にでもしたかったのか。
「マチュ……マトリフ、イル、ココ?」
ガンガディアは床を指差す。
「お、そうだよ。オレがここにいる理由だよ」
マトリフは頷く。まさか人間の言葉のままで通じるとは思わなかった。するとガンガディアは嬉しそうに言った。
「マチュリフ、イル、ココ、ズット!!」
「ん?」
それってオレがここにずっといるという意味だろうか。そんなことは言ってない、と訂正しようとするが、ガンガディアがあまりに嬉しそうにしているので言い出せなかった。
***
それからガンガディアとマトリフの言葉を探す日々が始まった。一つずつ単語とその発音を確かめ、お互いの言語を交換し合う。それは地道で根気のいる作業だった。
特に難しいのは形のない言葉を伝えることで、例えば「目的」という言葉は上手く伝わらないままだった。あるいは対応する言葉がない言葉もあり、難しさを増していた。
マトリフは苦い果物を齧る。マトリフが食べる用にガンガディアが持ってきた果物はどれも見たこともないものばかりだった。その中でこれが一番食べられそうだったが、味は不味かった。
「タベル」
ガンガディアは腕いっぱいに果物を抱えている。マトリフがこの果物ばかり食べるので、ガンガディアは沢山持ってくるのだ。
「いらない」
マトリフはわかりやすく首を横に振った。できるだけシンプルに簡単な言葉を使うようにしていた。しかしガンガディアは果物を机に置いた。
「マトリフ、オッパイ、タベル」
マトリフは思わず吹き出した。咽せてしまって机に突っ伏して咳き込む。ガンガディアがオロオロとしているが、なかなか咳がおさまらない。マトリフは落ち着いてからガンガディアの発音を訂正した。「オッパイ」と「イッパイ」では大違いだ。
それにマトリフは遠慮して食べないわけではない。この果物は一つ食べれば十分に腹が膨れた。しかしガンガディアからすれば一つだけでは足りないと思うのだろう。
「いらない」
もっと言葉を多く知っていれば、なぜいらないのかの理由も説明できただろう。だが今はいらないと伝えることしかできなかった。
ガンガディアは気落ちしたように果物を見ている。ガンガディアの大きな手が果物をつまむと、それを一口で食べた。人間がぶどうを食べるほどの感覚で次々と食べていく。マトリフはようやく半分ほど食べたのに、ガンガディアは十個ほど食べていた。
その後、言葉のやり取りに行き詰まることになる。簡単な単語や動作を表す言葉はわかったものの、やはり抽象的な名詞や、考えるといった身体的動作を伴わない言葉などは、理解が進まなかった。
ガンガディアとマトリフは向かい合ったまま黙り込む。何時間と話し合ったが、マトリフの言いたいことが伝わらなかった。マトリフが伝えたいのは「魔王軍の目的は何か」ということだったが、魔王軍という言葉すら伝わらない。
完全にお手上げ状態なうえに、伝わらないことのストレスでお互いにピリピリしていた。ガンガディアはしきりに眼鏡を弄っている。怒ると頭に青筋が立つのでわかりやすかった。
マトリフは立ち上がった。今日はこれ以上無理だと見切りをつける。するとガンガディアがマトリフの腕を掴んだ。
「痛ぇ!」
マトリフが叫んだからか、ガンガディアは手を離した。勢いのままマトリフは床に倒れる。するとガンガディアは屈んでマトリフに何か言った。また魔族の言葉で長々と喋っている。マトリフは拾える単語がないかと耳を澄ますが、人間だとか弱いだとか、どうにもマトリフに文句を言っているように聞こえてならなかった。溜まったストレスのせいでマトリフも冷静さを欠く。
「やんのかこの野郎」
マトリフは立ち上がってガンガディアを睨む。するとガンガディアは口を閉ざして何やら考え出した。そして逡巡したのち、ためらいを振り切るように口を開いた。
「マチュ……マトリフ、キミ……キミノ、シリ、ミタイ」
「はあ!?」
君の尻を見たい、だと?
***
マトリフは部屋の隅へと逃げ込んだ。尻を守るように隠す。
「近寄るんじゃねえ」
喚くマトリフに、ガンガディアは不思議そうにしている。ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「マトリフ、ナニ、スル?」
「オレは何もしねえからな!」
ガンガディアが何を考えているかわかったもんじゃない。まさか尻を狙ってここへ連れてきたのか。
「ナニ、イタイ? ミル」
伸ばされた手に恐怖を覚えてマトリフは咄嗟に呪文を撃った。炎がガンガディアの手を焼く。
「ッ……」
ガンガディアの手は赤く爛れた。ガンガディアは困惑したようにマトリフを見る。しかし怒っている様子はなく、マトリフのほうがたじろいだ。
ガンガディアはそのまま部屋を出ていった。この隙に逃げ出せるかもしれない。しかし本当にそれでいいのかとマトリフは迷った。もし言葉で分かり合えれば、戦わずにこの戦いが終えることができるかもしれない。
やがてガンガディアが戻ってきた。走ったのか息を切らせている。マトリフは思わず後退った。ガンガディアの腕には沢山の果物がある。
「オッ……イッパイ、タベル」
ガンガディアの腕から果物が一つ転がり落ちた。
「タベル、ゲンキ、マトリフ」
ガンガディアは屈むと果物をマトリフの前に置いた。どこからかき集めたのか、様々な種類がある。
ガンガディアはじっとマトリフを見つめていた。その表情が心配であるとわかる。ガンガディアは表情豊かだ。名前を呼べば嬉しそうにするし、怒っているのもわかりやすい。それは言葉がなくても伝わってきた。
マトリフは一つの果物を拾い上げた。見慣れない、おかしな形をした果物だ。思い切って口にする。それは意外なほど甘い果汁を滴らせた。
「……うまい」
自然と顔が綻んだ。久しぶりに美味いものを食った気がする。
『美味しい』
マトリフが言うと、ガンガディアはぱっと表情を明るくさせた。やはりわかりやすい。
きっと「尻が見たい」なんて言い間違いだったのだろう。「オッパイ」と「イッパイ」のように似た言葉だったのだ。本当はなんと言いたかったのかわからないが、いずれわかる日もくるだろう。
マトリフはガンガディアの手に手を向けた。火傷した場所に回復呪文を唱える。
「悪かったな」
「ワルカッタナ?」
「ごめん」
「ゴメン?」
そういえば魔族の言葉に謝る言葉はあるのだろうか。申し訳なかったと思う気持ちをガンガディアにちゃんと伝えたかった。
***
ガンガディアは果物を二つ並べるとマトリフを呼んだ。
「何だ」
そこに並んでいたのは苦い果物と美味い果物だった。
「マトリフ」
そう言ってからガンガディアは苦いほうの果物を指差す。食えという意味かと思ったが、ガンガディアは次に初めて聞く魔族の言葉を口にした。ガンガディアはゆっくりとそれを繰り返す。この果物は苦いから「苦い」という単語かもしれない。
次にガンガディアはもう一つの果物を指さした。甘いほうだ。そしてさっきと違う言葉を口にする。先ほどの単語が「苦い」という意味なら、こちらは「甘い」だろうか。それとも「不味い」「美味い」という可能性もある。おそらく対比する言葉なのだろう。
マトリフはガンガディアが教えてくれた単語を記憶する。とりあえず『不味い』と『美味い』で覚えておこう。この言葉があれば食い物の好みを伝えることはできそうだ。
「ワタシ」
ガンガディアは言ってから苦いほうの果物を手に取った。そして『美味い』と言った。逆に甘いほうの果物を指さして『不味い』と言う。それではさっき言ったことと反対だった。聞き間違いかと思うが、ガンガディアは何回か言葉を繰り返す。
マトリフが考え込んでいると、今度は本を持ってきた。ガンガディアが人間の言葉を学んでいる本だ。その中にヒントがあるのかと思ったが、ガンガディアは本を開かなかった。
「ワタシ、ホン」
そう言ってから、先ほどの『美味い』という言葉を言った。それでは意味が通らない。ということはさっきの言葉は味覚に関する言葉ではないのだろう。
そういえばガンガディアは最初にマトリフの名前を言っていた。それから果物を指さしている。ということは、マトリフにとっての果物に対する言葉ということだ。
「好きと嫌いか」
好き嫌いなら対象によって言葉が変わってもおかしくない。それにガンガディアは本が好きだ。それならば意味が通る。果物だって、あの苦いほうをガンガディアは好きなのかもしれない。
マトリフは苦い果物を手にした。
『オレはこれが嫌い』
ガンガディアが頷く。マトリフは苦い果物をガンガディアに手渡した。
『お前はこれが好き』
『その通り!』
ガンガディアは嬉しそうに言って立ち上がった。予想が当たったらしい。ガンガディアは好きと嫌いという言葉を説明したかったようだ。
『私は呪文が好き』
『オレも好きだ』
魔族の言葉で会話が成立した。不思議な高揚感を覚える。この調子でいけばもっと高度な情報のやり取りもできるようになるかもしれない。マトリフは次の言葉を考えて自然と笑みが浮かんだ。
するとガンガディアがマトリフを見ていた。その眼差しに何故か目が離せなくなる。
『好き』
ガンガディアの言葉にマトリフは頷く。
「覚えたよ。あ、覚えたって言葉はどうだ。いや、あまり使わねえか。それより理解したとかのほうが……待てよ、まずは」
マトリフがぶつぶつと独り言を繰り返すと、ガンガディアがまた言った。
『好き』
「わかったって。『好き』と『嫌い』だろ。それより次は」
『私は君が好きだ』
マトリフは驚きで目を見開く。おかしい。先ほどの言葉は『好き』という言葉ではなかったのだろうか。
***
マトリフとガンガディアが、お互いの言葉を理解し合う作業は進んだ。身振り手振り、あるときは絵を描いて、多くの言葉を交換していった。
ガンガディアからの告白とも取れる言葉を、マトリフは理解できないフリをした。実際によくわからなかったのだからフリでもないのかもしれない。好きという言葉を、魔族は広い意味で使うのかもしれないし、もっと人間の理解の及ばない感情が込められているのかもしれなかった。
同じように幾つかの言葉は正確に翻訳できないものもあった。だが少々のことに目を瞑り、概ねの会話が成立することが重要だった。
そしてついにマトリフは最初の目的であった「魔王軍の目的は何か」という質問をするに至った。地上に突然現れて人間を襲う魔王軍の目的が何かがわかれば、平和的な解決の道を探る糸口が見つかるはずだった。
だがガンガディアはマトリフの問いに黙り込んだ。もしや意味が通じなかったのかと心配するが、ガンガディアは『待ってくれ』と言った。
ガンガディアは暫く考え込んだ。ガンガディアの口が人間の言葉と魔族の言葉を呟く。そこにガンガディアの迷いや葛藤があるようだった。
「ワタシ、タチハ……」
ガンガディアはそこで言葉を切るとマトリフを見た。
「チジョウガ、ホシイ」
『何故だ』
「マカイハ、ヒドイ。チジョウヲ、ウバウ」
『住む場所が欲しいなら他の方法を探す』
「ナイ」
「諦めんなよ。魔王ってヤツに会わせろ。オレが話をつける」
するとガンガディアは突然にマトリフの胸ぐらを掴んだ。マトリフの爪先が床から浮く。
『私達を陥れるために私に近付いたのか』
射殺さんばかりの眼で見られて頭がすっと冷えていく。ガンガディアが敵あることを忘れたつもりはなかった。だが気を許すほどにガンガディアに心を開いてしまっていた。
「お互い様だろ」
敵情を探るためにガンガディアに近付いたのは事実だ。だがそれはガンガディアだって同じはずだ。怪我をして動けなかったマトリフをこの城に連れ込んだのはガンガディアだ。ガンガディアにだってマトリフを利用する目的があったのだろう。
ガンガディアはそのままマトリフを城の外に連れ出した。どこかわからない森の中の投げ捨てられる。
「用済みになったらこの扱いかよ」
このままここで殺されるのかと思ったが、ガンガディアは戦う素振りを見せなかった。それどころか、先ほどまでの怒りを忘れてしまったかのようにマトリフを見ている。
「ワタシハ……」
ガンガディアの眼差しはマトリフに好きだと言ったときと同じものだった。何故そんな眼をするのかとマトリフは問い詰めたくなる。オレたちは敵で、言葉を交わしても分かり合えなかった。
「キミノコトヲシリタカッタ」
そのままガンガディアはルーラで去ってしまった。マトリフは一人残される。乾いた笑いが口から出たが、それを向けた先は自分だった。
「尻が見たかったわけじゃなかったのか」
相手のことを知りたいという気持ちを、あいつらは好きと呼ぶのだろうか。もっと俗物的なものを愛と呼んで欲を満たしていたマトリフにはわからなかった。
***
「まだ起きているのですか?」
おさえられた声にマトリフは視線だけを向ける。寝たはずのアバンがこちらを見ていた。宿屋の一室で、マトリフは小さく明かりを灯して本に書き込んでいた。
「起こしちまったか?」
「いえ。実は眠れなくって」
アバンは起き上がるとランプを灯した。アバン達にはガンガディアが話した魔王軍の目的は伝えてある。それを聞いてからアバンは考え込むことが多かった。
「その本は完成しそうですか」
「いいや。まだまだわからねえ言葉の方が多い」
マトリフはガンガディアとのやり取りで覚えた魔族の言葉を本に記していた。これを読めば日常会話くらいなら出来るようになる。だが本当の意味で理解し合うには、言葉だけでは足りない気がした。
「私もその本が読みたいです」
「そりゃあ構わねえが。魔族の言葉を覚えてお前はどうする」
「彼らを知りたいんですよ。言葉があれば、知れるじゃないですか」
アバンの言葉とガンガディアの言葉が重なる。君を知りたかったと言ったガンガディアの顔が忘れられなかった。
「なぜ知りたいと思うんだ」
「マトリフは知りたいと思いませんか?」
「質問で返すんじゃねえ。あいつらと仲良くなれるとでも?」
「マトリフだって、そう思ったから彼らの言葉を学んだのでしょう」
そう簡単でないことをアバンがわからないはずがない。言葉がわかる人間同士でさえ争いが起こるのだ。
だが、簡単に諦めたくないとも思う。嬉しそうに言葉を紡ぐガンガディアを、単なる敵だとは思いたくなかった。
「なあアバン」
「はい」
「好きってなんだ?」
「はい??」
「お前は好きな奴のことを知りたいって思うか?」
「わ、私に聞くんですか? マトリフのほうが経験豊富でしょう」
アバンが急に落ち着きをなくす。年相応の少年のように見えて面白かった。
「だけどよ、知りたいなんて当たり前じゃねえか。あんな面白いやついねえよ」
「誰のことを言っているんです?」
「好きってもっと特別だろう。もっと……」
もっと何だろうかとマトリフは自問する。欲望を切り離したとして、好きだという感情を理解できているのだろうか。ガンガディアの言う『好き』を、「知りたい」という感情を、理解することができるのだろうか。
「ガンガディアのことが好きなんですか?」
アバンは茶化すでもなくたずねてくる。それを否定したいような、認めてしまったほうが楽になるような、そんなどっちつかずな気持ちになる。
「わかんねえけどよ。たぶんオレらの好きとあいつらの好きは全然違えんだよ」
ガンガディアのあの眼差しは情欲に燃える眼じゃない。もっときらきらと美しいものだ。たとえば尊敬とか、敬愛とか、そういう感情の上澄みの部分だ。マトリフは誰かを好きになったとして、愛したとして、そんな美しい感情だけを相手に向けることはできない。
『オレはあいつのことを知りたい』
傷付く覚悟もないままに誰かを好きになっていく。気付いたときには止められなくなっていた。
***
マトリフは寝不足の目を擦り大欠伸をした。朝日が眩しい。眠気覚ましのコーヒーは半分ほど残ったまま冷めていた。
「でっかい欠伸だなあ」
笑いながら言われてマトリフは口を閉ざす。焼きたてのパンを盆に乗せたロカがやってきた。
「ほら食えよ」
ここの宿は朝食に焼きたてのパンを振る舞うらしく、マトリフが部屋から降りてきたときも良い香りをさせていた。だが眠気覚ましのコーヒーだけが目当てだったマトリフはパンは食べずにいた。
だが目の前で朝日を浴びながらツヤツヤと輝くパンを見ると急に腹が空いたように思える。マトリフは手を伸ばしてパンを取った。ふかふかと柔らかく、たっぷりとバターの香りがした。
「うめぇ」
「だろ! いっぱい食えよ」
朝から元気いっぱいで食欲旺盛らしいロカは、見ているこちらが気持ちよくなるほどの食べっぷりだ。まったく見ていて飽きない奴だと思う。
「あ……そうか」
マトリフは思いついて立ち上がる。ロカはパンを咥えたままマトリフを見上げた。
「どうした」
「ちょっくらあいつに会いに行ってくる」
「あいつって?」
「ガンガディア」
「は!? ちょっと待て! ルーラやめろ!」
それから数日後。魔王軍と勇者一行はウロド平原にて顔を合わせた。鏡通信呪文を使い魔王軍を呼び出したからだ。魔王軍は律儀にも指定した場所に時間通りにあらわれた。
『そちらから決闘を申し込んでくるとはな』
ハドラーはアバンを頭の先からブーツの先まで見た。アバンは威圧的に見下ろしてくるハドラーに付け入る隙がない笑みを浮かべた。
『こんにちは、魔王さん』
魔族の言葉で言ったアバンにハドラーは驚く。しかしガンガディアは冷静にマトリフを見ていた。アバンに魔族の言葉を教えてたのがマトリフであることに気付いているのだろう。
『決闘のために呼んだのではありませんよ』
『なんだと』
ハドラーが気色ばむ。ガンガディアは理由を尋ねるようにマトリフを見た。そしてアバンもマトリフを見て頷く。
「ガンガディア」
マトリフは一歩前に出るとガンガディアに手を差し出した。
「オレとトモダチになってくれ」
マトリフの言葉にガンガディアは困惑する。ガンガディアは「トモダチ」という言葉を知らなかった。そのことはマトリフも知っている。するとハドラーが苛立ったようにガンガディアを見た。
『こいつは何を言っているんだ?』
『訊ねますので少々お待ちください』
ガンガディアはハドラーに言ってから、改めてマトリフを見た。
「トモダチ、トハ、ナニ?」
『お互いのことを大切にする関係だ』
それはマトリフがロカを見て思いついたことだった。ロカは周囲に壁を作るアバンと距離を縮めて親友になったという。相手のことを知りたいと思って相手の懐へ飛び込むことを、ロカは躊躇うことなくできる。それを真似てみようと思ったのだ。
『オレはお前のことが好きだ』
マトリフの言葉にガンガディアだけでなく、ハドラーたちも驚きの表情を見せた。
『お前もオレのことが好きだろ。だからお前とは戦わない。オレはお前を大切にする。それがトモダチだ』
種族間の対立と個人の対立では根本的な問題すら異なる。だからといって最初の一歩を踏み出すことが無意味とは思わなかった。
そしてそれはマトリフがガンガディアに対する感情の落とし所を、そうとは違うと思いながらも友情と決めたことを意味していた。ガンガディアの言う『好き』という言葉の意味が、愛よりも友情に近いと思ったからだ。
『お、おまえ!!この老ぼれを好きなのか!?』
ハドラーは酷く狼狽えてガンガディアを揺さぶった。逆にガンガディアは放心したように固まっている。
『どうした?』
上手く言葉が通じなかったのかとマトリフは思案する。だがこのときのマトリフは知らなかった。魔族の『好き』という言葉には、人間の想像を絶するほどの熱量が込められている。人間は簡単に広い意味で「好き」と口にするが、魔族はその長い一生のうちにたった一度しかその言葉を口にしない。自分の人生のうちにたった一人と決めた相手にしか言わないからだ。つまり人間でいうプロポーズに近い言葉だった。
『私たちの関係を人間の言葉ではトモダチというのだね』
誤解が生まれていた。本来なら「伴侶」というべき間柄を「トモダチ」だと認識してしまった。だが誰も気付かなかった。ガンガディアはマトリフにプロポーズが受け入れられ、正式に伴侶になったと思っている。
「おう。そうだ」
『ではこれからトモダチとしてよろしく頼む』
マトリフが差し出していた手をガンガディアがそっと包む。大きさの違うお互いの手が握られた。
人間の言葉の「トモダチ」と魔族の言葉の『伴侶』という誤訳は、暫く誰も気付かないまま時間が過ぎた。だがガンガディアが人間のマトリフにプロポーズしたことはハドラーに大きな衝撃を受け、世界を滅ぼして我が物にするという野望はうやむやになった。今ではハドラーはガンガディアに人間の言葉を習いながら、アバンと文通しているという。
やがて誤訳に気付く日がやってきた。硬派で慎重なガンガディアが、人間のトモダチとはどのようなことをするのかと、書物で調べたことがきっかけだった。書物を読むガンガディアはしきりに悩ましい表情をするので、マトリフがどうしたのかと訊ねた。ガンガディアは書物の記載を疑いながらも、思い切ってマトリフに訊ねた。
「人間は何人もトモダチがいるのかね?」
「ああ、そうだな。オレはロカともトモダチだ」
マトリフの何気ない言葉がガンガディアを深く傷付けた。そこからの大喧嘩、誤解への気付き、仲直りに多大な時間と労力がかかったが、それは二人の関係を進めるきっかけともなった。今度こそマトリフはガンガディアへの気持ちを素直に認めて、ガンガディアの気持ちを勝手に推しはかることなく十分に確かめた。
現在、二人はバルジの大渦を眺める洞窟に一緒に暮らしている。言葉を、相手の気持ちを、そしてそこに込められた思いを確かめ合う日々を二人は送っている。