いつの日か月光は墓場の石を一つずつ照らすだろうさ たった少し、目を離した隙に貞宗がいなくなった。
それは貞宗が床から起きられるようになった矢先のことだった。まだ咳は残るものの、熱も下がって顔色も良くなってきていた。ようやく命の危機は去ったと、常興は込み上げる涙を誰にも見られることなく拭っていた。
すると事もあろうか貞宗は酒を飲もうとしていた。貞宗は常興に見つかったことに焦りながら、酒を懐に入れている。常興が烈火の如く怒ったのは心配の現れであったが、貞宗は稚児のように舌を出して寝間に戻って行った。常興は絶対に貞宗に酒を渡さないように食糧庫を見張る兵に言いつけた。
そして貞宗が横になっているか確かめようと部屋を訪れたら、そこには空の寝床があるだけだった。
常興は砦中を探した。すると外の見張りが、貞宗が単騎で駆けてくのを見たという。常興は意識が遠のくのを感じた。これが平時であれば目くじらを立てるほどでもないが、今はまさに戦の最中である。もし暗闇で敵兵に出会したらどうするのか。なぜそんな無謀なことをするのかと思うと今度は腹が締め付けられるように痛んだ。
「兄上」
気がつけば新三郎に支えられていた。こんなことをしている場合ではない。今すぐに貞宗を探しに行かなければと、常興は周りの兵に向かって叫んだ。
「馬を!」
「お待ちください兄上。殿は我々で探しますので、兄上は砦でお待ちください」
新三郎はすぐに兵を集めて方々へ放った。常興は砦の出入り口に置かれた床几に腰を下ろして暗闇に目を凝らす。すぐに帰ってくるはずだと心を落ち着かせようとするが、足は苛々と地面を踏み叩き、噛んだ爪からは血が滲んだ。
常興は張り詰めた心緒のまま二刻も待った気がした。それでも貞宗は戻って来ず、もはや待っておれんと常興が立ち上がったとき、こちらに向かってくる馬の影が見えた。それが貞宗だとわかり、常興は激情のままに駆け寄った。
「いま戻った」
そのまま通り過ぎようとする貞宗の直垂が不自然に膨らんで見えた。常興はすぐさま馬を止める。
「なんぞ」
満月に照らされて見える貞宗の表情に、陰が見当たらなかった。この戦が始まってから、いつもどこか付き纏っていた陰が綺麗さっぱりなくなっている。月光がそう見せるのかと思ったが、その瞳の輝きに、やはり見間違いではないとわかる。
すると、月光は貞宗の直垂に入れられたものも照らした。ひらひらと輝く光は北条家の家紋である三つ鱗を浮かび上がらせていた。
「貞宗様、それは」
すると貞宗は直垂の上からそれ手で押さえた。大きさからみて童用の衣だろう。今この世でその衣を着るのは一人しかいない。貞宗の手はまるで大事な物のように常興の目からその衣を隠した。
「これは……なんでもない」
貞宗の口元が微かに笑っているように見えた。貞宗はそのまま馬を進めて行ってしまう。まさか落ちていた物を拾ったわけではあるまい。貞宗から香った酒の匂いが鼻に残る。吹く風は清らかだった。
常興は天を仰いだ。今は美しい満月を憎く思う。貞宗はいつも輝くものばかり見ているが、それが何であるのかなんて、知りたくはなかった。