ウォードの箱 ガンガディアは魔界の空気を吸い込む。それは体に馴染むものだった。太陽はなく、空気が確かな重みを持っているかのように漂っている。
ガンガディアは腕に抱えたガラス器を見やる。鳥籠のような形のそれは、空気が入らないようにガラスがはめ込まれている。その中に座ったマトリフは気怠げにガンガディアを見上げていた。魔界の瘴気は人間には毒だ。こうして空気が入らないようにしているが、それでも体への負担が全く無いわけでないだろ。
「はやくそこから出られるようにする。もう少し我慢してくれ」
こくりとマトリフは頷く。魔力封じの首輪をつけてからマトリフは随分と大人しい。このガラス器にも抵抗することなく入った。信用しなかったわけではないが、無用なトラブルは避けたかった。
ガンガディアはマトリフが入ったガラス器を丁寧に抱えるとトベルーラで飛び立った。
***
「これでいい」
ガンガディアはマトリフの背に指を滑らせた。はじめてその素肌に触れたのだと遅れて気付く。背骨の微かな隆起を数えるようになぞれば、マトリフは身体をわずかに震わせた。薄布をはだけさせたマトリフの背に、模様が浮かび上がってくる。それはガンガディアの体の模様と同じものだった。
マトリフが大きく息を吸い込んだのが、触れたままだった指先への振動でわかる。ガンガディアははだけていた衣をマトリフの肩にかけた。魔力封じの首輪は既に外してある。この模様がある限り、マトリフの魔法力はガンガディアの支配下にある。
「出てくるといい」
ガンガディアはガラス器の金具を外すと大きく開け放つ。ここは巨大樹の根元であり、おそらく魔界で一番空気が澄んだ場所だった。そこでガンガディアはマトリフに眷属の契りを交わした。そうすればマトリフは人間でありながら、ガンガディアの庇護を受けて魔族の性質を受け継げる。
マトリフはそろりと立ち上げると、ガンガディアを振り返った。眷属の模様はマトリフの顔にまで及んでいる。その模様が目にかかるように走っており、瞳の色が変わっていた。その鮮やかな青色がガンガディアを射る。
「これから何処へ行く」
そう言ったマトリフの眼に絶望の色は無かった。まだ諦めていないとわかる。あの凍れる時間の秘法を解くために、魔界まで来たのは酔狂でも自棄でもなかったということだ。
「あの秘法について知っている者に会いに行く」
それはハドラーに接触した魔界の者だった。ガンガディアは直接会ったことはない。だが、ハドラーにかかった秘法を解くために方法は選んでいられなかった。それはマトリフも同じだった。