舌に煙草を押し付けられる補佐おれの兄であり上司である松能組若頭・松能カラ松は、よく年上に可愛がられる。可愛がられるといっても、小遣いをもらえるとか、良い女を紹介してもらえるとか、そういう好意的な意味のものではなく、いわゆるこの業界ならではの「可愛がり」だった。
飲み会で酔っ払いの糞爺どもに尻たぶを揉まれているのを何度目にしたことか。飲みの席で他組のお偉いさんに「松能の次男坊、お前大学行っとったんじゃろ?」と絡まれていたことも思い出す。「男の味はどうじゃった?自慢のここでたっぷり咥えこんできたんじゃろう」と尻を撫でられ、ズボン越しに指を突き立てられたときにはさすがのカラ松もその助平親父を張っ倒してしまいあやうく指がとぶところだったと聞くが、組長がなんとかしてくれて丸く収まったらしい。
まあ、そんなことがあったからといって可愛がりが止むことはなく。……むしろ増していったように思う。
プライドで飯を食っている世界だ。弱みを見せたら終わる業界なのだから、ここで組長や若頭に泣きつくわけにもいかないが、自分でなんとかできるほど立場も高くない。4次団体の若頭補佐は板挟みの状態にいた。
別に兄だけが特別生意気なわけではない。松能の6つ子は全員厄介であると結論付けられているし、むしろ生意気なのはおれか若頭のほうだと思う。カラ松は実際部下からは慕われている良い兄貴分だ。そんな兄がなぜ、年上に目をつけられやすいか……。
(まあ、反応がええというかなんというか……)
いじめがいがあると言ったほうがいいだろうか。
兄は男の劣情を刺激するのだ。
困ったようにさがる眉や口端、それでいて何をしても折れない瞳、反抗的な目の奥にある光。もっと甚振りたくなるようなしぐさを、やつは自覚なくする。加虐心が疼く。情けない声が聞きたくなる。赦してほしいと叫ぶ懇願の姿を見たくなる。かくいう自分も、上下関係がしっかりしている今は控えているが、学生時代はさんざんカラ松を困らせてきたものだった。「ひとを歪ませる」というのはこういう奴のことをいうのだろうか。
ただ最近は兄も対応に慣れてきたらしく、以前ほどストレスを感じているような顔をしなくなった。受け流す術を覚えたのか、何か言われても含みのある笑みを見せるようになった。
――この日はおれ達の親父、松能組組長松造の松野会舎弟頭昇進祝いの席だった。弱井会系の幹部たちが集まって宴に興じる。わざわざ松能家にコンパニオンを呼び、客間と広間の障子を取り払った大きな和室でどんちゃん騒ぎをしている。どこから借りてきたのか、大きなカラオケ機まで持ち込んで演歌を歌う爺どもを見つめながらおれは内心ため息をつく。親父の昇進祝いではあるが、そこに参加できるほど偉くもないおれ達兄弟は爺どものお酌とあいさつ周り、警察や襲撃への見張りを交代でしていた。組長や若頭が集う席だ、粗相があってはいけない。緊張が解けることはない。
一通りの時間が過ぎたときだった。皆歌い疲れ、飲んだくれ、コンパニオンも帰ろうとしている。かたづけの全てがおれたち若衆の仕事になるのだから終わるなら早く終わってほしい。そう思いながら手早にタクシーの手配をすませる。一息つくために廊下に出たところで、部屋の前で見張りをしている兄と出くわした。
「兄ぃ」
「おう、一松か…」
声が若干掠れている。いつもより低い。疲労の蓄積か、緊張がまだ解けないか。
そういえば、一時間ほど前までお酌で回っていたはずなのに、今までどこにいっていたのだろうか。最初は開けていた衿もいまは首元まできっちりとボタンを止めている。その反対に、しっかりと固めていた前髪は乱れ、おくれ毛のようなものが2、3本耳傍から垂れている。
「………」
唇が湿っており、口端が鬱血しているようにも見える。また殴られたのだろうか。
剣呑な雰囲気につばを飲み込む。
どこにいっとったんですか、と一言聞けば良いだけなのに、なぜか兄のその姿に心を奪われてしまいうまく言葉にすることができなかった。
酒の席での絡みに疲れて別の場所で休んでいたのかもしれない。しかし、兄が親の祝いの席で仕事を放棄するだろうか。
「終わったら休んでください。按摩師を呼びます」
「なんじゃ急に」
「疲れとるように見えます。ちぃと気ぃ張りすぎてるんじゃないですか」
兄は一瞬目をまるくしたが、すぐに首をふった。「いや、ええ。元気じゃ。……このあと叔父貴を送っていかにゃならんけえ、整体や按摩なら兄貴にでもつけてやってくれ」
兄はそう言って薄く笑った。その横顔がなんだかいつもより艶っぽいような気がして、自分の目がおかしくなったのかと思い強めに目をこすった。
会場からは延々と続いていたカラオケの音もようやく止まり、酔いの回った上機嫌な中高年の声がまばらに聞こえてくるのみとなった。そろそろお開きだろうか。もうコンパニオン用のタクシーも用意したのだから、二次会三次会といわずきっぱり終わりにしてほしい。こっちは一日中働いているのだ、一刻も早く緊張をといて身体を休めたい。
しばらくすると宴会場の引き戸が開き、ひとりの男が廊下に出てきた。辛子色のジャケットを着て煙草を咥えている中年。親父の義兄弟で同じ弱井組会系の東郷組組長だった。おれとカラ松はすかさず姿勢を正して一礼する。この男も、カラ松に突っかかっては反応を楽しんでいるたぐいの男だと記憶している。重いタールの匂いと煙草の紫煙が廊下に充満し、おれの空っぽの胃を刺激した。何か嫌な予感がする。
男はカラ松を見るなり「おい」と声をかけ、すぐそばまで近づく。そして「灰皿」と一言だけ言った。口に咥えた細長い煙草は半分ほどになっており今にも灰が落ちそうだった。
パーソナルスペースなどおかまいなしに距離をつめ、ふたりの距離は数cm、あと少しで身体がくっつくというところまで近づいた。
カラ松はポケットに手をやるが、いつも持っている携帯灰皿を若頭に預けていることに気づきすぐに頭を下げる。
「すんません、今取りに行きます」
奥の部屋に客人用のガラス灰皿がある。それを取りに踵を返したところで腕を引かれた。
「取りに行く?」
ヒリついた声色に変わった。叔父貴の三白眼が兄を捉える。
「お前がちんたらしてる間に灰が落ちたらどうするんだ」
前髪を捕まれ上を向かされる。苦しそうに眉を顰め喉を慣らす。
「このスーツの弁償でもすんのか?」
理不尽にも思える言いがかりにも兄は反論しなかった。
とはいえ持っているものなど何もないのだからどうしようもない。困った挙句両の手を差し出そうとした瞬間、「口開けて舌出せ」という冷ややかな声が降って来た。
兄は嫌な予感を感じ取って一瞬硬直したが、一拍置いて恐る恐る口を開いた。
小さく開いた口に躊躇なく指が突っ込まれ、親指と人差し指で思い切り舌をつかまれそのまま引っ張られる。
「おごっ、ぉ」
伸ばされた舌にさきほどまで吸っていた煙草を押し付け無理矢理消火した。
ジュゥ、と舌が焼かれる音と同時にカラ松の目が細まる。
「さっき散々その口に教え込ませたのにまだ学ばねえか?ムショいってアンコになって脳みそまで縮んだか?おい」
「っ、」
舌を極限まで引っ張られ口から涎が垂れ落ちる。男が煙草をなすりつけるようにぐりぐりと押しつぶすと、カラ松は苦しそうに喘いで喉を鳴らした。顰めた瞳に薄い膜ができる。
カッとなる、という比喩表現は正しいのかもしれない。おれはその光景を見た瞬間、脳が沸騰するのを感じた。
「兄貴に何すんじゃクソ野郎!」
頭で考えるより先に、おれの手は男の襟首を掴んでいた。胸倉をひっつかんでわかったが、同じくらいだと思っていたのに身長は相手のほうがでかかった。男は眉ひとつ動かさずおれの顔を見下ろしていた。おれなんかにはみじんも興味がないといったように。
殺してやる。握りしめた拳を振り下ろすも、それが男の頬を張ることはなかった。
振り上げた拳を兄が掴み止める。
「やめろ一松!」左手で口を押さえながらおれを制止する。
手首が折れそうなほど強い力だった。
「じゃけど、こいつが、ッ」
言い終わる前に、脳天が揺れるほどの衝撃が左頬に走った。
鼓膜が震えるほどの大きな音が木霊する。痛みよりも熱が身体を駆け巡る。
バランスを崩しその場に倒れこむおれの襟首を掴み、兄は地鳴りのような低い声で言った。
「やめろいうとるじゃろ」
じんじんと燃えるような熱さが頬に籠る。口端が切れたらしく、血液が顎を伝い紫のシャツを色濃く染めた。
「親父の大切な兄弟で、オレ達にとっちゃぁ目上の叔父貴じゃ。言葉選んで行動しろ。われの勝手な行動で親父の晴れ舞台潰す気か」
おれは口元の血を袖で拭いながら目を伏せた。
「…失礼、しました」
納得できなかった。たとえ自分の指が飛ぶことになろうともあいつの顔を一発、ぶん殴ってやりたかった。しかし、当事者である兄にやめろと言われたら仕方ない。親に迷惑もかけられない。受け入れて頭を下げる。
兄はぱっと襟首を離し、後ろの男に向き合った。
「すんません、叔父貴。弟はこの通りまだ若衆なもんで、礼儀がなっとりません。オレからしっかり言うて聞かせますんで」
「躾が行き届いてないんじゃねえか。鑿持ってこい」
「勘弁してやってください」
カラ松は深々と頭を下げたと思ったら、男の横にぴったりとくっつき、男の耳に唇を寄せて囁いた。
「オレの舌くらいならいつでも使うていただいて構いませんので、どうか……」
その仕草はまるで女のそれだった。甘えるような、ねだるような甘い声で媚びる。
さきほどまでおれに向けていた鬼の瞳とはうってかわって、目はとろけ、口元は笑っている。
見たことがない兄の姿に、おれは心臓を握りつぶされたような感覚に陥った。
「雌犬が」
男はクッと喉を鳴らし兄の顎を指で掬って上を向かせた。
なんだこの空気は。このふたりの纏う雰囲気は、もう、男と女のソレでしかない。冷や汗が全身に滲むのがわかった。
唇が触れそうになったところで戸が開き、他の兄弟が上役の帰宅準備をするため廊下に出てきた。と同時にふたりは離れ、兄は「車出しますんで、先に玄関へどうぞ」と男を誘導した。男は何も言わず、二本目の煙草を取り出して玄関へ向かっていった。
忙しそうに酔っ払いどもを介抱している末弟がおれ達を見つけると「兄さん達何しとんの?こがぁなとこで油売って」と怒気を孕んだ声で話しかけてきた。
「すまん。一松が怪我してもうて。ちぃと冷やしてくる」
「はあ? お見送りは!? この忙しいときに、もう……」
兄は末弟の声を遮りながら、おれの手を引いて奥の部屋に連れて行った。宴会場から数m離れたところにある6畳1間の和室。
昔は客間として使っていたが、いつの間にか家族の物置と化しいまではほとんど使われていない。埃の匂いを感じながら、その部屋の真ん中に腰をおろす。ここにきて疲れがどっときたのか、もう身体が動かない。このまま寝てしまいたいと思った。
兄もおれに目線を合わせるようにしゃがんだ。
「さっきは殴ってすまんかったな。加減はしたが、腫れとるけえ一応氷あてといたほうがええかもな」
兄は濡らしたタオルでおれの頬を拭い、口端の固まった血を拭いた。
「……兄貴こそ、舌の火傷は大丈夫なんか」
「ああ。こがぁなんやられすぎて硬くなっとるし、痛みはない。どっちかゆうたら指で引っ張られたときのほうが痛かったな」
そう笑って舌を見せてくれた。開いた口元からちらりと見える赤い舌。兄の言う通り先のほうあたりに円形の火傷痕があり、そこはざらざらとした瘡蓋になっていた。何回か煙草の火を押し付けられているのだろう。
慣れているとはいえど、いや、慣れているからこそ。泣く子も黙る鬼女といわれた男のやられっぱなしの姿が不思議だった。
「兄貴、前から思うとったけど……なんでそがぁに下手にでとるんじゃ」
おれの苦々しい口調をどうとらえたのか、兄はきょとんとした顔で答える。
「下手って、叔父貴に相手に上手に出れるわけなかろ。それに相手は東郷じゃ、変に刺激したらウチの組に何してくるかわからんぞ」
らしくない台詞だ。おれの兄貴はそんなことなかれ主義じゃなかったはずだ。
確かに東郷はもともと関東の残党であり、弱井会系の中でもトザマで、親父と義兄弟とはいえ仲良くはない。だからいつ睨み合いになってもおかしくないピリついた関係だ。しかし、だからといって。
黙って暴力を受けているだけの兄には疑問しか沸かない。そんな姿を見せつけられたら心が押しつぶされそうなくらい苦しくなる。
いつごろから諦めてしまったのだろう。こんなに我慢強い性格じゃなかったはずだ。何かある。絶対に何か……。
「……舐められとるだけじゃ。拒絶せんと、ああいう輩はつけあがる。兄貴がガツンと言わんから好き放題されるんじゃ」
「組に迷惑かけるより、オレがこらえて丸く収めたほうがええじゃろ」
「何言うとる。あんたもヤクザならちったぁやり返さんかい!情けなくないんか!?」
やる気のない答えにカッとなって怒鳴りつけても、兄は眉をさげ、口端をあげて笑うだけだった。
「ぁ……すんません、出過ぎた真似を……」
「いや」
頭に上った熱が冷えていく。兄を責めたいわけではない。先ほどおれを殴ったのだっておれのことを守ろうとしてくれたからだ。だがそのために自分のことを顧みないのは違う。
「じゃけど、兄貴が……、わざわざ身を挺する必要はないと思います……」
「…………」
しばらくして、ふっとやさしく笑う声がした。
「優しいな、一松は」
おれの頬に手を伸ばし、兄は目を細めながら語る。
「オレも昔は絶対に仕返ししちゃるって思うとった。胸の鬼女を馬鹿にされたときは殺してやりたいとすらな。……でも、やり返したらまたやり返されるいたちごっこじゃろ」
切れた口元の傷を撫でるように、指先が唇に触れる。
「オレだけならええが、お前らはもちろん、親父や若頭にも危害があるかもしれん。そっちの方が耐えられん。大切な家族に矛先が向かうのが一番怖い」
この世界では少しのいざこざが報復合戦となり、それが上組織を巻き込んだ大規模な戦争に繋がることがある。それを危惧して、自分だけ我慢する道を選んだのだ。
兄にとっておれ達はいつまでもたっても庇護対象なのだと思った。
「組が大きくなりゃあオレに手だしする奴もおらんくなるさ。親父と若頭には頑張ってもらわんとな」
「ですが……、でも、兄貴は…」
喉から震える声が出る。組が大きくなるって、一体あとどれだけ我慢しなければいけないのか。
親父がこれ以上出世する保障だってないのに。
おれの不安そうな視線に気づいた兄は、ぽんぽんと頭を数回撫でた。
「一松が心配しとるほど、オレは参ってないよ。大丈夫」
汗が滲むおれの顔を見て優しく言い放つ兄は、奴らにいままでされてきたことを本当に、そこまで気にしていない様子だった。
どうして煙草を舌に押し付けられてそんな精神状態でいられるんだ。
兄のことがわからない。
「そりゃあ前はああいうのにいちいち反発しとったがな、わかったんじゃ。嫌がれば嫌がるほど悪化する。反抗は全部無駄ってな。学校でのガキのいじめと同じじゃな」
ええ歳したおっさんが、精神は小学生なんじゃ。と付け足して笑う。
そしてまた含みのある笑みを見せ、上唇を舐めた。
「……そんかわり、うまい対応の仕方があるって気づいた」
さきほど東郷に見せていたあの顔だ。嫌な予感が脳裏を駆け巡る。
いつもの兄とは違い、まるで――……。
「お偉方ぶっても所詮男よ。出すモン出せば頭に上った血も落ち着く」
「そ、れって」
肌が粟立つのがわかった。わかりたくなんてないのに、兄の言動と仕草ですべてを理解してしまう。
「あ、勘違いすんなよ。オレも別にしたくてしとるわけじゃないけえな。そがぁな趣味はないぞ。……まあでも、それで済むなら一番てっとり早いけえ。おっかない叔父貴のアホヅラ拝むのも悪ぅないしな」
悪戯っぽく微笑む兄はそのまま立ち上がり、部屋の戸を開けて言った。
どくどくと心臓が鳴っている。
行かないでほしいと言いたかったが、口内が乾いて声が出ない。
「じゃあ、東郷の叔父貴を送ってくる。今日は帰らんけえ、きちんと戸締りしとけよ」