連れ合い「僕は君に、ただついて来たわけじゃない」
スティーブン・A・スターフェイズにそう告げられた日のことを、クラウス・V・ラインヘルツは忘れないだろう。
まだ、この街にヘルサレムズ・ロットだなんて名前はついていない時だった。崩壊したニューヨーク。マンハッタンだった場所。絶望の街。崩落都市。人々はテレビ画面を見ながら、口々にこの街をそう呼んだ。失った繁栄への落胆を込めて。
霧の向こうの合衆国にこの街の状況はまだ届いていないだろう。崩落の大災害が起こったと思ったら、霧の中で一夜にして新しい街が形成されただなんて、誰も信じないに決まっている。
スティーブンはクラウスと並んで歩きながら、ひとつの廃墟を選んだ。ボロボロで壁の一辺がない状態だったが、幸いそこから中に入れる。
「スティーブン」
「なんだよ。まさか、不法侵入だなんて言うんじゃないだろうな?」
「超法規的措置だ」
「その通り」
スティーブンは肩をすくめて笑った。クラウスに根気強く冗談を教え込んできた甲斐があった。
その建物は元々は小さな食料品店だったようで、壁も棚も崩壊していたが多少は商品の残骸が残っていた。今までの日常では普通に手にし、普通に購入していた商品だ。それが、今や貴重品になった。
店は崩落と再構築に取り残されたのだろう。ニューヨークを残したまま崩落の爪痕を見せつける場所が、この新たな怪奇の街にもわずかながら見て取れる。
「この店の主人は、避難したのだろうか?」
クラウスは辺りを見渡しながら呟いた。
「さぁな」
それに、スティーブンは落ちていた段ボール箱を退けながら答える。
昨日クラウスとスティーブンはニューヨーク入りをして、何人かを救い、何人かを見捨てた。赤ん坊を拾い、病院で血界の眷属と戦い、街が再構築され、ここに至るまで疲弊と混乱に晒されながらも何人かを救い、また何人かを見捨てた。
「疲れただろう?」
スティーブンが声をかけると、クラウスは静かに首を振った。疲れたなんて言っていられない、ということか。
倒れていた棚を持ち上げようとすると、クラウスが手を貸してくれる。ふたりで起こした棚は常温の食品を置いていた棚だったようで、缶詰やシリアル、常温のミネラルウォーターが棚の下からぼろぼろと出てきた。シリアルは粉々だろう。
スティーブンはミネラルウォーターのボトルを手に取り、キャップを開けた。習って別のボトルを拾おうとするクラウスを制して、まず自分が水を飲む。硬い水だ。
毒味をした水をクラウスに渡し、飲むように促すと、クラウスはそれに従った。こうしていると、今までの任務とそう変わらないようにすら思える。
「あの子は・・・、」
「クラウス」
絶対に、そう言うだろうと思った。だからスティーブンはクラウスの名を呼んで、次の言葉を止めた。考えるべきではないことがある。救えなかったもののことを考えて先には進めない。何度もそう教えてきたが、理解と感情は必ずしも比例しないものだ。
そういうのを疲れてるって言うんだよ、とスティーブンは思ったが、口には出さなかった。店員が使っていたらしい椅子は使い物にならなかったので、壊れていないリンゴ箱を見つけてひっくり返し、クラウスのための椅子にした。
レジカウンターの上に座って、外を眺める。もうすぐ今日が終わる。壁が壊れているこの店は安全ではないし、どちらかが起きて見張るべきだろう。壊れて仕事をしていないブラインドの間から、夕日が差し込んでいた。
「じきにギルベルトさんが来てくれる」
「うむ」
「それまで、ふたりで耐えるしかない」
「・・・その通りだ」
「夜が明けて、ギルベルトさんが来てくれたら、あの病院をもう一度探そう」
ふたりとも、手持ちの荷物はなくしてしまった。着替えもなければ所持金もない。何とか人のいい異界人に出会えて外のギルベルトに連絡を取れたのは幸運だった。
「K・Kは無事だろうか?」
「無事だよ」
彼女の無事は確信できる。クラウスは驚いたようにスティーブンを見た。行儀悪くカウンターに座っているスティーブンに対して、リンゴ箱に座ったクラウスの視線は低い。新鮮な気分だった。
「何故、」
「K・Kのことは、知ってる」
信じるに足る人物だ。だから、確信できる。彼女は以前から家族とともにニューヨークに住んでいて、当然崩落直後から連絡が取れていない。まだ小さな子供たちがいたはずだが、彼女なら夫も子供も必ず守り通すと確信を持って言えた。
そう、K・Kは知っている。だが、あの赤子のことは知らないし、この店の主人のことも知らない。だから、きっと生きているだろう、なんて言ってやれない。
「そうか、そうだな」
クラウスは納得するように何度も頷いた。まるで、新人として牙狩りに入ってきた頃を思い出す仕草だ。
疲れているに決まっている。人を救い、人を見捨てる。そのどちらもが、一瞬にして精神を摩耗させる激務だ。まさに生殺与奪。本来なら人間如きがやれる仕事じゃない。まして、たったふたりで何度も行うような仕事じゃない。
「スティーブン」
「うん?」
日がどんどん沈んでいく。こんなに奇妙な街になってしまったのに、太陽はいつもと同じように動いて、夜が来るのだ。その普遍性が、むしろ現実離れしているようにすら感じる。
「すまない」
厳かな声で、クラウスが告げる。何を謝っているのかわかっているのに、スティーブンはわからないふりをした。
「何がだい?」
すとん、とカウンターを降りて、窓へ近づく。夕日が眩しくて壊れたブラインドが何とかならないかと思ってみたものの、どうにもなりそうになかった。
「君をここまで連れてきてしまった」
「・・・」
「君を、手離せない」
振り向くと、クラウスはリンゴ箱の上で大きな図体を縮こまらせ、両手で顔を隠すように頭を抱えていた。ほらやっぱり、疲れてるんじゃないか。
「全く・・・」
スティーブンは深くため息を吐いた。
「らしくないぜ、クラウス」
舐めて貰っちゃ困る。伊達に君の相棒をやっているつもりはない。こう見えたって、僕は君を理解しているし、君を好いているし、大体新人のひよっこだったお前に現場を教えたのは俺だぞ馬鹿野郎。
スティーブンは振り返って腕を組み、ボロボロの壁に背中を預けた。クラウスがゆっくりと顔を上げる。君のそんな目を見たのはいつぶりだろう。世界と人々を救うために突き進み続けて、こんな街まで来てしまった救世主の、なんと哀れなことか。
「君に、連れてこられた覚えはないよ」
馬鹿。そんな縋るみたいな目で見るなよ。
「俺は俺の意思で、ここに来たんだ」
確かに、君について来た。君がニューヨークへ行くと言わなければ、わざわざ地獄の真ん中に命捨てに行くような真似、しなかっただろう。
だけどこれは俺の意思だ。君について行くと決めた。そのためなら、なんだってやれると知った。何をしたって、どんな手を使ったって、クラウス・V・ラインヘルツについて行く。それが、俺だ。
「・・・すまない」
クラウスが再び謝ると、スティーブンは苦笑した。
「謝ってくれるなよ」
「しかし、」
「僕を侮辱したとでも思ったか?そんなにかわいげのある玉じゃないのは、知ってるだろ?」
これからこの街で戦っていかなきゃならない。その前に、この前途多難な状況を生き延びなければならない。クラウスに胃を痛めさせている暇はないのだ。
君のことはよくわかっているし、君が思うより僕は頑丈だから、何も気にすることなんかない。それより、こんなボロ屋で夜を明かさなければならないことのほうが問題だ。
「僕は君に、ただついて来たわけじゃない」
ぐっとクラウスがペットボトルの水を煽る。一気にボトル半分ほどまで水を減らすと、次にスティーブンを見たエメラルドの瞳には、もう輝かしい光が戻っていた。これだ。この光について来た。
今にもペットボトルを握りつぶしそうだな、なんて思っていると、ドォン!!とけたたましい爆発音が響いた。ただでさえボロボロのコンクリートが、パラパラと音を立てて破片を零す。
「やれやれ」
スティーブンは預けていた壁から背中を浮かせた。クラウスは案の定、ペットボトルを紙屑のように握りつぶしてしまった。ゆらりとリンゴ箱から立ち上がる巨躯が、さっきまで縮こまって気弱になっていた男にはとても見えない。
「休憩すらままならないな」
「うむ、スティーブン」
「うん?」
がらがらと崩れた壁の隙間から覗けば、すぐ隣の建物で爆発が起こったのだということがひと目でわかった。そしてそれが、人為的なものだということも、ガラの悪い異形たちの耳障りな笑い声でわかった。
「感謝する」
厳かに告げたクラウスに、スティーブンは笑った。
「あぁ、そうそう。それでいいんだよ、クラウス」
スティーブンはクラウスの肩をとんと叩いて、彼の一歩前に出た。楽しい街になりそうじゃないか。そうでなくちゃ。俺たちはこれからこの街で、狩りをして生きていくんだから。
ここは元ニューヨーク。名前はまだなく、これからヘルサレムズ・ロッドになる場所。