土産この時期にしては涼しい朝だった。
鍾離は往生堂の玄関を出て、階段を降り、すぐにその姿を目にとめた。
「・・・公子殿?」
橋の欄干の上に、見慣れたほっそりとした姿が立っている。額に手でひさしを作って、建物の間から朝日が昇る海を眺めているようだ。
「いつ戻った?」
今更、この男が橋の欄干に上るぐらいのことを気にする璃月人はいないだろう。そんなもの目ではないぐらいのやんちゃだと知れ渡っている。いや、七星ぐらいなら叱りつけるかもしれないが。
公子タルタリヤが旅人の少年に同行して稲妻へ向かったのは、ひと月ほど前だろうか。一度手紙が届いて、見たことのない仕掛けや侍との鍔迫り合いが楽しい、と書いてあった。
ぶわりと海風が彼の衣を靡かせる。こんなところに立って風を受ければ、常人なら足を滑らせてしまうだろうに、彼の真っ直ぐな立ち姿は一切揺らがない。
「昨日の夜中」
ちらりと振り返る彼の顔は朝日の逆光を受けていたが、相も変わらず整っていて、息災そうな色をしていた。朝日に照らされた髪が黄金に輝いて、何とも美しい。
「よく、稲妻から戻ってこれたな」
「離島ってところからは、貿易船が出入りしてるからね。金を出せば璃月行きでもスネージナヤ行きでも乗れるさ」
「まだしばらく、稲妻を楽しんでくるつもりかと」
「なぁに?先生は俺が帰ってきて嬉しくないの?」
「さてな」
ふと笑うと、タルタリヤはむす、と唇をへの字に曲げて見せた。彼らしい、芝居がかった仕草だ。
「相棒はどうにも、ファデュイと縁があるらしい」
「何?」
タルタリヤはまたも芝居がかって、わざとらしく肩を竦めて見せた。
「大丈夫だよ。あの子は死にやしない。殺せやしない、かな?」
なるほど。旅人はまたもファデュイの前に立ちはだかったのだろう。それで、タルタリヤが旅人の側に着いているのも都合が悪くなってしまった。かと言って、今更あの子を裏切る気にもなれない。
そこで、こっそり旅を抜け出して璃月に帰ってきた、というわけか。旅人はきっと、稲妻でも仲間を作って愉快な旅をしているだろう。
「公子殿」
まだ朝も早い時間で、人通りもない。鍾離が差し出した手に、タルタリヤは笑いながら応じてくれた。鍾離の手を取り、すとんと軽い足取りで欄干から降りてくる。
ふ、と触れるだけのキスをして、それが気のせいだったかのようにタルタリヤは微笑む。
「折角恋人が帰ってきたんだから、歓迎ぐらいしてくれるだろ?」
「そうだな」
鍾離はするりとタルタリヤの指に自らのそれを一瞬絡めるようにして撫でたかと思うと、すたすたと歩き始めた。
「どこ行くの?」
「少し歩こう」
「先生の部屋は?入れてくれないの?」
「いいから、おいで」
鍾離が促すと、タルタリヤは渋々と言った様子でついて来た。おいでだって。言うようになったね、と生意気な口も懐かしく感じる。
彼と歩く璃月は、何となく鮮やかで明るく見える気がする。隣に追いついたかと思えば、子犬に気を取られて足を止めたりする忙しない様子も相変わらずだ。
「稲妻の土産話でも聞かせてくれ」
「いいけど、その話すると俺が璃月大好きみたいになっちゃうよ」
「それは嬉しいな。是非聞かせてくれ」
「ほんっとに意地が悪いな」
少し遠回りをして海辺の市場まで辿り着く。まだどこの店も開いておらず、朝食が人気の屋台もこれから準備に取り掛かるところだった。
桟橋に放置されてる木箱に腰かけて、鍾離はタルタリヤを見上げた。やはり彼は海が似合う。
「稲妻は、」
タルタリヤは市場の商人たちをぐるりと眺めた。璃月人もいれば、スネージナヤ人もいる。品物を搬入しに来たモンド人も。
「笑ってる人が、少なかったな」
「・・・そうか」
「なんかみんな、ピリピリしてるって言うか、一歩間違えば人生が終わるっていう、そういう・・・、間違いを許さない雰囲気があった」
鍾離の脳裏に久しく会っていない雷神の顔が思い浮かぶ。厳格に永遠を追い求める彼女は、民と国をどうしていきたいのだろうか。
「それ見てたらさ、璃月って先生らしい国だなって思って」
「俺らしい?」
「先生は、人と楽しいことや美味しいものを共有するのが好きでしょ?璃月みたいだ」
なるほど。そうだとすると、稲妻は実に彼女らしい国ということなのかもしれない。指導者次第で国というものはどうにでも変わってしまうということだ。
民は神の子だ。例えどんな理不尽な政策でも、どんな苦しい状況でも、多くの民は神に従うしかない。そして多くの民はその真意など知ることはない。
「彼女に会ったのか?」
「雷神?いや、俺は遠目から見てただけ。相棒は今頃お尋ね者だよ」
「公子殿」
「大丈夫だよ。現地のスネージナヤの商会に何かあったら情報入れるように指示してあるし」
それにあの子はお尋ね者初心者じゃないだろ、と悪戯な視線を向けられる。そう言われると、鍾離はぐうの音も出ない。鍾離のせいで無実の子供をお尋ね者にしてしまった過去があるのは事実だ。
「ねぇ、先生」
「うん?」
「寂しかった?」
見上げると、海色の瞳がちろりと鍾離を見下ろしていた。
「お前から手紙を貰うのは、悪くない経験だった」
「何その答え」
「家族になったような気分だった」
そう言って笑むと、タルタリヤは眉を顰めて鍾離を見下ろす。そっと鍾離の肩に手を置いたタルタリヤは、腰を屈めて掠めるようなキスをした。
「先生が俺の家族だって?」
「家族とよく手紙のやり取りをしているだろう?」
「家族にこんな感情は持たないよ」
そうか、と口に出したつもりの言葉は、消え入るように掠れてしまっていた。タルタリヤはご機嫌にくすくすと笑いながら、小さな石の欠片を取り出す。
「これは?」
「お土産。相棒からね。璃月に帰るって言ったら、先生にあげてくれってさ」
それは紫水晶だった。光に翳せば透明な紫色が輝く、上質な石だ。美しく鋭利で、静かな色を宿している。あぁ、彼女に似ている。
「先生、石が好きだからってさ」
「そうか。今度会ったら、礼を言わねばならないな」
鍾離はタルタリヤの顔を見上げた。この男が笑って顔を見せてくれたことが一番の土産であることは間違いないのだが。
「彼女は、変わりなかったか?」
つい、そう口にしてしまった。変わりがどうかなんて、過去に彼女を知らないタルタリヤには知る由もないだろうに。
「さぁ?今度相棒に聞きなよ。あの子は雷神と一戦交えたんだから」
ということは、タルタリヤは旅人が雷神と刃を交わそうという時にただ見ていたというのか。手も出さず、旅人を庇うこともなく。随分とらしくないことだ。
「せんせ?」
「む、」
「俺、先生のその顔嫌いだよ」
ずい、とタルタリヤの整った顔が鍾離の眼前に迫る。
「その顔、とは?」
「旧友を懐かしむ顔。今じゃなくて過去を見てる」
「・・・」
何も言い返せなかった。ここに、鍾離の国へ帰ってきたのは他ならぬ公子なのに、疎遠になったかつての友を思ってしまった。それは事実だ。
「夜までに、その顔直しておいてよね」
「夜?」
「そ。俺からのお土産を持っていくよ。その時は、部屋に入れてくれるだろ?」
「まさか、公子殿からの土産まであるとは」
「はは、忘れたの?俺は家族にお土産を選ぶのが大好きなんだけど?」
「そうだったな」
お前が言ったのではないか、家族ではないと。それでも家族同様に、楽しそうに土産を選んでくれたのだろう。そう思えば愛しさが込み上げてくる。
「公子殿」
そっと白く細い手を掴む。
「何?」
「おかえり」
「随分と今更だね。ただいま」
「好きだ」
「知ってる」
「長いひと月だった」
「嘘つけ」
「会いたかった」
「えー・・・、それは本当だといいなぁ」
「本当だ。手紙というものは、実に恋しさを煽るものだな」
「長く生きてる癖に。そんなことも知らなかったの?」
「あぁ」
「だからいつも言ってるだろ?故郷に帰りたいって」
「そうだな」
「今はまだ家族に会えないからさ、先生で我慢しといてあげる」
「俺は家族に適うか」
「敵わないけど、先生も好きだからね」
ざざ、と波の音が聞こえる。朝市は活気が出はじめ、呼び込みの声が聞こえる。それを眩しそうに眺めて、タルタリヤは微笑んだ。嗚呼、美しい男だ。
「はい、先生」
「?」
タルタリヤは鍾離の手に多少のモラを握らせた。首を傾げると、朝ご飯代ね、と笑う。
「・・・俺は子供のようだな」
「今更?」
「今更か」
「今更だよ。お金の計算なんて、璃月じゃ子供でもできるでしょ」
「確かに」
「店に迷惑かけるといけないからね」
そう言って、タルタリヤはひらりと手を振った。夜中に璃月へ到着して、早朝に鍾離に会いに来てくれた彼は、まだ旅の疲れが抜けていないのだろう。
ほど近い旅館へ向かって歩いて行く背中を見ていると、妙な安堵を覚えた。翻る肩巾が、どうにも懐かしく思える。たかがひと月程度離れていただけなのに。
鍾離は腰かけていた木箱から立ち上がり、手の中の小銭を眺めた。朝食ではなく安酒を買おう。そしてそれを彼と酌み交わそう。そのほうがずっと、自分にとっては有意義だ。