剣の娘と月と猫 1 月島は、目の前で繰り広げられている光景を、頭の中で整理しようと四苦八苦していた。
会社から帰るいつもの道である。月島のアパートは都内の勤め先から地下鉄で四十分ほど、駅から歩いて十五分ほどだ。抜群とは言えない立地だが、独りで暮らすには充分以上に広く安価なのが気に入っている。
奨学金で大学に通い、中堅どころの商社になんとか就職して早や八年。帰宅は大概夜遅くて、人通りも少ない。途中のコンビニで夜食や酒のつまみを買い、それをぶら下げて歩いていると、ふらりと猫が目の前に現れる。
右目が潰れた黒猫だ。
いつも、何か分けてもらえないかと足元に絡みついてくる。月島が買うものは何しろ酒のつまみが主なもので、分けてあげられるような食べ物がない。弁当の白米を少しあげるくらいだ。かと言って、猫缶をわざわざ買ってやるのも気が引けていた。そんなものを買ってやったら、飼ってやらねばなるまい。月島のアパートはペット禁止であった。
その猫が今、虎と見まごうほどの巨躯に膨れ上がり、そしてそのどう猛さに似合わぬほど器用に民家の塀の上に立ち、こちらを睥睨している。
それに対峙しているのが、日本刀を構えた女子高生だ。月島を背に庇い、猫と睨みあっている。
初めて彼女を見かけたのは、自宅最寄りの駅である。出社時、朝に駅で見かけたときは、随分と清浄な空気を纏った綺麗な子だなと印象に残っていた。紫色の長い袋に入った棒状のものを左手に持ち、黒いセーラー服を着ていた。ショートボブの黒髪に褐色の肌が、健康的で溌剌としていて、月島には眩しかった。その子を帰りの駅でも見かけた時は、あれこんなに遅くに帰ってくるのだな、部活が厳しいのか、塾なのか、学生も大変だと思った。翌朝もまた見かけ……結局彼女はこの三日ほど、ずっと月島の周囲をうろうろしていた。
最初は気のせいかと思ったのだが、都内での外回りの最中にふと後ろを振り返ったら、彼女と目が合った。飛び上がった彼女は、急いで傍の電柱に隠れたのだ。尾行があまりにバレバレで、何かのどっきりかと思ったくらいだ。
——これは関わりあいになってはいかん……。月島は持ち前の危機察知能力に従い、彼女を無視することにした。こちらはアラサーの独身男性である。女子高生に声を掛けるのは、相当のリスクがある。
すたすた歩きだした月島の後ろを、ショックを受けた顔をした彼女がずっとついてきていた。帰社したときにも、まだ後ろにいた。なんなんだこれは……と思いつつ、今日の残業はいつもより長めにした。社を出ると、今度は堂々とビルの前で待っていた。しかし別に声を掛けてくるわけではない。ただ、月島の後ろをついてくるのだ。
——本当になんだこれは……。声を掛けてくれれば、どういうことなのか聞けるのに。
あくまで自分から行動することには抵抗があり、もくもくといつものルートを辿る。コンビニにも寄り、いつもの煙草と缶チューハイ、おにぎりとカップ麺を買った。
実は、今日は三十歳の誕生日である。コンビニ飯で済ませるあたり、月島の境遇を端的に表しているだろう。親戚と呼べる係累もなければ、恋人もましてや妻もいない。彼は、独りである。
——誕生日にこんな目に遭うなんて。
己の不運(いや女子高生のストーカーとは幸運なのか?)を呪いつつアパートまで到着すると、片目の猫がみゃおうと声を掛けてきた。
「おっ……」
この五日ほど姿を見ていなかった。どこ行ってたんだと言いかけたら、「おい!」と鋭い声が後ろから飛んできた。
「今すぐその猫から離れろ!」
凛とした硬い鈴のような声だった。件の女子高生だ。
「えっ……」
「離れろと言っている! 危険だ」
危険、とは。目の前にいるのは、いつもの猫だ。引っかかれたら痛いだろうが、危険というほどのことではない。
一体何を……と思っていたら、猫がひょいと塀の上にひと飛びで乗った。見る間に、ぶわぶわと毛が逆立っていく。二倍、三倍、それ以上に大きく膨れ、月島は目を疑った。
小さな黒猫だったのだ。抱き上げれば、簡単に月島の腕に収まるほどに。それが今は、ふしゅうと口の端を歪めて吐き出される息も荒々しい、巨大な獣となっていた。
呆然としている月島の顔を見、猫は明らかに笑った。口の片側がきゅうと上がり、実にニヒルな笑みを見せた。
「危ないと言ってるじゃろ!」
女子高生は紫色の袋の口を解いた。龍の彫り物が施された柄を嫋やかな手が握る。しゅるるる……と冷ややかな音をたてて、白刃が鞘から抜き放たれた。
「えっ……」
刃物⁈ と驚愕している月島の前に、女子高生は躍り出た。
「私の後ろから出んで! こん猫はただの猫じゃなかぞ! 化け猫じゃ!」
——化け猫……?
絶句している月島と、守るように剣を構えている女子高生の前で、黒猫はびろうどのように滑らかな黒い毛皮をゆったりと動かした。巨躯の筋肉の流れに沿った毛が、波のようにうねり月光を跳ね返す。美しい獣だった。
じり……じり……と互いの間合いを計るように猫と女子高生が移動していく。女子高生は月島を自らの背から外さないようにしている。女子高生に守られているという事実に、月島は頭がぐらぐらする思いがした。
——なんなんだこれは……。なんのどっきりだ……。
今日は四月一日だ。『今日誕生日だ』と本当のことを言えば、皆が笑ってハイハイといなす、そんな日なのだ。エイプリルフールとはいえ、こんな大掛かりな嘘など、誰が月島のために準備するだろう。
女子高生の構えているのは真剣だ。光の跳ね返し方が違う。白刃とはよく言ったもので、ぎらついているというより、白く輝きながらごく静かにその場に存在する。しかしおそらく、ほんの数ミリ触れただけで、皮膚は簡単に裂けるだろう。肉は刃をやすやすと沈めていくだろう。
ふひゅう、と猫の口元が動いた。黄色い牙が、収まり切れずに覗いている。塀をがっちりと掴んでいる爪は大きく、鋭い。もしも、これが激突したら……。
「待ってくれ」
考えるよりも先に、身体が女子高生の前に出ていた。
「お前、本当にあの猫か」
「ちょっ……危ないって言ってるじゃろ!」
「君もそんなもの出すな、危ないだろう!」
「なっ」
「もう一度聞く、お前、あの猫か? 俺に食べ物ねだりに来ていた、あの可愛い子か? だったら、元の姿に戻ってくれ」
「何をゆちょっ! こん姿が本当の姿じゃ! お前が惑わされているんだ!」
「黙ってろ!」
振り向いてぴしゃっと言葉を叩きつけると、ぐぅっ、と女子高生が口を歪めて黙った。この隙にと、また猫に向かう。
「頼む。戻ってくれ。その姿では、この子も刀を収めるわけにいかないんだ。俺にも、お前のその姿は危険に思える。頼む。あの可愛い姿に戻ってくれ」
このくらいの、というように、両の手のひらを前に出した。
猫は、月島の手をじいっと見ると、みゅう~~と可愛らしい声を出した。いつもの、食べ物をねだる時の声だ。ひょいと地面に下りた。体重を感じさせないしなやかな動きだ。
一歩、猫がこちらへ足を出す。月島も、一歩出る。
その時。
上から下へ一直線にひゅぱっと空気が切れた感触がした。月島は思わずその気迫に身構えた。女子高生が上段から地表まで、雷撃の苛烈さで刀を振り下ろしたのだ。
「私を差し置いて調伏を試みるとは片腹痛いわッ!」
いかに鈍い月島にも見える。女子高生の周囲には、冴え冴えとした白金の憤怒が渦巻いていた。
「化け猫! 貴様はこの私、鯉登音之が退治してくれる! 勝負じゃあ、かかって来ッ!」
「待て待て待て、本当に待て! 君は何を言ってるんだ!」
「何を言ってるんかは、お前ん方じゃあ、ばかすったれッ! 見てわかんじゃろ、こいつは、お前の魂を喰らいに来たんじゃ、狙われとんのは、お前じゃあッ」
——はぁ?
月島が、吠え立てる女子高生の剣幕に一歩下がったタイミングで、猫はまたひょいと塀の上に戻った。
「あっ……」
二人が思わず見上げると、猫は見えている左目をぐにゃっと歪めた。それがまた、笑っているような表情だった。とん、と軽々と跳ねた巨躯は、とん、とん、とさしたる足音もたてずに屋根の上へと移動していく。一番上まで辿り着くと、するすると小さくなり、気配を消してしまった。
——逃げた……?
とりあえず戦闘を避けたとわかり、ホッとした気分で残された女子高生に目をやると、ぷるぷると震えている。やはり怖かったのか? と思ったら、きっと睨みあげられた。
ぱあん! と小気味よいほどの破裂音が鳴る。女子高生が力の限りのビンタを張ってよこしたのだ。
「こんばかたれがぁッ、逃げられたじゃらせんか! どげんすっと、今がチャンスだったのに!」
ぶたれた左頬に手をやると、みるみる熱が漲ってくる。眦を吊り上げた切れ長の目が、怒りに燃えていた。困っているような特徴的な眉も、今は激怒しているとはわかる。つやつやの唇から発せられるとはとても思えないような激烈さで罵倒されて、呆然とした。
「だって……危ないだろう、あんなの。君もそんな日本刀振り回してどこか切ったらどうするんだ……」
何より猫を殺したくなかった。そして、この子が猫を殺すところも見たくはなかったのだ。
ふん、と鼻息荒く、女子高生は胸を張った。
「見くびってもらっては困る。この鯉登音之、幼少から鯉登家の秘術を会得するための修行を欠かしたことはなか。家を継ぐのは兄さだが、鯉登の血の濃さは私にある。あれしきの化物、私の手にかかればなんのことはなかぞ」
——だからその、鯉登家ってなんだよ……。
どこから何をどう突っ込めばいいのやら。月島は諦めた。諦めて、落としてしまっていたコンビニの袋と自分の鞄を拾って、歩き出した。頬が痛い。冷えピタあったかなと考えた。
「あっ、どこに行く」
「おやすみなさい、さようなら」
アパートの階段を昇っていくと、女子高生もついてきた。
「おうちに帰りなさい、さようなら」
「うちは薩摩じゃ」
「……はあ、それは大変ですね、さようなら」
ドアの鍵を開けた。ドアと月島の身体の隙間を縫って、するりと潜り込んだセーラー服の襟首を、すんでのところで掴んだ。
「何するんじゃ」
「それは俺のセリフです。帰りなさい」
「こんな夜中にか?」
「こんな夜中だからですよ。あなた、ここんとこずっと俺の周りうろちょろしてたけど、どこかで寝泊まりしてるんでしょう? そこに帰りなさい。薩摩じゃないでしょう」
「おなごを一人で放り出して、お前なんとも思わんのか」
「ポン刀振り回す人の言うことではないですね」
「ずうっと野営しちょった。そろそろ布団が恋しい」
「……はあ?」
「お前を見たとき、これはまずいと思った。お前は随分と悪いものに好かれる体質だな。肩こり、ひどいだろう。祓ってやるから、ちょっと放せ」
顔を歪めて不審げな顔をした月島だが、いつまでも掴んでいられず、襟首を放した。女子高生は、月島の正面に立った。女子にしては長身だ。ヒールでも履けば、月島より上背がある。ちょっとムカつくが、これは仕方ない。
女子高生は、月島の両肩に手を置くと、左肩から右肩へと、尖らせた唇でふうっと息を吹きかけた。
くらっとするような、芳香だった。この子の息の匂いなのか。
「……ん?」
月島はひどい肩こり体質だ。姿勢が良くないのがいけないのかとか、運動不足のせいなのかと筋トレに励んでいる。毎晩長風呂に浸かって温め、マッサージしないと頭痛がしてくる。それが今、突然軽くなった。思わず右手で左肩を揉んでみたが、固さがない。
「な?」
にこっと小首を傾げて笑いかける女子高生が、女神に見えた。肩こりの女神か。安っぽい名前だが、有難がる衆生は多いだろう。
「お前な、肩や背中に一杯憑いてたぞ。重いから力が入って肩がこる。頭痛もそうだ。私がいれば、苦痛から解放されるぞ」
「憑いてる……?」
「そうだ。そういうのに好かれるのに、お前自身は何にも感じないんだな。生半可に見えると病んだりするから、かえって良かったのかもな。子供のころからじゃないか?」
「さあ……どうだったかな」
珍しく軽い肩を揉みながら、月島は困惑した。
「ところでな、トイレ借りたいんだが、いいか?」
「えっ」
「ダメか?」
昨日掃除したところだ。多分問題ない。
「そのドアですよ」
「あいがと」
さっと靴を脱いで、部屋に上がってしまった。月島は片手で目元を押さえ、自分の迂闊さを呪った。
月島も部屋に上がって、リビングに鞄を置いた。カップ麺を食べる気もしなかったが、お茶でも淹れようかとやかんに水を満たして、ガス台に置いた。
女子高生は、お湯が沸く前にリビングに入って来た。物珍しそうに、きょろきょろしている。
「お茶飲んだら出ていきなさい」
「お腹空いた」
「は?」
「お腹空いた!」
聞こえてないのかとばかりに、はっきりともう一回言った。
「……カップ麺でいいですか」
「よかよ」
ぽすんとソファに腰を下ろした。ものの一分で、まるで自宅であるかのような寛ぎっぷりだ。
——雨の日に可哀想に思って拾ったんだけど、一週間もしたらこれよ、と人間みたいな大の字で寝ている子猫の写真を会社の同僚に見せられたことがあるが、それ以上の速さである。
冬は布団をかけてこたつになる小さな四角いテーブルで、今買って来たばっかりのカップ麺を女子高生が啜っているのを眺めている。昨日の自分に教えたら、そんな馬鹿なと笑うだろう。月島は二個買ったおにぎりのうち、梅干し入りのビニールを剥いた。月島の好みはしっとりした海苔の方だ。腫れてきた左頬にはとりあえず、風邪をひいた時に使って残った冷えピタを貼った。叩いた本人は「たまに食べると美味いな!」と、ちゅるんと麺を啜ってにこにこしている。
「……野営ってどういうことですか」
「お前を見かけて、だいぶ業が固まっているなと思ったんだ。何かの脅威が差し迫っていると思って、監視していた。私の修行も兼ねているのでな、必要があれば野営もする」
「業?」
「うむ、ありていに言えば、因果応報かな。原因があって、結果がある。あの猫がお前を狙うのも、何か理由があることかもしれんで。何か心当たりはないか? 親に聞けるといいんだが」
「親はいないですね。うちは早死にの家系で、祖父母もいないし、両親も俺が中学の時に事故で死んでいるので。その時に俺を引き取れる親戚がいないか調べてもらったんですが、まるっきりいなくて、結局施設行きだったので、係累がいないのはだいぶ確実な話……」
箸を止めて、目を丸くしている。しまった、親が死んだ話は、思春期にはヘビーだったろうか。こちらに何も思惑がなくても、こういう話は相槌に困るものだ。
「あっいやもう、だいぶ昔の話なので。気にしないで。独りでいるのがもう普通のことなので」
「独りって……ずっとなのか」
「いや、言い方悪かった。婚約者がいたこともありますよ。ただ、そういう、親戚が誰一人いないっていうのが不気味がられることもあって、気にする人は気にするから、仕方ないんですが」
——何を言ってるんだ。墓穴を掘りまくっている。いくら焦ったとしても、そんな話、この子には関係ない。
「……彼女も奥さんもいないんだな」
「いたら、今日くらいは独りではいないでしょうね、誕生日なんですよ。嘘じゃないのに、誰も信じてくれない……」
笑い話のつもりだったのだが、余計に目を瞠った彼女の顔に、ああ喋りすぎたと後悔した。
「今日誕生日なのか! 早よう言えばよかのに」
いや正確にはもう昨日だ。日付が変わっている。しかしそんなことはどうでもよく——。
「ハッピーバースデー、トゥユー」
女子高生が、明るい声で歌っている。
「ハッピーバースデー、ディア……ディア?」
名前はなんだと問われている。
「月島、基……」
「ディア基ぇ」
にっこぉ、と弾けるような笑顔で歌われた。
「ハッピーバースデー、トゥユー」
はい、と箸を突き付けられた。薄いチャーシューが挟まっている。なぜそれを一番に食べないのかと思った。いいものは一番最初に食べる癖がついている。そうでないと、誰かに取られてしまうから——。
「早よう、落ちる」
急かされて、あむっと食いついた。紙のように薄いチャーシューだ。しかし……。
「美味いか?」
飲み込んでしまうのが、ひどく惜しかった。でも飲んでしまえば、彼女の笑顔ごと、自分の血と肉になる。
「……ええ。ありがとう」
頷いた月島に、女子高生——鯉登音之は嬉しそうに微笑んだ。
続く