剣の娘と月と猫 3 翌朝も、音之は白米を上手に炊いた。月島が納豆をしゃかしゃかかき混ぜていると、辛子足りるか? などと聞いて来たり、みそ汁の塩梅を確かめたり……昨夜のことはなかったかのようにふるまっている。
月島も、わざわざ蒸し返すようなことはなく、出勤の準備をした。そして、いってきます、いってらっしゃいと言いあい、狭い玄関を出た。
明け方にうとうとできたくらいで、まんじりともせずに過ごしてしまった。彼女が眠れたかどうかはわからない。腕の中の静かな呼吸が、その存在を示すばかりだった。
外階段を下りていくと、白いビニール袋を提げた杉元が、あくびしながらアパート前の道路を歩いてきた。近くのコンビニに行って来たらしい。声をかけると、間が悪そうな顔をして、謝られた。
「ごめんね、俺、めっちゃ無粋なマネした……酔っぱらってたんだよ」
フリーターの杉元は、生活時間がめちゃくちゃだ。金に困っているようで、バイトをいくつも掛け持ちしている。今日は道路工事、明日はビル清掃、といろいろだ。気のいい男で顔もいい。立ち回りを間違えなければ、もう少し実入りのいい仕事ができそうなのにと月島は思う。
「いや、誤解しないでくれ。全然そういうんじゃなかったから。でもうるさかったんだろう、こちらこそ悪かった」
「え~女の子連れ込むなんて、月島さん意外とやるなあと思ってたのに」
「本当にそういうんじゃないんだ……」
まったく信憑性は感じられないだろうが、相手が女子高生では手も足も出ない。
「ちょっと事情があってな、少しの間、預かってるだけなんだ。すぐ出ていくだろうから」
ふうん、と頷いた杉元が持っているコンビニ袋に、猫缶が見えた。
「杉元、お前また……」
あっ、と慌ててコンビニ袋をTシャツの腹の中に丸めて突っ込み、えへへと誤魔化し笑いをした。
「ペット禁止だぞ。ばれたら退去だろ」
「うん……でもさ、アイツ最近出てこないだろ? ごはん置いといたら来るかなと思って」
杉元も、あの黒猫に餌をやっている。調子のいい猫である。なのに、あんな姿になるなんて……杉元も知らないのだ。たとえ教えても、信じられないだろう。実際、月島自身もあの夜のことは夢の中の出来事のようだった。音之が部屋にいるから、事実だと思えるだけだ。
——杉元に任せてしまおうか……。もし音之に見つかったら、またあの騒ぎになるのだ。それはどうしても避けたい。
「なあ、杉元。お前、あの猫引き取るつもりあるのか?」
ううん、と杉元は考え込む。
「その方がいいんだろうなあとは思うんだけどさ、あいつ、神社裏の剣道の爺ちゃん先生のところにも出入りしてるみたいじゃん? 抱っこされて散歩してるの見たことあるし、道場に通ってる子供の話だと、寒いときには火鉢で暖取ってたりもするんだって。相当可愛がられてるから、俺んとこに来てもなあ、またふらっと戻るかも」
「そうか……今回も、そこにいるのかもな」
「もう春だしあったかいし、恋人ができたかもしれないしね」
じゃあ、と手を振って杉元は家へ戻っていった。ちらっと、音之とかち合ったりするだろうか……と心配もしたが、とにかく事情は話した。妙なことをする男でないのは、わかっている。
これからどうしたものか……一緒に住むわけにはいかないし、あの猫を退治するというのも困る。猫もこのままそっと逃げてくれればいいのに。もちろん化け猫だとは驚いたが、人語を理解しているような賢さを見せるときがあり、むしろ普通の猫でないと知って納得した。
出社して業務中も、ふと、今音之はどうしているのだろうかと気になった。今までの様子からして、だいぶ肝の据わった子のようだし、勝手に過ごすだろうが……。連絡先がわからないことに今更気がついた。生憎、携帯があるからと家に電話もない。そうか、向こうからも、何かあっても言ってこれない!
思わず腰を浮かしかけて、いや、どうすればいい? と席に座り直す。こうして考えてみると、月島には頼れる人間がいないことに愕然とした。今まで何もなかったのが奇跡的だったにすぎない。
「係長、すみません」
部下の谷垣が、おずおずと声をかけてきた。仕事はできるのだが、いかんせん少し押しの弱いところがある。優しさゆえか、相手の事情に肩入れしすぎるようで、営業マンとしてはもう一つ脱皮してほしい。
「どうした。何かあったか」
「は、あの……」
あの、あの、と言い出せずにいる谷垣の膝を、後ろからコンと突いて崩れ落ちさせた男がいた。主任の宇佐美である。有能だが、少々性格に難があり、総務でうまく扱いきれなくて営業の月島の元に来た経緯がある。しかし実際に仕事となれば意外に的確に動く。どうも月島の上司である鶴見部長の元に来たくて、計画的に揉めたらしい。鶴見部長に「月島の指示は私の指示と思いなさい」と言われてからは、目立ったトラブルはない。ただ、谷垣には「イライラする」と当たりが強かった。
「とっとと言えよ〜係長だって迷惑だろ」
「宇佐美。虐めんな」
月島が嗜めると、谷垣が違うんですと焦った。
「すみません……宇佐美主任は係長に相談すればって勧めてくれたんです」
「うん? なんだ」
「あの……実は嫁が産気づいたって連絡が来て」
「え⁈ 何してんだお前。早く帰れ」
数ヶ月前、谷垣は授かり婚をした。姉さん女房にはすっかり尻に敷かれているらしいが、だからこそより仕事を頑張っている。そろそろ生まれるとは話題になっていた。
「でも今日、接待が」
あ、と月島は額を叩いた。
「そうだった。山田さんか」
「はい、副社長もご一緒です」
取引先の(株)ヤマダトラストは小さい会社だが、山田社長の姉・副社長のフミエ女史が異様に幅広いコネクションを持っていて、侮れない存在だ。谷垣は女史に気に入られていて、口の悪い彼女をいつも任されている。
「わかった、俺が代わる」
「いいですか」
「もちろんだ。しかしお前からも断り入れておけ」
「はい! ありがとうございます」
他の社員たちからも早く行け〜! と送り出されて、谷垣は急いで帰って行った。
「係長優しい〜」
からかい半分のような声音で、宇佐美はニヤニヤしている。
「宇佐美、お前も来い」
「うへえ〜」
「鶴見部長も一緒だ」
「知ってますう♡」
手を胸の前で組んでシナっと身悶えた。
「山田社長って鶴見部長の古くからのお知り合いなんでしょう? 僕もお近づきになって昔話お聞きしたかったんです。フミエ女史は係長のことも気に入ってますよね」
「そんなことないだろう、バンバン言われるぞ。いつまで独身なんだ、その立派な……」ゴホンと咳払いをして誤魔化す。つい口が滑った。
「立派なちんぽもったいないだろって?」
周囲にまだ女子社員もいるのに、全く遠慮がない。おい、と短く注意すると、口を抑えて「わあすみませえ〜えん」と反省の色のない謝罪を受けた。一事が万事この調子なので、なるほど女子社員が多い総務には置いておけないわけだ。しかし不思議なことに、異動を惜しんだのは女子社員たちの方らしい。結局は上層部が大慌てしただけだった。今でも総務部とは仲良くしていて、何かと事前情報を引っ張ってきては鶴見部長に「よくやった」と褒められてはうっとりしているのだから、月島にはわからないことばかりの世界である。
「……とにかく、六時にエントランスな」
「あ、そういえば、月島係長、女子高生に興味あります?」
「はあ⁈」
めちゃくちゃドスの効いたでかい声が出た。周囲五メートルの社員が驚いて飛び上がる。
「どういう意味だ」
反応が意外だったのか、宇佐美の目がカッ開いて月島を見つめている。まん丸のガラス玉みたいな目の奥で、チラチラチラチラ思考が動いているのが見て取れた。
「イエ、ナンデモナイデス……」
何かに操られてでもいるような不自然さで撤回すると、そそくさと離脱していった。周囲から何ごとかと視線を浴び、月島も席を立った。
つい声を荒げてしまった……修行が足らぬ。しかしこうなると、さっきの問題がまた浮上してくる。
多分帰宅は終電近くになってしまうだろう。今までは、電車を逃せば適当にカラオケなりスーパー銭湯なりで始発まで過ごしたが、遅くなるのに音之に連絡しないのはどうだろう。別に彼女でも家族でもないのだから、月島にその義務はなさそうに思うが、それにしても落ち着かぬ。
喫煙所でタバコを短いスパンで吸いながら考え込み、やがて、決死の覚悟でスマホを持った。
「もしもし。突然すまん、頼みがあるんだが……」
『どうしたの、月島さん。珍しいね』
杉元だ。他にどうにかしてもらえそうなツテはない。
「今、家か?」
『うん』
「本当にすまん、このまま隣に行って、このスマホを中にいる子に渡してもらえないだろうか」
『ええ……?』
頼む、と電話の向こうに頭を下げていると、ちょっと待ってねとゴソゴソし出した。キイ、カタン、と音がする。頼みを聞いてくれるようだ。本当に良い奴である。
——コンコン、すみませーん、はぁいどちら様、あの俺隣の杉元って言うんですけどコレ月島さんと繋がってるんで、え? ないごて? 俺もよくわかんないんだけどなんかキミに渡してくれって、月島が? うん……。
——杉元と音之が話しているのを盗み聞きしている気分だ。何かわからないが、喉元をもやっとしたものが掠めた。いや、自分で頼んだことだし杉元に非はない。それでも、ぞわぞわした気持ちが湧いたことに、狼狽える。
『もしもし』と訝しげな音之の声が聞こえた。
「音之さん」
『本当に月島? どげしたん?』
月島の声と認識した途端、跳ねて可愛い声になった。さっきのもやもやがスッと溶けた。
「すみません、一応伝えないとと思って……今日、急な接待で遅くなるので夕飯は一人でとってください。連絡方法がなかったので、杉元に頼みました」
『そうか! そういえばそうだったな。今、私の番号言うけどよか?』
慌てて懐の手帳を取り出す。仕事でデジタルも活用するが、アナログの方が落ち着くタチだ。
「戸締まりして、先に寝ていていいですよ」
『わかった。うふふ、夫婦見てじゃね』
自分でもそう思った。
「馬鹿なことを。杉元にかわってもらえますか」
持ち主に、丁寧に礼を言った。いいよ〜と言う声音がニヤニヤしている。今度何か奢らなくてはなるまい。
電話を切って、やれやれ……と安堵した。書き取った番号を見つめる。家に帰れば居るのに、連絡ができると思えばホッとするのは何故だろう。
——こんなの久しぶりだな……。
同い年の幼馴染だった元恋人のちよと別れてもう何年経つやらと考えて、慌てて頭を振った。なんと不埒な。音之は未成年だ、妙な目で見ていい相手じゃない。大胆に迫ってくる女子高生に鼻の下を伸ばしすぎた。明日には絶対に出て行ってもらおうと決意を新たにした月島であった。
早めに帰るつもりだったが、そうもいかなかった。二次会のスナックで、ちびちび水割りを舐めている。鶴見部長は懐メロを美声で響かせ、宇佐美をはじめママもチイママもうっとり聞き入っていた。
山田社長は朗らかな人格で、姉のフミエ女史にガッチリ抑えられているせいかあまり『社長』っぽいひとではない。ぽっちゃりしていて目がつぶらで、陽気に場を盛り上げられる。社員はほぼ若い女性ばかりだが、うまく回せているのだから手腕はあるのだろう。
一方フミエ女史は、いかにも女傑で歯に衣着せぬを地で行くので、男性社員がオタオタと及び腰になって居付かない。今どきは女から男へのセクハラも成立するが、そんな主張などしたら逆に激怒してそんなちんぽ切っておしまい! とぶちかまされるだろう。
「月島、飲んでいるのかい! なんだいシケたツラしやがってぇ」
「はい」
「全くお前さんときたらハイとイイエしか言えないのかい」
「いいえ」
「私にはわかっているよ、さっきからチラチラ時計見やがって……女だろ、女ができたんだろうッ!」
「いいえ」
なぜかわからないが、これでも月島は気に入られてるらしい。単に月島のスルー能力が長けているだけとも言える。
「まあまあフミエさん、そう苛めてやらないでください。月島も彼女ができたんなら正直に言いなさい」と鶴見部長にまで言われた。下戸の鶴見部長に注がれた酒は全て隣の宇佐美が飲んでいるので、歌で乾いた喉を烏龍茶で潤していた。
「そう仰られても、本当に女ができたわけではないので……」
「え〜本当ですかあ〜」
色白の宇佐美は首元まで真っ赤に染まっている。目元がすっかり淀んでいて、口調も心許ない。
「なんかあ、僕、見ちゃったんですよねえ、係長に女子高生のストーカーがいるのお」
——見られていた⁈
「女子高生? それは穏やかじゃないね」
「ですよねえ、で、係長に女子高生に興味あります? って聞いたらびっくりするくらい動揺するんでえ、あ〜これは〜って! キャハハ!」
べろべろに酔っている。とくしろうさあん、僕酔っちゃったあ気持ち悪いですうとしなだれかかる。鶴見部長は、おや大丈夫かい、トイレで落ち着きなさいと引きずって行った。上司だが、酒を嗜まないので結構気軽に介抱してくれるし、むしろ宇佐美はそれが目的の一つなので、言うほど酔ってはいないはずだ。
「へええ、そうかい、月島はロリコンかあ」
フミエ女史は、所詮男なんてみんなそんなもんだと唇の端をくいと歪めて蒸気機関車のようにタバコの煙を吹いた。
「いいえ。そう言うんじゃないので。訳あって迷惑被ってます」
「……ふーん。そうは見えないけどね」
意外にフミエ女史がしつこい。
「いいえ、本当に。恋愛はもうこりごりです」
キッパリ言ったが、やおらフミエ女史に緩めていたネクタイを引っ張られて、顔を近づけられた。
「ナマお言いだね。こりごりなんてえのはね、二十人くらい付き合って、それでもうまく行かなかったらお言いよ。童貞じゃああるまいし」
ふん! と鼻息荒い。俺の何を知っている、と言い返すこともできたが、堪えた。山田社長がまあまあと間に入ってくれた。
「心配してるんだよ、これでも。フミエさん不器用だからねえ、うまく言えないんだ。谷垣くんが幸せ掴んだから、月島くんも誰かいい子がいないかってあちこち探したりしててね」
「ちょっと! なんで言うんだい、サプライズにならないじゃないか!」
「あのねえ、お見合いにサプライズなんて最悪でしょう。好みってもんがあるんだから。いや実はね、谷垣くんにウチに勤めてる虹子くんどうかなって紹介したことがあるんだよ」
「え、そうなんですか」
「そうしたらね、気が合ったみたいなんだけど恋人じゃなくて師匠と弟子みたいになっちゃって。あれは笑ったな、彼女さんにプロポーズするのに恋愛相談の相手になったんだって」
——それはだいぶ虹子嬢に失礼だったのでは……?
月島の懸念が伝わったのか、山田社長は大丈夫と手を振った。
「虹子くんも谷垣くんとは友情以上になれないって言ってたから、お互いさま。それぐらい相性って難しいモンだからね。月島くんもさ、例え女子高生だってもしかしてしっくりくるかもなんだから、最初から心閉ざさなくてもいいんじゃない」
「え、いや……だって未成年ですよ?」
「あれ本当に女子高生なの」
しまった、と思ったのが顔に出た。
「はははッ、意外にやるじゃない。十六歳で結婚できるんだからいいんじゃないの?」
「親の承諾が必要だよ!」
フミエ女史からビシッと突きつけられた。
「……あり得ないです」
手元にあった水割りを、一気に煽った。スモーキーな香りが鼻腔を貫き、すっかり薄まった冷えたアルコールが胃に落ちていった。
あり得ない。もう一回、言葉を噛んで、飲み込んだ。
続く