勿忘草 1 ——これでいいんだ。問題ない。月島はこの数週間、何度も口の中で繰り返している。
「それはね、マリッジブルーってやつですよ、月島さん。男の人もなるんですよ。僕、業務柄何人も見てますからわかるんです」
総務部の江渡貝は、自分は未婚なのに何もかもを承知しているような物言いだ。入籍を控えて書類のやり取りがちょくちょくあるものだから、月島の顔が日に日にどんよりしてきていることに気がついたらしい。ファミリータイプの社宅に移る書類に不備があって呼び出されてしまったついでの指摘だ。こんな初歩的な記入ミスをするなんてとぷりぷり怒っている。いつもの『鬼の月島係長』だったらあり得ないと。
「マリッジブルーねえ……いや、俺はやっと結婚まで漕ぎ着けたと安堵しているとこなんだが」
「人の心がそんな簡単なもんですか」
「本当だって……」
「お相手は幼なじみさんでしたっけ」
「うん。もうずっと子供の頃から、いつも隣にいるってのが全然比喩じゃないくらい一緒にいる」
「飽きたんでは」
「はあ? まさか。いつでも可愛いし綺麗だ。飽きる訳がない」
「はーゴチソウサマですね。でも、かえってそういうところが、って場合もあるかもですよ」
「可愛いし綺麗なのに?」
江渡貝はわかってないなあとばかりに首を振った。
「人はね、ちょっと残念なところに惹かれるもんなんですよ。綺麗なばっかりじゃなくて変なパーツがあるとか、可愛いのにドヤ顔が不細工だとか」
「ええ……普通に可愛くて綺麗で十分だろう」
「そんな長い付き合いだったら、もっと早く結婚できたのになんでしなかったんです?」
「それは、俺のロシア出向が長引いてしまったから」
ウラジオストックにロシア進出の拠点を作るべく、鶴見部長率いる営業部隊に抜擢されたのである。当初は三年の予定だったが、ロシアは広大な難敵だった。生来の負けず嫌いが発揮され、難しければ難しいほど仕事に没頭し、いつの間にか五年も経っていた。
待っていてくれとは言えないなとは思っていたが、帰国したとき彼女は涙と共に迎えてくれた。三十路半ば、同い年の彼女がどれだけ心細く待っていてくれたのだろうかと感激し、プロポーズするのはごく自然なことだった。
——それなのにマリッジブルーとは……そんな馬鹿な。
「結婚してから行くことだってできたでしょうに」
「向こうも仕事していたし、ロシアで新婚生活も大変だろう。言葉もわからない、友達もいないで鬱になるとも聞くぞ」
確かに、郷里に住む同級生の間では子供が二・三人いるのは当たり前になりつつあったが、都会では三十過ぎても独身なんて珍しくもない。彼女も、当時はまだそんな気はなかったようだ。
「あー言えばこー言う……言い訳ばっかり」
今日の江渡貝は虫の居所でも悪いのか、やたらと絡んでくる。
「月島さんはよくとも、お相手の方はどうなんです」
「披露宴に向けて張り切ってる。ブライダルエステだの、ブーケは自分で作りたいからって教室通ったり……あと、子供の頃の写真でスライドショーだの、BGMの選曲だのってさ、忙しそうだ」
へえ、と全く興味なさげだ。結婚に興味あるから聞いたわけではないのか。
「僕、結婚願望はないけど、ドレスは縫いたいかな。裁縫が趣味なんです」
これには月島の方がへえ、だ。
「でも本当に、いつだって引き返せるんですからね。一時の気の迷いに一生棒に振るなんて馬鹿馬鹿しいですもん。戦略的撤退です」
「はいはい」
はいは一回! と叱られて解放された。
——やれやれ全くなんなんだ……。
実は、こんなことを言ってくるのは江渡貝だけではない。仲人を頼もうと鶴見に話を持っていった時も珍しく狼狽して、「本気か」と問いただされた。以前から交際していたことは知っているはずだし、ロシア赴任の時も「よく話し合えよ」と気遣ってくれた。距離と時間を乗り越えたことに喜んでくれると思っていたのだが……。
「まず冷静に考えなさい。今更急ぐことでもないだろう。お前の仲人だったらいつでも引き受けるから」
いや、既に五年も待たせているのだ。急いだ方が良くはないか。
部下の尾形と宇佐美もである。飲みに行けば酒の肴とでも思っているのか、根掘り葉掘り聞き出そうとしてくる。バーのカウンターで両隣に陣取られ、一体どこが好きなのか、惰性ではないのか、離れていた間に浮気はしていなかったのかまで言われた時にはさすがの月島も怒気を見せた。
「しつこいな」
「やだなあ〜これでも心配してるんですよ! 他に付き合ったことないんでしょ? 本当にその人でいいんですか。別の運命の人がいるかもしれないでしょ」と宇佐美が言えば尾形も「女なんてねえ、皮一枚下は狡猾な打算でできてるんですよ。あんた意外にウブだから」と追随してくる。
どういう言種か。大体どうしてこうも寄ってたかって反対してくるのか。何が気に入らんと言うのか……。
むしゃくしゃして、自分の机に戻る前に喫煙所に寄った。年々喫煙者は肩身が狭くなっていて、各階にあった喫煙所は今はもうビルに一ヶ所にまとめられていた。帰国して驚いたことの一つでもある。吸う人も減ったのか、月島が居る間に寄ったのは前山だけだった。
「あれ、月島くんだあ。ここで会うの久しぶりだね」
おう、と片手を挙げて迎えた。
「や〜もう、谷垣くんも子供産まれたら禁煙成功させちゃって、僕もやめなきゃな〜って思ってたんだけどね」
そう言う前山も、手にしているのは電子タバコだ。なんとなく悪い気がして、手のタバコをできるだけ遠ざけた。
「月島くんも彼女さんにやめてほしいって言われない? 帰国してまだ三ヶ月も経ってないのに結婚準備なんて、色々大変でしょう」
「……前山、お前だけだな」
やっとまともに祝福してくれそうな人が現れて、うっかり感動しそうになる。普通はこうではないのか。
「え、何が」
キョトンと目を丸くされ、月島はここのところの出来事を話した。何もかもがころんとした印象の前山は聞き上手で、ついつい溜まっていた鬱憤を全て吐き出した。
「なんでこんなに祝福されないんだろう……俺が何したって言うんだ」
「みんな心配してるんだよ」
「それだよ。何が心配だ? 俺は彼女とは付き合いが長いし、お互い知らないことなんて、俺が向こうに行ってた五年間にあったことぐらいだぞ」
「そこなんじゃない?」
「は?」
「過去はそりゃあ知ってることばかりかもだけど、最近のこと知らないのはどうかなって話じゃない? 彼女さんが待ってなくて新しい彼氏を作る可能性があるのは、月島くんにもわかってたんでしょ」
「まあそりゃあ……遠距離は難しいかもとは」
正直、別れを告げられる危険はあったなとは思っていた。ただ、海外赴任を終えれば間違いなく出世コースに乗れるので、出自のあまりよくない月島にとっては大チャンスだったのだ。
「あいつのためでもあったんだがなあ……」
「彼女さん、名前なんだっけ?」
「ちよ」
「可愛い名前だよね〜ちょっと古風で」
本当は、『美千代』だが、月島だけが『ちよ』と呼んだ。いつからだったかは覚えていない。もう誰も、本人さえも訂正しないし、月島だけが呼ぶ愛称になっていた。今も、本当だったら『美千代』と言うべきだが、どうしても口がそう動かないのだ。
天然パーマの長い髪がふんわりと柔らかく、触るのが好きだった。優しくて、いつもニコニコ笑っている。月島の田舎はヤンキーだらけだったので、彼女を守るための喧嘩で名を馳せていった。中学の頃には、高校生でも月島には一目置いていた。
当然すぐに結婚するものだと思っていたのだが、意外に時間がかかってしまった。同級生たちもそう思っているだろう。顔を合わせるとまだなの? と聞かれたものだ。
やっと漕ぎ着けると言うのに……。
「あんまり気にしなくていいんじゃない? 月島くんならうまくやっていけると思うよ」
「……ありがとう」
前山の優しさが身に染みる。肺に吸い込んだ煙も、少しずつ減らしていこう。ストレスに負けそうだが。
ロシア赴任にあたって、部屋は引き払っていた。月島に物欲はほぼ無く、残しておいた少量の荷物は倉庫をレンタルして突っ込んでいた。まだ同棲はしていないが、引っ越しを念頭において生活をしているので、仮住まいはウィークリーマンションである。忙しいので寝に帰るようなものだし、彼女とは休日に彼女の部屋で会ったり、外出したりして過ごしている。
今は披露宴をどこでするか二人で悩んでいる。こじんまりでいい、本当に祝福してくれる人たちだけで、料理が美味しくて思い出になりそうな……月島はそう考えていたが、彼女はそうでもなかったようで、有名なホテルや式場、なんならイベント会場、遊園地、海外リゾート地まで候補に挙げてきている。
びっくりするほど豪勢だが、散々待たせていたから希望も膨れ上がっているのだろう。しかし限度もあるので、物別れになってしまうのが問題だった。擦り合わせがうまくいかないとすぐ「基ちゃんひどい!」と涙ぐまれる。これは江渡貝の指摘の通り、マリッジブルーにもなろう……。こんな子だったろうかと思ってしまい、いや俺がひどいなと反省して休日が終わるのだ。
今日も結局何も決まらずに、月島は帰途についた。彼女の母親が郷里から上京しているので、夕方には解散した。ドレスやら招待客についてやら、電話では埒が開かないらしい。月島の親はとうに亡く、披露宴も完全に彼女のためのものだ。
休日だが全然休まらない。少し飲んで帰ろうか……。都心のホテルで開催された披露宴の試食会に参加したのだが、何を食べたのかさっぱりわからない。胃のどこに入ったのかも定かではなく、物足りなかった。
——この、物足りないと言う感覚……。帰国してからずっと、苛まれている。仕事は十分忙しく充実している。私生活もまさに今、春を迎えようとしている。何が足りない? サラサラした砂で一生懸命城を作っているように手応えがない。彼女と揉めているのに、どこか他人事で見ている自分がいる。必死に地に足をつけようと足掻いているが、できないのだ。
——ノイローゼ? とも考えた。この俺がねえ……。
どこか適当なチェーン店でいいかと雑踏をぶらついていると、若い女の子たちが、きゃあきゃあ興奮しながら追い抜いていった。
「やばいよ、早く! 始まるよ!」
「マジで、マジで、もう死んじゃう!」
「ばっか、音に会う前に死ねないよ!」
危なっかしいヒールで走っていく先は、四方をビルに囲まれた大きな交差点だった。スクランブルになっていて、向こう側に渡るにも結構な距離がある。軽やかな音楽と共に信号が変われば、うねるような人の波が行き交うのだ。四辻が真っ直ぐ見通しが良くて、意外に空までの抜けに解放感がある。もうそこには結構な人だかりができていて、純粋にただ通り過ぎたい人と、先の女の子たちのように目的意識を持って集まってきている人がごっちゃになっていた。
——何かのイベントか。
群衆の端っこで眺めていた月島は、波に押されて路地の入り口まで移動した。
ビルに、鮮やかな光がパパパパッと走る。派手なロックが四辻に反響する。壁面をスクリーンにしたプロジェクションマッピングだ。黄色い悲鳴があちこちから湧き起こる。四方八方を雪の映像に囲まれる。猛吹雪が交差点を襲っていた。壁も窓も車も人も雪にまみれる錯覚に陥った。パアッと一際強い白色が、あちこちに反射してハレーションを起こした。眩しい。
——ホワイトアウト。
月島は激しい既視感に襲われた。秋とはいえ残暑厳しく、まだ半袖を着ているのに、一気に鳥肌が立つ。寒い。いや、痛い。ロシアの風は空気さえ凍っていて痛い。身体がそれを思い出していた。自分が今どこにいるのかわからなくなる……。目を瞑った。探さなくては。死んでしまう。死。死。死。会うまでは死ねない。
——誰に会う?
雪。寒い。凍ってしまう。死。死。死。胸が苦しい。頭の中で、物凄い量の映像が渦巻いていた。見覚えのある顔が次々に現れては消える。立っていられなくて路地の壁に手をついた。
耳をつん裂く悲鳴にハッとして顔を上げた。月島には甲高い銃声に聞こえた。悲鳴は、近くにいた先ほどの女の子たちだ。「音くんかっこいい!」と映像に手を振り、「やばい録画ぶれる」とスマホも構えている。
スクリーン替わりの壁に、キャメルのロングコートを羽織った男の姿が映し出されていた。前立てのボタンはダブル、肩は固く厳ついシルエットを作っている。勇ましさが何もかもを睥睨する鋭い視線によく似合う。さっきまでの凍えるような寒さが霧散した。同じ白でも違う。この人の白は熱い。
「……鯉登少尉殿。いや、大尉殿……中将閣下!」
呆然とした月島の小さな呟きは、誰の耳にも届かない。
映像の男は肩のコートを片手で掴み、荒々しく画面であるビルに叩きつける。ピシピシと氷がひび割れ、雪はたちまち色鮮やかな花びらに代わり、ビルの壁を埋めていく。足元から舐めるようにカメラがパンして巨大なアップから投げキッスが放られた。
きゃあきゃあ喜ぶ嬌声が響くまま、映像が終わった。正味、二分もなかったろう。信号が変わるまでの時間だ。
「あの」
月島は、スマホで撮った画像を確認するのに夢中の女の子たちに、思い切って声をかけた。
「今のって、なんですか。何かの宣伝ですか」
突然話しかけられて、普通だったら警戒するだろうが、彼女たちも興奮していた。
「えっ音くん知らないですか」
信じられないとばかりに目を剥かれた。月島が長い海外赴任から帰ってきたばかりで……と言い訳すると、納得してくれた。
「今超人気の俳優さんです。鯉登音之進くん」
「デビューして五年なんですけど、モデルから俳優になって、アクションもできるんですよ」
「今のは専属モデルしてるブランドの交差点ジャックです。今日だけなんですよ! おじさんラッキーですね」
おじさん……。軽くショックも受けるが、大人びて見えるが彼女たちはせいぜい高校生くらいだろう。二十近く離れていては仕方あるまい。お礼を言うと、お薦めのドラマを教えてくれた。『布教』だそうだ。応援してあげてくださいね! と誰目線なのかわからない対応をされてしまった。
五年前なら、ちょうど月島が日本を離れた頃だ。行き違いである。いや、月島には『この』記憶はなかったから、全く気が付かなかったかもしれない。それに、鯉登も……月島を覚えているだろうか?
——忘れられているかも。
ぞっとした。月島には何もできないのだ。頭の芯から冷えて、高速で現状を分析する。
何ができる? 芸能人だと? 元々華のある人だったがまさかそんなことになるとは……。簡単に会うこともできない。いやでもしかし……。
——会いたい。どうしても。
緊張で喉がカラカラになっている。コンビニで水でも買おうと思ったら、本棚の女性誌コーナーにずらりと鯉登の顔が並んでいて、仰天した。今まで、全く目に入っていなかった。月島が読まない種類の雑誌とはいえ……水と一緒に、買えるだけ買った。女性誌を初めて買ったが、ずっしり重くて指に食い込みそうだった。
部屋に帰って、鯉登の記事だけを隅から隅まで読み込む。ちょうどドラマの最終回の時期だったようで、写真だけでなくインタビューがふんだんにあった。ざっくりしたあらすじ紹介では、間違い電話で繋がった男女が声だけで想いを交わしあうが、実は相手は過去の人で、時空を超えた愛だった……と記してある。さっきの女子高生もおススメだと言っていた。一度も会うことなく終わってしまった恋に何度も涙したそうだ。
——大好評のうちに終わった『キミはもういない』でしたが、初めてのラブストーリーはいかがでしたか。
「そうですね、演技が手探りでいっぱいいっぱいでしたが、ご評価いただけたなら嬉しいです」
——ちょっと捻りのある愛だったのではと思いました。
「捻り……とは僕は思ってないです。実は、原案を提案したの僕なので」
——え⁈ 初めて聞きました! なぜ今まで秘密にしてたんですか。
「あえて(笑)」
——あえて、とは(笑)
「先入観を持って欲しくなくて……会えないのに好きになるって普通ありえないじゃないですか」
——そうですね。そもそも存在を知らないわけですから。
「はい(笑)でも、人を好きになる最初の時点って、それほど相手のことを知ってるわけじゃないんじゃないか、ずっと頭の中にある面影を勝手に愛してることもあるんじゃないかって……例えば、芸能人を本気で好きになる人もいると思うんですが、やっぱりそこもだいぶ頭の中だけの面影ですよね」
——なるほど、愛しているのは自分の勝手な理想像にすぎないだろうと。でも、それが悪いと仰ってるんではない?
「ないです(笑)すみません(笑)いつもありがとうございます、ファンの方には感謝しています」
——(笑)もしかして、鯉登さんにもそんな恋に覚えがある、とか?
月島は思わずそこで雑誌を閉じた。恋。恋だと? 恋をした覚え……あってもなくても嫌だ。勝手な感情だとはわかっている。自分はどうだ、結婚を控えている身だ。しかも思い出したのはついさっき……何か言える権利などない。
「芸能人か……」
会う機会がないのでは、存在しないも同じだ。胃がずっしりと重くなり、息も苦しくなっていて、深いため息をついた。
「わあ〜ひどい顔〜」
朝の自社ビルのエントランスである。仮にも上司を捕まえて、よくもまあそんなことを言えるものだと宇佐美の度胸に逆に感心した。
「それが朝の挨拶なのか?」
「いいえまさか〜個人の感想です。おはようございます」
「いやでもマジでなんです、その顔色。ドス黒いですが」
尾形に心配されるのもこそばゆい。彼らには記憶が引き継がれているのだろうか。当時を思い出すに、二人ともそれぞれの理由で周囲から浮いていた。何しろ揃って問題児なのに腕は立つから、余計に始末に悪かった。お互いに気に入らない者同士だったろうに、それが悪友と言うものなのか、剣突し合いながらもつるんでいる不思議な関係だった。
——訊ねてみて藪蛇になっても面倒だな……。
「あーわかった、彼女さんとモメてるんデショ? 結婚なんかするもんじゃないですよ、係長」
「ははあ、やっと二股バレたんですか。随分かかりましたねえ」
「……は?」
宇佐美の発言を受けてのことだったのだろう。尾形がけろりと言ってのけた。
ばか、と宇佐美が珍しく慌てた様子で尾形を引っ張る。
「もうちょっと黙っとけよ、つまんないだろ」
「はあ? もうバレたからモメてるんじゃねえの」
「そこを知らんぷりしてイザコザ聞き出すのを楽しむもんだろ! お前ほんとつまんないヤツだね、だから友達いないんだぞ」
「お前にだけは言われたくねえなあ」
ごちゃごちゃ言い合う二人だったが、突然ギョッとして月島を見た。現代社会で普通に暮らしていればそうそう遭遇しない殺気が、ゆらりと立ち上っている。
「……お前ら、午前中の予定は」
「は……あの」
宇佐美が口籠る。尾形は警戒する猫のように固まっていた。
「予定」
ピシッと二人の背筋が伸びる。月島の声には、そうさせる圧があった。
「全部ずらします」
「よし。喫煙室来い」
えー! 臭いのにー! と悲鳴を上げられたが、ひと睨みで黙らせた。
「言っときますけどね、別にわざわざ探ったんじゃないですからねっ。
去年、田舎で中学の同窓会があったんですよ。いつもだったらウザいんで出席しないんですけど、たまたま爺さんの法事も重なったんで、行ったんです。案の定つまんなくて……その時喋ってたヤツが、佐渡から転入してきてたの思い出して、係長のこと知らないかなあ〜って聞いてみたら、まあ偶然! 一番上のお姉さんが同級生だって言うじゃありませんか!
係長のカノジョさんて、幼馴染みって聞いてたから知ってるかなあってちょっとした好奇心が湧いて……実家の佐渡に連れてってもらったんですよ。ええまあ、中学、高校の写真とか? ツキシマ最恐伝説とか? そういうのをですね……面白くて、ついつい色々聞き出して。
ボク、結構ひとの顔覚えるの得意なんです。で、本当にたまたまですよ⁈ たまたま、観光目的で佐渡をうろうろしてたらカノジョさんが男とイチャイチャ歩いてんの見かけまして……てっきり、係長が帰国する気配ないから別れたんだなーって思ったんですよ。ツレに聞いたら、遠距離だけど一年くらい付き合ってるってみんな知ってるそうですよ。
なのに、結婚するって聞いたから、マジか! って……めっちゃ顔怖いんですけど」
そんなに怖そうでもなく、けろりと宇佐美は言い切った。逆に尾形の方がハラハラしている。月島が暴れ出したら到底敵わないだろう。
「……本当か」
「どれのことです?」
「全部」
「はい。全部本当です。嘘もごまかしもなしで」
掴みどころがない男なのだが、変な嘘はつかない。『聞かれないから言わなかった』と余計なことを言わないだけだと、経験から知っている。
肺の中の酸素を出し切る勢いでため息をついた。バリバリ坊主頭を掻く。
「……どんなヤツだった?」
「写真撮ってありますよ」
さらっとスマホを見せてくれた。抜かりのない部下だ。有能なのだ、これでも。遠目に捉えられている男には、見覚えがある。一つ上で、昔からよくちょっかいを出されていた。あまりにウザいので、中二の頃に一回伸したことがある。
「係長、何だかホッとしてませんか」
尾形が不思議そうに尋ねた。宇佐美はぷーっと噴き出す。
「お前ほんっと鈍いねえ。係長は、心の奥底では結婚したくなかったんだよ」
「いや、浮気されたら怒りまくるんじゃねえかと思ってた」
不思議と怒りはなかった。ああそうかいと思ってしまった。
——何だこれ……なんでホッとしてるんだ。俺は、結婚したくなかったのか? 『ちよ』と。
見つめる宇佐美のスマホには、親密そうに絡み合う男女の姿がある。
「……ん?」
顔の部分を拡大した。
「どうしました?」
宇佐美も覗き込んでくる。
「……顔が違う」
「え⁈ でも、ボク確認しましたよ。みんな言ってましたよ、アレが月島さんのカノジョだって」
「『ちよ』はこんな顔じゃない」
「ちよ? 美千代って聞きましたけど?」
「本当はそうだけど、俺だけが『ちよ』って呼んでた……」
——違う。そう、『違う』のだ。頭の上の暗雲がさあっと晴れた。
この女は、あの『ちよ』じゃない! 美人だが、全く違う。月島は、ずっと前から勘違いをしていたのだ。昔、恋焦がれたあの子とは似ても似つかないのに、小さな共通点を無意識に探して、思い込んでしまったのだ。
——昔の記憶など無かったのに、自分の執着心が恐ろしい。そして、全てを思い出した今、この女への気持ちが綺麗さっぱり消えていた。
「なあ、お前ら」
「はい」
「はあ」
「どうやったら後腐れなく別れられるかな」
キュルンと大きく目を見開いた二人だったが、にやあと笑ってお任せくださいと引き受けた。
続いちゃう