剣の娘と月と猫 2「つきしまあ、つきしまあ」
ゆさゆさ揺さぶられて、月島は目を開けた。目の前に女の子が居て、ぎょっとして覚醒した。一瞬のうちに、昨夜のことが思い出される。
「月島、時間大丈夫か?」
「は?」
「七時だぞ」
がばっと腹筋だけで跳ね起きた。信じられない。いつも五時前には自然と目が覚める。あまり熟睡できないタチなのだ。何時に寝ても起きる時間は一定になる。そのせいか、繁忙期には目の下にいつもクマがある。「人相がヤバい」と社の女性陣からは敬遠されがちだ。
——もの凄く頭がスッキリしている。よく寝たからなのか、『憑いてた』ものがいなくなったからなのか……。
「よく寝ていたな」
音之がにこにこしている。久しぶりの布団だったとかで、「煎餅だけど仕方なか」と月島の布団に勝手に潜り込んだのだ。月島の方は、座布団に寝っ転がる羽目に陥った。冬でなくて良かったと思うばかりだ。状況としては最悪の環境だったのに、気分がいい。睡眠は大事だ。
「遅刻すっで?」と音之の言葉で、慌てて立ち上がる。
「あっ、米は炊いたぞ」
ほら、と音之はガス台の上を示した。冬場の一人食卓に大変重宝している土鍋が、湯気をたてている。
「開けてみ?」
鍋掴みなどという気の利いたものもないので、布巾で蓋を開ける。安物の米とは思えないほどの、つやっつやの飯が炊けていた。
「おお……」
思わず感嘆の声をあげた月島の顔を、得意げに音之は見ている。
「米の炊き方だけは自信あるぞ。おっかん直伝じゃからな。米さえ炊ければ、飯はなんとかなるでな」
「土鍋で炊けるとは凄いですね。見かけによらない」
「舐めるでない。ただの女子高生じゃなかぞ」
ふんす、と鼻息荒く胸を張った。そういえば、まだセーラー服である。着替えとか……風呂とか……と気を回しそうになって、やめた。余計なことである。
七時半に家を出れば、九時の始業に間に合う。いつもならば余裕だが、この子を置いていくのか……と悩ましい。
が、考えている場合ではない。速攻でお湯を沸かしてお茶漬けの素をぶっかけて掻きこんだ。同僚からもらった京都土産の茶漬けの素に、助けられる日が来るとは。
「うっま……」
びっくりするほど美味い。思わず唸った。米の炊き方でこんなに違うものか。月島の大好物は白米である。揃いの茶碗などないので、月島はどんぶり、音之は普通の茶碗だ。
「この茶漬けの素、具沢山じゃねえ」と音之もさらさら啜っている。
俺はこれが最高に美味いが、なんか他に……もっと良いものを食わせてやるべきでは……? と思ったが、慌てて首を振ってその考えを振り落とした。それは月島の仕事ではない。
シャワーを浴びても坊主頭はあっという間に身支度できる。三十分後には、出勤の準備ができた。ぶたれた左頬は、少し赤味が残っているが、気になるほどではないだろう。
——さて困った。音之はまったく部屋を出ていく気配がない。ネクタイを締めはじめた月島の周りを、布団を上げたり茶碗を洗ったりとばたばた動いている。
「えーと……鯉登さん」
「音之と呼べ。なんだ」
「俺はもう、出かけるんです」
「うん、いってらっしゃい」
「いやいや……出て行ってほしいんですが」
「えっ? ないごて?」
「ないごて?」
「留守番しちょるよ。またあの猫が来っで。風呂も入りたいから、後で借りるぞ」
「はあまあそれは構いませんけど……」
「あいがと。気ぃつけてな」
にこやかに送り出されてしまった。釈然としないが、力づくで追い出すわけにもいくまい。肩こりの原因を祓ってもらったのは、感謝するべきだし、化け猫から助けてくれた……のであろう。
なんなんだこれは……。昨夜の一件は一体なんだったのだ。巨大化した猫が自分を狙っていて、刀持参の女子高生に守られた、などと誰に語っても夢でも見たかと言われるだけだ。
鯉登家は鹿児島を拠点として、祓魔師を代々の生業にしているそうだ。音之の持つ剣は島津の殿様から拝領した由緒正しき名刀で、強力な念を込められた武器は音之しか扱えない。他人が振っても何も切れないなまくらで、霊的なものを切ることもできないらしい。月島と同い年の兄がいて、次期当主として日々励んでいるものだから、たまに音之もこうやって修行に出されるのだ……と、説明を受けた。
月島はさぞ胡散臭そうに聞いていたのだろう。そんな反応には慣れているのか、音之は信じなくても別に良いとけろりとしている。昨夜、猫の変化を目撃していなければ信じなかったと思う。
ともかく、今日は残業しないようにと仕事を進めた。早く終わりそうと見た同僚に飲みに誘われたが、断った。
急いで帰る途中、何気なくケーキ屋が目に入った。昨夜の、チャーシューが思い出された。本来なら、祝われていいのは月島だ。だが、メインのチャーシューをケーキ替わりにもらってしまったのが、どうにも引っかかっていた。
——なので。ショートケーキを買ってみた。苺が乗った、ごくシンプルなものである。まったくもって、自分らしくない……。いやいやこれは昨日のお礼のようなもので。これで勘弁してもらって、明日にでも帰ってもらおう。猫は……まあ、なんとか説得しよう。
アパートに帰りついて、付近を少し歩いてまわった。猫がもしもいたら、どこかに行くように言おうと思ったのだが、まだ遅い時間ではないせいか、見つけることができなかった。まさかあの子にもう斬られてしまったのでなかろうな……と階段を昇っていく。廊下に面した台所の窓が明るい。誰かいるという証拠だ。
「ただいま帰りました」
狭いワンルームである。玄関を開ければすぐ台所で、トイレと風呂が分かれているのが御の字のボロアパートだ。
「おかえり、月島」
ふわふわした女の子が部屋の中で寛いでいる。セーラー服でなく、ピンクと白のボーダーの上下で、いかにも触り心地が良さそうな生地の部屋着を着ている。
「ご飯できちょっで」
今朝と同じように土鍋で炊いた白飯と、市販のタレで焼いた生姜焼きとパックの千切りキャベツに、インスタントの味噌汁だ。
「わあ、ケーキか? 昨日のリベンジだな! ホールでも私は食べきれるぞ」
——一緒に夕飯を食べて、インスタントコーヒーを淹れてケーキにフォークを刺したあたりで、はっと月島は我に返った。ドアを開けた途端に何もかもが目が眩むほどで、どうにも対応ができず、目を回しながらここまで過ごしてしまった。
「……音之さん。一体、どうして、なんのつもりで……」
すっかり自分の部屋のようにしているが、ここは月島の侘び住まいである。当然のように着替えを持ち込んだうえ、新品の布団が二組、脇に積まれていた。茶碗や箸などの食器、分厚いクッションなどまである。前の布団はどうしたか聞くと、商店街にある布団屋に行ってみたら、古いのは引き取りもしてくれたとあっけらかんとしたものである。
ここに警察が踏み込みでもしたら、月島に前科がつく。もう既についてそう、という車内の評判だが、実際についてしまう。いくらなんでもそれはあんまりだ。
「あのな、月島」と音之は座り直した。
「私をここに置いてくれ」
「はあ?」
「昨日の猫は、絶対に退治したいんだ。ターゲットであるお前の傍にいた方がいい。お前も守ってあげられる」
「お断りします」
「ないごてぇ⁈」
「あの猫は、俺の友達です。祓わなくて結構。あなたも、家に戻って、学校に行きなさい」
「お前が殺されてしまうぞ」
「それならそれで結構ですよ。それが俺の寿命なんでしょう。俺が食われてあの猫の腹が満たされるなら、食物連鎖ってことです」
音之が黙った。沈黙に、月島が目を上げるとフォークを縦に握りしめて、月島を睨みつけていた。
「ないごてそげん投げやりなん。過去にないがあったが知らんが、未来まで投げることはなかろう。私はそういう姿勢は、大嫌いじゃ」
ぐっ、と喉が詰まった。何を言うか生意気な小娘が。そう怒鳴りつけるのは簡単だ。だが音之の言うことは正論極まりなく……青臭い。まだ十代、青くて当たり前と月島は大人の分別を奮い起こす。
「子供にはわかりませんよ」
「子供じゃなか」
「高校生なんて、まだまだケツの青い子供です」
「青くない。見るか?」
げふっ、とケーキのスポンジを飲み込み損ねた。
「捕まるのでお断りします」
「私が了承するなら構わんじゃろ」
「あのなあ!」
思わず怒気をこめた声を上げたが、音之は怯む様子もなかった。堂々と、まっすぐと、月島の目を見つめている。
「舐めてるのはお前ん方じゃ。死んでも構わんなどと、口が裂けても言うもんじゃなか。世界で一番自分が不幸などと思ってるから、あんな猫を呼び寄せる。お前の背中にびっしり霊もついてしまう。お前の人生はお前のものだ。だから、お前が一番大事にしてやらねば、誰もお前を大事になどしてくれんぞ」
「……」
二の句も告げない。その通りだからだ。
「……すまぬ、言い過ぎたな」
音之は急いで残っていたケーキを平らげ、皿とマグカップを流しに持って行った。これも音之が買って来たものである。月島とおそろいだ。
「風呂も沸いてるぞ。ぬるかったら追い炊きしろよ」
家主は月島である。風呂のことはよくわかってる。返事をしないのはあまりにも自分が子供じみているから。ケーキの大きな塊をごくりと一口で飲み込み、ありがとうとだけ礼を言った。
布団を二つ並べて寝ている。暗闇の中、時計のこちこちという音だけが、耳につく。
横になった月島は、布団の柔らかさに戸惑いながら、天井を眺めていた。明日、音之に代金を支払おう。確かに前の布団はいくらなんでも煎餅すぎた。毎日寝ているものだから、気が付いていなかった。
昨日は座布団でもすぐに寝付いたが、今日はなんだか目がさえた。寝しなにコーヒーなんて飲んだからだろうか。繁忙期に会社で飲んでも、ちっとも目がさえなかったのに。
「月島」
小さな声で呼ばれた。この部屋には、二人しかいない。他の誰かに聞かれる心配もない。しかし暗闇の静けさは、破るのに勇気がいるものだ。音之の小声も、勇気を振り絞ったものなのだろう。
「……なんです」
「そっちに行ってもよか?」
「……ダメです」
断ったのに、もぞもぞと布団に潜り込んできた。
「ちょっと。ダメだって断ったでしょ」
「一緒に寝たい」
「ダメです」
「ないごて?」
「ないごてってなんですか」
「なんでダメかってこと」
「ダメに決まってるでしょう」
「私がそうしたいんだ」
布団の中での攻防は、月島に分が悪かった。ふわふわの部屋着を着た音之は中身もふわふわで、掴みどころに困る。こんなに柔らかい布地がこの世にあるものなのか。月島の手のひらに今まで触ったことのない感触が、四方八方から襲ってくる。
とうとう、月島の腕の中にふわふわの物体が収まってしまった。なんだこれは……と、月島は唇を噛みしめた。
「ごめんな」と謝られた。
「何が」
「さっき……やっぱり言い過ぎたかなと」
「……いや。俺も大人げなかった。ごめんなさい」
うふふ、と音之は笑った。
「こいでおあいこな」
「……ええ」
良かった、と音之は月島の肩口に額を押し付けた。
「臭いでしょう。そっちに戻りなさい」
「風呂入っちょるじゃろ。長風呂だったなあ」
「風呂は好きなんです。余裕があれば一時間くらいは入りますよ」
「へえ! 九州にはいい温泉が沢山あるぞ。入ったことあるか?」
「九州はないですねえ……旅行も行ったことないな」
「なら、今度行こ」
「……あなたと?」
「うん」
布団の中に、なんだかもうわけがわからないほど可愛いものがいて、もしやこれも何かが化けたモノなのかもしれない。小さな猫があんな猛獣に変わるのだ、そんな可能性もある。
「……あなた本当に人間です?」
特徴的な眉の下の目が、ぱっちりと大きく開かれた。
「あったりまえじゃ! 確認してみい!」
えいとばかりに抱き着かれて、慌ててひっぺがす。胸元のボタンが半ばまで外れ、白いレースが見えていた。意外に豊かな膨らみが目に飛び込んできて、狼狽する。
「……つきしまあ」
切なげな声で呼ばれ、そわっと首筋の毛が逆立った。
「男をからかうもんじゃない」
「からかってない」
「……じゃあ、なんなんだ、美人局なのか」
「私がそげんこつするような女に見えっとか」
「俺みたいな男に、何の得があって……」
音之が再び身体ごと食らいついてくる。音之さん、と思わず悲鳴のような声を上げてしまった。これは立場が逆ではないか。
「一目惚れじゃ。嫁にしちくれ。そいならよかじゃろ?」
「いいわけないだろ!」
思わず大声を出すと、隣の壁がどぉん! と揺れた。二人で飛び上がり、顔を見合わせた。
「……隣の、杉元という男です。ちょっと壁が薄いので……聞こえてたかも」
ぱあっと音之が赤面した。先ほどまで随分と大胆だったのに、さすがに恥ずかしかったらしい。
「あなたが戻らないなら、俺がそっちの布団に行きます」
「ないもしない……だから、一緒に寝るだけ寝てほしい……」
恥じらいながら言うことだろうか。
明日杉元に謝ろうと、月島は諦めてそのまま一緒の布団で寝た。翌朝、ひとまず一番にトイレに駆け込もうと考えながら。
続く