結婚相手の条件 好きなお笑い芸人は誰ですか?という質問を街中で投げ掛けた時、八割の人々は今こう答える。
『祓ったれ本舗』
夏油傑と五条悟の二人からなるこのコンビ、売れに売れている人気急上昇中のお笑い芸人だ。五条悟は顔の綺麗さから最初は大抵モデルと間違えられるが、口を開けば鋭さが光るその言葉に皆が驚く。夏油傑は人当たりの良さそうな笑みと特徴的に少しだけ垂らされた前髪、五条のフォローを出来る完璧さに皆が絆される。
その人気はまさに爆発的であり、バラエティからドラマ、その上レギュラー番組までこなす日々。当然、帰宅は深夜になり今日は地獄の17連勤をこなし漸く自宅マンションの扉を開けた所だった。ふらり、ゆらりと二人は玄関に入り、靴を適当に脱ぐとそのままリビングへ続く廊下に揃って倒れ込んだ。
「ゔぁー……帰ってこれたな」
「ほんと……、もう家に着かないかと思った」
絞り出すような声を先に出したのが五条、後に続いたのは夏油だ。連勤な上に連日の深夜帰宅にそろそろ帰る場所は家でなくテレビ局なのではと思っていた二人だったが、今日も無事に帰宅出来た。
「床……つめたいなー、気持ちいいー」
「そうだね」
今にも目を閉じたら寝てしまえそうな気もするが、逆に疲れすぎていて眠れない気もする。だが、まだやらなければならない事があったのを五条は思い出してしまう。
「傑、風呂」
「悟、先にいいよ」
夏油は五条の言葉に被せる勢いで返事をした。もはや二人は動くのが面倒なのだ。誰かやってくれるなら身を任せてしまいそうだが、そこまで考えてから流石に他人へ身体を預けるのは無理、と五条は限界思考な中で思う。
「嫌だ」
「なら私も」
今の拒否は風呂を入る事に対するものではないのにな、と五条は思ったが、訂正するのも面倒だった。
もう寝てしまおうかと考えた所で五条は隣に居る、この世で唯一の相方を見る。仰向けに寝転がって、窮屈に自分を締め付けるスーツのネクタイを夏油は緩めていた。その姿は五条を妙な気持ちにさせる。
(あ、傑になら風呂やってもらってもいいな)
流石に見ず知らずの他人に裸を触れられるのは絶対的な抵抗があるが、今隣にいるのは違う。
他人でもない、でも家族ではない。相方。
「なぁ、傑」
「なに」
その時夏油は何故自分達のトレードマークを真っ黒なスーツにしたのかと思っていた。きっちり固めたスーツは疲れた身体には窮屈過ぎる。楽屋で脱ぎ散らかしたくなる時もあるがそこは耐えた。
「結婚しよ」
「いいよ」
その瞬間、時が止まる、なんていうのは無く五条の言葉にただただ夏油は頷く。
「結婚て何がいんの」
「婚姻届と指輪?」
五条があまりに当たり前のように、今日の夕飯を問いかけるようなので夏油も当たり前に答える。ちなみに今日の夕飯は楽屋で食べた焼肉弁当だ。老舗の店舗なので美味かった。
「指輪はこの時間じゃ店やってねーし、明るくなってからかー。婚姻届は今行けるし、行こーぜ」
先程まで数メートル先の風呂ですら行きたくなかったのが不思議な程、身体が軽いと五条は思う。立ち上がってから隣に居る夏油を見下ろす。
「え、今?寝ないの?」
「明日休みだし、いいじゃん」
にっ、と歯を見せて笑う五条にやれやれと夏油は立ち上がる。しょうがないなと言う風だが、五条の我儘を聞くのが嫌いではない。まだここまで売れる前に、五条の我儘はどこまで受け入れられるのか!という企画モノのVTRを見ている時の顔は放送事故、というのがファンの共通認識だ。あれは見る物全てを凍らせる。夏油本人はそんな顔はしていないと笑うが、五条の駄々を聞くのは自分だけがいいと思っている事は明確。流石の五条も夏油の般若顔には照れていた。そこで照れるの!?というのが更なるファンの共通認識だ。
「区の役所ってどこだっけ」
「んー……待って、調べる」
脱いだばかりの靴を履きながら五条は夏油へ再度問い掛ける。夏油が携帯を手に取り検索画面を押した所でガチャ、と五条が玄関の扉を開ける音がする。その瞬間に外の風が夏油の前髪を撫でた。
「待って」
外独特の匂いと、まだ春先の冷たい風を受けて夏油ははっきりと五条を止めた。
「なに」
先に外に出ていた五条は振り返る。
「悟……私達、付き合ってないけど」
再度言うが、その瞬間、時が止まった、なんて事はない。
「え、知ってるけど」
さも当たり前の様に言ってみせる五条に夏油は時ではなく思考が止まってしまう。一度オフにしてしまった脳をまたオンにする作業は中々に難しい。今の夏油には仕事中のように上手い言葉が出てこなかった。
「いや、え、付き合ってもないのに結婚するの?」
「付き合ってなきゃ結婚しちゃいけねぇの」
確かに、と納得しかけた夏油は慌てて顔を左右に軽く振って己をしっかりしろと鼓舞する。五条が言っていることは理解できるし、世の中交際をせず結婚する人達も居るだろう。だが、そもそも自分達は。
「悟、男同士は結婚できないよ」
ここは日本だ。まさかそれすら知らない五条であるはずがないのだが。
「知ってる、だから婚姻届書くだけ。どこにも出さねぇよ」
「じゃあ尚更だ、結婚はしないよ」
「はぁ?お前いいよって言ったじゃねぇか」
「それはっ、君が自然に聞いてくるもんだからつい」
「ついってお前さ、人生の大事なことを簡単に決めるなよ」
間違っていない、五条の言う事は何一つ間違っていない。だからこそ、納得がいかないのは自分が可笑しいのだろうかと夏油は思う。そもそも相方に結婚話を持ち掛ける方が可笑しいのでは。
「あのね、悟、そもそもー……いや、これ以上は良くない。一度中に入ろう」
「仕方ねぇな……」
なんで君がやれやれみたいになっているんだ?と夏油の疲れた身体は更に重くなる。しかし、これ以上部屋の外で話す訳にはいかない。どこで誰が聞いているかなんて分からない上、これは聞かせられる話ではなかった。
もう一度帰宅時同様に靴を脱いで中に入ると、今度は倒れ込む事はせずにリビングまで二人揃って歩く。ルームシェアをするにあたって大きめが良いと買ったソファに夏油が腰掛けると、少し離れた位置に続いて五条が座る。
「まず悟、私達は付き合ってもいないし、相方なんだから結婚は出来ない」
五条の言う事はいつも突然だ。その我儘に付き合えるのも自分だけだと夏油は自負していた。だが、今回のは流石に想像の斜め上を行き過ぎている。
「なに?お前俺の事嫌いなわけ?」
「は?そんな訳ないだろう」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
「他に将来約束したやつでもいる?」
「居るわけないだろう。怒るよ」
段々と二人の会話は普段する漫才の掛け合いのようなテンポの良さを生み出していく。
「だろ?なら問題なし」
「あるよ、そもそも付き合ってない」
「なに、付き合ってたらいいわけ?」
「そういう問題じゃない」
「俺、見合いの話来てるんだけど受けていい?」
「良い訳ないだろ、いい加減に……、」
そこまで答えた夏油は、あ、とやらかしてしまったような声を上げた。
その瞬間悪戯が成功したように笑った五条はぐいっ、と夏油の腕を掴んで引き寄せる。
「親友、相方、勿論ほかも、誰かに譲ったりしねぇよ俺は」
視線に熱が篭っている。真っ直ぐ、ただひたすらに自分だけに向けられる。漫才を二人でしている時も、その射抜くような視線を夏油が一人占めだ。それが何より心地いい。
夏油は緩く笑みを浮かべてソファから立ち上がる。
「悟……婚姻届、取りに行くよ」
「最初っからそう言ってんだろー、俺は」
五条は満足気に笑うと続けて立ち上がり、リビングを出て、廊下を抜けようとする。先に歩く五条の背中を見つめながら後に続く夏油はゆっくり口を開く。
「悟」
「んー」
本日三度目になる靴を履く動作をしようとした所で呼ばれた五条は振り返る。
いつも隣に居る相方の香りがした所で、触れた唇は一瞬撫でるだけのもの。
「……」
「なに、もしかして結婚は出来てもキスはできないわけ?」
何の反応もない五条に夏油は仕返しと言わんばかりの問いをした。
「…婚姻届の前にセックスしとく?」
「…あのねぇ、それだと動けなくなるのは悟だし、婚姻届取りに行けない事になるから、早く行くよ」
「ぶはっ、傑くん、ヤル気満々」
「五月蝿い」
翌日、深夜の市役所に現れた長身にサングラス、マスク姿の男性二人が婚姻届を取りに来たとSNSを賑わせるのだった。