恋、だったのだろうか。俺たちの間にあったのは。
誰もいない店内にぽつりと落とされたネロの呟きは、窓の外の雨音に掻き消される。場所は何度か変えつつも、ネロは相変わらず雨の街で料理屋を営んでいた。
昨夜は久々に、閉店後にファウストが来て、カウンターで並んで酒を飲んだ。ファウストが持ってきたのはきちんと下処理された干し猪肉で、それを使ってネロが作った肴はワインに良く合い、二人して飲みすぎてしまった。その酒がまだ残っているのか、少しだけ頭が重い。恋がどうとか、柄にもなく感傷的なことをあれこれ考えてしまうのも、きっとそのせいだ。
ふたつ前の冬に、ファウストと別れた。
もう二度と親しく話すことは許されなくなるかもと思いきや、意外なことにファウストの態度はそれほど変わらなかった。
酒の勢いを借りて「気まずくないのか」と訊いてみたところ、「だって、もともと僕らは友達なんだから……え? 僕がおかしいのか」とかえって困惑されたのは前回飲んだときの話だ。ネロとしても数百年に一人の友達をみすみす失いたくはなかったので、「まったく何もおかしくはない」と力強く同調しておいた。
さすがに頻度は減ったものの、相変わらずときどき一緒に飲んで、近況や愚痴をとりとめもなく喋っている。ネロはファウストの話を聞くのも、ファウストに話を聞いてもらうのも好きだった。
変わったのは、じゃあ次はいつ、という話をしなくなったことだ。それは正直言って気が楽で、ネロは己がとことん「そういうこと」に向いていないのを痛感した。
たとえば寒い夜に、嵐の谷のあの寝床でいまごろ冷えているだろうファウストの手足の指先を、温めてやりたくて堪らなくなることはある。そして、そういう触れ方はもう許されないのだ、と切なくなる。だが一方で、そういう切なさもだんだんと薄れてきているのも感じる。
約束はせず、忘れた頃に互いの棲家をふっと訪れて、夜が明ける前に帰る。どうしてもそれが、あるべき距離感であるような気がしてしまうのだ。
(やっぱり、付き合うべきじゃなかったのかもな。)
自分からそういう関係にならないかと切り出して、ファウストのことを振り回して。結局友達でいる位が丁度よかったです、なんて、ひどい話だと自分でも思う。
よりを戻したいのか、戻したくないのか、自分でもわからないまま、元恋人兼友達の今の関係も悪くないと、心のどこかで思っている。一方で、それはファウストに対する甘えなんじゃないかとも思う。
恋。やることやってたからって、必ずしもそう呼べるわけではないだろう。今だってベッドに誘えば、ファウストはひょっとすると乗ってくるのではないかという気さえする。もっとももしそうなったら、いよいよ俺たちの間にあるものが何なのかわからなくなって、今よりもっと悩むことになるだろうから、今のところそれを言う気はない。
恋だ、と思った瞬間が、たしかにあった。その記憶がネロの意識に浮上しかけたとき、ドアベルの音とともに表の扉が開いた。「やってますか?」と入ってきたのは、〈クローズド〉の表札を見落としてしまった客だ。
「すいません、6時からなんですよ」
考えるまでもなく、営業スマイルでの丁寧な応対が体に染み付いている。気づけば雨足は弱まっていた。時計を見る。そろそろ準備をしなければ、夜の営業に間に合わないだろう。
ネロは、エプロンを軽くはたいて立ち上がった。ぬるま湯のような、この素晴らしい日々の中を少しでも長く泳ぎ続けるべく、料理人はキッチンへと向かう。その脳裏に束の間に浮かびかけた記憶も、意識の底に沈んでいった。
***
「いいぞ、呪い屋!」
「もう一曲たのむよお」
魔法舎の大広間。拍手と指笛の大喝采の中心にいるのは、丸テーブルの一角に腰掛けたファウストだ。リュートを抱えて、満足そうな表情で喝采を浴びている。やはり相当呑んでいるらしく、すでに目が据わっていた。
「はは。明日になって覚えていたら、引き篭もって百年は誰とも顔を合わせてくれなそうだ」
まあ、そんな心配も、もう必要ねえんだけど。ネロはカウンターの端の席で、誰に言うともなく呟く。「ファウストのあんな顔、初めて見ましたよ」とカウンター越しのバーテンダーから応答が返ってきた。
「そうだな」
もっとも、輪の中心にいるその男が、酒なんか入れなくたって意外と表情豊かなのだということに、ネロは随分前から気付いている。
丸十年かかった。だが、ネロたちはとうとう〈厄災〉の襲撃を完全に退けることに成功した。しかも、あのときの招集から誰一人欠けることなく。今夜はその祝賀会だった。
ネロはもちろん腕によりをかけてありとあらゆるご馳走を用意し、シャイロックは秘蔵の酒も惜しみなく振る舞った。花火が上がり、辺りの精霊たちまでも浮き立つ。魔法使いたちは飛び跳ね、抱き合い、笑い合い、例によってあわや乱闘の小競り合いもあり、とにかく騒がしい宴だった。
みな、今夜くらいはとハメを外している。明らかに、特別な夜だった。そしてそのことをお互いにわかっているからこその無礼講なのだ。それはネロとて例外ではなく、ついさっきブラッドリーと酒を酌み交わし、胸につかえていた最後のわだかまりも溶かすことができた。もともと少しずつ、傷は癒えていたのだと思う。
ルチルがどこからかリュートを調達してきてファウストに渡したのは、饗宴も佳境に入った頃だった。「いつか聞かせてくれるって言いましたよね!」ときらきらした目を向けられ、「まあ、少しだけなら……」と渋々リュートを受け取るのを見て、あ、いま先生にも「今夜くらいは」が発動したな、と思ったのを覚えている。そこからあれよあれよと言う間に、気持ちよさそうに歌声を響かせる、今現在の彼ができあがってしまった。ファウストは実際、惚れ惚れするほど見事にリュートを弾いたし、歌も抜群に上手いというほどではないが、思い切りよく伸びやかに歌うので聴いていて気持ちが良い。
今歌っているのは、旅人の門出を祝い、行く末の多幸を願う歌だ。古い歌なので、長生き連中で口ずさんでいるのがちらほらいる。幸せであるように。幸せであるように。ファウストは間奏にときどき技巧的なアレンジを加え、そのたびに聴衆は沸いた。
(俺たち、本当に勝ったんだな。)
戦いが終わってもずっと現実味の薄かった勝利の手応えが、ファウストを見ていてようやく実感されてきた。きっと、ファウストは肩の荷が降りた心地なのだろう。シノやヒースにもしものことがあってはという緊張感は、ネロですら感じていた。まして、責任感の強い先生はなおさらそうだろう。
俺たちが誰も、石にならなくてよかった。あの気持ちよさそうに弾き語るファウストを見ることができて、本当によかった。
あんたが先生だったから、俺たちみんな無事で役目を果たせたのだと、誇ってくれと、言いたかった。この世の祝福を全部あんたにあげたい、大袈裟じゃなくそんな気になる。十年もつかず離れず、良い友人でい続けてくれた。ときには生徒として、世話をされる側の甘やかなくすぐったさを味わわせてくれた。もらったものは数えきれない。感謝してもしきれなかった。
幸せであるように。幸せであるように。ネロもその古い歌を口ずさみたくなって、だが、なぜだろう、うまく声が出せない。
「……あなた、泣き上戸だったんですね……」
シャイロックがタオルを手渡してくる。手を頬に当てた。たしかに泣いていて、しかも号泣と言ってよい水分量だったので驚いた。おかしいな、こんなめでたい席で、俺は今これ以上ないほど満ち足りているはずなのに。心当たりは、本当はないでもなかった。できればこのまま、見ないふりをしていたい。
「アンコール!」
ふたたび喝采が飛び交う。次はどんな曲がいいかと盛り上がっている彼らは、誰一人気付いていないらしい。だが、もうすでに空は白み始めていた。永遠に続くかと思われた、今夜かぎりのファウスト・リサイタルも、終わりの時間が近付いている。それは宴の終わりというだけではなく、この奇妙な共同生活の終わりを意味した。朝になったら、魔法使いたちはそれぞれの元いた場所へ還ることになっている。
十年。数字にしてみれば、俺たちの一生にとっては瞬きほどの時間に等しい。しかし、そのひとがそこにいることが、当たり前になるほどには長かったのだ。
見ないふりをして振り切ったはずの感情に、とうとう追い付かれる。
「そうか、俺、終わりたくねえのか。」
その呟きは、シャイロックにだけは聞こえたかもしれないが、素知らぬふりをしてくれたので本当のところは分からない。「今夜くらいは」誰に見られてもいいや、と思う。
なにも今生の別れってわけじゃない。元いた場所、あるべき場所に帰るだけだ。俺はもともと、早く帰りたがっていたじゃないか。そういう理屈は最早何の効力も持たなかった。ここには剥き出しで暴力的な、ただの情だけが、未だ名付けられないままに横たわっている。
幸せであるように。それも嘘じゃないが、それだけでもない。
次の曲が決まったらしい。一瞬、みな静まりかえる。
夜はいよいよ明けようとしていた。きっと最後の曲になるだろう。いかないでくれ。終わらないでくれ。そんなネロの気持ちもお構いなしに、リュートが静かな前奏を奏で、やがてファウストの、情感のこもった歌声が乗る。
それが恋の歌だったので、ネロの情にもその名が付いた。
***
俺たちの間にあったのは、何だったのだろうか。
「そうだな……。恋とも、友情とも、親愛とも取れるんじゃないか」
そっか。そうだよな。あんたは、そのいろいろ混ざったものを、いろいろ混ざったまま抱えておける、そんな奴だったよな。
俺はずっと、俺が恋だと錯覚していただけなんじゃないかと疑ってたんだ。結局、偶然のいたずらが俺にそう思わせただけで、もしあのときの曲順が違っていたら、もし最後にあんなに切なく恋人への想いを綴った曲が選ばれなかったら、こうはならなかっただろう、と。
「きみは案外、そういうところを気にするからな」
ファウストが苦笑しているのが気配でわかる。
というか、え。あれ、ファウスト? 俺、声に出て……
「べつに、無理して喋らなくていいよ」
話すのもきついだろう。耳にしっくりと馴染む声がそう告げる。百年ぶりに聞く声。
夢と現実の境目がひどく曖昧になっている。視界もぼやけてよく見えないが、そのひとがそこにいることはどうやら現実らしかった。
「本当に猫みたいな奴だ」
死期を悟って、姿を消すなんて。返す言葉もない。
「でも、悪いけど、おまえの希望には従ってやらないことにした」
僕は性格が悪い東の呪い屋だから、と付け足される。ああ、懐かしい台詞だ。あんたはいつからか、あまり露悪的なことを言わなくなっていたから。
ファウストが言葉を切ったので、しばらく沈黙が流れる。たそがれ時の麦畑を風が渡っていく。黄金色の無数の穂たちが風に撫でられる音を、二人して聞いた。
「黙っていなくなろうとしたのは、きみの優しさなんだって、知っているよ」
ファウストがおもむろに口を開く。いかなる重さも残したくなかったんだろう、僕に。遺言だとか、最期を看取ることとか、そういう。それを聞いて、先生にはお見通しだったかと脱力した。
一度別れたあと、何度かくっ付いては別れてと半端なことを繰り返した。それはいつでもネロから言い出したってわけでもなかったのだが、それでも、ファウストに最期だけ付いていてもらうのは虫が良すぎる気がしたのだ。
それに、照れくさいだろ、そういうの。
会わないままひっそり消えようと思ったのに、あんたほんと、俺に格好つけさせてくれないよな。
「往生際が悪いぞ。ネロ」
じとりとこちらを睨んでいる目線が手に取るようだ。怒っているような態度は、きっと半分は本気だ。でも、それも許すと既に決めた上で、彼はここに来たのだろう。
それに、僕を見くびりすぎだよ、とファウストは呆れたように言葉を継ぐ。
「僕はきみを看取ったくらいじゃ倒れないよ。大体、たくましいところが好きだって、きみが言ったんじゃないか」
それもまた、ずいぶん懐かしい話だ。出会ったばかりの頃のその言葉は、「そういう」意味で言ったんじゃないって、あんたも分かってるだろうに。
「だったら、最後まで信じてくれ。」
ネロには、その言葉に嘘がないことが、顔を見なくてもはっきりわかった。ああ、あんたは本当に格好いいひとだよ、ファウスト。
最後まで俺を甘えさせようとしている。独りが好きで淋しがりの面倒な性質が、結局死ぬまで変わらなかった俺を。
ここまでされては、もう抵抗する気も起きない。腕を僅かに持ち上げることも億劫だったが、力を振り絞って黒衣の袖を引く。意図を察したファウストが、口元に耳を寄せてくれる。もう消え入りそうな声しか出なかった。
「ありがとう、本当に。……どうか、幸せで……」
そこまで言うのが精一杯だったが、それでじゅうぶんだとも思う。もう思い残すことはなかった。なんて穏やかで満ち足りた気分だろう。
急速に薄れゆく意識のなかで、ファウストの声が朧げに聞こえる。何を言っているかは分からなかったはずなのに、それは永い人生でもらった中でも、いちばん嬉しい言葉だったような、そんな気がした。
「きみは僕に、僕のことを信じようと思わせてくれるひとだったよ」
厳密には届かなかった言葉を、風がさらって行った。
あとには一人の魔法使いと石とが残された。