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    イロドリ

    プロフ画は(相互さんが描いてくれたイラストの)マイイカ君。

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    イロドリ

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    『もう、いいかい』

     人外パロこへちょ(こへ長)。
     吸血鬼の小平太と、人間の長次(10)。

     キャプション(本編を読む前段階)でネタバレをしたくないというこだわりのせいであまり内容について語れない、という状態になってしまっています。解説用ポイピクをすぐに用意します。
     支部ならキャプションで読めますのでぜひ。

    すずめの声は聞こえない ────夜。それは逢魔ヶ刻を過ぎた時間。

     魑魅魍魎が、怪異が、闇の中で跳梁跋扈する刻。


    「うぬ」


     聳える建物に宿る明かりやそこ行く道の街灯がいくら夜を真昼のように照らそうと、遠ざけられない者がそこに在る。

    「其処なうぬ。人間だな」
    「……っ、……!?」


     青天の……暗天の霹靂。突然くらやみから姿を現したソレに、少年は腰を抜かしていた。


    「寝ない子、悪い子、どこの子だ? こんな時間に童が出歩くもんじゃあないぞ。特にうぬのような美味そうなやつは尚更だ! さもないと」


     その視線の先で電柱のライトが照らし出した、影を持たぬ青年。輝く満月を溶かし込んだ金色こんじきの魔眼が、牙を覗かせた三日月の口が、嗤う。


    「こうして吸血鬼に捕まってしまうからなあ」


     二つの人影が、薄ら寂しい路地裏に消えた。





    グヂュ。

    「……ぃ゙、あ゙ッ」

     遠くからぽつりと街灯が差し込むだけの、夜影の海に沈んだ路地裏。叩きつけられるように壁に追いやられた少年はそのままずるずるとへたりこむが、身動ぎすら許さないとばかりに全身で押しかかられ。無防備に曝されたその細い首筋に顔を寄せた吸血鬼の欲望に濡れた牙が、ついに少年の柔らかい皮膚を食い破った。

    ず、ずる……ズル……

    「……、っ、…………、……!」

     ドクドクと逸る心の臓から送り出されるさま、首筋から際限なく血が失われていく。血と共に熱も意識も流れ出していくかのような壮絶な感覚は、胸板を押し返そうとしていたわずかな抵抗の芽すら散り散りに霧散させた。一つに結われた栗色の髪が、深く吸いつかれる度にゆらゆらと揺さぶられる。人ならざる怪物が己の血を啜る音を聞いている……

    「ぅ……っく、う」
    「呻くな。このまま首をへし折るぞ」
    「!」

     ずちゅ、とねとつく耳障りな音を立てて不意に口を離したかと思えば、首に耐え難い痛みが走って世界が傾いた。男が少年の頭に手をかけ傾がせているのだ。もしほんの少しでも声を上げれば自分は死ぬと、幼い子どもの本能にすら憚る怪力で。とはいえ、叫びたくても中々どうして怯えきった喉はきつく締まっており。吸血鬼がこんなことをしなくても、この口から音が飛び出すことはないのだろう。
     痛みに呻くな、恐怖に声を上げるな、などと。何という無理強い、何という暴論、何という暴君ぶりか。……けれど、まだ死にたくない。こんなところでこんな風に殺されたくはない。ただ味気ない日々を送っていただけなのに、急に非日常に襲われて誰にも気づかれることなく死ぬなんて、そんなのは嫌だ。
     そんな生への執着を胸に抱きながら、再びずぷりと食い憑かれて痛みと恐怖の時間をやり過ごす。首筋に顔をうずめて動かない男のぼさぼさと長い髪束をただ見つめ続けること、数十秒。

    「……、……」
    「……こんなところでいいだろう」

     ぬちゃ、と糸引く血を舐め取りながら体を離した。朦朧とする少年の意識の中で確かに線を結んでいる男は、血を吸う前以上に凄味を増している。

    「呻くなと言いはしたが……うぬ、よくあれを耐えたな! 唾液の媚毒を使わないでする私の吸血は、大の人間でも悶絶するようなものだぞ?」
    「……」
    「なははっ、口も利けないか! おうおう、涙まで流して……まこと無様で愛い奴よな」

     屈託のないその笑みはあたかも太陽、満開の向日葵のようである。しかし今はその面影すらない冷えきった夜。男の底知れぬ影を落として見せつけられるそれは、笑顔の主のせいで生死の境を垣間見た少年にとって、恐怖そのものでしかなかった。

    「……上質で私好みの血だった。一夜限りのものにするにはあまりに口惜しい……」
    「……?」
    「よし、決めた!
     今宵よりお前は私のものだ!!」
    「!?」

     もそもそ何か呟いていたかと思えば途端の大声。言うが早いか吸血鬼は再び少年の首筋に口を寄せてくる。もういいと言ったはずなのにまた吸われるのかと、少年は身を強ばらせた。
     が、耐えんとしていた痛みは一向に訪れない。代わりに男の唇が先の噛み跡に触れた柔い感覚があり……そして強く、強く皮膚を吸われた。

    「ふふん。初めてやってみたが存外上手くいくものだ。さて人間、これから私がお前にありがたーい話をしてやろう! 一度しか言わないからその耳かっぽじってよく聞けよ?
     先の口づけで、私はお前に跡を残した。この人間は私の餌だ、お前の命は私のものだ、と示す印だな。そして、今からこの印を呪印に変える」

     立ち上がろうとする気力すらなく、ぐったりと壁に寄りかかる少年。力なく項垂れた首に残る噛み跡にトン、と爪先鋭いヒト差し指が触れ、強く押し込まれた。

    「『一つ。私が空腹を感じると、お前の呪印が熱を孕む。その熱を感じたならばお前は直ちにこの路地へ赴き、その血を私に捧げろ』」
    「……」
    「『一つ────お前は、私に出逢ったことを誰にも話すな』」

     降り注ぐ月光。
     真紅の魔眼。

    「『だが、まあ? どうしてもというなら話しても構わん! お前が責任を持って好きにしろ! その時はお前諸共、お前が口を滑らせた者すべてを殺す。漏れなく、一人残らず、骨も残さず喰ろうてやる。
     私はずっとお前を見ているからな』」

    血迷っても私の支配から逃れようなどと思わないことだ。

     ドクン、と一際強く心臓が鼓動した。首筋から生まれたじゅくじゅくとした熱が脳髄を痺れさせ、ガク、ガク、と身体を痙攣させながら少年の全身に広がっていく……しかしある瞬間、急速に治まる。これはいわゆる鳴らし、模擬試験というやつだろうと、息も絶え絶えの中、少年は吸血鬼からその身に受けた呪いを生身で感じていた。

    「わかったか?」
    「……、っ、……!」
    「お前に聞いている。返事をしないか、人間」
    「〜〜、〜〜〜ッ!!」
    「そんな目で見ても無駄だぞ。目は口ほどに何とやらと言うが、代わりにはならん。口封じの呪いをかけられているのでもあるまいに────あ゙」

     しまった、という幻聴さえ聞こえてくる一声。吸血鬼が真一文字に指を軽く振った。

    「っはあっ! はあっ、っは、はッ、はあっ」

     それだけで、見えない手に絞められているかのようだった喉が開放された。ずっと息を詰められ生殺しにされていた少年は、溺れていた人間も斯くやとばかりに必死で呼吸を繰り返す。

    「そういえば私、お前に口封じの呪いをかけたか! いやーすまんすまん、そりゃ口が利けないわけだ! まあ発語は封じたが発声を禁ずる作用はないから、結局お前は自力であの吸血を耐えたんだな。偉いぞ、よく頑張った!
     それで、返事は?」
    「は、はい……! わかり、ましたっ……!」
    「ならば良し!」

     またあの笑顔をしてみせた吸血鬼は立ち上がり、徐に身なりを整え始める。少年はようやく、その全貌をまじまじと見る機会を得た。

     現代ではとんと見かけぬ和装である。それも着流しなどではなく、松の紋入り羽織と袴を纏った正装。そして全てが黒、黒、黒。そんな男……否、青年ほどであろうか。とまれ彼の発する気位と品位、そして荘厳さたるや、現代でも稀に見かける昔気質な壮年の男たちに引けを取らぬものがあった。
     皺一つ見当たらない袴。そこから伸びる足は一切の素肌を曝さず、その全ては黒い足袋に覆われ、やはり黒檀のように艶やかな草履を履きこなす。解いた元結を口に咥えて結い直す傍ら、髪を束ねるべく腕を持ち上げた。黒い襦袢、黒い着物がずり落ちて惜しげなく曝された前腕は、意外にも筋肉質で健康的な血色だ。袖のない羽織の裾が、秋の寂しさを想わせる夜風にはためいていた。……しかしどうしたことだろう、吸血鬼の出で立ちをよく見てみると、羽織も着物も黒色ではないことに少年は気づく。夜闇に紛れて黒色とほとんど見分けがつかない、深緑であった。
     身繕いに満足がいったのか最後に一つ前髪をかき上げる。ざり、と草履がコンクリートを踏み締めこちらに向き直れば、細められていた目もすっかり真ん丸の元通り。たったそれだけの仕草が大人顔負けの色気を放つ。ゆらゆらと捉えどころのない衣で身を包もうとも、隠し切れない力強さ。それはまさに益荒男振りと讃えるにふさわしい。同性であるはずの少年でさえも思わず目を奪われてしまうほど。自分ともさして歳が離れているようには見えないのに、何がこの青年をこうも男たらしめるのか……それとも。

     それ自体が、この男の魔性そのものなのか。

    「改めて言っておこう。お前の血は本当に美味かった。だからこそ、その血を他の何にもくれてやるつもりはない! だからお前も、私の家畜として『相応しい』振る舞いを心がけるといい。どんな行為で私の逆鱗に触れるかわからんぞ?」
    「……」

     少年の顎に触れた武骨な手にぐいと顔を持ち上げられ、無理やり目を合わせられる。金色に戻った瞳と、自身の強さと自信の絶対さを疑わぬ獰猛な笑みが目の前にある。

    「わかった。私は、あなたの言いつけを守る。だから私以外の人たちには手出ししないで」
    「おう。私は守れない約束はしない男だ! ……では今宵はもう解放してやろう。だがゆめ忘れるなよ、人間」

    お前は、私のものだ。





    ────じく。じゅく。

    「う、」

     それから二日ほどしか経っていない夜、ついにその時が訪れた。得も言われぬ熱が、首筋から発せられている。

    「……行かなきゃ」

     コトン。
     小さいくまのぬいぐるみの意匠が施されたシャープペンシルを机の上に置き、ふう、と沈鬱な表情で息を吐いた少年……中在家長次は、静かに心を決めて冷たい木の椅子から立ち上がった。ようやく自習の調子が上がってきたところだけれど、「呼ばれた」からには行かなきゃいけない。「彼」を待たせるわけにはいかない。

    「お、中在家どうした?」
    「先生。すみません、飲み物を持ってくるのを忘れていたことに今気がついて。近くのコンビニに行って買ってきてもいいですか?」
    「構わないが、あそこは時間がかかるぞ? 一人だと危ないんじゃ」

     今は二十時を過ぎたころ。街灯少ないあの道を四年生である長次が一人で通るには、本当なら確かに危ない、のだが。

    「大丈夫です。ちゃんと気をつけるので」

     にこりと微笑んでみせるが時すでに遅し、後の祭り。たかだか自分と同じ人間である不審者など及ぶべくもない、その全てを食い物にする化け物に、つい先日出遭ってしまったばかりだ。心配そうな視線に見送られて雑居ビルの中の塾を後にし、長次は家に帰るときと同じ道を駆け出す。水道水入りの水筒が仕舞われたリュックを、教室の机の脇にかけたまま。
     これから流す血のように真っ赤な嘘を残して。

    「……」

     あの塾には二年ほど通い続けているのでこの道自体は夜でも見慣れたものである。しかし、勝手知ったる道のはずなのに、自ら虎穴へ向かっているというだけでこんなにも心細くてたまらない。

    『此方へ』
    『此処は私の縄張り』
    『私の元へ』
    『来い』

     声が聞こえる。幼い体をじくじくと甘く蝕む熱が導く先の暗澹から。手ぐすね引いて長次を待つ、あの男の呼び声。それが自分を暗闇の中へ拐うためのいざないであることなど、その声の主が恐怖の根源であることなど百も承知。けれど声が聞こえるというそれだけで、こんなにも不安の寂寞は薄れるものなのだ。……と。声が止んだ。熱もやおら引いていく。立ち止まって横を向けば、自分があの日「あちら側」に引きずり込まれた場所に立ち戻っていたことに気づく。
     じっと見つめた丁字路の曲がり角の先。光一筋も通さぬ深淵、不自然に空間を穿っているくらやみ。

    「ふう……」

     深呼吸。意を決して、ぽっかりと開かれた顎の中に足を踏み入れた。

    「あ、あれ……?」
    「おう! 逃げずによく来たな、人間にしては見上げた根性だ!」

     しかし、その内に長次が覚悟していたような景色はなかった。己のかたちすらあやふやに解かれて沈む暗黒があるものとすっかり身構えていたのに、至って普通の裏路地が奥まで続くばかりである。強いて言えば、ただ物陰だからと納得するには不自然なほどに暗すぎる、というくらいだろうか。それでも────今自分を包んでいる「これ」が外見の冷たさや無機質さとは遠いものであることは、長次でも容易にわかる。
     幼い、もっと幼い頃のことを思い出す。今は亡き、優しかった祖父母の家に泊めてもらったあの夜のことを。畳部屋に敷いてくれた布団の中から眺めた窓辺の、閉められた障子の奥から差す月影と光。古ぼけた室外機や瓦礫ばかりがある殺風景なこの路地にはそぐわない、穏やかな暗さで満ちていた。
     そんな中、壁に凭れ腕を組んで佇むあの男。
     
    「……あんなことを言われて、私が逃げ出せると思う?」
    「にゃはは、まあ細かいことは気にするな! さて待ちくたびれたことだし、さっさと終わらせるぞ! 疾く首を出せ」
    「あっ、は、はい」

    ずちゅ。

    「ッ」
    「……」

     印刷も薄ぼけたTシャツのよれた襟を引っ張って首の素肌を差し出すなり、べろりと傷跡の辺りを舐めて食いついてくる。全身を苛んでいたあの変な感覚は、血と一緒に吸い出されていったかのように消えていた。

     命の危険を冒してまで怪物と意思疎通を試そうだなんて思わない。話しかけた瞬間に怪物の機嫌を損ねて殺されるかもしれないのだ。問われていないなら話さない、許されていないことは何もしない……いつも通りだ。そうすれば「この男は」きっと何もしてこない。
     それはそれとして、それは横に置いておくとして、この態度はちょっと拍子抜けである。あちらから話しかけておきながら、大して言葉を交わすでもなく事を急く。急くというより、この時間の中で自分と話すことに重きを置いていない、の方がこの違和感に沿っている気がするのだ。

    くちゃ

    「……」
    「終わりだ。仕舞っていいぞ」
    「え?」

     もう終わったのか。すり、と首を撫でる。初めてのときの痛みに比べて、此度の吸血は一体何だったのだろうか。噛まれた感覚すら薄く、血を吸われる痛みも感じなかった。とっくのとうに口を離していた吸血鬼を見やり、怪訝に顔を見続けてみる。しかし長次の視線に気づいてか気づかずか視線が返ってくることはなく、実にあっけらかんとしているものであった。
     
    「今宵はこれまで。ではな」
    「ま、待って、これまでってどういう」

    どさっ。

    「こと」

     気がついたらコンクリートの上で転けていて、気がついたらあの路地の目の前でわだかまっていた。さっきまでいたはずの場所も、当然吸血鬼も視界に映らない。それどころか、あの不気味なくらやみさえどこにも見当たらない。

    「……追い出された?」

     呆けた顔をして地べたに座り尽くしているのを笑い物にするかのように、電灯が長次をまざまざと照らし続ける。吸血されたばかりで上手く動かない頭に喝を入れ、なんとかかんとか理屈を考えてみるが、それしか思い浮かばない。
     もはや信じるしかない吸血鬼という非存在の存在。それなら、人間の常識は吸血鬼の非常識というのなら、「あの場所」からいきなり追い出された上に入ることができなくなったことも頷ける。

    『此処は私の縄張り』

     つまり、この言葉が全てなんだろう。あの吸血鬼は自分をあの路地裏に迎え入れたが、それは飽くまで食事のため。その中に留めておく理由が無くなった途端、追い出して立ち入りを禁じた。あそこはあの吸血鬼の縄張りだから。
     その淡泊さは、その無関心さは変なことだと、あの吸血鬼に後ろ指を差す方がおかしいのだろう。それは己の上位存在に気づかないまま食物連鎖の仮初の頂点に立っていただけの人間の、とどまるところを知らぬ傲慢であろう。吸血鬼の愛玩動物に成り下がったつもりはない。けれども、一人間としての矜持がどうこうという話でもない。そんなものは元から大して持ち合わせていない。
     己らが振りかざす矛盾を、齢十の長次はなんとなく理解していた。「家畜」という評は、あの吸血鬼にとっての人間の価値そのものに相違ない。そしてそれは人間とて同じだ。自分が同じ仕打ちを受けて初めて自分事として感じられるのであって、自分たちは他の生き物に対して総じて無関心である。それらの命を食らいて己が血肉とすべき食料が家畜である。
     命喰らう強者が、食い物として屠殺される命に愛情を注ぐこともないだろうに。

    『寝ない子、悪い子、どこの子だ?』
    『こんな時間に童が出歩くもんじゃあないぞ』

     ────ありえない。こんなことはちゃんちゃらおかしい。阿呆なんじゃないか。馬鹿みたいな話だ、来年のことでなくたってあまりの愚かさに鬼が笑う話だ。親でもご近所でも友達でも先生でもない、他人ですらない。その存在自体が嘘のようなものなのに、その言葉の何が信じるに値するというだろう。初めにかけられた言葉が「私を案じてくれたもの」だったからというだけで、何もかもが物騒なあの男の何を信じろと。
     何を隠そう、あの男は吸血鬼なので。例外なくというか御多分に漏れずというか、吸血「鬼」と言うからには鬼であるので。
     だからあの男もきっと、私のことをあの笑顔で嗤うに違いないのだ。

    「……」

     それでもと思う私はいつ、どこで狂ってしまっていたのだろうか。





    「ねえ」

     ────投げ込まれた、一石。
     三、四日置きに呼び出されては、無言で血を吸い吸われるだけのあっけない逢瀬。彼の者の空腹が満たされればあっという間に人の子が散らされる、味気ない数分間の繰り返し。彼らが出会ってひと月が経とうかというのに、彼らが同じ時を共にしたのは一時間にも満たない。それもそのはず、言葉通りの「食事の時間」に食事以外の事象が起こる由などあるはずもない。
     あるはずもない、はずだった。

    「……」
    「ねえってば」

     あの日あの時あの瞬間を切り取り永遠のものとした、写実絵のようだった水鏡。遥か昔に揺らぎが止んだまま永遠に変わらないと思われたうつくしい凪の境界に、その手が触れた。しかし……この世に「永遠」など存在するはずもないからして、この結果は必然なのであった。
     それはまさに狂気の沙汰。未だかつて、この男が血を吸う最中さなかの静寂を破った者は一人としていなかった。初夜に受けた忠告をものともせず、長次が吸血鬼の前で声を上げた。黒獅子の鬣が僅かに揺れたが……目立った反応を見せる素振りは、ない。

    「ねえ。私の声、聞こえているんでしょ」
    「……」

     どうにも無視を決め込まれているらしい。しかし初手で反応を示さなかった時点で、場の主導権は長次の小さな手に握られた。これだけはっきりと声を出したのにこの首が直角に折れていないなら、恐れるものは何も無い。何より……味のない食べ物も色のない思い出も、もう慣れっこではあるけれど。
     無味乾燥で色のない世界が続くことを、いつまでも唯唯諾諾と受け入れられる自分ではないから。

    「話をしよう。私と、ただのおしゃべりをしよう」

     くち……とまたいつもの音を立てて吸血鬼が食事を終え、体を離す。長次を射貫いたその目は、大きく丸く満月のように。それでいて冷たくもあり、温度を感じないようでもあり。妖しく煌めいている黄金の瞳の奥は、計り知れぬまま。

    「……」
    「……」
    「…………」
    「……ふむ」
    「…………あの」
    「断る!!」

     驚くことに言葉を返してきた。満面の笑みで断固拒否、との勢いではあったが。

    「急に口を開いたと思えばなんだお前。どうして私が人間なんかと────」
    「等価交換って知ってる?」
    「……」

     はた、と何か言いかけた口が閉じた。目は開かれたままであるし、どことなく笑んでいるようには見えるが……長次はごくりと生唾を飲み込んだ。

    「あなたは私から、たくさんもらってるくせに……私はあなたから何も、もらってない。……不公平、だ……!」

     どくん、どくんと逸る心臓が執拗に長次の鼓膜を殴り続けている。この目が、この瞼を閉じることを恐れている。刹那の後に起こるかもしれない「最悪」が脳裏に浮かんでいる。だからどれほど目玉が乾こうと、思ってもいない涙が出てこようと、この身に降りかかる現実から目を閉ざしたくはない。
     ……吸血鬼の答えは。


    「────呵」

    「呵々ッ」

    「は、ははっ、なははっ! はははははッ」

    「あははははは! あはははははははははははははは!
     アッハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
    「……!」

     呵々大笑であった。
     ばしん、と一発頭を叩いて笑い、何のつもりか手を叩いて笑い、どすんと座り込んだそこで膝を叩いて笑う。大音声で笑い続ける。止めようにも止まらないのか、込み上げる笑いにひいひいと涙を堪えながら呻いていた。

    「わ、笑いすぎじゃないの」
    「いやあ〜〜〜〜〜〜笑った笑った!! 人間の分際で私にそんなことを言い放ったのは五百年の生の中でお前が初めてだ!!
     ……お前、面白いな」

    ガッ!!

    「か、はっ……!?」
    「世迷言を抜かすのはこの口か?」

      世界が激しく揺さぶられ地面に叩きつけられたときには既に、吸血鬼の右手が長次の細首を捉えていた。

    「私は、お前の総てだ。お前という人間を縛める絶対の法、それが私だ。そのように舐めた態度を取って私に殺されるやもとは思いもしなかったか」

     顔はおろかその目さえ僅かたりとも笑っていない。刃の如き怪物の本性が刻まれた二つの紅い月が、長次を見ていた。

    「……」

     ギリ、ギリ、と首が絞まる。初夜にかけられたらしき口封じの呪いなど比ぶべくもない、本物の痛みと苦しみが長次を襲う。光届かぬ路地の影海にあって尚、吸血鬼の顔に落ちる闇い陰。その奥で、ナニカがぎらりと光った……

    「殺されるかどうかなんて、関係ない」

     その冷たい光にも負けない確かな意思の光が、地に組み伏せられた長次の瞳に宿っていた。

    「関係、ない。あなたじゃなくたって、私を殺そうとする人なんてどこにでもいる。……でも、殺されるのは嫌だ。そんなのあたり前だ、誰だってそうに決まってるんだ。死にたくない人の叫びを、人は力で捩じ伏せて殺すんだ。
     けど、あなたは違うんでしょう? あなたは人間じゃなくて吸血鬼なんでしょう? 吸血鬼は、そういう『人間なんか』とは、違うんでしょう……!?」
    「……」
    「私の言葉が聞こえているなら、こたえて。私の法で私のすべてだって言うなら、あなたの正しさを私に見せてよ。本当に人間より強くて偉いって言うなら、私がそう思えるくらいの態度を見せてよ……!
     あなたが、力をただ振り翳すだけの化け物なら! たとえ私の体は殺せても、私の心までは殺せない!!」

     己の首を掴むその手を、長次は迷わず掴み返した。
     絶対的な強者、逆らえぬ力、ヒトを狂わす暗闇を前にして一切衰えない、ヒトを導くその輝き。

    「────見事なり!!」

     見事なり、若き地上の星。

     す、と退けられた手が目の前に差し伸べられる。恐る恐るその手を取れば、驚くほどの力強さで長次の上体が起こされた。五指の跡が残っているのではと思わんばかりに生々しい感覚の残るそこを、小さく咳き込みながらさすり……長次の真正面にしゃがんで居直った「彼」を見る。その顔に湛えているのは、無機質な食欲でも絶対零度の殺気でもない。

    「ああ、そうだな。その通りだ。私に物怖じせずよく言い切ってみせた! お前のような胸の透くやつは好きだ、大好きだ!」

     見ているだけで、心の底からじわじわと温かさが広がっていく。ずっと、ずっと前から知っていたような────あの、胸の透くような大輪の笑み。

    「いいだろう、ならば許す! 私と談話する権利を与えよう! お前だけ、特別だぞ?」
    「……」
    「なんだ、何を黙ってるんだ」
    「…………」
    「おーい、人間? ど、どうしたー……?」
    「……ぅえ」
    「」

     ぽろ、ぽろ、と零れ落ちていた涙が、堰を切ったようにはらはらと溢れ出す。張りつめていた縄はとうに、一気にほどけていた。ともすれば吸血鬼の体躯に覆い隠されてしまうほど小さなその体に、如何様な思いの丈を抱き籠めていたのか。

    「っひ、ひぐっ、う、ぅううう……!」
    「お、おい、なぜ泣くんだ、泣いていたってなにもわからん!」
    「うぅっ、だ、だって、わたし、わたしっ」
    「泣いたところで何にもならんだろう、いいから泣き止め!」
    「……」
    「まったく、仕様のないやつめ」


    「────泣くな人間。案ずるな、私がついている」


     吸血鬼は跪いた。おもむろに。その鋭い爪から長次の顔を庇うように、指の腹で涙の雫をすくい取った。かすかな星の光にきらきらと光るその涙を、キスでもするかのように口付けて吸って、そして。
     ぽす、と無造作に長次の頭を撫でたのだった。

    「……!」
    「お前が何をそんなに泣いているのかはわからんが、大丈夫だ。今、私がここでついているから、お前は大丈夫だ。
     なぜなら私は、いっとう強い吸血鬼だからな!」

     その「いっとう強い吸血鬼」が、上等なのだろう袴に土埃を擦り付けてまで自分と目線を合わせている。取るに足らない人間如きの涙を拭い、その頭を撫でるためだけに。

    「……ふふっ」
    「む。まったく人間はおかしな生き物だな。泣くのか笑うのか、どっちかにしろ!」
    「くすくす……だって、仕方ないじゃないか。面白くて……嬉しくて、仕方がないんだから」
    「何が面白いんだ、泣く子も黙る怪異だぞ! 現にお前も泣き止んでいるだろう!」
    「『泣く子も黙る』はとても恐ろしいってことなんじゃ」
    「そうか? まあ細かいことは気にするな!! それでお前、泣き止んだか? 泣き止んだな! じゃあなんか話せ!」

     この晩から語らう気で満々なのか、吸血鬼はそのままどっかりと地面に座り込んだ。なははと快活に笑うその様はとても吸血鬼にはそぐわないような、似合わないような。兎角その明るさは月影よりも陽光の下で輝く方がより相応しい、と思わされるものであった。

    「そんな、急に言われても……」
    「遠慮するな人間! 私は吸血鬼だ、知りたいことは大体なんでも教えてやろう!」
    「! そこ!!」
    「え、どこ?」
    「そういうことじゃなくて」

     ひとまず聞きたいことを見つけた長次は、起き上がった体勢のままであった姿勢を正した。目の前の吸血鬼が地面にも関わらず堂々と胡座をかいているので、見様見真似で初めてする格好を取る。

    「私のこと『人間』って呼ぶの、やめてよ」
    「どうしてだ」
    「どうしてって……名前があるから。人間、はただの動物の種類だ。あなたも名前があるでしょ? それなのに『吸血鬼』『吸血鬼』って呼ばれるのは嫌じゃない?」
    「……言われてみれば確かにな!」
    「私も、ずっとあなたって呼ぶのはなんだか嫌だし。教え合いっこしよう。
     私は長次。中在家長次っていうんだ」

     あなたは? と聞かれたものの即答せず、うーーーん……と唸っている吸血鬼は、急にんばっ、と顔を上げて言った。

    「忘れてた!!」
    「え? 忘れてたって……まさか、名前を?」
    「ああそうだ! そういえばそういうものがあった、と思いを馳せていてな。しばらく名乗っていなかったのですっかり忘れていた! さっきの今で思い出したけど! なっははは!」
    「……」
    「あ、おい! そんな呆れ返った顔をするんじゃない! これには海より深ーいわけがある!」

     長次としてはまるで考えられないことである。自分の持ち物、やること、為すべきこと……忘れやすいものは多々あるが、まさか自分の名前さえ忘れるとは。これは間違いなく世紀の忘れん坊である。

    「じゃあ、聞くけど……どういうわけがあって?」
    「というのもな。名前というのは私たち妖怪、怪異の世界では非常に重要なものなのだ。人間、『真名まな』という概念は知っているか?」

     名前教えたのに、と呟く長次は寂しげだ。うっ、と一瞬たじろいだ吸血鬼はしかし、姿勢を正し威勢を新たに問いかける。

    「まあ最後まで聞け、お前も損はしない話だ! それで知っているのか、いないのか?」
    「……ううん、知らない」
    「だろうなあ。
     いいか、真名というのは『お前そのもの』だ。お前という存在のかたちを創り、魂をこの世に留めるためのものだ。……ここまではどうだ」

     ううん、とぱさぱさポニーテールを揺らしながら首を振られ、顎を手で弄りながら軽く考え込む。いわゆる呪術、魔術、まじないに通じるものの考え方である。そういったものとは縁遠い現代の童には難しい話だろう。

    「例えば、そうだなあ……これを見てみろ!」
    「! 血……!?」
    「細かいことは気にするな、私の血だからな。さて人間。この血の塊……今は私の力で浮かせているから雫の形を保っているが、それをやめて地に落としたらどうなる」
    「えっ……水溜ま、あ、違うのか……血、溜まりになる?」
    「ああ。そしてそうなってしまえばもう元の形には戻せん」

     伸ばしたヒト差し指の上に浮かせていた血の一滴。指をひっくり返すと、それは呆気なくコンクリートの上に染みを作った。

    「そしてこれが今のお前だ」
    「……!」
    「正しくはお前が辿るかもしれん末路、だな。
     人間。お前は私に真名を教えた。お前という人間の体を動かしているもの……魂の所有権を、ヒトならざる者に明け渡したのだ。今や私はお前の魂を生かすも殺すも自由、お前に指一本触れなくとも『お前』という意識を消し飛ばせる。お前を私の意のままに操ることもできるのだぞ」

    お前があっさりと真名を名乗ったことの重大さを理解できたか?

    「真名を知らずとも生殺与奪の権を得る手段は、あるにはある。が、どうあれそれを得るためにかなりの力を使う上に基本己の身を危険に晒す必要がある。だからどうしても知りたければ相手を騙すなりなんなりして真名を奪うのが常だ。それ故に寧ろ、真名にまつわる話題を禁忌として避ける風潮さえあるぞ」
    「……そんなに」
    「『怪異』とは存在意義や生存の術が本能そのもの。吸血鬼であれば、吸血衝動がそれだな。これがただ人間を食い物にすることしか考えていない低俗な怪異だったら、死期はどうあれお前はろくな死に方をしていなかっただろうよ」
    「……」
    「私たちの生きる世界において真名とは、それほどまでに肝要で致命的なものなのだ。人の子、つまり私が何が言いたいかわかるか?
     私がこれ以上ないほど鋼鉄の理性を持った上位の怪異だから、お前はまだこの世に存在していられるんだぞ」

     ややもすれば自信過剰、傲慢不遜とも取れる言い草だが、小平太の言うことは一言一句違わず事実である。「【理性的な】【怪異】」という存在は、その二語が並んだ時点で矛盾している。

    「話を戻そう。では人間、あの血の雫が地に落ちてしまわないようにしたい。お前ならどうする?」
    「……落ちなければいい、ってことなら……何か、容器に入れる。コップでも、ペットボトルでも」
    「そう、良くできたな! そしてそれが『真名』の役割なのだ」

     名前とは、真名とは、魂の入れ物。入れ物を失った魂は柔く、弱い。少なくとも夜を闊歩する者共にとってはそういうものである。だから彼らは、己の真名を隠し正体を隠す。

    「とまあ、私も例外なくそうして生きてきたわけだな!」
    「名前を言う機会がなかったから、そのまま名前も忘れてた、ってこと?」
    「ああ、だから私は真名を言えんのだ。お前も軽々に真名を口にするもんじゃないぞ! まあ私に対しては後の祭りといったところではあるが」
    「……理屈はわかった。会いたくなんかないけど、もしあなた以外のばけものに会ったら気をつける。
     でも、私は教えてあげたよね」
    「む……うぐ……」

     何をどう言っても引き下がらない頑固な長次に、苦虫を噛み潰したような顔をして唸った。……等価交換、である。

    「どうしてもか?」
    「どうしても」
    「……絶対に私の名前を知りたいのか」
    「うん、絶対に」
    「…………言わなきゃダメ?」
    「だめ」
    「………………」

     かなりの間、天を見上げた顔を覆って黙り込んでいたが……覚悟を決めたのか、今までになく真剣な表情で長次に面向かった。

    「よし……わかった。『知りたいことは大体なんでも教えよう』と言ってしまったものな。よく聞けよ、一度しか言わないぞ! 私は、五百年生きてきた最強の吸血鬼!
     名は小平太────七松小平太だ!」

     こへいた……こへいた。ああ、どんな字をしているのだろう。どんな想いが込められた名前なのだろう? ……そもそも、吸血鬼に親はいるのだろうか。知りたい。いつか、知ることができるだろうか。

    「……こへいた?」
    「おう」
    「ななまつ、こへいた」
    「ああそうだ、それで合っている! だからそう連呼してくれるな、結界を張っているとはいえ慎重を期したい」
    「これからたくさん呼ぶのに?」
    「……」
    「マナ? が大事なのはわかった、だからフルネームはあまり言わないようにする。でも……せっかく名前を知ることができたんだから、たくさん呼びたいんだ。こんなに素敵な名前なのに、呼べないなんて嫌だよ」

    こへいた。

     吸血鬼────小平太は、またしても黙りこくってしまう。
     幼気な子どもというには育ちすぎてしまった。しかし精悍な大人というにも育ち切れなかった。その狭間にあった、束の間に宿った青い春の色を置き去ることもできぬまま時が止まったその顔が、ぼんやりと長次のことを見つめている。

    「──────、───……」

     ぽつりとうわ言のように何かを呟いて浮かべた、困ったように長次を慈しむ笑み。

    「……? こへいた、何か言った?」
    「? 何も言っていないが」

     泡沫の夢と消えた、その笑み。

    「そっか。……ねえ、こへいた。こへいたも私の名前を呼んでよ、私ばっかりじゃずるいから」
    「本当にいいのか?」
    「ええ? ふふっ、こへいたは変なところで気にしいなんだね。えっと、なんだっけ……細かいことは気にするな! でしょ?」
    「……そうだな! これからは遠慮なくお前の名を呼ぶとしよう、ちょーじ!」

     ────細く暗い路地に、一筋の星灯が差していた。





     別の日。


    「……あ、こへいた!」
    「おう、ちょーじ!」

     小平太が人間の少年に真名を教えてからまた数日が経ち、また小平太の小腹が減ってきた頃のことである。真夜中になろうかという時分に呼び出した長次が、小平太の張った夜の帳をくぐり抜けてやって来た。

    「私は腹が減ったぞー!」
    「もう、こへいたがここに呼んだんじゃないか。わかってるよ、今準備するから待ってて?」

     元から長次は上位者たる小平太に対して引け腰になるでもなく慇懃無礼になるでもなく、といった態度であった。しかし言葉を交わすことを許され、良くも悪くも小平太に裏表がないことを悟ったのだろう。不必要に気を張ることがなくなり、年相応の明るい笑顔を小平太に見せたり積極的に小平太に話しかけたりするようになった。

    「ん……んんっ……」
    「……ンよし、こんなところか。ちょーじ、もういいぞ。楽にしろ」

     血を吸い終わり、長次の意識が回復してくれば、それからは約束の夜会の始まりである。長次が話し、小平太が返す。小平太の言葉にまた長次が返す……していることといえばただの会話ではあるのだが。

    「今宵は何が聞きたいんだ?」
    「うーん……じゃあ吸血鬼の生態について聞きたいな」
    「セイタイ?」
    「どんな風に生きてるのか、ってこと。私たち人間は、大体はお昼に活動して夜には寝るでしょ? 植物も食べるし肉も食べる……じゃあ吸血鬼はどうなんだろう、って思って。そういうことを知りたいんだ」
    「そうか! それがセイタイか! ちょーじは物知りだな!」

     長らく他者との意思疎通をしてこなかった小平太にとっては、それは新鮮な経験だったようだ。会話はよく弾み、ほんの短い間で見る間に長次との距離を縮めていた。

    「活動時間は……もちろん、夜だよね。いつ頃まで起きてるの?」
    「空が明らむ頃にはどこかの影に入って寝る! 要は寅の刻だな!」
    「とらのこく? それって何時のこと?」
    「そうか、現代は時の数え方が違うのだったな。寅の刻は朝の五時のことだ! まあ夏にはもっと早く寝るがな!」
    「やっぱり太陽の光に当たったら燃えるの?」
    「ああ! 大抵のやつなら即死だ! 成りたてなんかだと一秒も持たずに塵になる!」
    「うわあ。やっぱり太陽ってすごいんだ」
    「だがそれも個々の強さによるぞ、私なんかは割と耐えられるしな! 例えば、ちょうじが私の眷属……私の下僕としての吸血鬼になって、その状態で日光に当たったとしよう。仮に成りたてだったとしても、しばらくは生きていられるぞ」
    「…………人間をケンゾクにした元の吸血鬼が強いほど、太陽にも強い?」
    「! お前賢いな。そういうことだ!」
    「じゃあ、こへいたはすごく強い吸血鬼?」
    「おう! 私は強いぞ!」

     むん! と力こぶを作ってみせた小平太は、自信に満ち溢れた力強い表情をしている。それがあの笑顔のように眩しく感じたのか、長次はうっすらと目を細めた。

    「そっか。……どうやったら、強くなれるの」
    「そりゃあまあ、たくさん食べてたくさん動いて、たくさん寝てたくさん生きることだ! 食べたものも経験も、等しくお前を強くするぞ!」
    「食べる? 血を飲むんじゃなくて?」
    「ん? 何かおかしいこと言ったか?
     人間は食い物だぞ?」
    「…………うん。確かにそうだよね」

     小平太はきょと、と首を傾げる。長次の様子がおかしいが、何かしてしまっただろうか。

    「あ、もうこんな時間だ。帰らなきゃ」
    「……そうか、人間としてはそんな時間か」

     いくら人目を忍んでここに来ていると言ったところで夜中も夜中、真夜中である。人間の少ない夜といってもケイサツはたまに彷徨いているし、怪異ほど危険でも強くはないが夜行性の野生動物もいる。せっかくの餌を殺してしまわないためにも、名残り惜しくはあるが長次を家に返すべきだ。夜は、危険な時間ゆえ。

    「ではな、ちょーじ。また呼ぶ!」
    「うん。待ってるよ、こへいた」


     ……また別の日。


    「うーん。やっぱりナナマツコヘイタって名前以外は何もわからないのか」
    「うん、思い出そうと思っても雪煙の中だ」
    「雪煙……ホワイトアウトみたいなものかな」
    「ちょーじ! ほわいとあうと、ってなんだ?」
    「雪とか吹雪で視界が真っ白になって、先が見えなくなることだよ。雪が降らないここじゃ、ほとんど起こらないかな」
    「なるほどなるほど、なるほどなあ。確かに私自身のことを考えるとそんな感じだ! どんなに探しても何も見つからず、酷く寒々しい……私は今までどんな風に生きてきたのだろうな!」
    「ええ!? 五百年も生きてきたのにその分の記憶がないなんてどうかしてるよ。……名前を忘れてたのも大概だけど」
    「にゃはははは! まあ細かいことは気にするな! 名前を忘れても記憶がなくても、大抵のことはいけいけどんどーん!! でどうとでもなる!」
    「あはは! なあにそれ! ……でもなんだかこへいたらしいね。イケイケー、ドンドン?」
    「そうか? なんでもいいけど、ちょーじが納得したならそれでいい! 私はちょうじの笑顔が好きだからな!」
    「! ……好き? 私の笑顔が?」
    「おう! まあ私はそもそも、他人の顔をまじまじ見るなどいつぶりだというところだが? お前の笑顔を見ていると私も自然と気分が上向く!
     それは即ち良い顔だ、美しい魂の表れだ。誇れちょうじ、お前は美しい!」
    「……そ、っか。そうなんだ。笑顔って、そういうもの、なんだね。褒めてもらえて嬉しいよ。
     ありがとう、こへいた」

    「それにしても、残念だな。こへいたの名前の由来がわかればよかったんだけど」
    「まあ、私に限らず吸血鬼は人間と違ってそこまで過去を気にすることはない。何せ悠久の時を生きるのだからな、ひと月も一年も十年も同じようなものだ!」
    「なんだかスケールが……ああ、スケールっていうのは規模、程度って意味だよ。話の規模が大きい話になってきたね」
    「すけえるが大きいだけで、そういう感覚はお前たち人間も持っているようだぞ?」
    「『年を取ると時間の流れが速くなる』……ってやつかな。塾の先生が言ってた」
    「そう、それだ。まあからくりとしては、『如何に新鮮な出来事を経験するか』だろうなあ。同じことを繰り返しているだけでは刺激が無くなり、変化が無くなり、そして不変に慣れてしまう。
     ちょーじ。お前の時の進みは、ゆっくりか?」
    「そうだね。小学校に入学して、いつの間にか五年生になってたけど……今は、とてもゆっくりだよ」
    「いいことじゃないか、良かったな! 今のお前は充実した日々を送れているということだ!」
    「────、─────。」
    「ん? 何か言ったか?」
    「ううん、何も」

    「それよりも、さ。何も残らないまま五百年もの時間が過ぎたってことは……こへいたは生まれてからずっと、楽しいって思えることはなかった、ってこと?」
    「さあ? 忘れてしまったから私には何もわからん。けどまあ結局、こうして忘れる程度のものだからな!
     どうせ大した記憶ではないんじゃないか?」
    「そんなものなのかな。……それってなんだか、とても悲しいよ」
    「そうか? ちょーじは時折変なことを言うなあ」
    「こへいたは、さみしくないの?」
    「────寂しい?」
    「こへいたがわざわざ姿を見せた人間は、みんな殺して食べたって言ってたよね。普段は姿を見せないってことも。
     それって、こへいたのことを覚えていてくれる人は誰もいなかったってことだよね」
    「……」
    「こへいたの中には何の記憶も誰の思い出も残ってなくて、この世の生き物の誰も、こへいたのことを知らない」

    夜の暗闇に消えたこへいたを見つけられる「誰か」は、いなかった。

    「そんなの、ないよ。そんなのって、あんまりじゃないか。こへいたは、そうじゃなくてもっ……私は、悲しいよ。ここが……胸が、痛くなる……」
    「……長次」
    「ぐすっ……なに、こへいた」
    「────ちょうじは、本当に優しい子なんだな」
    「……」
    「言われてみれば確かに、私は虚しいやつなのかもしれん。何も残さず何も残せず、死んでいるに等しい状態でただ生きているだけ……だった。だった・・・んだ、ちょうじ。
     お前は、私を見つけてくれただろ?」
    「……あ!」
    「気づいたか! 少なくともお前がいる限り、私は寂しいやつじゃなくなったわけだ。私は幸運な男だな!」
    「わっ、わ……! こへいた、そんなに強く撫でないでってば……!」
    「なっははは! 細かいことは気にするな!!」


     ……そのまた、別の日。


    「ぅ、く……あ、あっ、あう……!」
    「……」
    「こ、へた……こへっ、こへえたぁ……! まっ、まって、なんか、おかしい……!」
    「……、ッ、……!!」

     ずる、じゅる、じゅぷ、とはしたない音を立てて血を啜るのは、誰あろう吸血鬼の小平太である。首筋に取り憑き一心不乱に長次の血を啜るその鼻から口の隙間から、荒い息遣いが漏れる。……同様に、長次の肉体にも異変が起きていた。苦痛に顔を歪めていた初夜、その後しばらく続いた無痛と微兆の夜、そして……ここ最近長次の心身を悩ませる、「熱」。
     勝手に体が震えてしまう。体の奥底の中心から、末端の手足から、甘い痺れが回ってくる。確か、たしかこへいたがずっと前に「唾液のびどく」などと言っていなかったか。まさかそれのせいかなんなのかもわからないながら、どうにもコレは善いものだが享受するには良くないモノとわかり始めてきた。わかっているのに、そう思っていたいはずの脳みそは、その甘美な未知の感覚で砂糖漬けにでもされたかのように真っ白になっていく。……そして、長次は知る。
     これが、「きもちいい」なのだと。

    「ぷはっ」
    「あうっ……!?」
    「はっ、はっ、はあっ、はあッ、────ッは、アハッ、ハハハ……!」
    「……!」

     そしてまた同様に、その感覚に襲われているのは長次だけではない。
     実を言うと、この頃の小平太はかなりの頻度で血を喰らっている。長次に出会うまでの小平太であればひと月に一度の吸血で凌いでいたものを、ここのところ三、四日に一度は長次を呼びつけていた。
     五百年もの生の中で怪異としての力を強めてきた小平太は、他の怪異共と比べても格段に腹持ちが良い。燃費が良い、とも言えようか。しかしそれで腹いっぱいというわけではなく、もっと食おうと思えばもっと食うことはできる。むしろ小平太は大食漢であり、つまり彼がこれまでしてきたことは断食一歩手前、拒食のような自傷行為であった。
     腹持ちが良いことと腹いっぱいでないことは、何の矛盾もなく共存し得る。一回の吸血、一回の食事でそれなりに……具体的には体感ひと月は持ったから、それで良しとしてきただけで。長命不死身でありながら細かいことを気にしている者は、自ずと消えたくなってしまうので。怪異が「強くなる」ということは、そういうことだ。そういうことだから、
     気にしていなかったから忘れかけていただけの本能が、美食過食に呼び覚まされてしまうこともあろう。

    「ふ、ふフッ、フハ、ハハッ!! あぁァァアア美味い、ちょーじの血ぃ……美味いなァ……!!」
    「こへい、た! こへいた、なんだか怖いよ……!」
    「もっとほしい、もっと、もっとちょうじのちほしい、もっと!!」
    「……ぁ」
    「もっとくれ、ちょうじ」

     あの夜の高貴な真紅とはまるで似ても似つかない、狂暴で真っ赤な瞳。桃色をわずかに残すばかりの血に濡れた舌が牙をなめずり、長次を押し倒す手に力が籠った。

    「ッ、~~~!!」

    ゴン!!

    「あがっ!?」
    「ぃ、っつう……」

     無音の咆哮を上げた長次は、かろうじて自由を奪われずにいた箇所……即ちその石頭を、再び血を吸わんとする小平太の額めがけてお見舞いしたのだった。予想外の反応に面食らった小平太は額を押さえ低く呻いている。しかしそれもそうだろう、食料人間が吸血鬼に反撃してくるだなんて予想できる吸血鬼がどこにいようか。

    「ぐッ、くうっ……! ちょうじ、貴様ァァァッ!!」
    「こへいたは吸血鬼なんだろ」
    「!」

     鋭く爪の尖った手が首に届こうかというところで、ビタリ、とその動きが止まった。

    「こへいたになら、どんなに血を吸われてもいい。最初に約束したもの。こへいたなら、いいよ。
     でもそれは、今のこへいたじゃ────こへいたの見た目をしただけのバケモノじゃ、ない」
    「……!」

     頭突いた額から流れ出した血が、長次の顔を伝って垂れていく。涎が垂れるほど、喉から手が出るほどにソレを欲していたはずなのに。
     小平太は、ソレに見向きもしない。

    「こへいた。誇り高き怪異の王」

     震える両手が、未だ赤い眼をして少年を見つめる吸血鬼の頬を包み込み、少年の眼前に強く引き寄せる。瞬きすまいと力が籠りすぎて震えている、ルビーのように美しい小平太の瞳さえ間近に見えるほどに。

    「吸血鬼の正心、思い出せ」

     ……覚えのある熱が触れたからだろう。ゆるりと目を伏せた小平太の全身から、前触れもなく力が抜け落ちた。長次より一回りも大きい体躯をした小平太の体が、線の細い長次の体の上にずしりとのしかかる。

    「う、わっ」
    「……」
    「ちょ、ちょっとこへいた、重い……!」
    「このまま」
    「え?」
    「少しだけ……このままで」

     目を閉じれば長次の鼓動が聞こえる。吸血鬼の優れた聴覚にかかれば、数多の骨と幾重の肉に阻まれようとも長次の心音は鼓膜を直に打っているかのようによく聞こえる。長次が、小平太のすぐそばにいる。
     人間はただの食べ物である。よほどの価値がなければその場で骨まで食らってしまう程度の存在。この牙を立てるまでもなく血を流していたとしてもそれは変わらない。
     長次はただの食べ物のはず、なのに。

    ズキ。

     ……血がほしかった。かつてない頻度で吸血を繰り返しているのに、どんなに吸っても腹が減ってたまらなかった。吸血を超えて、度を超えて長次を食ってしまえば、どんな法悦が得られただろう。だから私は、長次の額から流れる血をべろりと舐め取って、そしてそのまま長次の全てを貪ってしまっても良かったはずなのに。

    ズキ。

     だのに、何故だろう。あの時も今も、私はそうしなかった。
     そうは、しなかった。

    ズキ。

    「────私は一体何を求めているのだ……」
    「こへいた?」
    「! い、いや、何でもない! それよりちょうじ、お前は大事ないか」

     羽の擦れる程度の幽かな囁きは、長次の耳には届かない。

    「大丈夫。こへいたが元に戻ってくれたなら何でもいいよ」
    「そ、うか」

     慌てて長次の体を起こし壁にもたれさせ、ぺたぺたと触診を試みた。……どうやら長次の言う通り、体も心も何ら支障はないようだ。奇跡そのものである。
     本来であれば、成体の人間ですら身動ぎできないほどの鬼気。生身で中ることさえ危険な代物。そしてそれにあてられたら最後、為す術なく小平太に殺される。吸血本能を剥き出しにして襲ってきた小平太に正面から向き合い……あまつさえ頭突きをかますなど、並大抵の肝ではできぬ。

    「ちょうじ」
    「なに?」
    「……怖い思いをさせて、すまなかった」

     ぽす、と長次の肩に頭をうずめた。くしゃくしゃに乱れた前髪が、シャツの隙間から長次の肌を擽ってしまうが。その申し訳なさよりも、「長次」を直に感じたいと思う不可解な気持ちの方がずっと強かった。

    「……」
    「はは。ここひと月で、私は……どうにもおかしくなってしまったらしいな」

     血だけではどうにも腹持ちが悪いなら、人間一人食ってしまえばいい。私は腹が減っている。なのに食ってしまいたくない。けれども、ちょうじがほしい。
     以前ならば何も考えず何も感じずにできていたことが、やけに恐ろしい。肉を容易く裂くこの爪が生えた手でちょうじに触れるのをひどく躊躇う。けれども、何もなくてもちょうじに触れたい。
     血を吸ったその後に人間が何を喚こうが聞く耳も持たなかった。たかが人間の囀りである、もしその囀りが癇に障るなら殺してしまえばいい。血を吸った私をどんな顔で見てこようが、私は見向きもしなかった。それに、所詮見分けがつかない同じような面である。殺してしまえばどんな表情もいずれ醜く崩れて有耶無耶になろう。
     けれども、ちょうじは私に屈しない。力に屈することはなく、然して礼儀を欠くわけでも傲慢なわけでもなく、ただ対等に「私」を見ている。ころころと鈴のように笑っては猫の如く途端に怒ってきたり、予想だにしないことで悲しんだり、その表情を見ていて飽きることがない。
     その魂がちょうじから永遠に喪われてしまうことが、何よりも恐ろしい。

    「お前から香る血の匂いがいつもより濃くて、それで……抑えきれなかった。……本当にすまなかった」
    「────ううん、大丈夫だよ。元に戻ってくれたから、それでいい」
    「しかし……」
    「細かいことは気にするな!!」
    「!」
    「……でしょ? こへいた。私はもう気にしてないから、それでいい。だからこへいたも気にしないで」
    「…………これは一本取られたな」

     肩口にぐりぐりと顔を寄せている小平太の頭を、長次は指でゆるゆると梳かしながら撫でた。

    「私はね、こへいたと一緒にいるときが一番ぽかぽかするんだ」
    「温かい……? 私は、というか吸血鬼は、そんなに体温が高くないが」
    「へえ、そうなんだ? こんなに温かいのにね。不思議だね、こへいた」
    「そうだな。……不思議だな、ちょうじ」

     むくりと体を起こした小平太。壁に凭れる長次を抱えたまま、今度は小平太が壁に凭れた。その脚の上に乗せ、そのかいないだいた子どもは、温かい。

    「実は、今日はこれをお前に渡そうと思ってたんだ。お前が来ない間の夜に少し遠くへ出かけてな。ほら」
    「わあ……綺麗……!」
    「だろ? 逞しく道端で咲いてたんだぞ」
    「これは……シャガの花だね。図鑑で読んだ……毒性が強いんだよ」
    「なにっ」

     小平太の手に摘まれていたのは白と紫の花弁が美しい胡蝶花。長次の言うように、根に強い毒を持つ花である。

    「でも人間なら、食べなければ基本無害だ。手折ってあって根っこはないし、触る分には問題ないはずだから……もらっていい?」
    「ちょうじがいいなら構わない! しかし本当に物知りだな、ちょーじは」
    「まあ、ね。物を知るくらいしかできることがないから」

     小平太が差し出すシャガを受け取った長次は、目を細めて花を見やる。少し枯れ始めてしまっている花弁を愛おしそうに撫で、大切にするね、と呟いた。

    「また三日後、夜の十時にここへ来てくれ。腹が空いていなくても、お前を歓迎するぞ」
    「うん。わかった」
    「だから今夜は、しばらく……こうしていよう」
    「……うん」

     小さく、細く、儚いその体が秘めた、力強い命の鼓動。いつかどこかで知っていた気がするその優しさと温かさを、轟々と吹雪いて音の遠い記憶の中に探している。
     ────ずっと目を閉じている暗闇で、見たこともないはずのあの太陽を思い出していた。


     三日後。


    「……」

     その夜。
     長次は、小平太の待つ路地についぞ姿を現さなかった。





    ⬛︎


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    それではな。お前らと過ごせた六年間は、私の誇りだ!

    「僕もだよ。最高に輝かしい六年だったとも」
    「……そうだな。俺も同じだ」
    「珍しく意見が合う。……こういうことをわざわざはぐらかす意味も、ないだろうしな」
    「ここでの学びと思い出を胸に、それぞれの道を歩いていくよ。この⬛︎⬛︎の名前に誓うとも」

    「「「「いつかまた、黄泉路で会おう」」」」

    ……背中も見えない。とうとう行ってしまったな。

    お前は行かないのか?

    「……」

    意外だ。お前はさっぱり別れるものだと思っていた。

    「これが、私とお前との今生の別れになるかもしれない」

    全くもってその通りだ。

    「卒業し、たまごでなくなった私たちが迎える別れに後腐れはない。疑問もない。
     しかし、聞かなければ生涯この後ろ髪を引かれる想いが、まだここにある。だから残った」

    やけに饒舌だな。

    それで、聞きたいこととは何だ?

    「私に言い残したことは、あるか」

    いいや? 何も。

    「そうか」

    そうだ。

    だが最後に言っておきたいことはある。それを餞として、旅立つお前を言祝ごう!

    私は、お前の幸せを心から願っているぞ。

    「……うん。ありがとう、小平太。だから私も、お前を言祝ごう」

    「⬛︎⬛︎、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎────小平太」


    ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎


    ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎


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    「…………はら、へった……」

     長次が約束を違えた日からひと月が経った頃のことである。頭上に輝いていれはずの星も月も、暗い雲に覆われて真っ暗闇の空。小平太は地面に横たわって倒れ伏し、飢餓感を孕んで自身を苛む腹を力なく抱えていた。
     あれから長次は一度もここに来ず、小平太もぐるるる、と腹を鳴らしてそれでも長次を待ち続けている。長次の血という極上の餌を頻繁に喰らい続けてしまったために、この断食は小平太にかつてない地獄の様相を呈していた。初めのうちこそ小平太も神経を擦り減らして耐えていたが、それにも限度があるというもの。腹の内からじりじりと焼かれているような感覚が消えなくなってからは酷かった。空腹が人を狂わせるように、空腹は吸血鬼を狂わせるのである。

    「……ぅ」

     腹が減った。おなかがすいた。あと何回この音を聞けばいいのだ。一刻も早くこの苦しみから解放されたいというのに。早く人間を喰わねば、せめて血だけでも吸わなければ死んでしまう。

    「う……っぐ、う、ぅ」

     ちょうじがほしい、ちょうじの血がほしい────いや待て。なにもちょうじの血でなくたっていいじゃないか。
     ニンゲンは掃いて捨てるほど、食って吐いて捨てるほどいるのだから。

    「う、ウ……ゔうゥッ」

     はやくここを出ていこう。一歩出てしまえばそこは食料庫。今まで散々やってきたことに何を躊躇う必要がある。人間を捕まえて喰らってしまえ。
     殺せ!!

    「ゔ、グ、Grrrrrr……ヴヴヴッ、ゔぅぁァア゙ア゙ア゙ッッ、▆▇▆▃▅▉▉▅▅▆▇▃▇▃▇────」

     ……腹を押さえて蹲っていた体が、ゆら、と独りでに立ち上がる。虚ろな瞳は目先の景色など捉えておらず、何処かにいる己が喰らうべき生贄をその奥に見ている。ぶつ、ぶつ、と唸るように呟いているのは呪いか、怨嗟か。ふらついていながらもその足は確実に、着実に、小平太を外に向かわせている。
     小平太の張った結界は他者を寄せ付けぬ塹壕であると同時に、「小平太を封じ込める」祠である。胡蝶花を摘んだ時のように自ら結界を張り直す意思が残っていればいざ知らず、今の小平太が外に出てしまえば、ニンゲンに飢えた化け物が現世うつしよに解き放たれてしまう────


    『私以外の人たちには手出ししないで』


    「……」


    『私は、あなたの言いつけを守る』


    「────ちょ、ぅ……じ……」

     ……ただ待ち望む人間の名を口走った小平太は、またぱたりとコンクリートの上に倒れ込む。……帳の境目まで、あと一寸、だった。

    「…………は……はは……まもれない約束、は……し、ない、って……いった、もんな……」

     しかし、このまま食うのを拒むならば小平太を待っているのは死のみである。人ならざるものであるとはいっても所詮は生き物。五百年も生きた小平太であるからこそ、何もない空っぽの生であったとしても、一層死が恐ろしい。何も為せず、何も成せず、生きた証は残らず影と消える、怪異の宿命。

    「ちょうじ……ちょう、じ……ちょ、じ……あぁ────また……あえなかっ、た……」

    ぶわっ。

    「!!」

     路地裏近くに広がった血の匂い……否。これは。

    「ちょうじ」

     力が抜け続ける体に鞭打って起き上がる、立ち上がる。夜の帳を抜けてこちらに来る者を出迎えるために。小平太に会うためにここへ来てくれた人間のために。
     近づいてくる、紛れもない長次の匂い。

    「ちょうじ……!ちょうっ、────は?」

     腕の中に倒れ込んできた長次から立ち上る臭い。流した血の臭い。内出血を起こして澱んだ血の臭い。
     傷ついて傷んだ肉の、臭い。

    「こ、へい、た」
    「ちょうじ……ちょうじお前、これ、」

     小平太の上等な着物に、長次が流した血が染み込んでいく。ばっくりと裂けた長次の両頬から、どくどくと血が溢れ出して止まらない。

    「……ごめん、ね。あの日、ここに来られなくて。ここに来るの……遅れて……」
    「そんな、ことッ……!? そんなことどうでもいいんだ!! その頬はなんだ、その全身の怪我は何だ!!」

     がくりと膝から頽れそうになった長次を、あれだけ小平太を苦しめていた空腹も忘れた俊敏な動きで抱き留めて、そのままゆっくりとしゃがみ込む。
     頬の怪我など氷山の一角に過ぎぬ。小平太には視える、臭う、感じ取れる。服の下で蚯蚓脹れまみれの青痣まみれになって、内側まで蹂躙された長次の肉体が。

    「こへいたに、呼ばれるようになってから……色々あって。家に帰るのが遅くなったり、夜中に家を抜け出したり、塾をさぼったり、……成績が落ちたり」
    「塾……お前が母親に通わされているとか言ってた、寺子屋みたいなやつか。だったらなんだ、それだけでお前を責め立てたとでも言うのか」
    「うん、そうだよ」
    「────」
    「……服の下、見えてるんでしょ。そっちは全部お父さんだよ……お酒とタバコと女の人が好きなんだって」

     俯いたままの長次の震える手が、ぎゅう、と小平太の着物を強く握り込んだ。

    「私のお母さんは『完璧な女の子』がほしかったんだって聞いた。でもこのゴジセイじゃ子どもは一人しか作れないとか、セケンテイがどうのとか言ってて……うん。まあ、それなりにやってたんだ」
    「…………それは……母親のそれや、父親のこれは、このひと月だけの話では、ないのだな?」

     一句一句噛み締めるように問う小平太に、長次は小さく頷いた。

    「最後に会った日……こへいた、私からする血の臭いがいつもより濃いって、言ってたよね。『いつもより』って言われてちょっとびっくりしたよ。まさかばれてるのかな、なんて思って。
     あの日、父さんに乱暴されたんだ。鼻血も出たし……たぶん、こへいたはその分の違いに気づいたんだと思う」
    「……」
    「髪を伸ばしたり、自分のこと『私』って言ったりしてたのもそうだよ。たまたまだけど、父さんも私が女っぽくしてるのは好きみたい。
     でも、これはいいんだ。私もなんだかしっくりきてたから、別に良いんだけど」

     ポニーテールとは違う、髷のように高いところで結われていた髪をさらり、と撫でる。その手でそのまま、じくじくと傷んでいる頬に触れた。

    「夜の出歩きが多すぎるのと、塾や勉強をサボって学校で成績が落ちたのが、バレちゃって……それが、一ヶ月前。それで……今夜、こへいたのところに行こうとしたら、……包丁、を」
    「それで、逃げてきたのか」
    「こうしろ、ああしろって言われるだけなら、言うことを聞くだけでいい。けど……脅されたら、もう無理だ。でも、とても痛いけど、しんだりはしないし。……傷は一生残る、かな」
    「……」

     長次を抱き上げ、玻璃の栞でも扱うかのように長次を壁際に座らせた。ずたずたにされたその身では立っているのも辛かろう、という小平太なりの配慮であった。今までの小平太では想像もつかないような繊細な動きに、長次は小さく笑おうとした、が。

    「痛っ……!」
    「!!」

     研ぎ目の荒い刃物の切り傷がびち、とさらに裂けた。どぷどぷまた血が溢れ、小平太に笑いかけようとしていた長次の顔は苦痛に歪んでしまっていた。

    「あ……ごめんこへいた、私は大丈夫だよ」
    「ちょうじ、もう喋るな。体に障る」
    「大丈夫。私は大丈夫だから……ね? そんな顔しないで……私より痛そうな顔、してるじゃないか……」
    「いい、もういい、ちょうじ、」
    「ごめん。ごめんね、こへいた。こへいたには、笑っていてほしいのに……私が笑った顔が好きって、言ってくれたのに。私……これじゃあ、
     これじゃあもう、上手く笑えない」
     
     …………緞帳のように重く空を覆い隠していた雲が、晴れていく。瞬く星天にぽっかりと座す、あの瞳のような満月。
     ぎらぎらと、夜闇の帝王を照らし出す、満月────

    「────今まで、辛かっただろ。よく話してくれたな」

     ぽん、と一つ頭を撫でられる。長次を労るときの、いつもの小平太である。

    「そうか」
    「……こへいた?」
    「ああ、そうか、そうか。……よくわかった」

     しかし長次は感じ取った。見上げた先で代わり映えのないように見える小平太の、大地のように不動なるその振る舞いの奥底に。
     未だ目にしたことのない、重く轟き揺蕩う焦熱。その瞳。

    「つまり────お前の親畜生を、殺せばいいんだな?」

     どろどろ噴き出す灼熱が呼び起こすは大気を裂くいかづち

    「ッ、……ッ!!」
    「『許さん……! よくも、よくもちょうじに傷を……!! 』」

     ぶるぶると震える両手が、長次の傷ついた両頬に触れる。反してその全身から迸る、溶岩のように煮え滾る怒りたるや、その怒気に巻き込まれ焼き焦がされると幻覚するほど。

    「『殺す!! 殺す、殺す! 殺す!! 人間如きが私のものに手を出せばどうなるか、その身を以て学ばねばわからんようだな!!』」
    「……!! ま、待っ」
    「『否……否! 否だ! 殺すだけでは飽き足らぬ、死すら生温い!! 無様に死を乞うほどの、永劫の苦しみを味わわせてやる!!』」

     自縛結界などとうに通り越してしまった小平太に、制止しようとする長次の声は届かない。怒り狂う吸血鬼が一歩、一歩と邪道を進むたび、隠れていた一帯の生き物共は怯え、泡を吹いて倒れ、辺りの建物が震撼する。
     路地を出た小平太の矛先が向いている方角を見た長次の顔から、さあっと血の気が引いた。

    「……! こへいた! 待って、待ってよこへいた!! お願いだからそんなことしないで!!」

     それは長次の家がある方角。教えていないはずなのに、家のことなんてこれまで一度も話したことなんてないはずなのに、小平太は一片の迷いもなく長次の生家を向いていた。
     ここで止めなければ。行かせてはいけない。動くたび全身が痛む体を押して動かし、立ち上がる。転びかけながらも長次は恐怖を押し殺して小平太に追い縋り、その手を掴んで引き留めた。

    「『何故だ』」

     声。ごろごろと低い声が、長次に降りかかってきた。
     遥か上空でバチバチといかずちを帯び、今にも地に落ちんとする鳴神。
     くるりと長次に振り返った小平太の顔にあったのは、その顔に青筋を浮かべただけの能面のような怒りの色。

    「『お前は、お前を生んだというだけの愚物の家畜か?』」
    「……」

     ソレが人に直撃すれば、ひとたまりもない。

    「『それがお前の望みか。千歩譲ってそうなのだとしても私は許さん。私が許さん』」
    「『子を愛さぬ父母などいらぬ。そのような者は親に非ず。親を名乗る資格無し』」
    「『子を痛ぶるような人で無しにお前がかける情けなど、どこにある』」
    「『こともあろうに何故お前がアレらを庇う!』」
    「『何故!!』」

     ────撃たなば撃てねと天に逆立つ鉾が、天に伸ばす手があれば、今にも解き放たれようとしている厄災が人の世に降りかかるのを防ぐに能うだろうか。
     しかしそれはあまりに恐ろしかろう。大地をも灼く雷撃は、あらゆる命を等しく襲う。

    「……変なの。さっき、言っただろ」

     初めて血を吸われた時よりも、首に手をかけられたときよりも恐ろしい────親よりも誰よりも、自分よりも自分のために怒る、誰よりも優しい男に。
     血の涙を流し続ける男の顔に、長次はかすかに微笑んで手を伸ばした。

    「こへいたに、そんなことをしてほしくない」

     たかが人間の、たった一言。
     されど、彼が初めて名を覚えた人間の一言。

    「こへいた。こへいた、私は本当に大丈夫だよ。こへいたがいるから大丈夫なんだよ。だから、そんなに怒らないで。そんなに泣かないで。
     私も、太陽みたいに笑ってるこへいたが好きなんだよ」

     たったそれだけで、怪異の王の忿怒は鎮められていく。

    「ずっと会えてなかったから、お腹が空いてるよね。こんなに長い間待たせて、ごめんね……ほら、私の血を飲んで」

     小平太の首に絡ませた細腕がぐい、といざなったのは長次自身の首。わざわざ小平太の口を直接肌に宛てがったその意に逆らわず、脇目も振らず……首筋を舐めることだけは忘れずに、小平太は長次に噛み付いた。

    「あんな人達でも、私の親だ。私の親だけど、あんな人達だ。でも、死ねばいいなんて思ってない。思ってないけど、どうでもいい。あの人たちは、私の魂の中にはいないから。
     私の幸せは、あの二人からずっと遠いところに……今、ここにいる」

     幾度となく繰り返した逢瀬を、いつの日からか同じ色をしていた想いをまた重ねる。震えながら血を吸っている小平太の背中をゆるりとさすりながら、長次は声をかけ続ける。

    「だから、あんな人達のことよりお互いのことを考えていよう。その方がずっといい。その方がずっと幸せだよ。過ぎていく時間は、この世界は、私たちを待ってくれない」
    「…………お前は、本当に強いな」

     久方ぶりに長次の血にありついて死の淵からよみがえった小平太は、沈痛な面持ちでぽつりと呟いた。喋るたび傷が開くのを押して語りかける長次の頬をやわく挟み込み、指先でかすかに撫で続ける。

    「初めて会った夜も、私に話しかけた夜もそうだったな。それに比べて、私は弱い。弱くなってしまった。お前に出会うまではこんなではなかったのだ。今やお前を失うことがこんなにも恐ろしくてたまらない。あの日、欲など出さずにお前との縁(えにし)を断ち切っていれば……お前だって、こんなことには……」
    「こへいたは弱くなんてなってないよ。それは人らしさで、『人間』らしさだ。小平太も案外、人間くさいんだね」
    「それは……褒め言葉か? 私は吸血鬼だぞ」
    「もちろん。こへいたは吸血鬼だけど……吸血鬼は、人間の姿をしてる。どうしてなんだろうね」
    「……考えたこともなかったな」

     上位の存在も神も、揃いも揃って人の姿をしている。人によってつくられたものだから。
     人から生まれた者、だから。

    「ねえ、ねえこへいた。私たち、吸血鬼と人間なんだ。全然違うのに私たちは出会えた。こんなに短い間でこへいたはこんなにたくさんの思い出をくれたね。でもいつの日か、私はきみの隣にいられなくなる。……わかってる。わかってるよ。私もこへいたの隣にいられなくなるのが、怖いよ」
    「……」
    「けど、だからなんだっていうんだ」
    「!!」

     俯いていた小平太の顔を両手に挟んで見上げさせた長次の、真っ直ぐすぎる瞳。

    「『いつか』のことを考えてたら何もできない。『いつか』を怖がってたら一歩も動けない。
     そんなの、私が小平太を諦める理由にはならないだろ」

    ズキ。

    「う、ゔっ……!?」
    「嫌だ。他の人のことなんて考えないでよ。私を見てよ。私の心を見てよ。小平太は怖いの? 私の心を見るのは、そんなに怖い? 私はずっと小平太のことしか見ていないのに」

    ズキ。

    「私は、お前のことをずっと待っているって、言ったのに……!!」

    ズキン。


    「────ぁ、」

     痛い。いたい。どこが痛い?
     張り裂けそうな、この胸が。

    『私に言い残したことは、あるか』


    ズキ。


    「おまえ……お前、は……!」


    ズキ。


    『いいや? なにも』


    ズキ。


     淡い想いの清流溢れ出す、頭が。
     透き通った涙を流す、この心が。


    「あ、ああッ、あ、ア……! うあ、あ、がああ゙ぁッ……!!」


    ズキ。ズキ。ズキ。


     痛い。いたい。

     どこが痛い。どこにいたい? 誰といたい?

     誰の隣に、いたい?


    『私は、お前のことをずっと待っているぞ────小平太』


    「長、次」

     五百年もの間、この魂から損なわれていた男の隣に。

    「────すまない」

     静かに、しかと、その腕の中に長次を抱いた。
     かつて、想い実ることなく自ら手放した最愛を。

    「すまない長次、すまないっ……!!」

    いつか、自分ではない良い人と結ばれるはずだから。

     そうやって、己の腕のうちにいてくれた長次を突き放したのは私自身だった。そのまま、待っていると言ってくれた長次に再び出会うこともないまま、誰もいない真っ暗な洞窟の中で。……もしかしなくても、そのときの無念が化生を呼び寄せたのであろう。怪異は、出逢うべくして出遭うもの。死に際に私の血を吸った蝙蝠が、自罰の走馬灯が、今際の際の後悔が、吸血鬼の呪いと成ったのだろう。
     そうやって永劫死ねない体になって、あまつさえ人を喰らって生き延びてきた。

     どうして、どうして長次のことを忘れていたのだろう、名前も顔も同じだったのに、頬の傷さえ因果の収束かのように同じ場所へできてしまっているのに、なぜ思い出せなかったのだろう。あの六年間をして何も伝えずに終わらせたあの男のことを、どうすれば忘れられたというのだろう。体のいい逃げ道に逃げ込んで、自分の心を殺してまで言い訳をして、それでようやくあの男の背中を押して別れたのに。それほどまでしなければ諦められないほど強く、強く想っていたのに。
     あんなにも長次を愛していたのに!!

    「すまない……本当にすまない……! そうだ、お前は……お前は、ずっと強くて優しい子だった。わかっていたんだ。知っていたんだ、私は。
     今世で出会う、ずっと、ずっと前から……!!」

     長次には見えないその頬に、ぼろぼろととめどなく涙が伝う。我を忘れて五百年。枯れたと思っていた涙が、流せども流せども心の奥から込み上げてきて止まない。

    「やっと……やっと、見つけた。いや……見つかったのは、私か。ひとりぼっちだった私を、お前は見つけてくれたんだな……長次、長次……ごめん、ごめんな、私が悪かった、手放そうだなんて思ったのがばかだったんだ! お前はずっと待っていてくれたのに……!」
    「こへいた? どうしたの? 誰に謝ってるの……?」
    「……なんでもない。なんでもないんだ、長次。細かいことは気にするな。
     私はお前だけを見て、お前だけを永遠に愛すると誓う。それさえわかってくれれば、いい」

     返事はない。ただ、ぎゅう、と抱き締め返された。それだけだ。

    「もう、怒ってない?」
    「……ああ。どうでもいいくらいに」

     抱き締めたまま微動だにしない小平太に、長次は不思議そうに声をかける。……ふと小平太を見てみると、先程までと姿が異なっていた。着物とは違う和装である。頭巾を被り、足袋を履いて、非常に動きやすそうで……ひどく見慣れている気がする、深緑の装束。

    「これが不思議か?」
    「うん。急に忍者っぽくなったね」
    「そうだな」

     吸血鬼が身に纏うものは物体ではない。吸血鬼の見目は魂の形。攻撃を受けて服ごと体が欠けようと、体と共に服も再生する。だから魂の形が変われば、見目も変わる。

    「……それが、こへいたの魂の形?」
    「おう! やっと今見つけた、本当の私の形だ」
    「そっか。かっこいいね、こへいた」
    「ん! ありがとな!! お前に褒められるのが一等嬉しい!」

     からからと笑って体を離した小平太は、改まって長次に跪く。

    「なあ、長次」
    「なに? こへいた」

     ふう……と目を閉じて深く息を吐いた小平太は、次いで芯の通った刃のように真っ直ぐな瞳で、長次を見つめた。

    「私はこれから、『お前』を殺す」
    「!」
    「落ち着け! 勘違いするなよ、本当に殺すわけじゃないからな」
    「……大丈夫。落ち着いてるよ。大丈夫だから……続きを」
    「お前という人間は、今日今夜を以て人間世界から姿を消す。お前を夜の世界に連れ去って、この世から隠す。
     『中在家長次』の名は、私だけのものになる」

     人の世ならざる者の、いざない。答えを間違えたら終わり。その手が触れたら、終わり。

    「それでもいいと、言ってくれるか。
     お前の命が尽きるその時まで、私と共に生きると」

    そう、言ってくれるか。

     幼く傷のない少年のその手に、小平太は手を差し伸べる。
     五百年彷徨い続けた吸血鬼の傷だらけの手を両手で包み込んで、長次は微笑んだ。

    「ずっとそばにいるよ。私たちはどこにいても、死んでも一緒だ、小平太。……約束」

     長い、永い隠れ鬼は、もう終わり。

    「わかった。……もう、離してやれないからな」

     小平太が長次に唇を寄せた、次の瞬間────吸血鬼の背から生えた一対の巨大な蝙蝠の翼が、二人をその影の中に覆い隠して。

     一陣の夜風が吹き抜けたその後には、何も残っていなかった。




     ────その夜、一つの三人家族が町から消えた。中在家宅から見つかった夫婦と思しき遺体は後日、頭部が破裂し残りも著しく損傷した状態で発見され。

     一人息子の行方は、杳として知れない。
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