何れ菖蒲か杜若「失礼します」
「……」
「えっと……あ、いたいた。小平太、この前借りた本を返却しに来たんだ。検本してくれないかな」
「長次か。……承知した」
ある日の夕暮れ。すす、と開いた障子から姿を現したのは、体育委員会委員長の中在家長次。両手いっぱいの山積みにした本を、図書委員会委員長の七松小平太が座る文机にどっさりと置いた。委員会の花形を自称する体育委員会を率いる長次は、同時にかなりの読書家でもある。
「……、……」
「これ? 委員会の後輩たちにと思ってまたたくさん借りたんだ。いけどんマラソンした後の休憩に読ませたんだよ」
「……?」
「風呂敷に包んだ本を背負えば持ち帰りのときにちょうどいい重石代わりになるし、休憩と一緒に知識も吸収できて一石三鳥! それに裏裏裏山で本を読むなんて中々ないから、新鮮だったよ」
周りの図書委員や利用者たちが、首を傾げて中在家長次をちらちらと窺っていた。頁をめくる音にも紛れる図書委員会委員長の声が、体育委員会委員長には事も無げに聞こえている。それが不思議でならないのだろう。
「……」
「まあまあ、細かいことは気にしないで! 本がちゃんと綺麗な状態で戻っているのは、今検本してる小平太が一番よくわかっているだろう?」
ニコニコと微笑む長次を、小平太は両頬に傷跡のある顔を能面のように無表情にしたまま見つめる。しばらくして、諦めたように小さくため息を吐いた。
「……お前のそれは、今に始まった話じゃないからな。気にしていない。だが絶対に汚すなよ。本の返却も、早いめに……」
「うん。ありがとう小平太」
もそ、もそと小平太が話す声は、梢の触れ合う音のように低く静かだ。対して長次の声は、声変わりを経た男らしい声ながら、こもれびのような柔らかさと温かさを感じる。「この二人が話しているのをしばらく聞いていると、いつの間にやら寝落ちてしまう」というのが下級生の間での専らの噂だ。
しかしながら、図書室の番人たる小平太は図書室の禁則についても自他に厳しいのだが……長次相手では、つい会話が弾んでしまうようである。
「それで。私にまだ何か用があるんじゃないのか、長次」
「あ、そうだ。別に話があるから小平太に話しかけたんだった。よくわかったね」
「滝夜叉丸には簡単な挨拶程度で済ませて、まっすぐ私のところへ来ただろう……お前は分かりやすい」
「そうかな。わかりやすいと思ってるのは小平太だけだと思うけど」
「? どういうことだ」
「細かいことは気にしない! それじゃ小平太、私と鍛錬しよう」
ちらり、と小平太は図書室内を一瞥した。滝夜叉丸と三之助は修繕の最中で、四郎兵衛と金吾は蔵書の整理整頓が終わっていない。それなりに利用者もいる。
「……あーとで」
「ええっ? 鍛錬しないの?」
「委員会の業務に区切りがついていない」
「なんだ、そこに算段がつけば鍛錬してくれるんだね? ならこれはどうかな。
『明日、図書委員会のみんなに私手製のボーロをお詫びの品として持っていく、っていうのは』」
検査が終わった本を机の端に寄せた小平太の耳に届く、誰も知らない矢羽音。
「……」
「『もしももっと手が必要なら体育委員会の子たちを呼ぶけど……それは私で十分だろ? 日頃から小平太の手伝いもしてるし』」
ふむ……と口に手を当てしばらく考えたのち、小平太は手にしていた紐を机に置いて静かに立ち上がった。
「滝夜叉丸」
「はい委員長! 何の御用です?」
「長次に呼ばれたので、暫し手合わせをしてくる。今日の作業はこれで終わりにしていいぞ」
「え!? 今からですかあ!?」
「ごめんね。だけど私が明日、ボーロを持って修繕と整理整頓の手伝いに来るよ。それで手打ちにしてもらったんだ」
「な……るほど、そういうことでしたか。中在家先輩に手伝っていただけるということであれば、確かに百人力ではありますが……」
「ありがとう滝夜叉丸。それじゃあ、ちょっと小平太借りていくから!」
お怪我はなさらないようにー……! と遠ざかる声を背に、長次は小平太の手を引いて校庭を走っていく。行先はどうやら六年生長屋の前のようだ。
「長次」
「なんだい小平太」
「矢羽音を使う必要はなかっただろう」
「うーん。まあ、それはそうなんだけど」
「……」
「矢羽音は大抵実習や忍務中に使うものだ。だから、あまりその性質を意識してないけど」
流石は六年生と言ったところか、引っ張る側も付いていく側も足が速い。あっという間に目的地に辿り着き、長次は立ち止まって振り返る。
「私と小平太だけの秘密の音だって思うと、なんだかどきどきするだろ? ……私たちの関係みたいに」
眩いばかりの夕陽に照らされる長次は、手をつないだまま長次だけをじっと見つめていた小平太に笑いかけた。
「……」
「ふふ。この前作った秘密の矢羽音を使ったのがそんなに嬉しかった?」
「ああ。だがそんなお前のいじらしさには負ける……お前は本当に愛いな、長次」
お陰で諸々昂ってしまった。
その布告を皮切りにして、弾かれたように距離を取る。小平太の懐から縄鏢が取り出されたのを見て、長次も懐に仕込んである二振りの苦無を掴んだ。
「やる気になってくれたみたいで良かった。いつにも増して気迫が違う」
「当然だろう。あんなに熱烈な逢瀬の誘いを受けては……なあ?」
普段伏せられがちな小平太の目は大きく見開かれ、その口は並ならぬ興奮に吊り上がっていた。
縄を操る小平太の周りを、ひゅ、ひゅん、ヒュン、と鋭く研ぎ澄まされた鏢が自在に飛び回る。静かなる立ち振る舞いからは想像もできないくそ力で飛ばされる鏢の破壊力は折り紙つきだ。
「気づいてくれてたんだ」
「あの状況、長次のあの誘い方。ただの『鍛錬』のわけがない」
「あはは!! それもそうか!!」
ガチン!! と打ち鳴らした苦無を逆手に構えた長次もまた、獰猛な笑みを浮かべている。
「……期待していいんだよね?」
「お前次第だな。私を愉ませてみろ、長次……!」
陽の落ちて暗くなり行く空の中、二つの刃が閃いた。────その日の決着と夜のあらましは、六年生のみぞ知る。