勝手 類が手慣れた仕草で扉を開けば、ごん、と重めの衝突音が呻き声とともに聞こえた。
まさか人がいるとは思わず早急にドアノブを離せば、閉まっていく扉から徐々に姿が現れる。「お、おぉ、類か」と、司がひきつった笑みで類を出迎えた。
「すまないね、強く打ってはいないかい? 痛みが続くようなら保健室に行った方が良い」
「いや、そんな大げさなものじゃない。ひじに当たっただけだからな」
「……うん、確かに大丈夫そうだね。今後はそこに座らないことをおすすめするよ」
類は右腕を掲げる彼の様子を注意深く見つめてからひとつ頷き、フェンス側へと移動を促す。司はそばに置いていたランチボックスを持って、先に座った類の隣へ腰を降ろした。屋上の、フェンスに沿った一角で昼食を摂る、そして時折ショー談議を展開する。そこが彼らの定位置で、それが彼らのルーティンだ。
しかし、本日、そのルーティンは開幕早々崩れかけることとなった。類のみがもそもそと、斜め上にある給水塔を見ながらパンを食べている。いつもなら視界の端に快活な食べっぷりが映るというのに。居心地の悪さをおぼえた類が横目に見れば、司は沈黙していた。
只事でない予感に、類は俯く横顔から感情を読み取ろうとする。眉間の深い皺、伏せがちの瞳、堅く閉じすぎて引き伸ばされた口――――つまりは非常に『難しい顔』をしていた。悩みまたは葛藤を抱えた顔だと、長い時間をともに過ごした類はすぐに察する。
類は、笑顔が好きだ。相互不理解という垣根が類と周りを隔てていても、垣根の隙間から覗く笑顔を見られれば類は嬉しかった。それは垣根を跳び越えた今でも変わらない。だから、仲間が立ち止まっていれば全力で支えたいと、いくつもの恩に報いたいと思うのは自然なことだった。
類は持ってきていた通学鞄もといリュックを後ろ手に掴み、引き寄せる。
「司くん、そのままでは昼食が冷めてしまうんじゃないかい?」
「ん? あぁ、そうだ、な――――?」
「おや、どうしたんだい?」
「いや、ここに弁当を置いていたはずなんだが……」
司は意味もなく砂混じりの床をざらざら撫でる。
類は「ふむ」と頷いてみせた。それはもう、鷹揚に。
「その弁当には、ジューシーな唐揚げが三個ほどひしめきあい、ひとすくいのポテトサラダが添えてあるのかな?」
「あぁ! 昨日父さんがチャレンジしたなかで随一の唐揚げで、……ん?」
「そうかいそうかい、それは思い入れがあるだろうねぇ」
「のわぁ――――ッ?! か、唐揚げが宙にぃ――――ッ?!」
類の口上を訝しんだ司が振り向けば、彼の手にはいつの間にか司のランチボックスが収まっているではないか。さらに、司の頭上を小さなドローンが飛んでいる。アームに掴まれた司の唐揚げは太陽の光を受けて空を飛んでいた。
司が叫んだ瞬間、輝くおかずは主の大口へと綺麗に落ちていく。「ぐっ!」しっかりとした味付けが口内に広がるが、司は混乱のあまり咀嚼するほかない。
「綺麗に捕まえたねぇ、さすが未来のスター! さて、次も唐揚げ行ってみようか」
「ンンーンンン――――ッ?!」
「まだ食べているのかい? これ以上待つと『温熱ドローン』が君の唐揚げを焦がしてしまうんだけどなぁ」
「ん、な、なぜそんなものが……というか昼食くらいゆとりを持たせんか!」
「君が何やら考え込んでいるからそれなりに時間が経っているんだよ。授業に出るなら少しくらい急がないと。そーれっ♪」
「わざわざ宙に放るな――――ッ!!! んぐっ」
こうして天馬父お手製の唐揚げは空中を介して、他のおかずはアームにより丁寧に運ばれ、司の腹を満たした。サラダと果物のみとなったランチボックスが持ち主に返される。普段より素早い咀嚼に疲れた司は顎を抑えつつ、箸でオレンジを挟んだ。
類は手元の機械を回収し、持っていたリュックへと入れていく。レンジの役割を果たした小型の温熱ドローンと、頭がお椀型をした手のひら大のロボットだ。もしおかずが司の口を外れたとしても、このロボットがキャッチするようにプログラムされてある。司が二個目の唐揚げを食べている間、類はそう説明をしていた。
「全自動飲食支援システムを搭載したロボットによる昼食は楽しめたかい?」
「宙に放ることを除けばなかなか便利だったぞ。事前に温めておくという配慮も良かったな」
「あぁ、放るほうは、つい。遊び心が湧いちゃって」
「『つい』じゃないわ!」
類は不敵に笑いつつ、この場の空気が和んでいることを確認する。
本題、つまり司の悩みに触れても大丈夫そうだと判断したため、数秒の間を置いてから話を切り出した。
「ところで、さっきは何をあんなに考え込んでいたんだい?」
「ん? ……あぁ、そういえばそうだったな」
「もちろん無理に話すことは無いよ。ただ、一人で厳しいのなら、僕でよければ一緒に考えよう」
「……ありがとう。と言っても、もう解決しているが」
司は深く息を吸って吐き、溌剌とした調子で「最近、自信を持てずにいたんだ」と言った。
「口論、なのだろうか。見過ごせないことを言う相手がいて、オレはそいつに正しいと思うことを教えた。だが、オレの正しさが必ずしも相手の正しさではないと反論されてな」
「そうか……」
「あながち間違いでもなかったからな。価値観の押し付けは良くない。それでも、正しく理解してほしいと望むのは愚かなことなのだろうかと、オレはオレの正しさを信じ切れずにいた」
「だがな、それは杞憂だったみたいだ! オレは、オレの感じたことを大切にしようと思う!」
ハーッハッハッハ!と、司は普段より快活に高笑いをあげながら立ち上がった。天を仰いで仁王立ちする司に堅い空気は感じられない。力強い笑顔が司に戻ってきたことに類は安心した。そして、響き渡る声につられて笑いを零した。
■ □ ■
偶然、耳が拾った会話だった。
そのとき、司は移動教室の授業を終えて自分のクラスに戻っていた。進む廊下の先に類の後ろ姿を見かけたので声を掛けようとしたが、声が音になる前に彼は廊下の角を曲がってしまう。タイミングが悪かったかと口を噤んだあと。
「見た?」
「見た」
左の前方、窓際に面する廊下に三人の男子生徒が固まっていた。一人は閉じ切った窓によりかかって携帯をいじっており、その前で二人が向かい合い駄弁っている。話題は類に対するあまりよろしくない評価だ。
「はいサボり確定。ていうか、俺あいつの前の席なんだけど、一限のときから鞄あった」
「じゃあ最初から受ける気なかったんだ、授業? おれらは真面目に受けてるのに」
「天才は良いよな、遊んでいても良い点取れるんだから。でもさ、授業と引き換えにしてまで爆発起こすことは無いよな。今は授業妨害で済んでるけど、いつか死人出るって」
「犯罪者じゃん、怖ぇー。真面目にするつもりないなら、律儀に学校来なくてもいいのに」
司はそのとき「彼らは類を誤解している」と焦燥をおぼえた。
確かに類の授業態度は良いものとは言えない。実際、彼が授業にいないことなど珍しくないほどサボりの頻度は高い(本人に問いただしたことなので確かな情報だ)。しかし、授業を不意にして生まれた時間を無為に消費しているわけでないことを司は知っていた。また、類の演出テストは被害を最小限に抑える配慮がなされていることも司は知っていた。
知っていたから。類の成すことは人々の笑顔が前提にあるのだと知っていたから、慌てて彼らの会話に割り込んだ。怪訝な眼差しを真摯な姿勢で跳ね返し、彼らの評価が誤解であることを慎重に説く。この行いが正しいのだと自分の信念を信じながら。そんな司の熱意に会話をしていた二人がたじろいだ時だった。
「それさ、天馬くんから見た印象だよね」
携帯をいじっていた生徒が、俯いた顔はそのままに視線のみを司にやる。瞳にも声にも怒りの色は感じられない。ただ事実を語っている、淡々とした調子で彼はこう続けた。
「ショーやる仲間として神代のことをよく知っているのは分かるよ。でも、俺らクラスメイトからすると『不真面目で何考えてるか分からない奴』で終わり。要は関わりたくないんだよ。それに、見方を変えるというのも簡単に出来ることじゃない」
関わりたくない。
明確な拒絶に司は衝撃を感じたが、見方を変えることが簡単でないことには納得した。類のマイペースな言動に対して持った印象が、言動に含まれた意図とずれていることが多々あるからだ。その度に自分のなかの『神代類』という人物像を修正し、彼への理解度を深めていく。そうして司は、類の「差別という壁を取り払ってみんなを笑顔にしたい」という行動原理に深い優しさをおぼえ、愛おしく想うまでになった。
そんな経験があるからこそ、正しい人物像を知ってなお悪印象で留める意味が司には分からない。
動揺がよほど顔に出ていたのだろう、拒絶を示した生徒はさらに続けた。
「天馬くんは別のクラスだから知らないだろうけど。神代の、授業をサボってやりたいことをやる姿勢にイラついてる生徒はけっこういるよ。俺もそのうちの一人。……だから、俺は神代に歩み寄りたいとは思わない。友人ならこいつらがいるし」
携帯で指し示された二人は微かに笑って、彼の言葉にうんうんと頷く。
「そういうことで、天馬くんが認めたとしても俺らは認めたくない。だから、無理に神代のこと『いい奴』と思わせるの、さ。やめてくれないかな」
調子こそ問いかけのそれだが有無を言わせないほどの威圧と、そして憐憫があった。司の愚直なまでの正義感が通用しないことへの憐憫。残る二人からも同様の視線を受け、司は黙ってしまう。やめてほしいと本気で訴える人に対し自分の主張を貫くことは、司の本望ではなかった。
廊下に授業開始五分前を知らせるチャイムが鳴り響く。それを合図に携帯をいじっていた生徒は窓際から体を離した。「まぁ、大声で不満話すようなことはもうさせないから」と言外に友人らを律しつつ、彼らはその場を後にした。教室へ向かったのだろう、授業がもうすぐ始まるから。司もそのことは理解していたので自分の教室へ足を動かした。しかし、頭では己の行いに対する疑念が渦巻いていく。
相手を正しく理解してもらいたいと望むのは正しいことではないのか?
ならば、友人が悪い印象ばかり持たれていると分かって行動するのは間違っているのか?
類が『人々の笑顔』を前提に動いていることを知ってなお嫌うその気持ちを、受け入れるべきなのか?
あの三人に対して起こした行動が正しかったと信じたい。そんな意地と散々な結果がせめぎ合い、一日二日と日を跨ぎ、しかし何を以て正しいと結論付ければよいか分からず、悩んだ。
嘘でも、自分が間違っていたと認めれば、楽だ。しかし、司は決して甘い誘惑に乗ることはしなかった。
その決意は、秋に起こったハロウィンショーでの一件が強く固めている。
演出を付ける度に言葉を切っては代案を掲げ、「これがいい」と嘘を重ねていた類。あの痛々しい姿を再び見るようなことには絶対にしたくない。この決意を貫き通すため、本心をごまかして自分を慰めることなど決して出来ないのだ。無論、いつも自分に正直でありたいので、そのような思考には至らないのだが。
だから、司は意地を張り続けた。
だが、結論は出なかった。
「結局、オレが身勝手なのだろうか……」
今日も今日とて頭を抱え、司は屋上の入り口付近で大切な友人を待っていた。
その大切な友人が、勝手に自分の弁当を攫って慌ただしい時間を過ごさせて。悩みがあるなら聞かせてほしいと言われて一連の流れが彼なりの気遣いだと悟った瞬間、司は急速に自分の想いを思い出した。雷鳴を間近で聞いたような衝撃だった。
■ □ ■
昼休みも残り五分となった頃、二年B組に嵐が訪れた。教室の入口付近で駄弁っていた生徒たちに声が掛けられ、彼らのうち一人が応じる。そそくさと、窓際で携帯をいじっている男子生徒へ要件を伝えれば、彼は小さくため息をついて廊下へと出た。
「この前のことで話があるんだ。そう長くはならないから時間を頂戴したい」
「それはいいけど、天馬くん、授業の準備は間に合ってるの?」
「心配御無用! 昼休み開始直後に準備を済ませてある!」
訪れた嵐こと天馬司は、自称相手を安心させるポーズを取りながら笑顔で伝えた。それは真面目なことで。と男子生徒は心中で独り言ち、話を促そうと口を開く。
「この前はお前たちの気持ちを無視しようとしてすまなかった」
しかし、会話は司の謝罪から一方的に始まった。
「お前たちと類の確執はオレのちょっとした熱弁程度では覆らないのだろうな。
類は多少難があるが優しいし努力家だ。だが、納得するまでにはかなりの時間と、理解と、努力がいるのだと思う。実際、オレがそうだった。そして、それらは共に過ごすことで自然と果たされる。
……オレはショー仲間ということで類と長い時間を共に出来ているが、お前たちはクラスメイト以上の関係を望んではいないのだろう? だから、類を理解してもらうことは相応の不自由を強いることになるのかもしれないと、思ってな」
だから、すまん。最後に繰り返された謝罪までを、男子生徒は落ち着いた調子で聞いていた。司の言うことは最もだったからだ。それ以前に、あの天才の取る態度すべてが苛立たしいという単純な感情に従っているだけだが、まぁあながち間違いでもないからいいか、と半ばどうでもいい心境だ。
しかし、司から急に「それと感謝もしている!」と漲った笑顔で言い出して、落ち着いていられなくなった。
「類が誤解されたままなのは悲しいが、故にオレはあいつを正しく理解出来ているのだと自信を持って言えるようになった。そうだ、聞いてくれ! お前に『類をいい奴だと思わせるな』と言われて、友人を理解してほしいと望むことは正しいと言えるのかを考えたんだ。だが、そんなもの必要ない! 理由を探す必要はなかったんだ! オレは類が『差別という壁を取り払ってみんなを笑顔にしたい』と願う優しさを、そのために多少なりとも自分を犠牲にしてしまう努力を、愛している。その愛を、オレは無論正しいと思っている。偽善だ虚勢だなどとは思わない。つまり! オレが類を愛している限り、この正義は絶っっっ対に揺るがん、ということだ!!!」
司は宣言しながら、屋上で類の気遣いを悟ったあの時に思い出した感情を反芻する。
――――そうだ。オレは、随分遠回りなこの優しさが愛おしいんだった。
――――この愛しさを嘘にしたくないから『正しい』と信じたかったのか!
思い出した衝撃は衝動となり、衝動は膨張し、熱弁はもはや告白に匹敵する語りとなった。昼休み終了のチャイムをかき消すほどの勢いに、男子生徒は気圧されて黙るしかない。後半などほとんど司の持論で、そこへ辿り着いた要因が自分の発言にあるなど、変人たちに少なからず関与しているようで信じたくなかった。
目の前の面倒事に辟易とする男子生徒の様子に気を配る余裕もなく、司はさらに問いかける。
以上が自分なりに導き出した結論だが、親愛なる友人が理解されることを望んでも構わないだろうか、と。
その後も、持て余した衝動を発散させるかのように司は各方面へ同じ宣言を語った。暴走とも言えるその行いに示す反応は様々で、しかし最後の問いには同じような意味合いの答えが返されることとなる。
「――――どうぞ、ご勝手に」